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猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その34~ [猫と暮らせば]

猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その34~


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  ■ 嘘とは猫のようなものだ。 ドアから出て行く前に止めなければならない、そうしないと捕まえるのはかなり難しい。(チャールズ・M・ブロウ)
  A lie is like a cat: You need to stop it before it gets out the door or it’s really hard to catch.(Charles M. Blow)


 どこかの偉い人、もしくは偉い人達は今、つくづくこの名言を噛みしめているかもしれない。一旦嘘をついてしまってから「憶えていない!」ではもう追いつかない。猫はそこらじゅうを走り回っているのだ。「記憶にない、憶えていない」を連発できるのは、もう生理的にも記憶が本当に危ないぼくたち老人の特権なのだから、それを現役の頃から濫用されては困る。

 きっと、ちゃんと嘘をつくには実に記憶力と洞察力と気力がなければできないことなのだ。どこで、どういう嘘をついたかちゃんと覚えていないと後で整合性がとれなくなってしまい、自分の中でも論理破綻してしまうのだろうが、そこはそれ頭のいい人達はそんな状況に陥らない自信があったのだろうなぁ。しかし、メディアの発達した現代では写真やメールや録音、場合によっては監視カメラだって…。大変な時代になった。


 肝心の猫の方だけど、ウチでは猫は室内飼いで一切外には出さないのだけれど、本当は田舎暮らしのように窓を開け放って出入り自由の飼い方にしたいのだが都内だから車にひかれたり他の猫からの伝染性の病気のことなど考えるとどうしても室内飼いになってしまう。

 昔、白猫のタマを飼っていたころは何かの拍子に玄関やベランダから跳びだしてそのたびに大騒ぎになった。自分でそのうち戻ってくれば良いのだが、めったに外に出ることがないので一旦外に出ると気が動転して自分の家もぼくの顔もわからなくなってしまう。車の下や塀の隙間に逃げ込んで何時間も出てこない。

 正月や真冬の寒い時にも脱走事件があって閉口した。そのたびにぼくが引っ掻かれて手が血だらけになって引きずり出すのだけれど、その間ばあさん(母)はオロオロ、カミさんはそのばあさんをなだめるのに一苦労だった。そのうちばあさんが車いすになったり、体の具合に合わせて家のリフォームを重ねるうちにテラスに金網をつけるなどして今は脱走騒ぎは無くなっているけど…。猫も嘘も一旦跳びだしたら厄介ということかな。



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断捨離 [新隠居主義]

断捨離


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 ここ数年、断捨離と称して三十年分の文芸春秋を処分したり、押し入れや天袋を覗いて昔のダンボール箱を開けてみたり…そのたびに何かしら昔の捨てたはずのもの等が出てきたりして片付けは一向にはかどらない。先週は古びたダンボールの中から1964年の東京オリンピック大会の新聞のスクラップが大量に出てきた。

 閉会式の日の新聞の一面は閉会式の模様と当時の池田首相が病気で辞任するかどうかというような記事。オリンピック種目では体操女子のチャフラフスカ選手の写真のスクラップがたくさんあったのでその頃のぼくは彼女に夢中になっていたのかもしれない。よくは憶えていないのだけど…。

 昨日、ぼくのブログのサイドバーに載せている「I remember...」に4月29日がアルフレッド・ヒッチコックの命日なのでその記事を書いていて、そう言えば大昔ヒッチコックの写真を表紙に載せた映画の同人誌みたいなものを創ったことがあったんだけど、あれってどこかにまだあるのかな、と気になって今朝起きるなり部屋の天袋や地袋を探してようやくそれが二冊残っていたのを見つけ出した。


 もう三十年くらい昔になるけど、ぼくが以前勤めていた会社の企画部門に居た頃、会社の映画好きの数人の仲間と映画の同人誌を作ろうという話になった。彼らと退社後会社の近くの飲み屋で飲んでいるとき、上司の悪口なんかより映画の話の方が盛り上がっていたのでそういうのを何か形にしたいねとは話していた。

 話を切り出した手前とりあえずぼくが編集長ということになって原稿の準備に入ったんだけど、「編集会議」と称する飲み会は毎回盛り上がるんだけど、ちゃんと原稿を出して来たのは一人くらいであとは一向に原稿が入ってこない。春ごろから始まって夏過ぎても原稿はパラパラ状態。このままでは飲み屋でのただの戯言になってしまう。

 結局ぼくの方で「編集会議」を座談会風にテープ起こしをしたり、他の人の分の穴埋め原稿を書いたり、はては表紙のデザインもやって、大学時代の印刷業の友達や製本屋の友達に格安で作業を頼んだりして、年末にやっと本が完成した。その後も仕事の忙しさにかまけて、この「AMENIC」は創刊号だけで終わってしまったんだけど、その二冊がまだ残っていて押入れの奥から出てきたと言う訳だ。今読んでみるとちょっと恥ずかしいくらいだけど、あの頃が一番楽しかったのかもしれない。


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 *最近は世界遺産や京都観光など「○○検定」というのが盛んですが、このAMENICの中でもお遊びで映画検定的なものにチャレンジし、それにたいする傾向と対策と称して例えば下のような問題集もいれました。今となっては、いささか作品が古いので恐縮です。

