ワイルドだぜぃ [新隠居主義]

昨日、いつもの写真仲間と裏磐梯に撮りに行った。昨日というか出発したのは一昨日の夜中だったけれど、夜明けに秋元湖に着いて茜色の夜明けを撮って、それから…と、いろいろと算段していたけれど自然はワイルドだ思い通りにはなってくれない。
東京は雨だったけれど、こちらは止んでいたので朝焼けか少なくとも太陽が昇ってくるシーンを期待していた。湖の畔に着いて暫くするとうっすらと明るくなってきた。ぼくはこの時間の光も好きだ。ラウル・デュフィの青のように清冽で冷たい青が視界を支配している。目の前の桜の木には白い可憐な花が咲いているが、その花も藍色に染まっている。
結局、朝日は現れなかった。もちろん太陽が出なかったという意味ではなくてあつい雲にさえぎられて太陽の姿を見ることが出来なかったということだ。ぼくは絵が好きなのでファインダーを覗いているうちに自分の好きな画家や絵のことが頭に浮かんできてしまうことがある。そんな時には自分の写真の作画が似た様にならないように気をつけるのだけれど無意識にそれにすり寄っているのに気がつくことがある。
デュフィの青や桧原湖の風景はこうしてパソコンの画面で見てみると、ぼくはそれを明らかに意識している。桧原湖の風景は低い雲が垂れこめているところに、天からの啓示のように光芒が出現する、という場面が欲しかったのだけれど、事実幸運にもその一瞬に出会うことができたのだが、撮った写真を見てみるとぼくはその少し前に撮った冒頭の写真の方が気に入っている。
その光景は気がついてみるとあのウィリアム・ターナーの風景画そのままなのだ。空のうっすらとした光芒も好いけれどそれよりも画面右手の朝モヤの中の新緑の色合いが好きだ。ターナーの風景画は漱石の「ぼっちゃん」にもでてくるけれど単なる風景画以上のものがある。ターナーの風景画は人生の中でしみじみと見る景色が人に与える感慨みたいなものを秘めている。もちろんぼくの写真はそんなものと比べるべくもないが、シャッターを押す時ターナーのことが頭に浮かんだことはある。
今回の裏磐梯では何故かファインダーを覗いていて古今の絵画を思い浮かべることが多かった。桧原地区の幹線道路の両脇に広がっているミズバショウが群生している地域でファインダーを覗いている時もそんなことを感じた。朝モヤに霞んだ林はファインダーから覗くいつもの光景とは違っていた。同じ露出でも色が出ない。モノの形は平面的になり、画面の距離感は写真が得意とする線遠近法よりも、ダヴィンチ等が絵画で駆使した空気遠近法の傾向が強く出ている。
朝霧の中では色彩は淡白なトーンになり、それは丁度モーリス・ドニの淡い絵画の色のようだ。写真が登場して以来絵画と写真は互いに常に無関心を装いながら密接な関係を作り上げてきた。それはもっと勉強していつか自分の頭の中をもう少しクリアーにしてみたいと思っているけど…
自然は絵画のようだけれど、最初に言ったようにワイルドでもある。思い通りに行かないし時には牙も剥く。いつも書斎に引きこもり状態のぼくには手ごわい相手だ。なんたって体力もないし… 昨日、裏磐梯の川の畔の写真を撮ろうと何の変哲もない橋の袂を歩いていて転んだ。ほんの数センチの段差に足を引っ掛けて野球のスライディングのように倒れこみ右半身をしたたかに打った。首にかけていたD300のレンズフードが欠け落ちて手には血豆が… ああ、全然ワイルトじゃないぜぃ。

(cam:D300/NEX-7)




