青白い朝 [新隠居主義]

雪の朝はいつも外が静かだ。朝起きてみると一面真っ白になっていた。子供の頃は明日は雪かもしれないという時には朝は早く外の景色を見たくて早起きしたものだった。今年の豪雪で北日本が大変な目にあっているのを知ったせいもあるけれど、歳のせいかもしれない、ただ寒いことだけに気がいってしまう。愉しさは無い。この寒さからばあさんの体調を守るのもとても大変なことだし…
それに雪の日は自分の頸の痛さも一段と強くなる。死んだ親父が雪の前の日は「雪っ腹」と称してお腹の調子が悪くなると言っていたのを想い出した。そういう時は精神的なものだけでなく人はやはり自然の一部として生きている面があるのを思い知らされる。こういう日は家でじっとしているのが好いんだけれど…
今日はあいにく自分の検査の日なので大井町の病院まで行かなければならない。その後、毎週行っている日本語学校に行く予定もある。9時過ぎに家を出たが、一歩外に出ると道はアイスバーン状態でレインブーツを履いていてもとても滑りやすい。検査なので昨日の夜から何も食べていないから、空きっ腹を抱えた空腹のフラつきと路面凍結のフラつきで足元が如何にも危なっかしい。
ライナーの駅に行く途中にある空き地を利用した暫定公園の所まで来ると一面の雪野原が目に入った。足元の良さそうなところを選んで一息いれようと足を止めた。雪はやんで日が照り始めたけれど、少し日陰の部分の雪はとても青白く見える。足元から伝わってくる寒さと、青白い雪を見て目から浸みこんでくる寒さが一緒になって全身を駆け巡っている。
東京は雪に弱いから今朝もライナーや電車は時間通りには行かないだろう。雪が降るたびに東京は雪に弱いと言われるのだけれど、雪が溶けてしまえばすぐに忘れてしまう。それに東京では年にそう何度も降るわけではないから雪の降った日くらいは目くじらをたてて会社に遅れるだの、学校に遅れるだの騒ぎ立てないでノンビリやる日にすれば良いようなものだが、そうはいかないのが都会なのかもしれない。
歩くのと寒さに少し慣れたら、景色の変わった日常もまた好いものだなぁという気持ちが湧いてきた。ここの公園だっていつもとは顔つきが変わっている。また歩き出したが、歩道のない道に出ると今度はぼくの足取りよりも自分の脇を通る車のフラつきの方が気になりだした。チェーンもつけていないしラジアルも履いてないらしい車が多いみたいで、ソロソロというか恐る恐る走っている。ライナーの駅について電車を待つ間、スマホを覗いたらFacebookにソウルのSさんが書き込みをしていた。ソウル、雪、マイナス10度。あっちはもっと寒いんだ。
■ 寝ざめ雪ふる、さびしがるではないが (山頭火)
○○家という生き方 [新隠居主義]

久しぶりに新日本フィルの公開練習を聴きに行った。今日はダニエル・ハーディングの指揮で行われる今週のコンサートの最終練習の一部が公開されている。今までも何回か公開練習を聴きに来ているが、指揮者によってそのスタイルや楽団員とのコミュニケーションのとり方も随分と異なっていて面白い。
今までにもクリスチャン・アルミンクやゲルハルト・ボッセなどの公開練習を聴いたけれど、今日のハーディングは今週末が本番の演奏会と言う割にはかなり細かいところまで指示をしていた。アルミンクとボッセの時はドイツ人だから通訳がついていたと思うけれど、今日のハーディングは英語で指示をしていたせいか通訳はいなかった。
今日の練習曲はマーラーの交響曲9番だった。席も自由に選べたので一階席ホール前半の12列あたりに座って聴いたのだが、そこは音のバランスがとてもよかった。マーラーの交響曲はいつ聴いても心に染み入る。ぼくは19世紀の世紀末ウィーンなどは実際には知らないはずなのに、その旋律を聴くと自分の中で何とも言えない郷愁のような感情が立ちあがってくるのを感じる。週末の本番のコンサートを聴きたかったが、その日は都合が悪く行けないのが残念。
