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Akihabara [Ansicht Tokio]

Akihabara

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 秋葉原、この街をうろつき始めてからもう何年になるだろうか。四十年以上になるかもしれない。勤め先が本郷で秋葉原に近いということもあるのだけれど、通い始めたのは大学時代からだからもしオフィスが多少遠くても来たかもしれない。通算すると月一回、多いときには毎週もあったと思う。

 通うと言っても特別な目的があるわけではない。ただぶらついて街を、店を見ているだけで何となく楽しいのだ。それでもその時々によって興味を持って見るものは確かに変わってきた。最初はオーディオ関係のスピーカーやターンテーブル、アームやカートリッジなどの部品がメインだった。

 それから、音楽でジャズやクラシックのLPに目が向いてディスク漁りをやっている内に、当時「マイコン」と呼ばれるパソコンが出始めた。そうすると秋葉原の街はあっという間にオーディオの街からデジタルタウンに切り替わっていった。その時分にはぼくももう会社に入っていたのでぼくの関心もオーディオからパソコンの方に比重がかかっていった。

 以来、時の経過とともにいくつかの関心がぼくを長いことこの街につなぎとめていた。リタイヤしてからは関心はカメラやジャズのCDなどに向いていったが、今はそれにタブレットやBluetoothなどの新しいオーディオ機器への関心が加わった。この街の変遷が自分の関心の範疇に合っていたのか、はたまたこの街の変遷に自分の関心が引きつけられたのか、おそらくはその両方だと思うけど…この街は長いことぼくの関心を繋ぎ留め続けてきた。

 ただ一つだけ、この街の変遷で自分の範疇には取り込めなかった、または取り込まなかったものがある。それはいわゆるオタク文化に類するもので、それがこの街に浸みこむように広がってゆく様をぼくは少し遠くから傍観者として見ていた。それは秋葉原という街に新たな味付けをすることになった。それは一見唐突にこの街に現れたように思えるけれど、今までの秋葉原文化と何処かで通底するものを持っているとぼくは思っている。


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 昨日、友人のところに行くので馴染みの秋葉原で乗り換えた。ラッシュアワーも終わった午前中の秋葉原駅のホームはいつもぼくが見ているのとは違ってどこかのんびりとしていた。ぼくが乗ろうとしていた総武線の千葉方面のホームの一番先の方は人影もまばらで、ローカルの駅のようだった。約束の時刻まではまだ間があったのですぐに電車に乗らずに少しホームをぶらつくことにした。

 家を出る時久しぶりにRICOH GX200をポケットに入れてきたのでそれでホームの光景を覗いてみた。ホームに差し込む光は既に冬のそれになりかけている。ガラッとしたホームには自販機が並んでいる。時折、自販機に飲み物を買いに来る人が通るくらいで人通りも少ない。駅の時間はラッシュアワーの時刻を過ぎて急にそのスピードを落としてなだらかに流れ始めた。もちろん、それは夕刻の次のラッシュアワーまでの束の間のことだけれど。


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三者三様 [gillman*s Lands]

三者三様

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  Wiener Staatsoper

 
  考えてみたらウィーンの良いところはぼくらに美術館と音楽の両方の楽しみを与えてくれるということかもしれない。昼は美術館をウロウロして夜になったらクラシックのコンサートに行く。それも、そこそこの日数いて退屈しない所というと世界でもそう何箇所もあるわけではない。音楽だけとか、美術館だけとかなら他にもあるのかもしれないけど、この二つがバランスよく揃うことはなかなかない。

 そういう意味では、ベルリンとかパリとかロンドンとか東京ニューヨークもそうかもしれないけれど、他はどこもいわば名だたる大都会で、それに対してウィーンならその殆どはどこも年寄りの脚でもそこそこ歩いて行ける距離にある。もちろん乗ろうと思えば路面電車で行くこともできるけど…。 Volksoper(フォルクスオーパー)だけ街なかから少し離れているけどそれだって地下鉄ですぐのところにある。

 観光旅行も悪くは無いけど、歳をとってくると転々と宿を替えてこまめに移動することが億劫になってくる。動くと金もかかるし…。出来れば一か所に拠点をかまえてのんびりしていたいのだが…、それじゃあ家に居れば良いじゃないかと思うのだけれど、体力は衰えてくるのに放浪癖みたいなのはなかなか落ち着いてくれない。その最たるものが時折行く沖縄で、なんのことはない旅先でもやっていることは読書と昼寝と酒だけで、そんなことはどこでもできるんではないかと思う。 で、あまり動かなくて自分の好きなものだけを楽しめる処がウィーンということで、この街が好きなのだ。


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  Musikverein Wien Goldener Saal


 今回コンサートで訪れたのがウィーン国立歌劇場(1869年)とウィーン楽友協会(1870年)そしてウィーン・フォルクスオーパー劇場(1896年)の三か所だが、それぞれに雰囲気も音も異なって三者三様でとても興味深かった。最初に訪れたのが一番中心地にある国立歌劇場で、その時は2017-18年音楽シーズンのまさに始まりの時期だった。シーズンの始まりを告げるものか、劇場の前には超大型のパブリックビューイングが設置されオペラの中継が見られるということで夜になると劇場の前は観客でいっぱいになっていた。

 この歌劇場で以前観たときはヴェルディの「シモン・ボッカネグラ」だったが、今回はやはりヴェルディの「椿姫」。特にヴェルディが好きなわけではないけど偶然そうなった。席は以前もそうだったがLoge(ロジェ)といわれる小部屋で一列目だと観やすいが後ろの列はちと辛い。一列目で良かったのだけれど、席に行ったらそこには既にアメリカ人らしい夫婦が座っている。ここはぼくらの席だと言っても自分たちのだといって、知らんぷりをしているので座席案内係の女性に来てもらった。

 切符を確認すると何のことはない、自分たちの席は一階上のロジェの同じ席でそれを指摘されると、「ソーリー」も言わずそそくさと去って行った。この劇場の字幕は前の座席の背もたれか、ロジェの場合は席の前のカウンターにモニターが付いていて、今年からは日本語も見られるようになった。中に入ると円形劇場特有の高揚感というかこれから歌劇を観るのだという雰囲気に満ちている。

 その時は右側のロジェだったけど音は驚くほど良く聞こえてくる。もちろんマイクは無いのだけれどロジェでも一列目に居れば平土間と同じようによく聞こえるのも円形劇場のおかげかもしれない。ただロジェは場所にもよるけど平土間に比べてオーケストラの音が上に抜けやすいので、舞台上の声楽とのバランスは平土間の方が良いのかもしれない。もともと昔はロジェは男女の逢引きにも使われたり奥でコソコソ話もしたりと粋な場所でもあったらしい。