*いつも友人に連れてってもらうのでどうしても後で場所の名前が想い出せなくなることが多く自分用メモです。上の写真から順に…
①裏磐梯野鳥の森から見た桧原湖
②裏磐梯桧原地区の水芭蕉
③夜明け前の秋元湖
④桧原湖
⑤⑥逹澤の不動滝
**身体を鍛えないとだめですねぇ。日帰りの強行軍とはいえ運転は友人任せ、何もしないのに足元はフラフラ。うーん、これじゃぁ好い写真は撮れない。
***2,3年経ってこれを読んだらタイトルの「ワイルドだぜぃ」っていうのは何のことかわからないでしょうねぇ。スギちゃんの本当の決め台詞は「ワイルドだろ」なんですが、ぼくの中では何故か「…だぜぇ」になっています。ぼくのアメリカ人の友人がこれが気に入って連発するので彼女に叱られるそうですが、ぼくもはまっていてカミさんに怪訝そうな顔をされます。まぁ、時代のそれも瞬間で消えてゆく言葉ですね。
⇒秋の裏磐梯 Autumn 去って行くもの
Tokyo Skytree ふるさとの山 [Ansicht Tokio]
ひとはやさしさを どこに棄ててきたの
だけどわたしは 好きよこの都会(まち)が
肩を寄せあえる あなた…あなたがいる
あなたの傍で ああ 暮らせるならば
つらくはないわ この東京砂漠
あなたがいれば ああ うつむかないで
歩いて行ける この東京砂漠
ビルの谷間の 川は流れない
ひとの波だけが 黒く流れて行く
あなた…あなたに めぐり逢うまでは
そうよこの都会を 逃げていきたかった
あなたの愛に ああ つかまりながら
しあわせなのよ この東京砂漠
あなたがいれば ああ あなたがいれば
陽はまた昇る この東京砂漠
あなたがいれば ああ あなたがいれば
陽はまた昇る この東京砂漠
あなたがいれば ああ あなたがいれば
陽はまた昇る この東京砂漠
陽はまた昇る この東京砂漠
(作詞 吉田 旺、作曲 内山田洋、唄 内山田洋とクール・ファイブ)
東京。ぼくはこの街が好きだ。たとえ煤けていようとも、汚れていようとも、自分が生まれ育った街だから山河の自然に囲まれて育った人が故郷の山を見上げるようにビルの谷間を見上げることがある。前川清のリードボーカルで内山田洋とクール・ファイブがこの「東京砂漠」を歌った昭和51年には確かに川は黒く汚れていたし、空も煤けていたかも知れない。でも、砂漠なんかじゃなかった。ぼくたちはこの街でちゃんと生きていた。
かねがね、ぼくは東京が歌や映画などで語られる時の語り口にいつも居心地の悪さを感じていた。時には夢の都として、あるいは仮住まいの地として、そして通り過ぎる街、いつかは故郷に帰る時棄てられる街、冷たい人々の棲むところ、などなど。たぶんそれは東京に限らず大都会というものが持つ幻影の宿命かもしれないけれど、ぼくの気持ちは落ち着かない。地方から出てきて東京に住む人が、故郷の山河のことを誇らしげに語る時、東京はじっとうつむいてそれを聴いているのだろうか。ぼくらにふるさとの山は無かったのか。
ぼくは千住で育った。大川と呼ばれる隅田川のそばの街で視界のどこかにいつもお化け煙突が見えていた。小学校に入って自転車を買ってもらってぼくの行動範囲はとても広がったけれども、お化け煙突が見える範囲がぼくらの領域だった。父の車に乗ってどこか他の町に行って帰ってくる時も、お化け煙突が見えてくると自分の町に帰ってきたとホッとした気分になった。
そのお化け煙突も昭和38年(1963年)に姿を消した。翌年には東京オリンピックが開かれて日本は新しい時代に入っていった。お化け煙突が姿を消す数年前に東京には新しいシンボルとして東京タワーが登場していた。映画「Always 三丁目の夕日」は東京タワーが新しい時代のシンボルとして、そしてそれを見つめて暮らす人々にとって故郷の山の役割を演じていたことを示してくれた。
しかし、東京タワーはぼく達千住の街からは見えなかった。それに東京の街が高くなるにつれて見える範囲も狭くなっていった。カミさんの実家のお墓がある六本木のお寺からもすぐ間近に見えていたのが今はビルに隠れてしまっている。大人になったこともあってか、次第にぼくの頭の中からタワーへの意識が薄れていった。
だから東京スカイツリーが建つといういうことになっても、最初はぼくはさして興味が無かった。しかしそれが生きものが成長するように段々と建ちあがって行くに連れて、自分の街での日常生活の視界に入って来るようになって、忘れていたあのお化け煙突の感覚が蘇ってきた。それは今また故郷の山のようにぼくの心の中に立っている。
この間ドイツ旅行を終えて成田空港から帰ってくる途中、ライナーの窓からスカイツリーの姿を見た時、「ああ、東京に帰ってきたんだなぁ」という安堵感にひたった。それは子供の頃、西新井橋をこえてお化け煙突が見えてきた時に感じたあの安堵感に似ていた。下町のビルの谷間からスカイツリーを眺めて暮らす子供達にとって、これからスカイツリーがふるさとの山になってくれればいいなと思う。