【設問2】左の作品の原語タイトルを右の中から選びなさい。(各1点=10点)
1.大いなる西部            A.WITNESS OF THE PROSECUTION 
2.明日に向かって撃て!   B.SUDDEN IMPAKT
3.情婦                       C.WATERLOO BRIDGE
4.ダーティーハリー4      D.BUTCH CASSIDY AND THE SUNDANCE KID
5.遊星Xからの物体       E.BONNIE & CLYDE
6.哀愁                       F.THE BIG COUNTRY
7.俺達に明日はない      G.THE THING
8.出逢い                    H.ON GOLDEN POND
9.黄昏                       I.THE SECRET OF MY SUCCESS
10.摩天楼はバラ色に     J.THE ELECTRIC HORSEMAN

**同人誌のタイトルの「AMENIC」はCinemaの逆さに読んだアナグラムです。なんともイージーなネーミングでした。
***JTIというのはJapan Total Image Instituteというその時の同好会の大仰な名前でした。ロゴまで作ったりして…。

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咲いたね~ [猫と暮らせば]

咲いたね~


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  今年の桜の時期はあっという間に過ぎ去ってしまった。と言ってもぼく自身は今年は母のことや自分自身の体調不良もあってお花見自体をすることができなかったこともあるし。十年近く前に結婚三十年を記念して近くの公園に植えた桜の木の苗木がもう大きくなってその下でお花見ができるまでに成長したので、数年前から桜が咲くとその下でお花見をするようになったのだけれど、今年はそれができなかった。

 母の今後の介護や医療の体制を何とか整えたと思ったら、ぼくの方がひどい風邪にかかってしまい今も咳が抜けきらない、そのうえ先週からぎっくり腰らしく一昨日からは歩くのも辛くてベッドに寝ていた。気のゆるみで疲れが出たのだろうと思うけれど、基本はこちらも歳をとったということだと思う。


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 と言う訳で桜を見ずして新緑の季節を迎えてしまうという何とも残念なことになってしまったのだけれど…。桜は見逃してしまったのだが、ウチの出窓の下に昔植えた花海棠の木が満開の花をつけたのを見られたのはうれしかった。花海棠はリンゴの一種で花は濃いピンクで一見すると八重咲きの桜のようだ。開花時期もソメイヨシノの散った後八重桜と同じような時期に咲く。

 桜が散って数日また暖かい日が続いた朝、窓の外を見るとその花海棠が満開になっている。家の窓には網戸が付いているので、その網戸越しに見るのだけれど、それがまるでシルクスクリーンを通して見たようにおぼろげで、ぼくはこの光がまた好きなのだ。

 お~、咲き始めたな、と思ってスマホのカメラを向けると、ハルが「どれ、どれ」という風に出窓の上に跳んできた。次の瞬間、あのレッサーパンダの風太君のように後ろ足ですっくと立って、「わぁ~、咲いたねぇ」と外を覗き込んだ。ハルもすっかりウチの猫になって、何て嬉しい光景だろう。こういうお花見も悪くはないなぁ。



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気持ちの引き出し [新隠居主義]

気持ちの引き出し

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 写真を撮る者の性みたいなもので、雪が降ったと言っては、桜が咲いたと言ってはカメラを担いで飛び出したくなるみたいだ。それはすごくエキサイティングで楽しいことだし、今度桜が咲いたらもっと違う切り口で撮ってみせるぞ、みたいな先への楽しみも生み出してくれるのかもしれない。

 絶景や決定的瞬間をものにできたときの喜びはいかばかりのものか。ぼくにはそんなショットは正直一枚もないけど、かといってそれで落胆しているというわけでもない。最近、遅ればせながら写真が巧くなりたいと思うようになったのだけれど、それはなんとかもっとその時の自分の気持ちが写らないものかと思うようになったからだ。

 ぼくにとって写真は昔からいわばぼくの気持ちの引き出しみたいなものだから、仕事を辞めてから今度はデジタルで写真を撮り始めた時もそんなことが頭から離れなかった。もちろんすばらしい景色を撮ったり、友人たちと撮影に行くのもそれはそれで無上の喜びなのだけれど、できれば後でその時の写真を見てそのときの自分の気持ちがよみがえってくるようなものにしたいのだけれど…。

 ぼくは絵画で言えばボナールのようなナビ派的な一面を持っている写真家のソール・ライターが好きなのだけど、彼のこの言葉も大好きだ。

 ■ 写真はしばしば重要な瞬間を切り取るものとして扱われたりするが、写真とは本当は終わることのない世界の小さな断片と想い出なのだ。(ソール・ライターの全て/急がない人生で見つけた13のこと)  
 Photography are often treated as important moments but really they are little fragments and souvenirs of an unfinished world.(All about Saul Leiter/In No Great Hurry)

 で、今までの自分の写真を見直していくと中には確かにその時の自分の気持ちが何となく写っているような気がするものもあるのだけど、何か大事なものが欠けているような気がしてきた。それはもしかしたらライターの言うsouvenirs of an unfinished world、つまり延々と続く日常の中の想い出(彼はスーベニアという言葉を使っているけど)の瞬間みたいなものが表現されていないからかもしれない。

 それにはまずは今のぼくには欠けている技術的なものがしっかりとしていなければならないのは確かだけれど、もう一つはぼくのものの見方自体の問題がありそうだ。もっと腰を据えて自分を取り巻いている世界に目を向けて、そこにこの世界のスーベニアの瞬間を見つけるようにしなければならないのかもしれない。ライターはこうも言っている。

 ■ 重要なのは、どこで見たとか、何を見たとかいうことではなく、どのように見たかということだ。(ソール・ライターの全て/急がない人生で見つけた13のこと)
  It is not where it is or what it is that matters but how you see it.(All about Saul Leiter/In No Great Hurry)

 自分の人生が終わるまでに何枚かそんな写真が撮れたらいいのだけれど…。


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生命 (いのち) [新隠居主義]