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  Volksoper Wien


 二番目に行った楽友協会のGoldener Saal(ゴルデナー・ザール=黄金の間)と呼ばれる大ホールは毎年お正月にNHKが放送するウィーンフィルのニューイヤー・コンサートが行われることで知られているが、ここはウィーンフィルの本拠地ではあるけどもちろんウィーンフィルの持ち物ではないのでウィーン交響楽団なども頻繁にここで演奏している。

 ここの音の良さは有名なのだが、演奏中は本当に体全体が音場に包まれている実感がある。全体がよく響くと同時に不思議と一つ一つの楽器の音のディテールがちゃんと聴こえてくる。その証拠にはるかかなたの席での咳ばらいが生々しく耳もとに響く。かと言って教会のような明らかに残響時間が長い類の響きではない。ここは円形でなくシューボックスタイプといわれる四角い箱型でその形状や、床が木でできていたり、天井うらに空間があったりと、好い音の原因はいろいろ取りざたされているけど、きっとその奇跡的な相乗効果なのだろうと思う。

 そんなに色々なホールの音を聴いているわけではないので偉そうなことは言えないけど、ここのホールの音は最高でかつ唯一無二の感じがしている。ホールが大きすぎないのも一つの要因かもしれない。今回はサイドの桟敷席で聴いたのだけれど、音的には以前平土間で聴いたときの方がいい感じがした。クラシック音楽のことはさして詳しくないけど、昔のオーディオ・マニアの端くれとして音響自体を評すればたぶんオーディオファン垂涎の音だと思う。

 さて、最後はフォルクスオーパーだけど、ここは文句なく楽しかった。出し物がオペレッタの「こうもり」だったこともあるけれど、雰囲気も下町の劇場という感じで理屈抜きで楽しかった。ここはオペレッタばかりでなくミュージカルや演劇もやるのだが、建物は国立歌劇場と同じ円形劇場でそれをギュッと小さくしたような小ぶりの劇場だ。音の響きはちょっとデッドな感じだが舞台に近いロジェで観たので全く問題は無かった。休憩時間のホワイエ(ロビー)でもちょっとおめかしした高校生らしきグループがいたりいかにも気さくな感じがした。クラッシック音楽一つを聴くにも、三者三様のそれも最高レヴェルのものに触れられるなんて、そう何処にでもあることじゃない。やはりこの街ではのことだと思う。



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[photos]上から
・ウィーン国立歌劇場(演出上からか開演前から幕が上がっていた)
・同カーテンコール
・ウィーン楽友協会大ホール(ゴルデナーザール)
・同桟敷席から見た大ホール
・フォルクスオーバーのカーテンコール
・ロジェからみたフォルクスオーバー観客席
・フォルクスオーバーの休憩時間、ホワイエでのビール
・フォルクスオーパー休憩時間のホワイエ風景
・ウィーン楽友協会前にて


[concerts memo]
♪ Wiener Staatsoper ウィーン国立歌劇場
29 Sept.2017
演目-La Tlaviata 椿姫
指揮-James Gaffigan
演出-Jean-François Sivadier
Violetta Valéry-Olga Peretyatko Mariotti
Alfred Germont-Jean-François Borras
George Germont-Paolo Rumetz

♪ Musikverein Wien Goldener Saal ウィーン楽友協会
30 Sept.2017

演奏-Wiener Philharmoniker
指揮-Zubin Mehta
演奏曲
①Brahms:Tragische Ouvertüre ブラームス/悲劇的序曲

②Joseph Haydn Sinfonia concertante for violin, cello, oboe, bassoon, and orchestra, Hob.I:105 ハイドン/バイオリン、チェロ、オーボエ、ファゴットのためのSinfonia Concertante
③Bartók Béla:Concerto for Orchestra Sz116 バルトーク/オーケストラのためのコンチェルト、Sz116

♪ Volksoper Wien ウィーン・フォルクスオーバー
03 Okt.2017

演目-Fledermaus こうもり
指揮-Giudo Mancusi
演出-Heinz Zendnik
演奏-Komparserie der Volksoper Wien
Gabriel von Eisenstein-Carsten Süss
Rosalinde,seine Frau-Ulrike Steinsky
Adele,ihr Stubenmädchen-Elisabeth Schwary


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乗り物は楽しいな [gillman*s Lands]

乗り物は楽しいな

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 旅の楽しみの一つに乗り物にのるということがある。単に移動手段と言ってしまえばそれっきりなんだけど、例え地下鉄であってもそれが普段乗っているものと違うというだけで、なんかちょっとドキドキするし楽しみでもある。もっとも、ヨーロッパに行くための十二時間近くのフライトは段々と辛くなってはきているのだけど…。

 乗り物という点ではウィーンには路面電車も地下鉄もSバーンという郊外電車もあるのだけど、今回は街なかのホテルに泊まって美術館とかコンサートホール辺りをフラフラしていたもんで余り電車などには乗らなかった。観光らしい観光はあまりしなかったこともあるけど、それよりもウィーンの旧市街はリンク内、つまり昔の城壁の内側なので大体歩いて行ける範囲にあるのだ。それはありがたい。

 日本を出る前、一緒に行く友達と一回くらいはどこか遠出をしようとは話し合っていたけどはっきりとは決めていなかった。で、結局ウィーンの郊外にあるバッハウ渓谷というドナウ川沿いの眺めの良いところを少し船で下るという何のことはない旅行案内書に出ている通りのコースで行くことになった。

 自分たちで手配して行ってもいいのだけれど、乗換列車の接続とか列車と船の接続時間とか一部車を使うなどめんどくさそうなのでドイツ人のガイドが一人つく現地手配の一日ツアーに参加することにした。当日朝の待ち合わせはウィーンの西駅。ホテルから歩いてゆけるシュテファン大聖堂のところの地下鉄駅から地下鉄U3番線に乗って数駅で着く。


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 西駅というのは来るのは初めてだったが、平日の朝ということもあってか思ったよりも人が少ない。もう五十年近くも昔になるけれどぼくが初めてウィーンに来たのはモスクワから国際列車で来たので、その時着いた駅は南駅だったと思う。列車を降りて何も分からないで困っていると今乗ってきた国際列車の運転手が非番になったらしくコーヒーをごちそうしてくれて色々と教えてくれた。

 長話になって、駅前の広場に米軍の爆撃があってすべて破壊されてしまって自分も怪我をした、もう戦争はこりごりだとか…大阪万博はどうだとか…。ドイツ語はよくわからなかったので半分くらいしか理解できなかったけど、今でもその運転手のガッチリした体格と日焼けした顔は覚えている。その南駅という名前も2014年に新しい中央駅ができて無くなくなったみたいだ。ぼくにとっては今でも南駅のSÜD(ズュート)という響きは懐かしい。