(cam:DSC-TX7)
*それが例え実際の山河でなくて、海であったり著名な建物であったりするかもしれませんが人は誰でも象徴的な「ふるさとの山」を持っているような気がします。女性的な美しい東京タワーと日本刀をイメージした男性的な東京スカイツリーの二つの塔を持つ都として東京がそこで育つ子供達にとって心の故郷になっていってくれると嬉しいです。
*** Tokyo Skytrees in my site ***
Skytree 空へ Oct.2009
東京のタケノコ Feb.2010
Tokyo Twilight 2 Apr.2010
持って帰りたい Apr.2010
ぼくの視界の中のスカイツリー Tokyo Sky Tree in my sight Jul.2011
吾妻橋から Oct.2011
Underworld [Ansicht Tokio]
幸せはゆっくりとしかやってこないけれど、不幸は突然やってくる。でもそれは人生のせめてもの優しさでもあると思う。なぜなら不幸がじわじわとやってきたら、ぼくらはそれに到底耐えることができないから。
だが一旦不幸にとりつかれてしまうと、きっと二つの事が起る。一つは、今まで何の変哲もない、それどころか退屈にさえ見えていた過ぎ去った日常が急にキラキラと輝きだし、如何に幸福だったかを見せつけてくるのだ。何故その時もっと味わっておかなかったのかという悔悟の念に悩まされることになる。
そしてもう一つは、幸福だった日々のそここに実は既に小さな不幸の種が蒔かれていたということにも気づき、なぜそのことに気付かなかったのか、気づいて何とかしなかったのかと。それにも悩まされることになるのだ。盤石だと思っていた足元がある日突然パックリと口を開け全く別の世界が顔を出す。
でも、それはある日突然目に見えるようになっただけで、それ自体は以前からずっとぼくらの足元にあったのだと思う。では、いつか口を開けるかもしれない足元をいつも意識して生きていった方が良いのだろうか。でも、そんなことばかりを考えていたら、ぼくらは足がすくんでしまって一歩も前に出られなくなってしまうかもしれない。足元を恐れるよりも今日を生き尽くすこと、その方がずっと大切なのだ。


*この足元にあるジオラマは両国の江戸東京博物館の鹿鳴館ジオラマです。一定の時間でジオラマの中を馬車が動き、係員の説明を聴くこともできます。床のガラスは丈夫で割れないと分かっていても極度の高所恐怖症のぼくには苦手です。
この博物館はぼくの好きな場所の一つです。すぐ隣がぼくの母校の両国中学校なのですが、卒業して以来もう50年近くもその周辺には行っていませんでした。この間韓国から遊びに来たSさんと一緒に元やっちゃ場があった所にできたこの江戸東京博物館周辺を歩いてみて、全く様子が変わってしまったのに驚きました。
国技館もぼくが中学校に通っていた頃には蔵前にあったのですが、それが両国の日大講堂に移りさらに現在の博物館に隣接した場所になっていました。その日大講堂も今はホテルに変わっています。江戸東京博物館は実物大の日本橋を始めとして昔の建物の再現モデルやジオラマが数多くあって楽しいのですが、特に平日などは見学者もまばらで、なんだかもったいない感じがします。
もっともぼくにとっては、いつ行ってもゆったりとしてのんびりできる穴場的な場所なので今のままの方が良いのですが… 最近は博物館近くの地ビールバーとセットにしてぼくの回遊コースになっています。
Nostalgia Ⅶ ~わが心のドイツ~ [gillman*s Lands]