先程、指揮者によって団員とのコミュニケーションの取り方も違うと言ったが、音楽家同士のコミュニケーションという点では共通しているところがある。指揮者の言語がドイツ語だろうが英語だろうが殆どの指示は指揮者が身振りを交えて「♪ タリラ〜ラ」とか「♪ ンパ、ンパ」などと言語以前の声で充分通じるのだ。ぼくのような素人から見ればなんとも羨ましい世界だ。
ぼくも子供の頃には写真家とか冒険家とか、○○家(か)という生き方に憧れたことがある。だけれども結局、音楽家、芸術家、評論家、翻訳家、建築家、作家、書家、探検家、冒険家、政治家、小説家、起業家、画家、陶芸家、落語家、声楽家、写真家、そのどれにもなれなかった。それどころか何らかの分野でのちゃんとした専門家にもなれなかった。
経営[者]の端くれにはなったが、実業[家]にはなれなかった。世間や会社という組織の中では色々な経験はしてきたが結局はジェネラリストという根無し草のような存在になってしまった。広い視野を持つという点では経験は役に立ったが、最終的に軸足を置く場所は見つからなかった。 ○○[家]というのは、△△[士]や××[師]のように国や公的機関に資格として認めてもらう必要はない。従って「ぼくは写真家です」とか「オレは画家だ」と言えば今日からでも名乗ることはできる。
そういう意味では今からでもそう称することは可能かも知れない。要するに○○家という生き方は、それにどれだけ自分自身の中で自負を持っているか、そして周囲や時代がそれをどこまで認めているか、というとても微妙な関係の中で成り立っているのかもしれない。 ○○家の「家」という意味は辞書で見ると専門の学問や技術の流派、もしくはそれに属する者を示すらしいから、いずれにしても何らかの専門性が必要だ。
○○家 というのはその専門分野における生業を示す言葉であるけれど、それ以上により高いレベルの真の○○家というものに向かった生き方そのものであるように思う。と言うことは、例え名乗ってみたところで、そうおいそれと本物になれるわけではない。
あ、そうだ、ぼくでも今からなれる○○家があった。浪費家とか倹約家ぐらいなら今からでもなれそうだが、浪費家では金が続かないから、なれるのは倹約家くらいか。まぁ、その辺で我慢しておこう。
失われた時を求めて [新隠居主義]
失われた時を求めて
別に昔のことを懐古するつもりはなかったのだけれど、結果としてこの年末年始はぼくの気持ちは失われた時を求めてさ迷うことになってしまった。そもそもきっかけは古くなったビデオテープだったのだが…
勤めている頃から自分が停年になって時間が出来たらゆっくり観ようと思って、テレビなどから映画を録画しては貯め込んでいた。仕事を辞める頃にはその数は2000本を越していたと思う。
しかし、いざゆっくり観ようとという段になってその中の一本のテープを取り出して見たら、その画像たるやとても見られたものではなかった。昔のVHSのビデオテープが再生する画像はまるで塗り絵のようにべったっとしていて、鮮やかなDVDの画像を見慣れてしまった後ではとても映画を鑑賞できる画質ではなかった。
目がデジタルの鮮明な画像に慣れてしまったせいもあるが、何よりも大きかったのは録画したテープの経年変化による画像の劣化だった。これは音楽のカセットテープでもおこることだけれど、ビデオテープの場合は目でみて歴然と分かる程はっきりと劣化している。結局録りためた2000本余りのビデオテープは一本も見ないうち処分することになった。