 結局このツアーに参加したのは正解だった。色々な乗り物に乗れたし何より人任せで気楽なのがいい。ぼくは緻密なプラン作りは苦手なのだ。オーストリアの鉄道はドイツ国鉄がDB(デーベーDeutsche Bahn=ドイツ鉄道)と呼ばれるように、ÖBB(Österreichsche Bundes Bahnen=オーストリア連邦鉄道)通称ウーベーベーと呼ばれる。

 列車の一番前にはこのÖBBのロゴが大きく書かれている。ところがこのロゴがデザイン的に洒落た感じを出すためだろうと思うのだけど、Oのウムラウトの部分を斜め線にしているものだからどうもQのひっくり返ったもののように見える。列車に書いてあるそのロゴを見るたびにぼくの頭の中でQBB→チーズのサイクルが回りだして止まらなくなってしまった。

 その内ぼくの頭の中ではもうÖBBQBBBBQ→バーベキューというあらぬサイクルまで回りだして、そのロゴを見るたびに笑いをこらえるので必死だった。最近、こんなのどかな事柄で頭の中がいっぱいになったことはないので本当に楽しい一日だった。

 [その日の乗り物]

  Stefanplatz(シュテファンプラッツ)→(地下鉄U3)→ウィーン西駅→(ÖBB)→St.Pöltenで乗換→(ÖBB)→Melk/メルク修道院→船でドナウ川を下る→Dürstein-Oberloiben→(車)→Krems→(ÖBB)→Heiligenstadt→(地下鉄U4)→Karlsplatz(カルルスプラッツ)



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 *西駅で待ち合わせたのは平日の朝9時半でしたが、もう通勤時間も過ぎたためかあまり混雑もなくなんとものんびりした雰囲気が漂っていました。ホームのある方に行ってみると、ここもヨーロッパの都市の駅の例にもれず引き込み線の駅になっており、ここで列車は方向転換します。

 ホーム部分はドイツのドレスデンやライプチッヒのようにガラスのドーム屋根があるような旅情溢れる造りではなく、ごく素っ気ない今風のものでした。しかし、ホームから中に入って駅舎の大きなガラス越しに見る朝のウィーンの街の光景はなかなかのものでした。


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ウィーン 世紀末の光 [gillman*s Lands]

ウィーン 世紀末の光

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 一週間くらい前から友人と二人で久しぶりにウィーンに来ているのだけれども、美術館はどこもグスタフ・クリムトエゴン・シーレの作品で溢れている感じがする。以前、数年前に来たときにはベルヴェデーレ宮殿の美術館にはクリムトの「接吻」などの作品が展示されていたけれども、それ程目立つ場所ではなかったしそれ以外の彼の作品もそう多くはなかったと思う。

 その後クリムトと同時に、時と共にエゴン・シーレの評価が高まり、2001年には美術史美術館の裏手にミュージアム・クォーターが出来その中のレオポルド美術館セセッション(ウィーン分離派)芸術家たちの作品が大量に展示されるようになったこともいわゆる世紀末藝術の展示がウィーンで充実してきた一因と思われる。

 今回は主に四つの美術館、つまりウィーン美術史美術館ベルヴェデーレ宮殿上宮オーストリア・ギャラリーと下宮オランジェリーアルべルティーナ美術館そしてレオポルド美術館を観て回ったけれど美術史美術館を除く3つの美術館にはクリムトとエゴン・シーレのいずれかの作品が展示されていた。


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 クリムトとエゴンシーレは師弟のような関係であったが奇しくも同じ年に亡くなっている。クリムトが58歳、シーレはまだ28歳だった。彼らの死を持ってウィーンの世紀末藝術は終わりを告げたと言ってもよいかもしれない。その彼らの死んだ年が1918年、つまり来年が二人の世紀末芸術家の没後100年の年なのだ。

 ということで、来年のウィーンはまさに世紀末藝術の展示で溢れかえるかもしれない。長らく西洋美術史の教えを乞うている某先生の話によると、日本の美術館もクリムト没後百年展を狙ってウィーンにアプローチしているが苦戦しているらしい。考えてみれば本場のウィーンこそ100年記念で盛り上げたいのだから、そんな時に重要な作品を海外に出すはずがないと思うのだけど…。


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 *ぼくは以前ここにも書いたのですが、世紀末現象というのは新たな世紀を迎えてもまだ十数年は続くと思っているのですが、1918年のクリムトとシーレという二人の世紀末芸術家の死は正にそこでやっと19世紀末が終わったという見方もできるかもしれません。

 来年はそれからちょうど100年、してみるとぼくらは今まさに20世紀末をまだ生きているということも…。折しもウィーンは今10月15日に行われる総選挙に向けて右と左の激論の真っ最中です。世界の動きを見ても移民、難民問題から政治のポピュリズム化、右傾化そして反動的政治家の続出など今がまさに20世紀末であるような気がしてなりません。


[photos]
レオポルド美術館からマリアテレジア広場方向を眺める
アルベルティーナ美術館の窓から市内を臨む
レオポルド美術館のエントランス
レオポルド美術館からマリアテレジア広場方向を眺める



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♪ 東京のキリル・ペトレンコ Petrenko in Tokyo [新隠居主義]

♪ 東京のキリル・ペトレンコ Petrenko in Tokyo

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 一昨年バイロイト音楽祭ヴァーグナーの「指環」を観た際、その音の素晴らしさに魅せられた。その時、選りすぐりのメンバーのバイロイト祝祭管弦楽団を率いていたのがキリル・ペトレンコだった。クラッシック音楽の知識はからきしのぼくにでもその音の輝きの素晴らしさは分かったし、劇場でも最終日ペトレンコが舞台上に登場した時の拍手喝さいは凄まじかった。

 ペトレンコは現在バイエルン国立歌劇場の音楽監督を務めるが、2018年からはベルリンフィルの首席指揮者・芸術監督になることが決まり、しかも一定期間現在のバイエルン国立歌劇場の方もかけ持ちをするという引っ張りだこで、傍目で見ても大丈夫かなと思うほどスポットライトを浴びるようになった。そのペトレンコがバイエルン国立管弦楽団を率いて先日来日した。

 この日曜日に東京文化会館で彼の日本公演の皮きりの演奏会があったので聴きに行った。切符は今年の春に友人が苦労して手に入れてくれたものだ。当日の曲目は前半がラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲Op.43」でピアノはイゴール・レヴィット。ぼくは初めて聞く名前のピアニストだったが、透明度の高いその音に魅せられた。アンコールがまた素晴らしかった。

 後半はマーラーの「交響曲第五番」。これは、特に最終楽章は今まで聴いたこともないようなアンジュレーションの大きな盛り上がりで、ぼくは最高にワクワクしたけれど人によってはこれは評価の分かれるところかもしれない。難しいことは分からないが、なんと言ってもペトレンコの瞬発力、瞬時の制動力そしてそれに繊細さが共存している点は抜きんでているし、そこがぼくが一番好きなところでもある。