…もう一つの流れは、伝統と自信をとりもどしアメリカの影から抜け出そうと、必死にもがくヨーロッパの姿だった。戦争に負けたドイツも、勝ったフランス、イギリスもアメリカという巨人に呑みこまれてしまったことでは何の変わりもなかった。ヨーロッパのどこへ行ってもアメリカに対する苦々しい思いをぶちまける人々がいた。
ぼくの住んでいたハイデルベルクの街のすぐ近くにもマークトゥエイン村という米軍の村があり、街の旧市街の石畳の上をドデカいアメリカ車が我が物顔に走り回り、街の人々の眉をひそめさせていた光景が何度も見られた。しかしヨーロッパはもがきながらも、まだ軍備等の面でアメリカを必要としている、という自覚が人々をよけい苦々しい気持ちにさせていたのだと思う。
ぼくらの世代にもアメリカは大きな力を持っていた。ヨーロッパを含めて各国から同世代の留学生が集まって話をすると、誰もがテレビで「名犬ラッシー」や「スーパーマン」を見て育っている。戦争で何もなくなってしまった世界にひとりアメリカだけが輝いていた時代の共通の記憶と体験をぼくらは持っていた。… (1972年の日記より)
先週のフランスの選挙ではサルコジ大統領が負け、欧州危機の引き金となったギリシャではEUの緊縮策を拒否するかのような結果が出た。EU立て直しの牽引役であったドイツのメルケル首相とフランスのサルコジ大統領の蜜月時代も終わりを告げることになり、これからヨーロッパがどうなって行くのかは未知数になってきた。
東西ドイツの統合後勢いがついたようにヨーロッパの経済統合は進み、ぼくなどは本当にやるのかと半信半疑だった通貨統合まで成し遂げてしまった。ようやくアメリカの影を脱してブロック化した欧州はその範疇をトルコにまで拡大しようとした矢先に南から綻びが生じてきた。欧州は、というより日本も含めて世界は今、大きな帰路に立っているような気がする。
そんな中で久方ぶりに訪れたドイツは少なくとも表面上は思ったよりも落ち着いていた。整然とした街並みと、平坦な国土に点在する瀟洒な村々。どこの村にも教会と中央広場があって、村と村の間には森と田園が広がっている。ずっと昔からそうだったように。
昔、ドイツの下宿のおばさんからしつこい位に「anständig(アンシュテンディッヒ)になりなさい」ということを言われた。だらしないぼくを見かねての言葉なのだけれど… それは、「きちんとした」とか、「シャンとしている」とか、「まっとうな」とかいう意味あいの言葉なのだ。しかし、当時20歳を少し過ぎたぐらいの小僧にしてみれば、それは有難いにはちがいないのだが一方息苦しいと感じられたのかもしれない。
ドイツの頑丈で長持ちするモノの良さだって、飾り気のない街並みの良さだって、武骨で頑固な生き方の意味だって、それに気づいたのはずい分と大人になってからだ。40年間ドイツ語も使わず、ドイツとも縁のない生活をしていたけれども気がついてみれば、ドイツ的なものは自分の生き方の中に深く食い込んでいた。今回、ドイツを旅していてそのことに気づいた。ただ一つ、残念なのはあれ程おばさんが口を酸っぱく言っていた「anständigな人間」には未だに到底なれそうもないことだ。


*アメリカの重要な戦略であった知的所有権独占戦略に対して、アイデアや著作権そして技術等をあまりにも長期にわたって独占するのは社会的にも良いことではないという主張や、アメリカ等がテロ対策と称して個人情報を政府が掌握しコントロールしようとする動き等にも反発した政治運動が北ヨーロッパを中心におこりつつあります。
これらの主張をする「海賊党(Piratenpartei )」の動きはドイツでも勢いを増しつつあり、昨年のベルリン州議会の選挙では海賊党が15議席を獲得して話題になりました。もちろんこれらはまだ泡沫的な動きに過ぎないかも知れませんが日本の政府やマスコミのようにアメリカの顔色ばかりを伺っていると案外と大事な動きを見逃すようなことになる恐れもありそうです。
**ニュルンベルクのマーケットでばあさんのリストウォーマーを買った時の店のおばさんはかなりリベラルな感じのおばさんでした。盛んに福島の原発のことを心配して「あんなものはやるべきじゃない。人類は日に日に愚かしくなっているわね。そう思わない?」とまくしたて「ほら、そこらへんのドイツ人の顔を見てご覧なさいよ。こんな顔してまるでバカっぽいでしょ。どんどん愚かになっていってる」と呆けたような顔をして見せた。おばさんの中にも何か凄いマグマが溜まっているようでした。

ヒエロニムス・ボッシュの窓 [Ansicht Tokio]