生命 (いのち)

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 昨日、が退院してひと月ぶりに元のケアハウスに戻った。ひと月前、食事中に突然意識を失い心肺停止状態になった。それでもAEDと心臓マッサージによって息を吹き返し、救急病院のICUに運び込まれた。その時は意識もなく、体にもチアノーゼがでていた。98歳の誕生日の直後だった。

 退院と言っても治ったわけではなく、今後は以前のように口からモノが食べられるようにはならないということで、点滴だけで命を繋いでいることに変わりはないのだけれど…。ドクターからは心肺停止の時間があり、その間脳に酸素が行っていないので意識もどうなるか分からないとも言われていた。

 昨日、自動点滴器やタンの吸入器などの医療機材を部屋に搬入して、今日は自分の部屋のベッドで落ち着いている。今居る処は、もともと医療機関の系列のケアハウスなので看護師も常駐しているから、これからは自室でケアしてもらえるというのがありがたい。

 これ以上母に辛い思いはさせたくないのであとは母の生命力を見守るのがぼくらの役目だ。 でも、カミさんが耳元で「おはよう」と言ったら、かすかに「おはよう」と応えてくれた。そして、あとはまた深い眠りのような世界に戻っていった。



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はるがきた [猫と暮らせば]

はるがきた


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 母の容体は小康状態を保っているとはいえ依然として予断を許さないことに変わりは無い。もうそんな状態が三週間以上も続いており、こちらも精神的緊張からか体調もすぐれないのだけれど、それでも日常の営みは続いてゆく。そろそろ日本語学校の方も定時のスタイルに戻さなければいけないこともある。

 当たり前のことだけれど、こんな時には家庭の中では笑いも少なくなるし、こんどはそのこと自体が精神的疲労にさらに拍車をかけることにもなる。そんな中でもウチに猫たちが居てどれだけ精神的にも癒されて助かっているか、感謝することしきり。


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 実は母が倒れる数日前に縁あって一匹の子猫の里親になることになった。もうぼくらも歳なんで下手すると猫より先にぼくの方が逝ってしまう可能性もあるのでクロが死んだ後も、もう新しい猫は飼わないようにしていたのだけれど…。でも、今回は人助けならぬ猫助けと思って引き受けた。

 ウチに来たのは雄のアメリカン・ショートヘアーで、子猫といってももうすぐ2歳になる。猫を引き取ったその足でかかりつけのペットクリニックに連れて行ったら体重も4キロちょっとある。予防注射が必要なんだけれど、とても怯えていたので先生がもっと家や人に慣れてからでも大丈夫ですよ、と言ってくれたのでそのまま連れて帰った。

 最初の数日はテレビの後ろや掃除機の陰に隠れて出てこず、もちろん餌も食べない。そっとしておいたら、その内一階の猫トイレだけは自分で使うようになった。そしてやっと一週間くらいかけてみんなの前に姿を現すようになったのだけれど、今度はそうなると先輩猫のレオモモがそわそわしだした。

 一瞬、居間で三匹の猫が遭遇してロシアペルシャそしてアメリカという複雑な国際情勢さながらのにらみ合いが続いた。でも時間とともに子猫にも落ち着きがでてきて餌も食べるようになった。慣れてくるとやっぱりまだ子猫でじゃれ付く姿などを見ていると本当に癒される。

 レオはおっとりとしているので比較的早く慣れたのだけれど、モモは気が小さいのでいまだに子猫が近寄ってくると怒って逃げ出してしまうが、それも時間と共に慣れてくるかもしれない。子猫はここ数日天気の良い日は日向ぼっこをするようになった。

 子猫を引き取るとき三月生まれだときいていたので、カミさんが「はる」と名付けた。はるは今まではあまり恵まれなかった人生?のようだけど、ウチに来て幸せに暮らしてほしいと願っている。ぼくも歳に負けずにずっと君らの面倒をみられるように頑張るつもりだ。



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 *考えてみたらウチで飼っていた猫は里親のような形になって飼った場合が多いのです。最初に飼った白猫のタマは会社の上司の家の猫が子供をたくさん産みすぎて一匹引き取ってくれないか、と言われたのがはじめで、初代レオも会社の人が飼っていたペルシャ猫を娘さんが喘息になったということで飼えなくなった、と。

 クロは雨の日に家の前で子猫が倒れているのを母が見つけて飼いだしたのがはじめでした。飼ってみると、どの猫も可愛く、それぞれに性格も違って飽きないです。はるもこれからどんな猫に育つのか楽しみではあります。よろしくお願いいたします。



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Hilltop効果 [gillman*s park 18]

Hilltop効果

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 公園に散歩に行くと必ず丘の上まで行くようにしている。途中の坂道がちょうどいい負荷になることもあるけれど、丘の上まで行った時のどこかすっきりした気持ちが味わいたくて行っているような気がする。これをぼくは勝手にHilltop効果と呼んでいる。

 高々十数メートルの丘だけれど、ここら辺では一番高い地点で自分の住んでいる街が見下ろせるばかりでなく、天気の良い日には富士山、東京スカイツリーそして筑波山と360度の視界が望める。ぼくはひどい高所恐怖症だけどこの丘はそういう恐れもなく開放的な気持ちにしてくれる。

 母のこと等で毎日心を痛め、悩んでもいるけど、この丘に来てもそういう全てを忘れさせてくれるわけではない。逆に色々と思いを巡らせてくれる、それも内向きでなくどこか冷静でポジティブな方向で考えられるような気がする。ちょっとの事ですぐ頭が混乱する自分にとっては、それは有難い効果だ。

 今、何を考えておかなくてはならないか。今、何はまだ考えるべきではないのか。そして、その一つ一つに対して自分はどう感じているのか、どう思っているのか、自分の街を眺めながら考えている。


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少しお休みします [新隠居主義]

少しお休みします

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 ■ かなしみ

 あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
 何かとんでもないおとし物を
 僕はしてきてしまったらしい

 透明な過去の駅で
 遺失物係りの前に立ったら
 僕は余計に悲しくなつてしまった

 Sadness
 
Somewhere in that blue sky
 where you hear the sound of the waves,
 I think I lost something incredible.