 驚いたのは自分の出番がおわったピアニストのレヴィットが後半ぼくらの前の席に座ってじっとペトレンコの振るマーラーに聴き入っていたことだ。所々小さく頷いたり、控えめだけどあっと言うような身振りを見せたり…。音楽家はこんな聴き方をするんだなぁと感心した。

 ペトレンコの今回の来日の目玉は何と言ってもバイエルン国立歌劇場によるオペラ公演だろう。特にヴァグナーの「タンホイザー」は注目の的だ。一昨年のバイロイトで彼の素晴らしい「指環」を観たので、今回のタンホイザーも、とは思ったのだがチケットの法外な値段を思うとなかなか踏ん切りがつかなかった。もちろん、海外から歌劇場のスタッフ一行も引き連れての公演ということを考えると決して法外な値段とは言えないのだけど。ただ、ぼくの音楽の他にもやりたいこととのバランスで言えばの値ごろ感、価値観の違いなんだけれども…。


 なにはともあれオペラの方は諦めていたところに、友人からオペラ「タンホイザー」のゲネプロ(Generalprobe)の招待券を貰った。彼が本公演のチケットを買った際に抽選で何名かをタンホイザーのゲネプロに招待するという企画に応募して当たったらしいのだ。それをありがたい事にぼくにくれるというので観ることが出来たということなのだけれども…。
 
 ゲネプロとは衣装も舞台も本番さながらの通し稽古で、コンサートのゲネプロは何度も観たことがあるけれども、オペラのゲネプロは初めてだった。それと同じ様に軽い気持ちで考えていたのだけれども、どうして、どうして、間に一時間の休憩を挟んだにしても、始まったのが午後3時で終わったのは夜の8時すぎ。それでもその日はまだ二幕までである。
 
 今回の「タンホイザー」の配役は、タンホイザー役がクラウス・フロリアン・フォークトでエリザベート役がアンネッテ・ダッシュというぼくには懐かしいコンビだった。それは2015年バイロイトで観た「ローエングリン」のローエングリン役とエルザ・フォン・ブラバント役の組み合わせそのままだった。その時も二人とも素晴らしい歌手だと思った。
 
 ゲネプロ前半は順調に進んだが、それでも随所で中断、ペトレンコの指示で少し戻ったシーンからやり直し。その度に役者はもちろん照明、字幕、小道具などのスタッフが前のシーンに戻すためにフル回転、時には大型のクリーナーが舞台効果で汚れた舞台上を掃除し直す。本番では見えないところで大勢のスタッフが動いているのだ。
 
 休憩を挟んで後半はかなり指示が細かくなって、至る所で中断する。舞台上とのやり取りもあるが、オケとのやり取りも多い。段々と熱が入ってきて、ペトレンコの指示も長くなる。こっちがドイツ語がよく分からない上に、離れていて聞きづらいので殆ど分からなかったけど、時々「もっと明瞭に」とか「そこは叫ぶんじゃなくて、うたって…」とかの断片が聴こえてきた。
 
 もう大分時間もたって、舞台上にもちょっと疲労感が…、脇役の役者は寝転んだり、主役のフォークトも舞台中央のプロンプターのカバーの端に座り込んだり、エリザベート役のダッシュも靴を脱いで水を持って来させて飲んだり、時折は床に座ったり…。その間ペトレンコは一切気にする様子もなくオケ等に指示を出し続ける。それだけ舞台上やオケとの間に信頼関係があるのだろうなと感じた。

 完璧なものを創り出すというのはほんとうに大変なことなんだ。午後8時になってゲネプロがやっと終わりを迎えた時、NHKホール中に一瞬ホッとした空気が広がったような気がした。ペトレンコは全然平気で疲れていないみたいに見えた。前夜、来日初のコンサートをこなしたばかりなのに、凄いエネルギーだなぁ。


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 *いままではオーケストラピットに入って指揮をしているペトレンコしか見たことがなかったので、舞台上で指揮する彼を見たのは今回が初めてでした。実にパワフルで、ある時は踊るように、ある時はひれ伏すように大きなジェスチャーなんですが、その左手はかなり細かく曲の表情を指示しているようでした。ここら辺に瞬発力と繊細さの秘密の一端があるのかもしれないと感じました。

**ペトレンコは日本のプレスにこう答えていました。ゲネプロでの彼はまさにそれを証明しているようでした。

 音楽のモットーを問われると、「特別なものはないが、音楽に真摯(しんし)に向かい、時間をかけて十分な準備、(オーケストラや歌手との)リハーサルをして作品に取り組む。私の身上はリハーサル、これが一番大切かもしれない」

…指揮者の役割については「リハーサルの準備段階でオーケストラと一つになること。本番で指揮者がすることは少ない方がいい。実際のコンサートでの指揮者の役割は、単に音楽を聴衆に伝えるだけ」と答えた。 (9月18日付朝日新聞デジタルより)


写真上…東京文化会館(2017/09/16)
写真下…NHKホール(2017/09/17)

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東岳寺 一日だけの広重展 [新隠居主義]

東岳寺 一日だけの広重展

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 この間散歩がてら近くの寺、東岳寺に寄った。そこには歌川広重のお墓があってよく前は通るのだけど中に入ってお墓に参ったのはその時が初めてだった。ぼくの子供の頃には学校では安藤広重と習ったはずなのだけれど、実際には広重は絵師としては安藤姓を名乗ったことはないらしく、今では歌川広重ということになったらしい。

 広重のお墓の隣には寄り添うようにしてアメリカ人ジョン・スチュアート・ハッパーのお墓もある。余り知られていないけれど広重に魅せられて40年以上日本に住み西洋に広重を紹介した功績者でもある。広重に焦がれて最後は名前も広重ハッパーと名乗っていたこともあって、没後広重の傍にお墓が作られたそうだ。彼の著書「Japanese Sketches and Japanese Prints(1934)」は今でもペーパーバックで手に入るようだ。


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 実は先だってここに来た時に、数年前から広重の命日である9月6日にはこのお寺で「一日だけの広重展」をやっているというので来てみたのだ。午後からは広重の法要があると聞いていたので昼前に来てみると、既に数人の見学者が来ていて、展示場ばかりでなく広重の墓の前や境内でも墓参の人たちの姿も見られた。

 展示は本堂ではなくて、お寺の座敷の方に広重の版画が展示されている。展示物は神田の古書店からこの日限りに借り受けたもの等で、入場は自由で座敷にはソファも置いてあってゆったりと観ることができる。展示点数はそう多くは無いけど、広重の墓所で見る「東海道五十三次乃内 庄野の白雨」などは感慨深いものがあった。