それは勿論とても残念だったけれど、考えてみれば今はデジタルリマスターまでしたクリアーな映像で昔の映画も見ることが出来るようになったので、諦めはつく。ただ、テープを処分するときにちょっと嫌な感じが頭を過ったのは、映画のテープは捨てても良いけど、自分で撮影した昔のビデオテープはどうしようということだ。
これはおいそれとは捨てるわけにはいかない。それに映画の方はVHSのあの大きなカセット1種類だけだが、ビデオカメラで撮ったものはそう簡単にはいかない。時代によってメディアの種類が変わってきている。8mmフィルムは別格としても、ぼくの手元にあるテープだけでもVHSの大きなカセット、小型のVHS・Cカセット、8mmビデオテープそれにデジタルビデオテープさらに今はハードディスクに溜まったデジカメの動画もある。
当たり前の話だけれど、それらのデータはそれぞれの再生系の機器がなければ見ることができない。つまり、VHSのテープならビデオデッキが、VHS・Cカセットならさらにそれ用のアダプターが、8mmビデオならカメラか専用のデッキが、デジタルビデオでも最低限はカメラがなければ見ることも、ダヴィングすることもできない。
それを考えると憂鬱で今までは出来るだけそのことには触れないようにしていた。ところが去年地デジになって古いビデオデッキが使えないことがわかるとそれが壊れたらVHSテープは見られないし、今持っている8mmビデオのデッキもなにやら動きが怪しくなってきて急にまずいぞ、という雰囲気になってきた。それで年末になってやっとそれらの全てをDVDに落とす決心をして作業に取りかかった。
◆◆◆
画質には目をつぶるとしても、ビデオテープからDVDへは高速ダヴィングができないので作業には再生と同じ時間がかかるし、更にテープがよれている処などは画面にひどいノイズが入るので、そういうところをスキップさせるためにはずっと画面を見ていなければならない。という訳で否応なく昔の情景と対峙せざるを得ない状況に追い込まれた。
最初のビデオテープは30年くらい前に撮ったものだ。まだ当時は家庭用のビデオカメラが殆ど普及していなかったが、親友のTが業務用の肩に担ぐタイプのテレビカメラを手に入れてわが家に持ってきた。 泊りがけで来たTと丸二日そのカメラで無邪気に遊んでいる様子が映っている。そのTも今は居ない。
ぼくが自分のビデオカメラを買ったのはその翌々年だったと思う。それから10年以上続いた我が家でのクリスマスを兼ねた家庭忘年会の様子がテープに残っている。年々大きくなってゆく姪たちの溌剌とした姿と対比するように、年老いてゆく父や義父、そして義兄など今ではもう会うことの出来ない懐かしい面々の姿も残っている。特に胸を傷めたのはビデオに登場する今は亡きぼくの親友Tとカミさんの親友Hさんの姿だ。
ぼくもカミさんも親友を若くして亡くしている。Tは50代半ばで自ら命を絶った。そして、Hさんは三十を過ぎて結婚した数年後にご主人が急逝、その後一人でいたが本人もやはり50代半ばで癌で逝ってしまった。ビデオテープの中で屈託なく楽しそうにしている彼等の姿を見ると胸が苦しくなる。けれども、それはその後の彼らのことを知っている今のぼくが見ているからで、その時の彼等もぼくらもその時点では未来に対して無垢の存在だったのだと思う。
その時を起点にして、誰がどの方向に行くかはその時には誰にも分かりはしなかった。きっと、そこには何の変哲もない日常があっただけなのかも知れない。救いは、いずれのシーンも皆が楽しそうに過ごしているシーンだということだ。「一緒に生きて、一緒に笑った」ありふれた日常のワンシーンとして、無機質なメディアの向こうに失われた時間が定着されていることが何よりの救いだった。 作業はまだ終わってはいない。
誰かが見ている [猫と暮らせば]
「おい、よしねぇな、夫婦喧嘩なんざみっともねぇ」
「夫婦喧嘩? 誰が?」