 
Standing at Lost and Found
 in a transparent station of the past.
 I became all the sadder.

 (谷川俊太郎 『二十億光年の孤独』 英訳 William I. Elliot and Kazuo Kawamura)

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 先日、母の98歳の誕生日の翌週に母が突然意識を失い病院に救急搬送されました。

 幸い命はとりとめて今も入院中なのですが、高齢のこともあって予断を許さない状況です。

 暫くの間ブログの更新の方をお休みさせていただきます。



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猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その33~ [猫と暮らせば]

猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その33~


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 ■ 猫と過ごす時間は決して無駄にはならない。(シドニー・ガブリエル・コレット)
  Time spent with a cat is never wasted.(Sidonie Gabrielle Colette)



 猫好きのコレットは「年寄」と「夕暮」という二匹の猫を飼っていた。シドニー=ガブリエル・コレット、「青い麦」「ジジ」「牝猫」等の小説の著者にして、役者そしてパントマイムの踊り手、はたまたジャーナリストやオペラ作家と多彩な才能を持ち自由奔放な人生を送ったフランス女。まさに彼女もまたその時代のファム・ファタール(運命の女)だったのかもしれない。

 15歳年上のバイセクシャル男性との結婚を皮切りに、次の結婚では亭主の連れ子と良い仲になり離婚、三度目は今度は17歳年下の男性と結婚。それはうまくいったみたいだ。でも、その間にも彼女には同性の恋人も居たようだけど…。

 冒頭の言葉を彼女が言ったかどうか本当のところは定かではないが、猫好きの彼女なら、そして自由奔放でどんな時も悔いなき人生を送った彼女ならそんな言葉もはいたかもしれない。猫と過ごすというより彼女自身が猫のような感じさえする。

 ぼくのような凡人でもこの歳になると、人生の中で本当に無駄だったと言えるような時は無かったような気がすることもある。回り道したようでも、その一見無駄な時が無かったならば今は無いと思うこともしばしばだ。まして、その傍らに猫が居たらどんな時間も無駄にはならない。

 部屋でソファにもたれて音楽を聴いているような時はもちろん無駄な時間ではないが、その傍らに猫が居たらそれはもう至福のひと時に様変わりしてしまうのだし、打ちのめされたり、疲れ果てた後に襲ってくるあの無意味な精神の停滞の時間も傍の猫の頭を一撫ですれば黄金の時に変わってしまうような気さえする。

 コレットは猫に囲まれて悔いのない人生を駆け抜けていったのかもしれない。彼女が81歳でパリで亡くなったとき彼女のあまりにも奔放な人生ゆえにカソリック教会は大反対したのだが、それをおしてフランスは彼女を国葬にした。フランスというのも只者ではない国である。



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A Happy Birthday to Ma! [新隠居主義]

A Happy Birthday to Ma!

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  今日は母の98歳の誕生日だった。母が生まれたのは大正9年、西暦でいえば1920年。その年はアメリカであの悪名高き禁酒法が施行され、合衆国憲法修正第19条が発効し、始めて女性参政権が認められた年でもある。

 一方、日本では第一次世界大戦後の戦後恐慌で株価が大暴落、多くの銀行で取り付け騒ぎが起きた。そして三年後にはあの関東大震災が起きお袋も被災したらしい。それからもさらに大変な変化が待っていたのだけれど…。

 全てが破壊されてゼロからスタートした敗戦直後のぼくらの世代だって、閉塞感の強い時代を生きる今の現役世代だってどの世代が一番大変ということは無いけれど、それでもお袋の世代は今のぼくたちには想像もできない苦労があったんだろうなと思う。 …なにはともあれ、お誕生日おめでとう。


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すべて世は事も無し [gillman*s park 18]

すべて世は事も無し

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 ■ 春の朝(あした)

 時は春、
 日は朝(あした)
 朝(あした)は七時、
 片岡に露満ちて、
 揚雲雀(あげひばり)なのりいで、
 蝸牛(かたつむり)枝に這い、
 神、そらにしろしめす。
 すべて世は事も無し。
    (詩:ロバート・ブラウニング/上田敏訳「海潮音」より)

 “The year’s at the spring
  And day’s at the morn;
  Morning’s at the seven;
  The hill-side’s dew-pearled;
  The lark’s on the wing;
  The snail’s on the thorn;
  God’s in his heaven---
  All’s right with the world!”
    (Robert Browning 1812~1889)


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 いつも散歩に行く近くの公園には小さな丘があって、散歩の途中で坂道を上るとちょうど良い負荷がかかるらしいので、毎回必ず丘の上までは行くようにしているのだけれど、丘と言っても高さはせいぜい17メートルくらいの高さなのだ。

 それでもこの丘はいちおう自然物の地面では区内で一番高い地点らしいのだが、自然物というのはビルや鉄塔などの高さではなくということなんだけど、実はここは厳密にいうと自然物ではないのだ。ぼくはこの丘ができる前から、そのプロセスを逐一見ていたので知っているのだけど、この下にはライナーの車両基地が埋まっている。