 この寺もそうだけれど、ここら辺は関東大震災の後浅草のお寺が多数移転してきて寺町になっている。近くには先代三遊亭圓楽の実家の寺で彼のお墓もある易行院や林家三平や父の七代目林家正蔵のお墓がある常福寺もある。また、散歩の折に寄ってみようと思う。


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猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その28~ [猫と暮らせば]

猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その28~

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 普通の猫なんて居ないわ。(シドニー=ガブリエル・コレット)

 “There are no ordinary cats.” (Sidonie-Gabrielle Colette)


 子供の頃から今までいろんな猫と暮らしてきたけど、それだけにこのコレットの言葉には、そうそうと思わずうなずいてしまうところがある。とは言っても、たとえば道端でノラ猫に出会ってそのことを他人に話して、どんな猫だったと聞かれたときには「普通の三毛猫だったよ」とは言ってしまうのだけれど…。

 それじゃあ、普通の猫と普通じゃない猫の分かれ目は何かというと、ざっくり言えば自分にとって名前がついているかどうかだと思う。名前は普遍的なものを特別なものへと変質させる力を持っている。いつも見かけるノラ猫に密かに名前を付けた時から、その猫は自分にとって特別な猫になるのだ。言語学者のソシュールが、そのモノがあるから名前が付いたのではなく、名前を付けたことによってその内容が浮かび上がり規定されてくるのだというようなことを言ったことを想い出した。

 名前というのは、その名前を持ったものとの関係を変えるという魔力を持っていると思う。以前訪れた南海の孤島波照間島では、島の至る所にヤギがいる。普段は畑の雑草取りのためにか長い紐で繋がれてのんびりしているが、島を挙げての一大イベントである大運動会には潰してヤギ汁にすることも多いということだった。

 ぼくの泊まった島の宿にもココちゃんというヤギが居て飼い主のおばさんに聞いたら、そのヤギは名前を付けたのでもう食べないという。随分と可愛がっていてそのヤギの自慢話を聞かされた。でもそのヤギだって放たれて島のどこかをウロウロして他所で普通のヤギとして捕まったらヤギ汁にされるかもしれない。

 名前を付けて、普通じゃない存在になって一緒に暮らし始めたら、それはもう全くと言っていい程違う存在になるのだと思う。それは猫だって犬だって金魚だってカブトムシだってそうなのだ。本当はどこにも普通の犬や普通の猫やそして普通の牛や、ありふれた豚や普通の命などはないのだろうけれど、それをしてしまったらぼくらは生きてはいけないので、普通名詞というものを考え出して不用意に固有の名前を付けないようにしているだけなのだ。


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猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その27~ [猫と暮らせば]

猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その27~

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 ■私が猫と戯れているとき、ひょっとすると猫のほうが、私を相手に遊んでいるのではないだろうか。(モンテーニュ)
 “When I play with my cat, who knows if I am not a pastime to her more than she is to me?” (Michel de Montaigne, Apology for Raymond Sebond)


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 自分でブログをやっていて、こう言うのもなんだけど最近いつでもネットで繋がれる時代になって、逆に何か上質な孤独というものが世間から少なくなっているのではないかと。まぁ、世間のことはどうでも良いけど自分のことを振り返ってみても、いつもネットでつながっているみたいでメールが来たり、誰だれさんがSNSに書き込みしましたよ、みたいなお知らせが来たり…。

 人間にはときたま、そういうものからも解き放たれて素の一人になれる孤独のようなものが必要なんじゃないかと思ったりもしている。と言ってもずっとそうで話し相手も、連絡を取ろうとする相手も居ないのはただの孤独で、上質な孤独とは言えないような気もする。とても贅沢なことなのだけれど、時には一人で何かを想う時間も必要だし、カミさんとゆったりするような時間も必要だと感じる。

 そういう中で、猫と「二人」で過ごす時間はぼくにとってはかけがえのない時間になっている。それは一人きりで、もの想う上質な孤独の時でもないし、かといって人間同士で集う安らぎの時間でもない。ぼくにとってそれは何も考えない、そして何も想わない、純粋にそこに時間だけが存在するような瞬間に思える。そばに居る猫はぼくにとってそれ自体が幸せの時間そのもので、それ以外の何物でもない。 …むろん彼女が遊びに飽きてしまうまでだけれど。


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 ■ どんな猫の遊びにもルールとしきたりがあるが、それは参加するプレーヤーによって様々だ。猫は、もちろんルールを破ることはない。もし、猫が以前のルールに従わないことがあれば、単に新しいルールを作ったということだ。その新しいルールを急いで覚えて、遊びを続けるかどうかは、あなた次第だ。(シドニー・デンハム)
 Although all cat games have their rules and rituals, these vary with the individual player. The cat, of course, never breaks a rule. If it does not follow precedent, that simply means it has created a new rule and it is up to you to learn it quickly if you want the game to continue. (Sidney Denham)


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虻蜂取らず [新隠居主義]

虻蜂取らず

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 昔からの友人と二人で久しぶりに福島に行こうということになって、今回は会津の秘湯巡りをしようということになった。友人は温泉にも酒にも詳しく、会津の秘湯にも何度か来ているということで案内してもらうことになった。鬼怒川温泉駅まで電車でゆき、そこでレンタカーを借りて温泉を巡ることに。

 福島は隠れた名湯がたくさんある上に酒もうまい。本当はのんびりしたいとこだが、今回はできるだけ多くの温泉を「味見」して回ろうというのでまる二日間走り回った。(と言っても運転したのはぼくではないのだけれど…) 結局下記のように二日間で七か所の温泉に入った。

[一日目]東京→鬼怒川温泉→湯の花温泉(石の湯、弘法の湯)→木賊[とくさ]温泉→南会津の旅館→休憩→古町温泉(赤岩荘の湯)→南会津の旅館泊
[二日目]南会津の旅館→朝一、尾瀬檜枝岐[ひのえまた]温泉(燧[ひうち]の湯)→宿に戻り朝食→大内宿→二岐[ふたまた]温泉(大丸あすなろ荘の渓流の露天風呂、自噴泉甌穴の湯)→塔のへつり→湯野上温泉民宿泊(民宿の温泉)
[三日目]台風のため即帰宅。


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 風呂は大抵地域の有料の共同風呂が多かったのだけれど中には湯が熱くてとてもまともには入れなかった所もあったけれど、概ねは情緒もあって気持ちの良いお風呂だった。やっぱり露天風呂が解放感もあってよかった。中でも二岐[ふたまた]温泉の大丸あすなろ荘にある渓流の露天風呂は清らかなせせらぎに沿った眺めも抜群の湯だった。(一枚目の写真)

 この温泉宿は「日本秘湯を守る会」にも登録されており、その中でもこの渓流の露天風呂はおすすめの場所なのだけれど…。脱衣所で裸になって露天風呂のところにゆくと余りに眺めが良いので、ぼくらが入った時には他には誰も居なかったこともありスマホで写真を撮ろうとした。