「おめぇだよ。みっともねぇ、外まで聞こえるじゃねぇか」
「してない」
「んなこたねぇだろう。外まで聞こえたぜ」
「夫婦喧嘩、してない」
「してたろ」
「できねぇ、オレ一人もんだから…」
「あ、そういゃ、おめぇは一人もんだなぁ」
「そう、オレ一人もん」
「でも今、大声で"かかぁ、出てけっ!"、って言ってたじゃねぇか」
「ちがうよ。おめぇはそそっかしいなぁ。"かかぁ"じゃなくて"アカ、出てけっ!"、って言ったんだよ」
「そうか、アカか。で、そのアカって奴は誰なんでぃ?」
「誰って言うほどのもんじゃねぇんだよ。誰って言うほどまとまっちゃいねぇんだよ」
「何だいそりゃ」
「今朝オレがここんとこきれいに掃いたとこに、アカ犬がきやがって、馬糞してったんだよ。そんで"こら、アカ出て行きやがれっ!"、ってどなったんだ」
「そうか、アカ犬が来て馬糞してったか。犬のくせに生意気な野郎だ」
これはぼくの好きな落語「そこつ長屋」のマクラのところでの長屋のクマ公とハチ公の会話だ。先代の柳家小さんの十八番の噺だけれど、今うろ覚えの記憶で書いているから細かいところは自信は無いけど噺の運びはこんなところだ。ぼくはこの噺の中で小さんが使っていた「誰って言うほどまとまっちゃいねぇんだよ」という表現が好きだ。
それはもちろんここでは犬のことを指しているんだけれども、なんかホンワカとした表現だなぁ、と思う。「誰」というのはもちろん人間にしか使わない。しかし犬や猫のように身近な動物に「何」と言うのを使うのも何となく無機質で嫌だなぁ、と思う。つまりクマ公の表現は「誰(ダレ)って言うほどまとまっちゃいねぇけど、何(ナニ)っていうほどとっ散らかったもんでもない」というぼくらと犬猫の微妙な距離感を捉えている。
ここでクマ公が言う「まとまった奴」とは何が「まとまっている」のか、というのは考えてみるといささか形而上学的な難問だけれど、ぼくは意識とか知性とかというもので、それらが人間ほどまとまってはいないけど、それなりにあることをハチ公は認めている。もちろんこれは人間の勝手な思い上がりだけれど、ぼくはこの「誰って言うほどまとまっちゃいねぇ」という存在が常に身近にいるのを感じるのがとても好きだ。
ウチには猫が三匹いるから誰かしら一匹くらいはいつも傍に居る。そして時にはこっちをじっと見ている。寝ているようで寝ていない。何を考えているのか、あるいは考えていないのか分からないけどじっとこっちを見ている。
これが誰かまとまった奴、つまり誰か人間にそうやってずっと見ていられたらとてもたまらない気持ちになる。相手が何を考えているか、とか、何か不満があるのかとか。とても心穏やかではいられない。
そこへいくと、猫の視線は好い。人間のように変にまとまっていないだけに、邪気が無い。ヒトはヒト同士が近づきすぎて常時傍に居るとうっとうしいし、かと言って完全な孤独には耐えられないという厄介な生き物だ。猫の視線は丁度その中間にある安堵感をぼく達に与えてくれる。猫の視線には誰かに見られている心地よさがある。
*「そこつ長屋」
粗忽長屋は古典落語では軽い話にとられがちですが、実はとてもシュールな話です。
朝早く浅草の観音様を通りかかったハチ公は境内に人だかりがしているのを見て中を覗き込みます。そこには行き倒れて死んでいる男が寝かされていましたが、その顔を良く見ると同じ長屋に住んでいるクマ公だったのです。長屋にとんで帰ってクマ公の所に行くと何も知らないクマ公がまだ寝ています。
「おい、クマ、寝ている場合じゃねぇぞ」
「どうしたっていうんでぇ」
「まだ分からねぇのか、だからおめぇはそそっかしいっていうんだよ」
「何が?」
「いいかよく聴けよ、おめぇはなぁ、ゆんべ観音様の境内で行き倒れてなぁ、死んじまったんだよ」
「オレがか? そんな気はしねぇけどなぁ」