ぼくはボンヤリと景色を眺めているのが好きだ。その景色は必ずしも風光明媚である必要はない。例えば都会の喧騒を遠くから眺めたり、美術館の中庭に立つ一本の木を眺めているのも好い。
外のベンチなどに腰をおろして外気の中で眺めるのももちろん好いけれど、ぼくはどちらかと言うとそれ等を窓ごしに眺めるのが好きだ。一枚の絵のように見えるという視覚的な効果もあるけれども、ぼくにとっては窓で隔てられていることによってそれが何か鏡に映った世界のように「向こう側の世界」という感じがして、その感覚が好きなのかも知れない。
考えてみると、ぼくは子供の頃から窓ごしに見る世界とか、硝子や金属や水滴などに映り込んだ世界を見るのが好きなようだ。写真もその一つかもしれない。現世(げんせ)のことを「うつしよ」とも言うけれど、ぼくは何故か子供の時からそれを「映し世」と思い込んでいた。それはもちろん間違いで本当は「移し世」で移ろいやすい儚い今の世の中のことなのだけれど、ぼくの勝手な解釈は現世の向こうにある世の中が本当の世の中で、今は仮の姿。その本当の姿をぼく達は何かに映り込んだ世界を覗き込むことで垣間見ることが出来ると感じたりしていた。
窓の向こうの世界や何かに映り込んだ景色はぼくにそんな妄想を抱かせる。妄想が趣味のぼくにとって、ぼくのそんな要望を満してくれるいくつかのお気に入りの場所がある。六本木のこの場所もその一つだ。時たまここに来て窓の向こうの世界を眺めては妄想に耽っている。とりわけ大都会の真ん中にポッンと出現したミッドタウン・パークの芝生の上の様子を眺めるのが好きだ。天気の良い日にはその芝生の上に大勢の人達が寝転んでいる。中央にある奇妙な形のモニュメントとその前の人々の姿がどことなくヒエロニムス・ボッシュ(最近はボスというらしいが)の奇怪な絵「快楽の園」のように見える。
ボッシュのこの絵は三枚の絵からなる祭壇画の真ん中の部分だ。左側にはアダムとイブの「地上の楽園」そして右側には「地獄」があり、「快楽の園」はその二枚に挟まれている。こんな妄想をしてはつかの間の憩いのひと時でそこに寝そべっている人達に失礼千万な話だけれど、幸いここ日本では妄想だけで逮捕されることは無い。恐らくは今日本で一番モダンな場所で展開されている微笑ましい光景が、クローズ・アップして見ると儚い快楽の園のように見えると言うぼくの妄想はあまり賛同を得ないとは思うのだけれど…
(cam:NEX-7)
*考えてみると神道の神社にある本体も実は「鏡」ですね。昔の人もやはり映り込んだ世界に何らかの不可思議な感覚を持っていたのかもしれません。
⇒Reflections Winter
六本木水族館 [Ansicht Tokio]
ゴールデン・ウィークが始まったけれど、毎日がほとんど日曜日族のぼくにはあまり関係は無いようなものだが何となく落ち着かない。こういう時はのんびりと家に居るに限るのだけれど、あんまり天気が良いのでばあさんがデイケアセンターに行っている時間にちょっと六本木に行ってみることにした。
目当ては国立新美術館で行われている絵画展だが、今ちょうど大エルミタージュ美術館展とセザンヌ展の両方が開かれているのでどちらにしようかと迷った。もちろん両方を見るという手もあるけれど、それだとばあさんが帰ってくる時間に間に合わない。結局、今日は大エルミタージュ美術館展を見てセザンヌの方は次回に回すことにした。
国立新美術館の建物はぼくの好きな建物の一つだ。まぁ、こんなにガラスを使って震度7の大地震が予測されている東京で大丈夫なのかという不安はあるけれど、この独特の雰囲気が好い。ぼくは勝手に金魚鉢と呼んでいるけど柔らかな曲線の外観は中はどうなっているのだろうと期待させるのに十分な個性的なフォルムを持っている。
ぼくが気に入っているのは、入った時の中の広々とした空間だ。中に入って見ると金魚蜂というよりも何か自分が水族館の大きな水槽の中に入ったような気分になる。水槽全体に外から光がさしている。水槽の底には敷石のように小さな丸テープるがいくつも並べられていて、上から見るとその各々に小さな魚のような人間達がまとわりついているようだ。
水槽の中には大きな丸い島が浮かんでいて、そこにも魚たちがたむろしている。ぼくは極度の高所恐怖症なのだけれども、上階のテラス越しに下のフロアーを見下ろすのが好きだ。魚ならぬ人間達の動きを観察していると飽きない。じっとしていると自分も水族館の魚の一員になって大きな水槽の中を浮遊しているような気分になる。
(cam:NEX-7)
→Position
Nostalgia Ⅵ ~もう一つのベルリン~ [gillman*s Lands]