 スマホのカメラを構えた途端身体の数か所に鋭い痛みを覚えた。はっと気が付くと何匹かのアブが襲いかかってぼくの身体を噛んでいる。(刺すのではなく、アブは噛んで血をだしそれを舐めるらしい) スマホを戻し慌てて湯船につかったけれど既に遅し。腕、背中、お尻それに太ももの四ヶ所をしっかりと噛まれた。

 噛まれた箇所は赤く腫れあがって猛烈に痒い。帰宅してから抗ヒスタミン剤を塗っているがなかなか腫れもひかず今でも痒みは残っている。二週間くらい続くこともあるそうだ。諺に「虻蜂取らず」ということがあるけど、大人しく速やかに湯船に入っていれば良かったものを、ちょっと写真なんか撮ろうとしたばかりに、お湯も写真もどちらもまともに楽しめず…虻蜂取らずになってしまった。(宿の人の話だとお盆を過ぎた頃になればアブは居なくなるそうだ) でも、とても楽しい旅だった。



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[写真]上から
1.二岐[ふたまた]温泉の大丸あすなろ荘にある渓流の露天風呂…お盆前はアブに注意とのこと…入る前に言って欲しかったなぁ〜
2.南会津の旅館で会津の銘酒をいただく
3.大内宿…江戸時代の宿場町の茅葺の家並みが美しい
4.会津は酒どころと言いつつ、次々と飲み比べ
5.コップ山盛りの酒が嬉しいのだけれど、香りがわからないのが、残念
6.子持ちの鮎の塩焼き、小骨が苦手だけれど…
7.湯の花温泉の石の湯…温泉が石の間から湧き出ている、でも熱すぎて…
8.木賊[とくさ]温泉の湯はここからさらに坂を下りた渓流のところにある
9.スーパーにはお盆用のお供物が…すごい原色、地方によって特色があって面白い



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 *旅の醍醐味はやっぱりその土地とちの食と酒と人。今回も南会津の旅館の親父さんや、湯野上温泉の三部屋しかない民宿のご夫婦との楽しい会話がありました。湯野上の宿のひょうきんなご主人と上海出身のパワフルな女将さんとの掛け合いはまさに至芸でしたね。
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[Déjà-vu] 薄れゆく記憶 [新隠居主義]

[Déjà-vu]  薄れゆく記憶


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 若い頃からずっと働いていた会社のOB会から時々会報が来る。OB会の総会などの席には顔を出したことは無いけれど、時たまくる会報には目を通すようにしている。活動報告の欄などには大抵は顔も名前も知っている人物が出てくるのだけれど、最近はちらほらと見知らぬ顔や名前も現れ始めた。

 そんな中で昨日来た会報に目を通していたら訃報欄に昔の同僚の名前を見つけて何とも表しようのない感情に襲われた。むろん、訃報だから悲しいのだけれど、ただ悲しいのではなくて今まで彼が過ごしてきただろう時間のことを思うと何ともやりきれない思いがした。

 当時同じ部署で働いていたH氏は歳はぼくより3つくらい下だったけど会社では先輩だった。彼とはそれ以前にも別の部署にいる時も一緒だった時期もあって気心は知れていた。仕事には気骨のある人で時には暴走気味になることもあったりして、人によって評価は分かれるところだったが、ぼくは彼のそういうところも買っていた。

 そんな彼がある日、頭痛が続くということで近くの大学病院に検査に行くことになって早退すると…。ぼくも事前にその話は聞いていたのだけれど、昼近く外出するときに会社の前でこれから病院に行くという彼とすれ違って二言三言言葉を交わした。どこが悪いのかと思うほど元気そうだった。しかし結局元気な彼と言葉を交わしたのはそれが最後になった。

 診断は脳腫瘍だったのだけれど、手術の結果命は取りとめたが、視覚の半分を奪われ身体の自由もきかない状態になってしまった。視覚は目の障害ではなく脳の障害によって起きている視野狭窄のため、顔を左右に動かしても常に視野の半分を認識しないという深刻な状態だった。

 もちろんそんな状態では仕事を続けることはできないが、その後もかなりの期間は在籍して当時はまだ余裕のあった健康保険組合からも医療援助を続けたと聞いている。ぼくも何回か面会したけれど、胸のつまる思いだった。リハビリも段々と本人の意欲がなえてきて成果ははかばかしくないとも聞いた。

 あれからもう15年以上もたったかもしれない。その間にぼく自身も一時は車いすの生活を余儀なくされるようなこともあって、彼の記憶も遠ざかって行った。とは言え彼とは特に最後の頃業界の色々な問題に取り組んでいたこともあって、それに関係するようなニュースが流れると、あんなこともあった、こんなこともあった、と思い起こすことはあるのだけれど…。

 記憶が遠のくのはもちろん悪いことばかりとは言い切れない、辛い記憶が時と共に遠のくからこそ人は生き続けていけるということもあるかもしれない。でも、一方その記憶が遠のいてゆくこと自体に悩んだり、またそういう自分を責めたりすることもあるかもしれない。

 それと直接は関係ないけど、ぼくの嗅覚がダメになって半年以上たったが、今その嗅覚の記憶が段々と遠ざかっているような気がする。以前は嗅覚がゼロでもテレビで火事の場面になると焦げ臭い匂いを感じたり、コーヒーの画像でいわば幻嗅ともいえるような匂いを感じることが多かったのだけれど、それも最近減ってきているような気がする。

 今、匂いを想い出すということは難しくなっている。コーヒーの香りやワインの香りばかりでなく、あの夏の草いきれの匂い、食欲をそそる少し焦げた醤油の匂い、大好きなオーデコロン4711のあの柑橘系の匂い。まだまだ忘れたくない匂い・香りが山ほどあるのに、その記憶がどんどんと遠のいてゆく。例えそれが香りのデジャブでもいい、一瞬でも蘇ってくれないものか。



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猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その26~ [猫と暮らせば]

猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その26~


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 ■ 家族同様に暮らしていくうちに、猫はしだいに家庭の中心的存在になってくる。
この愛らしくも不思議な動物は生き生きとした静けさをかもしだし、王のような気品を漂わせながら悠然とわれわれのあいだを歩きまわり、自分にとっておもしろそうなもの、楽しそうなものを見つけたときのみ足をとめる。 (ジャン・コクトー)


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 クロが居なくなって二人と二匹は戸惑いながらも少しづつそんな生活にも慣れようとしている。朝、お腹がすいたとぼくを起こしに来るクロの役目は最初誰もやらなかったのだけれど、クロが居なくなってからぼくが朝中々起きてこなくなったからか、最近はレオがその役を引き継いだようで毎朝ぼくを起こしにやってくる。