「そこがおめぇがそそっかしいってぇとこなんだよ。おめえはなぁ、ゆんべ死んだのに気がつかないで長屋にけぇって来て、そのまま寝ちまったってわけだ」
というような二人の会話が延々と続いて、結局二人でクマ公の遺骸を引き取りに行くことになります。
遺骸の引き取りを制する周りの人たちにクマ公は「自分の遺骸を自分が引き取りに来たんだからいいじゃねぇか。文句言うねぇ」と啖呵を切ります。
最後に、クマ公は遺骸を抱きかかえて、「ここに死んでいるのは確かにオレなんだが、じゃ、今引き取っているオレは一体誰なんだろう?」というオチになります。なんともナンセンスでシュール、ぼくの好きな話です。これを先代の柳家小さんが飄々と演じるのが何とも言えない味です。
飯を食う [新隠居主義]
飯を食う
元旦の食卓がぼくは好きだ。カミさんの方は準備で大変だと思うけれど、新しい年の朝日を浴びて初めての食卓につく時の気持ちは清々しい。ウチの場合は特別なおせち料理という訳ではないが、毎年手作りの栗キントンと鶏肉と野菜の煮物がぼくの好物だ。ばあさんもこれが一番。
鶏肉とタケノコや里芋、ゴボウやニンジン、レンコンなどの根菜類を煮しめたものは親父が生きている頃から毎年大きなずん胴の鍋で煮ていた。正月も三日くらいになって煮物の角がとれて丸みを帯びてくる頃には芯まで味がしみ込んで何とも言えなく味わいが深くなる。これが我が家の伝統と言えばいえなくもない。
おせち料理の主だった品を小皿に盛って仏壇にささげてから、食卓につく。留学生の話だと、韓国の旧正月では先祖を祀った祭壇に正月の食べ物を捧げ、同じものを一緒に食べることによって一体感を強めるらしいけれど、仏壇にお供えをしてから食べると言うのも似たような気持ちの表れだと思う。「同じ釜の飯を食う」という言い方があるけれど、同じ食卓を囲むというのは家族や「ウチ意識」を作り出す点でとても重要なことかもしれない。
ぼくは映画の中で展開される食事のシーンを観るのが好きだ。小津安二郎の作品には食事のシーンが沢山出てくる。小津監督独特のローアングルで据え付けられたカメラの向こうで淡々と食事のシーンが展開される。食卓はテーブルだったり、ちゃぶ台だったりするが、ローアングルのためどのような料理が供されているかは中々分かりにくい。
小津作品の場合、食事のシーンは登場人物の関係が次第に明らかになるという意味でも映画の中の重要なシーケンスになっている。「東京物語」(1953)や「秋日和」(1960)、「お茶漬けの味」(1952)や「お早う」(1959)など数々の食事シーンが頭に浮かんでくる。日常的な食事のシーンもあれば、法事などのセレモニーで親戚が寄り集まった時の食事もある。
一緒に飯を食うというプロセスの中で次第に各自の生き方や今までの越し方が明らかになってくる。小津の食卓は必ずしもそれを囲む人達を結び付けるだけではない。同じ食卓を囲んではいても心が離れていることを露呈してゆく場としても用意されているような気がする。つまりそれは分散し崩れてゆく家族の象徴である場合もあるのだ。
それと比べてやはり食事のシーンが多い山田洋二監督の作品における食卓の意味は少し異なるようだ。山田洋二監督の作品の中で展開される食卓は家族の最後の砦としての食卓である場合が多い。世間の冷たい風や荒れ狂う時代の嵐の中で潰されまいとする家族が最後の拠り所とする場なのかもしれない。
映画、「幸せの黄色いハンカチ」(1977年)や「母べえ」(2008年)の中での切ないほどの食事シーンはどうだろうか。人生の荒波に翻弄される人間達が必死で掴まっている家族という小さな筏が限りなく愛しくみえる瞬間だ。