ブランデンブルク門の前のあっけらかんとした表情の他にベルリンはもう一つの顔を持っている。それは政治の街ベルリンという顔だ。19世紀後半のオーストリア・ハンガリー帝国の凋落によって政治的中心はウィーンからこのベルリンに移った。それ以来ベルリンはプロイセン王国の一都市から変貌してドイツ帝国、ヴァイマール共和国そして統一後ドイツの首都としての政治的役割を果たしている。
同時にベルリンは地政学的にも東ヨーロッパに対峙していることから、東と西のせめぎ合いの舞台とならざるを得ない運命も背負っていた。第二次大戦後の分断されたベルリンの姿がそれを暗示している。西側世界のショーウィンドウとして西側が西ベルリンに肩入れをすれば、一方の東側は社会主義の優等生としての東ドイツとソビエト連邦の強固な結びつきを誇示するという風に東西冷戦の具体的な姿がここベルリンで展開されていた。
イーストサイドにはベルリンの壁の一部が今でも残されているけれど、その中でもそこに描かれている一枚の絵が評判になっている。それは昔のソビエト連邦のブレジネフ書記長とドイツ民主共和国(東ドイツ)のホーネッカー議長(党第一書記)が抱擁して熱烈なキスをしている絵だ。ドイツの写真家が撮った写真をもとに絵にしたらしいが兎に角インパクトがある。ソ連と東ドイツの強固な結びつきを示す象徴的な写真だけれど、今になって冷静に見れば滑稽でおぞましくもある。もちろん今はカリカチュアであるが…
実はほんとうに偶然だけれども、ぼくはこの二人の指導者の実物を目にしたことがある。ブレジネフ書記長は1970年5月1日、モスクワの赤の広場でメーデーの軍事パレードを観閲するためにクレムリンのお立ち台に立っていた豆粒ほどのブレジネフの姿を見た。一緒にいたイタリア人観光客のおばさんがオペラグラスを貸してくれて、これで見ろとぼくを抱えあげて見せてくれたのを覚えている。
ホーネッカーの方は1971年9月4日に当時東ドイツだったライプチッヒで開かれたメッセ(見本市)を訪れた時に偶然出会った。会場の中を歩いていた時、向うから大勢の取り巻きを連れた要人らしい男達がやってきてすれちがった。その中心にいたのがホーネッカーだったのだ。その時は良く分からなかったが、後でテレビで見本市の様子が流された時に見かけた一行の中にいた人物が彼だと分かった。真っ白というより青白い顔が印象的だった。とても仕立ての良さそうなカシミヤ製と思われるコートを羽織っていたように記憶している。それも印象的だった。
その後、ブレジネフはソ連のアフガニスタン侵攻で国力を弱めソ連崩壊の引き金を引き1982年心臓発作で没した。一方のホーネッカーは東ドイツ崩壊後チリに事実上亡命し1994年肝臓ガンで亡くなった。彼は東ドイツ崩壊後にソ連に逃げていたがそのソ連も崩壊、ドイツに移送されて裁判にかけられるはずであったが、自らガン細胞を自分に移植させ病気を理由に訴追を免れたともいわれる。今はこの二人もそして彼らが支配した国家もない。たかが40年、されど40年。世界は変わっていた。


*ベルリンの持つもう一つの顔にナチス・ドイツ時代の記憶があります。ベルリン・オリンピックはナチス大会といえるほど世界にナチス・ベルリンを印象付けました。今でもベルリンの街にはゲシュタポの牢獄の跡など暗い記憶がそこここにあります。
ブランデンブルク門の近くに昔は無かったユダヤ人犠牲者記念館というのができていました。展示館自体は地下にあるのですが、地上には2700本に及ぶコンクリートの柱が立っていてその間を自由に歩き回ることができます。
細い柱に囲まれた通路を歩いてゆくと、その通路は坂になっていて気がつくと自分の周りの柱の長さは見上げるほどの高さになっています。狭まった視界の中を突然人が横切ったり、どこかからか話声が聴こえて来たり何となく不安な気持ちになります。これを設計した建築家は当時ユダヤ人達が置かれていた閉塞感と不安な心理状態を象徴するモニュメントとして考えたらしいのです。
今回どうしても再訪してみたかった場所があったのですが、時間が取れず残念ながら行けなかった場所があります。それは「プレッツェンゼー記念館」という場所でナチス時代に反ヒットラー抵抗運動にかかわった市民達が処刑された場所でした。その場所を訪れた時の気持ちは今も鮮烈に覚えています。いつかベルリンにはもう一度訪れてゆっくりと見て回りたいと思っています。

(cam:NEX-7/GRDⅡ)
Nostalgia Ⅴ ~たかが40年~ [gillman*s Lands]