 「埋まっている」という表現は必ずしも正しくはない。最初は平坦だった公園の隣地に最初巨大なビルができた。で、完成したと思ったら、今度はそれをせっせと埋め始めた。そして数か月すると見事な丘ができあがった。とまぁ、由来はいろいろとあるけどできた丘はぼくら住民にとってはかけがえのない丘になった。

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 丘の上からは360度の眺望。天気の良い日には南西に富士山、振り向けば北東に筑波山、そして南方面にスカイツリーと東京タワーなど解放感あふれる眺望だ。その眺望も良いけど、ぼくは下の道からこの丘を見上げるのが大好きなのだ。それは大空をバックにした舞台の様で毎日見ていても飽きることが無い。そこには毎日違うドラマが展開している。

 このブラウニングの詩は春の日を謳った詩なのだけれど、もちろん世の中は今が冬の真っただ中、でも季節はその最高潮に達した時、既に次の季節の匂いをはらんでいる。この日もそんな日だった。のんびりとした朝の光景の中に春の日の予感みたいな空気が漂っていた。

 ブラウニングがこの詩を書いた時代はイギリスの最も栄えたヴィクトリア朝時代。産業革命に支えられてすべてが前を向いていたのかもしれない。All’s right with the world! それを上田敏は「すべて世はことも無し」と訳した。正に名訳だと思う。目眩がするほどのスピードで世の中が変化している今、ぼくたちにもいつか「すべて世はことも無し」と言える時がくるのだろうか。 …でも、少なくとも今はこの丘の上だけにはその「すべて世はことも無し」が実在しているような気がした。

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猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その32~ [猫と暮らせば]

猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その32~


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 ■ まさに、ここは猫の家なのだ。我々はただローンを払っているにすぎない。(出典不明)
 It's really a cat's house-we just pay the mortgage. (Unknown)



 ウチの猫のトイレには上の写真のような張り紙がしてある。これは注意書きではなくて、あくまでも「お願い」なのだ。猫たちはトイレで用をたしながら、この張り紙を読んでくれていると思うんだけど…、なかなかその通りにはいかない。ウチには今は二匹だがつい最近まで三匹の猫が居た。ここの他にもう一か所トイレがあるのだけども、どういうわけか同じような時間に同じトイレを使いたがる。

 トイレはちゃんと一匹に一つはあるのに、朝ごはんの後あたりは混むことが多かった。仕方なく並んで用を足すこともあるけれど、大抵は誰かが入るのを遠巻きにしてみている。レオは一番神経質なので誰かが入ったすぐあとは嫌らしいのだ。昼ごろトイレを掃除していて何となく背後に視線を感じて振りかえると、レオが掃除が終わるのを後ろでじっと待っているということが何度もある。

 モモのお得意は覗きと待ち伏せ。レオなどがトイレに入ると、すかさずそ~っとトイレのカーテンの処に行って中を覗き見るか、カーテンの陰に隠れていてトイレから出てきたところを驚かすのが楽しいらしい。クロは一階のトイレが自分のだと思っていたのだけど、二階で遊んでいる時などはよく二階のトイレに駆け込んでいたが、そんな時もすぐモモが覗きに行ってケンカになっていた。

 猫の行動で何とも解せないのが、トイレが終わると猛ダッシュで飛び出してきて部屋中を駆け回り猛烈に爪を研いで気を落ち着かせようとすることだ。それはどうもウチの猫だけではなさそうで、この間ネットのアンケートを見ていたら飼い猫の7割くらいがそういう行動をするみたいだ。

 そのたびに、爪とぎの段ボールが部屋中に飛び散ったり、時には勢い余って花瓶を蹴飛ばすようなこともあるけど、まぁそれは猫が元気なしるしだから良しとしなければならない。なにしろ、此処は猫の家で、ぼくたちはお世話をしながら住まわせてもらっているらしいので…。感謝しなければならない。



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[Déjà-vu] No.8  On the Train to.. [Déjà-vu]

[Déjà-vu] No.8  On the Train to...

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 のテーブルに置かれたミネラルウォーターの瓶が列車の振動で時折カタカタと音をたてる。ずっと鳴っているわけではなくてなんかのタイミングで鳴ったり、止んだり。昔、F分の1という自然界での不規則なゆらぎサイクルが実は人の気持ちを和らげるのだと話題になったことがあるけど、このカタカタ音もそんな感じがしないでもない。


 イプチッヒからベルリンに向かうICEの列車の中、一組の老夫婦の隣の席に座った。友人とぼくはライプチッヒの駅で列車の発番線が変更になったのをうっかり見落として列車を一本乗り損ねてしまったけど、何とか次の列車に乗りこむことができた。重いトランクを押してそそくさとドアに一番近い席に座った。

 先に乗っていたその夫婦は時折二言三言言葉を交わすくらいであとは黙っている。列車が駅を離れて巡航速度になると車内には列車のディーゼル音と時折するあのミネラルウォーターの瓶のカタカタ音だけが聞こえていた。女性の方はずっと窓の外を見ている。旦那の方はじっと入り口のドアの方を見ていた。

 その内奥さんがひとつため息をついて深々と背もたれに寄り掛かかり目を閉じた。窓から差し込む弱い光が彼女の深い皺を際立たせていた。カタカタカタ。何があったんだろうかなんて詮索するつもりはぼくにはない。これも旅の一光景なのだ、と。