今、家庭の中でも個食とか孤食とかが言われている。ぼくも現役の時は、家で夕食をとれるのはせいぜい週に一度くらいだったことを想い出した。今は可能な限り一緒に食事するようにしているが、もう一度一緒に飯を食うということがどういうことか考えてみることも大事かもしれない。
と、まぁ、昼の酒は回りが早い。しびれる頭の中でそんなことを考えながらダラダラと呑んでいる。![]()
→我が家のおせち Best8
謹賀新年 [新隠居主義]
その日まで [新隠居主義]
その日まで
ソウルのカフェのテーブルの上におかれたカプチーノ、煙るような台北の朝、香港の公園のブランコ、上海の夕焼け。故国に帰った留学生たちが日々携帯やスマホで撮った写真をFacebookのウォールにアップしてくる。そこに写っているのはぼくがもうとっくの昔に忘れてしまったはずの青春という時間と心のありようなのだと思う。彼らは気持ちを写そうとしている。
いずれにしても、そのような状況は写真と言うものを確実に変えてゆくと思う。いつも手元に持っているということ、とにかく写る。全く写らないということはないということ。そんな時代はなかった。そして写真にとって一番大切なことの一つ、そこに居るということ。それが絵画との違いだろう。画家は夢想して描くことができるけれども、写真家はとにかくまずそこに居なければならない。何かが変わってゆくはずだ。
◆◆◆
ぼくは小学生のとき初めて自分のカメラを手にした。それ以前には自分で作る日光写真とピンホールの映像に夢中になっていたけれど、カメラはなにかちゃんとした機械という感じがして、また別の愉しみがあった。その頃には何を撮ったかは覚えていないけれど、たぶん犬や猫やコタツの脚など子供の目線で見えた雑多なものを撮りまくっていたのだろうと思う。
中学校の頃は印画紙作りから全て自分でできるブループリント(青写真)に夢中になった時期もある。高校生になって自宅のトイレを暗室に変えて現像や焼き付けを始めたのも、もしかしたらあの日光写真の始めから終りまで自分でやりたいという欲求のためだったかもしれない。エアコンも無い真夏のうだるような暗室の中の赤いライトと酢酸の匂いに満ちた世界は、それでも当時のぼくにとっては天国みたいなものだった。
社会に出たら写真どころではなかった。カメラに触るのはせいぜい旅行の時くらいで、もちろん現像から焼き付けなどの処理工程は全て他人任せだった。そんな時間が30年近く続いたが会社を辞める少し前に秋葉原でSonyがデモをしていたMavicaを目にすることでまた写真を撮りたいという気持ちが湧いた。
Mavicaというのは初期のデジタルカメラでデータは内臓のフロッピーに記録するような代物だった。試しに自分を撮ってもらった画像もまるでぬり絵のようにベタッとしてものだったことを覚えている。しかし、その時デジタルカメラというものに、暗室なしでも昔のように撮影、現像から焼き付けまで全てを自分でできる可能性を感じて、Sonyが最初のCyberShotを売り出した時にすぐ購入した。それ以来デジカメ一辺倒だ。
40年ぶり位に写真をまたやり出してみると、その間に自分の感性がいかに老いてしまっているか知って哀しくなることがある。只、デジタルカメラのお陰でカメラは今ぼくの日常のシーンを見つめる目になりつつある。身近な日常生活の中にハンマースホイの絵のような静謐さと物語を探すのが今のささやかな愉しみなのだ。
俳人の上田五千石は俳句のことを「私の私による私のための短い詩」と言ったけれど、ぼくにとっての写真は今「私の私による私のためのクロニクル」になりつつある。できれば最期のその日まで、呼吸をするように写真を撮ってレンズの眼を通してしっかりと自分の目の前にあるものを見つめて行こうと思っている。 ![]()
*この一年間拙ブログをお訪ねいただき本当にありがとうございます。来る年が皆さまにとっても良い一年でありますように。よいお年を!