 夕食などの食事の時テーブルに上がれるのはクロだけの特権だったのだけれど、それを引きついてぼくの晩酌の相手をするのはまだ出てこない。時折レオがテーブルに上がってくるけどつまらなそうに横たわっている。尤も小さかったクロとちがって体の大きいレオがテーブルの上に立っていられたのでは落ち着いて食事ができないけど…。やはりそれは小さな体のクロが適役だったのだと分かった。

 モモはライバルが居なくなったのでぼくの傍を独占できるようになったのだけれど、暫くの間はどこからかクロが出てくるんじゃないかと、キョロキョロする時期が続いた。最近は少なくなったがそれでも時々クロを探すようにウチの中を歩き回っている。それに変な話だけれど、クロが居なくなってモモは時々退屈するような感じで遊びをせがんでくるようになった。猫が退屈するなんてことはないはずなんだけど…。

 夜、寝床に入ってウトウトとし始めた頃、寝室の猫ドアが怖くてくぐれないレオが入れてくれと声を上げて催促するので渋々起き上がってドアを開けて入れてやると、その間に今までそばに寝ていたモモが部屋を出てゆく。またウトウトしたころ、今度は猫ドアが使えるのにモモがわざわざドアの外で鳴いている。しかたなくまたドアを開けに行くと、自分の手下のネズミを連れたモモがドアの外に立っている。やっとクロの居るころの調子が戻ってきた。それはそれでめんどくさいのだけれども、でも、そんなこんなのめんどくささは、猫がいればこその生活の遊びのようなものかもしれない。それも猫がくれる贈り物の一つだ。



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右か左か [新隠居主義]

右か左か

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 時代にベクトルというものがあるとすれば、世界は散々往したあげくに急速にに舵を切りはじめたように思う。とはいえ世界で今繰り広げられている色々な事象をみると、もはやとかとかいうシンプルな軸だけでは説明できないような段階に来ている気もするのだけれど…。

 だいたいとかとかいうのをちゃんと説明しろと言われるとなかなか難しいのだけど、辞書を引いてみると面白いことがわかる。試しに今手元にある何種類かの辞書で「」をひいてみると、例えば広辞苑では「南を向いたとき、西にあたる方」とあるし、大辞泉では「東に向いたとき南にあたる方。大部分の人が、食事の時箸を持つ側」とある。

 またオックスフォード英英辞典では「その人の顔が北に向いたとき東側を向いている体の側面」みたいなことが書いてある。あっちを向いたり、こっちを向いたり忙しいが、なるほど世界中でどこでも通用するように不動なものとして東西南北を使って自分の「」を定義しようとしているわけだ。野球のサウスポー(south paw)なんかもここら辺からでているらしい。

 それ以外の説明の仕方としては、明鏡国語辞典では「人体を対称線に沿って二分した時、心臓の無い方」とかドイツ語のDuden独独辞典では「自分から見て心臓の反対側の位置の方」みたいなことが書いてある。ここでは普遍的なものとして心臓の位置を基準にしている。ただ、いつもは心臓がにあることをあまり意識していないし、医者に聞くと心臓はというより殆ど真ん中に近いらしいから説明材料としてはどうか。

 こうなると当然、あの新明解国語辞典にはどう書いてあるのかが気になるのだけれど、そこには「アナログ時計の文字盤に向かった時に、一時から五時までの表示のある側」とあり、やはりこの辞書は只者ではない。なぜ6時は入らないかというと、そこはきっと「」ではなくて「下」になるからだと思われる。

 ふつう子供は親から「お箸を持つ方が」と教わるらしいのだけれど、ぼくは元来左利きなので…。それでも今はお箸と字を書くのだけはになっているので、どこかの時点で直されたのだろうけどその記憶は無い。今でもその二つ以外は全部で、字もでも不自由なく書けるが、そのかわりで書くといわゆる鏡文字になって裏返しになってしまう。箸もなんとか左でも使えるけど、「なんちゃって右利き」になった副作用としては他人に言われると瞬間的に右左の判断ができないことだ。頭で考えてしまってどうしてもワンテンポ遅れてしまう。

 困ったのは自動車の運転免許をとる時だった。免許は一度二十歳代の時に取りに行ったのだけれど、あまりにも威張った態度の教官と喧嘩してやめてしまった。今の免許は四十歳になってからとったので幾分世間慣れして我慢することも覚えたので何とかとることができた。それでも張り倒してやりたいと思うような教官がやっぱり一人だけいた。

 仮免許をとって路上教習の時は教官が助手席に乗って、教官の指示した道を運転するのだけれど、「あ、次を」とか「そこの角をね」と言われてもワンテンポ遅れる。昔だったらパニクるところだけど、歳もとっていたので「はい、わかりました、折ですね」とか言って時間稼ぎをする。最初は教官も普通に聞いていたのだけれど、そのうち「こいつはどうも左右が即断できないんじゃないか」と思い始めたらしい。

 ある時路上教習でいつものようにぼくが「はい、そこを折ですね」というと、その教官は「そう、はいつも折、はいつも折に決まってるんだよ!」とぶっきらぼうに言った。ここまではまぁ許せたのだけれど、そのあと彼が言った一言は許せない。「あんたさぁ、どうも左右がすぐ分からないみたいだねぇ。じゃあ、上下はどうなの? 上下はすぐわかるの?」 また、張り倒してやりたくなった。



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*「右であれ、左であれ…」というとすぐにジョージ・オウエルの「右であれ、左であれ、我が祖国(My country Right or Left)」を想い出すし、「右だろうと、左だろうと…」というと石原裕次郎の「右だろうと、左だろうと、わが人生に悔いは無し」を想い出してしまいます。なんとも難しい時代になりました。

**辞書による「右」の説明
・Oxford Advanced Learner's Dictionary…[right] of,on or towards the side of the body that is towards the east when a person faces north.
・Duden Deutsches Universalwörterbuch…[recht] auf der Seite [befindlich], die beim Menschen der von ihm aus gesehenen Lage des Herzens entgegengesetzt ist.
・大辞泉…東に向いたとき南にあたる方。大部分の人が、食事の時箸を持つ側。
・明鏡国語辞典…人体を対称線に沿って二分した時、心臓の無い方。
・新明解国語辞典…アナログ時計の文字盤に向かった時に、一時から五時までの表示のある側。


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[Déjà-vu] トルコのコーヒー [Déjà-vu]

[Déjà-vu] トルコのコーヒー


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 ここのところ断捨離の一環で昔の写真を少し整理しようと思っているのだけれどなかなか進まない。海外に行った時の写真を色々と眺めていると、ここ数年の世界の変化が肌で感じられる。ニュース等で見聞きした限り以前訪れた時と大きく変わっていたり、あるいは行くたびに状況の変化を実感したりする国もある。ヨーロッパも昔のようにのどかではないしバルト三国等は今また、かの国への恐怖心を募らせている。そういった中でも変化を一番感じるのがトルコだ。