1970年12月8日(火) ベルリン
午後からチェックポイント・チャーリーを通って東ベルリンに入る。モスクワの街に非常に似た感じだ。歩いてマルクス・エンゲルス広場、戦没者公園等に行く。観たかったブレヒトアンサンブルの切符はもうなくなってしまって見られないとのこと。ここへ来る時にチェックポイント・チャーリーの西側と東側の間の検問所に掛かっていた一枚のポスターに載っていた写真。東ドイツの兵士が自由を求めてバリケードを跳び越えて西ベルリンに逃げてきた瞬間の写真だ。「自由がここで終わるべきではない!」とドイツ語、英語、フランス語で書いてある。この写真の兵士は今はどうしているのだろうか。幸せなのだろうか。
四時間ほど東ベルリンを見る。ドームホテルで夕食をすませて、ベルリン放送会館にロリン・マゼールの振るベルリン・ラジオ・シンフォニーオーケストラを聴きに行く。バッハ、モーツァルト、それにR・シュトラウスのツァラトゥーストラはかく語りきを聴きに行く。最後は特に素晴らしかった。テオドール・ホイス広場のUバーンの駅のすぐそばの店でビールを飲んで帰る。寒い。 (1970年の日記から)

ベルリンには1970年と71年にハイデルベルク大学の主催する研修旅行で来て以来40年ぶりだ。その時の旅行は恐らくベルリン市やドイツ政府が資金援助していたので一週間近くの滞在だったけれど学生の費用負担はごく少額だったのを覚えている。ベルリンでは市長招待の昼食会や著名な新聞記者の講演会があった。
当時のベルリン市は東側世界に囲まれた陸の孤島として強い危機感を持っていた。海外の若い留学生に西側世界の最前線としての西ベルリンの存在意義を知ってもらいたいという明確な意思が感じられた。友人の若いドイツ人の間でもベルリンで結婚して住むと当時で100万円位の支度金が貰えるという噂があった。
ぼくらはハノーバー、カッセル経由でバスでベルリンに向かったけれど、当時東ドイツと国交の無い台湾の留学生は東ドイツ領内を通過することが許されず飛行機で西ベルリンに入った。陸路西ベルリンに入ったぼくらも国境で1時間も足止めを食らった。当時は西と東に微妙な問題が生じると国境で半日くらい待たされることも珍しくは無かった。
今回来てみて統一されたベルリンを一番感じたのはもちろんブランデンブルク門の周辺だ。写真のブランデンブルク門は門の上にある四頭立ての馬車カドリガがこちらを向いているので昔の東ドイツ側のウンターデン・リンデン通りから撮っている。昔はここら辺は無人の立ち入り禁止地域になっていたが、今は日曜日の銀座の歩行者天国のような賑わいだ。
ソ連兵やアメリカ兵や銅像のコスプレをした大道芸人が観光客と一緒にカメラに収まっている。若い観光客たちの表情には東西冷戦の影のかけらもなく、底抜けの明るさがある。チェックポイント・チャーリーへ行けばソ連兵の格好をしたお兄さんが記念スタンプを押してくれる。世界は本当に良くなったのだろうか。あれから、たかが四十年たっただけなのに。





(cam:NEX-7/TX-7)
Nostalgia Ⅳ ~戦後の原点~ [gillman*s Lands]

ベルリン郊外の街ポツダムにあるサンスーシ宮殿の庭園はベルサイユ宮殿などの幾何学模様の宮殿庭園とはちょっと異なっていた。階段状になった傾斜地の側面に厳重に鍵の掛けられた柵の中にブドウや他の果樹が植えられている。プロイセン王のフリードリッヒ大王が自らも設計に携わり終生愛したという庭園だ。
階段の一番下にある噴水池の辺りから丘の上の宮殿を眺めるのが定番の絶景(下パノラマ写真)らしいが、ぼくは噴水池から宮殿とは逆の方向の宮殿への導入路の景色の方が印象に残った。シンメトリーに植えられた並木の木々はまだ春の芽吹きに達しておらずシルエットになっていて、そこだけを見るとアンリ・ルソーの絵の風景のようだった。どんよりと雲が低くたれこめた鈍色の空の下でそれはとても現実離れした光景のように思えた。
ポツダムにはもう一か所有名な宮殿がある。ホーエンツォレルン家の皇太子妃の名を冠したツェツィーリエン宮殿だが、ここはドイツ人にとっても、そしてぼくら日本人にとっても忘れることのできない場所だ。この館で日本の命運が、さらにはそれ以降長いこと続いた世界を東西に分断する体制が決まったと言っても過言ではない。ここで1945年にポツダム会談が開かれた。
今でもその会議場や各国代表が滞在した部屋も残されていて観ることができる。会談は1945年の7月17日から8月2日までの間で行われた。出席したのはアメリカのトルーマン大統領、ソ連のスターリン共産党書記長そしてイギリスのチャーチル首相の3人だった。長い会談の期間中にイギリスのチャーチルは本国での選挙に敗れてしまったため、アトリーが後半を引き継いだ。
議題は既に降伏していたドイツの戦後処理と日本に対する連合国としての無条件降伏の要求であった。会談の期間中アメリカのトルーマン大統領はまだ日本との戦争に加わっていなかったソ連に対日参戦を強く求めた。結局会談の結果は米国、英国と中華民国の3カ国首脳の共同声明としてポツダム宣言が発表されたが、既にこの頃から戦後世界を睨んだ米ソの世界を二分する枠組が動き出していた。
このポツダム会談が開かれたツェツィーリエン宮殿の建物は宮殿というよりも美しい破風造りのイギリス風の館で、その前に広がる広大な庭はなんの飾り気もないが実に心休まる空間に思えた。美しい木々のシルエットの向うに見え隠れする褐色の館の中で勝者の獲物の分け前のような生々しい話が展開されていたということが嘘のように静謐な空気に満ちていた。