 その列車の中でぼくは三枚だけ写真を撮った。それっきり、その時の光景は忘れかけていたのだけれど、日本に戻ってその写真を見たとき、ぼくの中の記憶が再び動き出した。まるでヴィム・ヴェンダースのムーヴィーみたいに…。

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猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その31~ [猫と暮らせば]

猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その31~

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 生まれては 死ぬるなりけり おしなべて 釈迦も達磨も 猫も杓子も
 
 (一休禅師)


 に限らずペットを飼って一緒に暮らしているうちに猫も自分も限られた時間を、そして限られた命を共に生きている仲間という気持ちにもなってくる。そういう意味でのなにか一種の連帯感とか仲間意識というものが生まれてくるみたいだ。

 なんて、偉そうなことを言っているけど、地球という自然界の中で見れば猫も人間も一個の命であることに変わりはない。ペットに死なれると本当につらいけど、考えてみればその死というものは同じ生き物である限り自分も例外ではないから、あちらがちょっと先に逝っただけのこととも言える。歳をとって場合によってはペットよりも自分が先に逝くことが無いとは言えない境遇になると余計にそう思えてくる。


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 そういう意味で肌で感じた、いわば自然界における猫と自分の命の等価性という認識は一緒に暮らしていればこそ生まれてくる感情なのかもしれない。しかしこの命の等価性みたいなものを安直に人間社会に拡大してゆくと、それはそれで具合の悪いことになってくる。

 例えば、何かの災害の時、極端なケースでいえば自分の飼い猫とどこかの見知らぬ人の命の救助が二者択一的に天秤に掛けられたとしたら、心情的な面は別としても、ここで命の等価性を持ち出すことはできない。人間とそれ以外の生き物の命は人間にとっては等価ではない、というのが今のぼくらの共通認識の根底にあるからだ。

 長い歴史の中では専制君主や独裁者の下などで、時には人の命よりも君主のお気に入りのペットや愛馬などの動物の命の方が珍重された場合もあるかもしれないが、逆にそういう理不尽な時代を人類が潜り抜けてきたからこそ生まれてきた認識であり、社会的には命の等価性は人間の枠の中でこそ語られるべき事なのだ。もちろん仏教のように宗教的には命の等価性を人間の枠の外にまで広げているケースもあるが…。

 ■「ペットはペット」という線引きがしっかりとできることは、精神の健全性を示すものさしの一つである。 (斎藤茂太)

 そういうことの上に立ってみれば、精神科医としての斎藤茂太のこの言葉は確かにその通りなのだろう。冬の陽だまりの中で屈託なく昼寝している猫たちを見ながら考えた。「それも、これも全てを心の中に飲み込んだうえで…、それでも猫たちが今与えてくれているこの時間は何にも増して大切なものに思えてくるし、大切にしてゆきたい」と。

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冬の日の日曜日 [gillman*s park 18]

冬の日の日曜日


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 会社を辞めた今はいわば毎日が日曜日なのだけれど、それでも世間が日曜日だとこっちも人並みに何となくゆったりとした気分になる。と言っても、のこのこと何処かへ出かけたりはしない。土日は家でじっとしているに限る。都会の土日はどこへ行っても人出でいっぱいだからせいぜいが近所の公園の散歩位なのだが…。

 普通、冬の公園は寒いし日中でも人影もまばらなのだけれど、最近は朝夕は冬の日でもランニングする人や犬を散歩させる人達を結構見かけるようになった。もちろんそれらの人たちはその行動が日課になっている人たちなので、毎日同じ時間に散歩すると前にも見かけた顔ぶれに合うことが多い。



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 ところが日曜日の公園は普段とはガラリと様子が変わる。家族連れやカップルが多くなってきっとわざわざ遠くから来たんだなという様子がうかがえる。もちろんそれは人ごみというほどの人出ではないから見ているこちらもゆったりとした気持ちで見ていられるのだけれど。池のほとりや丘の上を手をつないで歩いている親子連れを見ると、ずっと昔に見た昭和的な光景が目に浮かんでくる。

 両親と手をつないだ親子、お父さんと男の子の二人連れ、子供と犬を連れたお母さん、いろいろな家族が公園の丘の階段を行き来してゆく。考えてみたら、最近は遊園地なんかにも行かないので少子高齢化の今の世の中でこんな光景をぼくは久しく目にしていなかったような気がする。丘の上に立つ親子の足元から、冬の日に照らされた階段の手すりの影がまるで稲妻のように鋭く走っている。それはあたかも社会にエネルギーを与えている彼らパワー・ジェネレーターの証のようだ。



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猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その30~ [猫と暮らせば]

猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その30~

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 ■「…っていうか、猫ってアスペルガー症候群じゃないかと思うんだ。 猫はぼくみたいに、すごく頭がいいし。それにぼくのように、時々は何でもいいから一人にして放っておいてほしいんだよ」 (ジョディ・ピコ 「ハウス・ルールス」)

 “On the other hand, I think cats have Asperger's. Like me, they're very smart. And like me, sometimes they simply need to be left alone.” (Jodi Picoult, House Rules)



  最近発達障害という言葉を色々なところで聞くようになった。例えば落語家の柳屋花縁さんは発達障害でずっと何故か漢字だけが読めず大人になってからも番組台本なんかの漢字には奥さんにルビを振ってもらっているらしい。当然子供の頃の成績は良くなかったのだけれど、それが発達障害のせいだと分かったのはつい最近らしい。