夢一夜 [新隠居主義]

疲れきって会社を出た。夏の日だった。年に数える位しかないような日、明るいうちに家路につく。いつものように自動的に電車に乗って、いつものように自動的に乗り換えて、いつものように自動的に下車駅で降りた。駅を降りて少し歩いているうちに目に入る景色がいつもとは違うことに気がついた。
日も暮れかけてうす暗くなったあたりには広々としたグラウンドが広がっていた。いつもの帰り路にはこんなグラウンドは無いはずだが。しばし途方に暮れているとハッと気がついた。そこはもう20年以上も前に住んでいたところの近くにあるグラウンドだった。そのすぐ近くの小学校に通っていたぼくは学校帰りにはいつもここで遊んでいた。でも、なんでこんな所に来てしまったのだろうか。
きっといつものような自動的な行動パターンが何かの拍子に外れて、ぼくは異なる時空に紛れ込んでしまったのかも知れない。気がつくともう日はとっぷりと暮れていた。しばらく立ち尽くしていたことまでは覚えているが、そこからはどこをどう家に戻ってきたのかはっきりとは覚えていない。家に帰るなりカミさんにそのことを話した。
「そんなことあるわけないじゃないの」
「そんなことないよ、今だってはっきり覚えているし。オレおかしくなっちゃったのかな?」
「何言ってるのよ。だいいち、あなた、今はもう会社になんか行っていないじゃないの」
「あ、そうだなぁ… じゃ、あれ何だったんだろう?」
「大方、夢でも見たんじゃないの」
夢は五臓六腑の疲れというから夢かもしれない。その時は夢ということで片付いたしぼくもなんとか納得した。しかし今朝起きてつらつら考えてみるとカミさんと実際にそんな会話をした形跡が無い。してみると、その会話もまた夢の中の出来事だったのだ。
実は一昨日の晩から39度近い熱が出てふせっていた。薬を飲んで30時間近くも寝続けた。熱は下がっていたけれど、今日は定例で医者に行かねばならない日だったので、ふらつく足で外に出た。眩しい位の陽がさして気持ちの好い冬の朝だった。これはまさか夢じゃないだろうなぁ。
*夢というと古典落語の「芝浜」を想い出します。
おりしも噺の舞台は大晦日。腕はいいが一旦酒を飲んでしまうと仕事にも行かずグズグズになってしまう棒手振り魚売りの魚屋の勝五郎。ある朝女房に無理やり暗いうちから河岸に送り出されて、むしゃくしゃしているところに芝浜の海岸で50両という大金を拾います。
その金を持ち帰り魚かつは仲間を呼んでどんちゃん騒ぎ。それを見た女房はこのままでは亭主が本当にダメになってしまうということで、全ては夢の中の出来事だったと泥酔から覚めた魚かつに思い込ませます。
それ以来ぷっつりと酒をやめた魚かつは懸命に働いて数年後には毎年のように借金取りに追われて逃げ回っていた大晦日も、全ての払いを早々と済ませ夕方には夫婦してのんびりとお茶を飲めるようにまでなりました。
お茶を飲みながら女房は魚かつに実はあの日のことは夢ではなく、本当のことだったと打ち明けます。夫に殴られる覚悟で涙ながらに語るのですが…
この「芝浜」は先日亡くなった立川談志の十八番でした。代々の名人上手と言われる噺家はこの噺を大抵自分の題目に加えていますが、談志の「芝浜」は一時間の長丁場で、観ていて落語というよりは新派の舞台を観ているような気にさえなります。
噺の下げの所で…
魚かつは女房を叱るどころか、あのままだったら自分は本当にダメになっていたと礼を言います。久しぶりに女房が酒を用意して「おまえさん、ここまで来たんだから今夜はゆっくりとお呑みよ」と勧めます。
何年ぶりかの酒に魚かつは嬉しそうに盃を口元に運びます。しかし、そこでピタリと手を止めて…
「よそう、また、夢になっちまうといけねぇ…」
いつかみた光景
落葉踏んで [新隠居主義]
■ 落葉ふみくるその足音は知つてゐる (山頭火)