Nostalgia Ⅲ ~不死鳥の街~ [gillman*s Lands]

ドレスデン、東京といえばどちらも第二次世界大戦で連合軍の大空襲で徹底的に破壊された街として知られている。尤も東京の方はその痕跡は意識的に残そうとしていないからか忘れ去られようとしている。爆撃で東京の街は文字通りに灰になってしまったから、その灰の上に新しい街を作り上げた。ところがドレスデンは石造りの街だから徹底的に破壊されて粉々になったけれども灰にはならなかった。荒れ狂った空爆の後にはおびただしい瓦礫の山が残った。
ドイツ人はその瓦礫を集めてその一つ一つに番号をつけ、気の遠くなるようなジグソーパズルの末に元の建物や街並みを取り戻した。この街は焼かれても何度でも生き返るフェニックス、不死鳥であることを示そうとしているかのようだ。そのドレスデンのフラウエン教会もそんな建造物の一つだ。
教会の建物を見ると、瓦礫の中の残った石がもとに戻された部分と、見つからなかったので新たな石を使った部分では石の色が異なり一目でそれと分かる。建物は元どおりの形に復元されたけれど、何故かフラウエン教会の前には焼け落ちた教会の壁の一部がそのまま残されている。
その壁の前で先生に引率されて遠足に来ているらしい幼稚園児たちが先生の話を聞いている。フラウエン教会は実は元々はその壁のある場所に建っていたのだけれど、その周りの瓦礫の山から一つ一つ石を拾い出して組み立ててゆくためには、瓦礫の山から少し離れた場所で徐々に組み立てなおさなければならなかった。だから今のフラウエン教会はこの壁から数メートル離れた処に建てられている。
復元されたフラウエン教会は昔の姿を取り戻したけれども、昔のままではない。そのモザイク状の姿は今もドレスデン爆撃の証言者として語りかけている。ドレスデンは今もしっかりとそのことを覚えている。東京はどうだろうか。
◆ ◆ ◆
ぼくの一つの夢はこのドレスデンのゼンパー・オーパー、つまりドレスデン国立歌劇場でカール・マリア・フォン・ヴェーバーの作曲した歌劇「魔弾の射手」を観ることだ。ゼンパーは東ドイツ時代は国立だったけれど、今はザクセン州立となっているがドイツ語では国立も州立もStaatsoperだから名称的には変わらない。
このゼンパー・オーパーの劇場も空襲で徹底的に破壊されたが今は完全に修復されている。(下写真) 「魔弾の射手」の作曲家ヴェーバーはこの劇場の主席指揮者でもあった。この劇場ではヴァーグナーの「タンホイザー」や「さまよえるオランダ人」も初演されている。歴代の主席指揮者にはヴェーバーそしてヴァーグナーの他にもフリッツ・ライナー、カール・ベーム、カイルベルト、マタチッチ、スウィトナー、シノーポリ、ハイティンクなどそうそうたる面々が揃っている。今回はあいにくコンサートには行けなかったがいつか聴いてみたいと思っている。

*上野の寛永寺のそばや都内の各所にも東京大空襲の供養碑があったり、両国のぼくの母校の傍の震災記念堂にも大空襲の犠牲者の慰霊施設がありましたが、誰もが見て分かるシンボル的なものはありませんね。
**今でも旧東ドイツ地域に入ると街の色合いが全体的に沈んでいるような印象を受けます。しかし、40年前にも感じたのですがその地域の方が昔のドイツの雰囲気がより濃く残っているような気もします。
(cam:NEX-7)

















































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