 発達障害の認識が社会に浸透するまでは彼のように人知れず悩んだり、変人扱いされて辛い思いをした人も多いと思われるが、その研究もまだまだこれかららしい。アスペルガー症候群というのもそのような発達障害の一つとされている。アスペルガー症候群は知識障害はないのだけれど、人間関係を築くのが苦手だったり、特定の分野に強い、時には執拗とも言えるような関心と集中力を示すなど変人扱いをされることが多いらしい。

 一般的イメージとしては頭がよく、ナイーブだが人づきあいが悪く、一見気まぐれにも見えてしまう振る舞いなどの点が言われているが、芸術やコンピュータなどの特定の分野で高い才能を示す著名人も少なくないようだ。冒頭の言葉についてはジョディ・ピコの小説「House Rules」の中のアスペルガー症候群の登場人物であるジェイコブの言葉と思われる。

 それじゃほんとうは猫はどうかというと、ぼくはアスペルガーのことはよく知らないけど、ここでいうその集中力と気まぐれさには思い当たることはある。うちのモモについていえば、普段はロシアンブルーの特徴ともいえる独特の人懐っこさで、呼ぶとこいつは犬じゃないかと思うほど尾っぽは振らないけど、尾っぽを立ててとんでくる。そんなモモがいくら呼んでも全く知らんぷりすることがある。

 一つは何かに夢中になっている時。例えば出窓で寝ている時そばの木に鳥がとまったりしていると、いくら呼んでも全く聞こえない風で振り向きもしない。壁の中でなんか物音がしたようなときなど納得いくまでいつまでもそこを離れない。その集中力と執着力はすごい。しかし、その関心や集中力のスイッチがプチッと切れることがある。そうするとまるでそんなことは無かったとでもいうように我に返って平然としている。

 もう一つは、一人でいたいオーラが全身から出ている時がある。ぼくがカミさんとテレビを観ている時など離れたところで一人でまったりしている。そんなとき声をかけても全くしらんぷり。一人でいたいときはぼくらが一階に居ても一人で二階に居ることもある。ぼくが呼びに行っても、ちょっと迷惑そうな顔をしてそっぽを向いてしまう。そんな時は、あ、一人になりたいんだなとそれ以上声を掛けない。面倒かもしれないけど、一緒に暮らしていてぼくはこの距離感が好きだ。それを楽しんでいる。



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Blue Heaven [gillman*s park 18]

Blue Heaven

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 ■ 空

空はいつまでひろがっているのか
空はどこまでひろがっているのか
ぼくらの生きている間
空はどうして自らの青さに耐えているのか

ぼくらの死のむこうにも
空はひろがっているのか
その下でワルツはひびいているのか
その下で詩人は空の青さを疑っているのか

今日子供たちは遊ぶのに忙しい
幾千ものじゃんけんは空に捨てられ
なわとびの輪はこりずに空を計っている

空は何故それらのすべてを黙っているのか
何故遊ぶなと云わないのか
何故遊べと云わないのか

青空は枯れないのか
ぼくらの死のむこうでも

もし本当に枯れないのなら
枯れないのなら

青空は何故黙っているのか

ぼくらの生きている間
街でまた村で海で

空は何故
ひとりで暮れていってしまうのか


 (『自選 谷川俊太郎詩集 (岩波文庫)』 谷川 俊太郎より)

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 東京の冬の青空は独特の彩をしている。最初は抜けるように透き通って、地平から上に行くに従い青味を増してゆきそれはやがて地球全体を包み込む大気の神秘的な青へとつながっているようだ。もし、「世界青空ランキング」なんてコンテストがあれば、東京の冬の青空はきっとその上位に食い込むだろうなぁ。

 東京も高度成長時代の大気汚染が問題になった頃には、もちろんこんな青空はそう頻繁に見られるわけではなかったけれど、それでも経済活動が一瞬ストップする正月にだけは抜けるような青空がみられた。だからぼくの子供の頃からの正月のイメージにはいまだに青空に舞う凧の姿が残像のように焼き付いている。

 今朝、公園を散歩した時上空に広がっていた空もそんな正月の空だった。天気は良いが風が強く芯から寒さが浸みてくる。丘の上で凧上げをしていたのでスマホで撮ろうとしたけれど、手袋を忘れてきてしまい指先が冷え切って中々スマホのスイッチが入らない上に、シャッターもよく反応しない。やっぱりこういう時はちゃんとしたカメラだなぁ、と思ったけれど…。

 以前は公園を散歩するときもカメラを持っていたのだけれど、段々億劫になってか今はスマホだけしか持ち歩かないようになってしまった。そんなこともあって自分のブログで公園の事を書くことも次第に少なくなって、このブログを始めた2005年には55回もあったのに昨年はたったの一回。その背景にはぼくには余りありがたくないこの公園の変化もあるのだけれど、いずれにしてもそれは季節の移ろいなどに対する自分の感性が老いてしまった証みたいなものだと思った。

 というわけで、今年は自分の日常に慣れ切ってしまった視線に活を入れて、まさに[Jamais-vu](ジャメヴュ・未視感)的感覚を研ぎ澄ませて身の回りの色々なものを観てゆきたいと思うのだけれど、…いつもの年初の決心みたいに三日坊主で終わるかもしれない。


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[Déjà-vu] No.7  デジャヴとジャメヴの間 [Déjà-vu]

[Déjà-vu] No.7  デジャヴとジャメヴの間

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 初めて訪れる見知らぬ土地を旅している時、ふと「あ、こんな光景に以前出会ったことがあるなぁ」と感じることがある。また日常でも「あ、前にこんな状況で、こんな心持になったことがあるなぁ」等、ぼくなんかはよくある。その元がはっきり思い当たることもあるけど、大抵は何か漠然とした心の揺れみたいなものだけがあとに残るのだけれど。