家の近所のイチョウ並木がやっと色づいたと思ったらあっという間に散ってしまった。今年の紅葉の時期は短かったように思う。その意味では今年の紅葉シーズンは外れ年だったかもしれない。日光やほかの紅葉の景勝地の紅葉のように山全体が燃えるように色づく紅葉は何とも言えず美しいけれど、それを楽しめる時期はそれ程長くはない。
都会でも神宮外苑のように街路樹の見事な紅葉を愉しむことができる場所も多いけれどピークはすぐに去ってゆく。それに都心などの並木が紅葉した後の落葉はあっという間に片づけられてしまうので、落葉観賞派のぼくとしては何とも寂しい限りだ。落葉を踏みしめて歩くということが都心ではなかなかできない。落葉を観る愉しさは木々の紅葉の愉しみよりも長く味わえるのも好い。
幸いぼくの家の近所には公園が多いので今の時期には落葉の愉しみに浸ることができる。落葉を踏みしめて歩く感触は足に優しくて何とも言えず心地好いけれど、紅葉の役目を終えて地面に落ちた落葉を眺めていると、豪華なペルシャ絨毯の模様を観るような限りない愉しさを見つけることができる。この時期地面に展開される自然が作り出したデザインはため息が出るほど絶妙で美しい。作為的なぼくらには到底作り出すことのできない微妙なバランスを保っている。
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What's on the ground
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死ぬなら今だ
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去ってゆくもの
安寧は [新隠居主義]
ここのところ毎年年末になると教会で行われる英国大使館合唱団の演奏会に行く。友人の知人がその合唱団の団員になっているので、その関係で毎年誘ってもらっている。音楽監督ステーブン・モーガン氏の率いるこの合唱団はアマチュア合唱団ではあるけれど、正式な音楽教育を受けた団員が多いこともあって驚くほど質が高い。
今年の曲目はJ・Sバッハのロ短調ミサ曲だった。教会の建物に響き渡る透明な音は本当に厳かな空気を作り出していた。その日のオーケストラの演奏も素晴らしかったが、教会という場がその全てを包み込んで一つの完結した世界を作っていることに感銘した。ぼくはキリスト教徒ではないけれど、安寧をもたらそうとする宗教の一つのコアの部分を感じることができたように思う。
その厳かな場に身を置きながら、ぼくはもう十五年近くも前に教えをこうた永井陽之助先生の言葉を思い起こしていた。その頃、世間は目前に迫りつつあった新しい世紀、21世紀に東西冷戦の終焉と情報化社会の到来という輝かしい未来を見出そうとしていた。ぼくも漠然としたものだがそんな希望を持っていた。
しかし、半年間の講義が終わって最後の懇親会の席で、ぼくが先生に来たるべき世紀についての考えを伺った時の先生の答えはその希望とは全く異なったものだった。その時先生は来たるべき世紀はテロと地域・民族や宗教紛争の世紀になるだろうと言った。そしてそれは今その通りになりつつある。
放っておけば傲慢で野放図になりがちな人の心を引き戻すには、祈りは大切なことなのだと思う。自己を超えるものや手の届かないものを敬い頭を垂れる心を失った時、ぼくらの中から何か大切なものが失われてゆくのかもしれない。しかし一方で祈りだけでは人はその業を超えて行けないのかとも思ったりもする。
本来、安寧をもたらすはずの宗教が同時に今の惨劇も作り出している。もしかしたらその宗教が幸せにすると同じ位の数の人々を不幸せにしているかもしれない。キリスト教社会とイスラム教社会の対立だけではなく、古くはカソリックとプロテスタントの対立や、現在のイスラム教のシーア派とスンニ派の対立など同じ宗教の中でも鋭い対立が起きている。祈りは今どこへ向かっているのだろうか。


















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