 既視感というのか[Déjà-vu](デジャブ)みたいなのは、歳をとってくると多くなってくるような気がする。今までの長い人生の中で色々な光景や状況を見聞きしているから、似たような状況に出会う確率も多くなるからかもしれない。小学生にそう度々デジャヴなんか起きないのじゃないか。
 
 既視感[Déjà-vu](デジャブ)とは逆の未視感つまり[jamais vu](ジャメヴ)というのもあるらしい。こちらは普段から見聞きしてよく知っている筈のものが全く新たなものに感じられたり、違うものに見えたりする事なのらしいけど、そういう事もあるかもしれない。例えばいつもの道の角を違う方向から歩いてきたとき、まるで違う街に来てしまったような…。
 
 これが甚だしくなると正常な認識が崩壊したり、コミュニケーションが難しくなってしまうらしいけど、適度なジャメヴは日常に新たな視点を与えてくれるかもしれない。ものの見方がまだ経験にとらわれないという点で言えばこちらは若い人の方があり得るのかもしれない。尤も年寄りでも認識崩壊とスレスレかもしれないけど、あれ?ということは日常生活の中でも時たまあるものだ。

 そういう意味でいうとぼくの歳になると毎日が「あれ、これどこかで見た事あるよなぁ」というデジャヴ感と「あれ、これって、こんなんだっけ?」というジャメヴ感に挟まれて辛うじて残っているリアリティーの細道を手探りで歩いているようなものだ。もしかしたらそれが老齢になるという事かもしれない。

 なんだかいかにも危なっかしい世界だけれど、考えようによっては悪いことばかりではない。懐かしさ、ノスタルジーを呼び起こしてくれるデジャヴ感と色あせた日常に括目させてくれるジャメヴ感という風にとらえれば、それはそれで楽しめるのかもしれない。もちろん医者に聞けばそれは、単に脳の老化ということであっさりと片づけられてしまうのだろうけれど…。



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 年末年始になると必ずデジャブのようにやってくる感覚があります。朝起きてしばらくすると天気の良い日には南側の部屋に冬の日が煌めくようにいっぱいに差し込みます。すると父や母が元気だったころ皆で元日にテーブルを囲んでおせち料理を食べた時の感覚が頭をよぎります。

 穏やかな、何ということもないありきたりの正月の風景。今も冬の日が差し込むと正月でなくともそんな光景がフラッシュバックしてきます。ましてや今日は正月、母がまだ元気だった頃の正月が頭に浮かびます。写真はたった五年前なのに大きく変わってしまって今は認知症でぼくの顔も判らない。写真はその時々を、そして一日一日を大切に生きよ言っているようです。


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謹賀新年 [新隠居主義]

謹賀新年

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[Déjà-vu] No.6   A Happy Birthday to Someone! [Déjà-vu]

[Déjà-vu] No.6   A Happy Birthday to Someone!


DSC00455sm.JPGZamami island Okinawa 2015

 ■ここ 

 どっかに行こうと私が言う

 どこ行こうかとあなたが言う
 ここもいいなと私が言う
 ここでもいいねとあなたが言う
 言ってるうちに日が暮れて
 ここがどこかになっていく

  (谷川俊太郎 『女に』より) 


 沖縄は大抵冬か春先にしか行かないから、真夏のきらめくような沖縄の姿はよく知らない。もっとも会社勤めしていた頃は仕事だから時期なんかは関係ないので何度か真夏にも行ったことはあるけど…。隠居してからはシーズンオフに行くのは、第一には飛行機代が安いこともあるけど、島にも観光客が殆どいないので土地の人とゆっくり話せたりすることもある。さらにはぼくの場合は春先に行くと花粉症が軽いなどのありがたいご利益もある。

 人がいないと離島などの海岸が独り占めできるという良いこともある。慶良間諸島などの島にお気に入りの海岸線が何箇所かあるのだけれども、そんな中には海岸に半日居ても誰にも合わないということもある。海岸線全体を見渡せるデッキもシーズン中はカフェがオープンして、客でごった返していたのだろうけど今は店も閉まり誰もいない。

 沖縄でも天気が良くなければそれなりに寒く感じるのだけども、ちょっと陽がでれば寒い内地からきたぼくらには十分温かく感じられる。誰もいない海岸のデッキで日永一日、本を読んで過ごすのは自分のサラリーマン時代からの夢だったのだが、そういう場所に出会えたのは幸運だったし、そのきっかけを作ってくれた友人にはいつも感謝している。

 あるとき離島のそんな海岸にいつものように本を持って行ったら、デッキにあるテーブルの上にサンゴを並べてメッセージが書いてある。前の日の昼までは無かったからそのあとに誰かが書いたものらしい。A Happy Happy Birthday 最後にはハートマークまでついている。

 誰に対してのメッセージかは書いてない。その人がその場にいたからなのか、それとも一人で来た人が誰かの誕生日を心の中で祝って書いたのか。「沖縄」「海」「珊瑚のメッセージ」なんてキーワードを並べると頭にはすぐ若者の姿が浮かぶけれど、そうとは限らない。

 このシーズンオフの平日にこの海岸にくるのはぼくのようにもうリタイアした老齢の人間かもしれない。そうすると、今はもういない伴侶の誕生日を想って書いたのかもしれない。ほんとうは「いつか」一緒に来たかったのだけれど、日常の忙しさにまぎれてその「いつか」は、とうとうやっては来なかった…のかも。 誰もいない海は妄想を掻き立てる。



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