 トルコは何故か昔から憧れていた国で、ドイツにいる時トルコ人の親しい友人がいたこともあって一度は訪れてみたい国でもあった。実際に行ってみると人は親切だし、まさにイスラムとヨーロッパの文化の十字路といわれるようなエキゾティズムに溢れた数々の情景に魅せられてしまった。

 それ以来ぼくの中ではトルコは是非また訪れてみたい国の一つとしてその地位を確保していた。しかしその国の様子がここのところ大きく変わってしまったようだ。ぼくはほかの国の政治についてとやかく言う立場にはないのだけれど、当分はなかなか行く気にはならないなぁ。治安があまり良くなくなったというのもあるけれど、それよりもあの国の状況がなんか歴史を巻き戻して見ているような、何とも居心地の悪いデジャブ感に襲われている。


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 以前トルコを訪れた時にはまだぼくの嗅覚がしっかりとしていたから、そこでコーヒーを飲むのも楽しみの一つだった。トルコで普通にコーヒーというと粉ごと煮出して上澄みを飲むあのトルココーヒーのことで、こっちで言う一般的なコーヒーのことは「ネスカフェ」と呼ばれているみたいだった。普通のコーヒーを飲みたかったらネスカフェと言わないとトルココーヒーが出てくる、と現地では教わっていた。

 そのネスカフェコーヒーでも飲み方は日本とちょっと違って、見ているとたっぷり砂糖を入れてかき回さずにそのまま上から飲んでいって最後に下に溜まった甘いコーヒーを飲み干すのが多かったように思う。ぼくは当時はコーヒーは砂糖を入れないで飲む方だったのだけれど、トルコではそういう飲み方をしてみた。

 トルコのどこでも見られるかわいい小皿にのった小さめのガラスコップで一口飲むとコーヒー独特の苦みが口の中いっぱいに広がってゆく。十分に苦みを含んだコーヒーの味と香りを味わって、やがて一杯のコーヒーの最後の一口を飲み干すとき、何とも言えない甘美な甘さが身体に浸みわたってゆく。ふと、人生もこうだと良いなと思った。最初、若い頃は苦い味がかっているけど、やがて来る最後の一口に甘美さが待っているような…。と言ってもなかなか難しいことではあるけど。今日70歳になった。


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 *カミさんとの二人用の小さな小さなケーキを買いました。ついていたHappy Birthdayのチョコプレートが異常に大きく見えます。店員のお嬢さんが「ロウソクは何本ご用意しますか?」と言うので、正直に「70本」と言ったら、何も言わずに黙って7本付けてくれた。




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[Déjà-vu] 海 [Déjà-vu]

[Déjà-vu] 海


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 ■ かなしみ

 あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
 何かとんでもないおとし物を
 僕はしてきてしまったらしい

 透明な過去の駅で
 遺失物係りの前に立ったら
 僕は余計に悲しくなつてしまった

 Sadness
 
Somewhere in that blue sky
 where you hear the sound of the waves,
 I think I lost something incredible.

 
Standing at Lost and Found
 in a transparent station of the past.
 I became all the sadder.

 (谷川俊太郎 『二十億光年の孤独』 英訳 William I. Elliot and Kazuo Kawamura)



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 毎年今頃になると必ずと言っていいほど思い出す谷川俊太郎の詩がある。そして、それとセットのようにして浮かんでくる自分の撮った写真がある。それはまだ沖縄に通い始めた頃に竹富島で撮ったものだ。その時持っていたSONYの手のひらサイズのコンパクト・デジカメで撮ったのだけれど、その時撮った写真が今でも気に入っている。

 季節はまだ三月の初め、いわばシーズンオフの時期で島はのんびりとしていた。昼過ぎの海。海は静かでどこまでも青く、青くと言ってもそれは限りないヴァリエーションを持った青で、水平線のかなたで空の青へと変換されてゆく。清冽で、そして悲しくなるほど静謐な海。見ていると心にぽっかりと穴が開いたようで、その穴はどこかの海に落としてきた大事なもののようにも思えた。

 ぼくには思い当たることがある、それは47年前のちょうど今頃…
 1970年6月11日 タンジール~ラバト〜カサブランカ … いろいろなものを見て頭がまとまらない。箇条書きにする。赤茶けた荒野、頭からスッポリとフードを被ったモロッコの男。何頭もの羊をモロッコ人たちが追ってゆく。どこまでも続く赤い荒野。道端にラクダが二頭寝そべっている。気の遠くなるような青い海。…白い家の壁と抜けるような青い空のコントラスト。北大西洋がまるで自分で光を出しているようだ。… (from diary)

 その時の鮮烈な海の光景が今でも頭の中に残っている。結局、その時はカサブランカまで行ってどうしても引き返さなければならない事情があってスペインに戻ってしまった。そして翌年の冬もカサブランカの先には行けなかった。ぼくが見たかったのはその先のカナリア諸島の青い海。それが今でも心に引っかかっている落し物かもしれない。もう、とりに行く時間は残されていないと思うけど…。




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荒川土手 [下町の時間]

荒川土手


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 以前撮った写真を見ていたら、そう言えばここのところ昔住んでいた千住あたりに暫く行ってないなと思った。この写真は数年前の夏の終わり、まだ母が定期的にリハビリ病院に長期入院していた頃撮ったものだ。その日もいつものように病院に行ったのだけれど、母のリハビリが始まったばかりでまだ時間がかかるということだったので病院の近くの荒川土手まで行って時間をつぶすことにした。

 土手の上は晩夏とはいえ日差しの力はまだ十分夏の厳しさを残している光にあふれていた。河原のグラウンドでは少年サッカークラブの練習だろうか、少年たちの甲高い声が土手の上まで響いてくる。少年たちの父兄と思われるギャラリーが数名。むせ返るような草いきれとじりじりと照りつける太陽。こんな感覚を子供の頃、何度も何度もこの土手で味わったことを想い出した。




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 母の入院していた病院のある柳原から近い土手のこの辺りは、小津安二郎の「東京物語」や青春ドラマの「金八先生」にも登場するのだけども、ぼくが子供の頃遊んでいたのはここからもう少し上流に行った新橋と西新井橋の間あたりだったのだが、友達と自転車で家から荒川土手まで競争して最後に土手をこぎあがり、自転車を草むらの上に倒しまま大の字になると眩しい太陽が気持ちよかった。

 暫くして起き上がるとすぐ目の前にはお化け煙突があった。土手の上から見下ろす千住の町並みはゴチャゴチャとして埃っぽく、でもそこから聞こえてくる街の喧騒はまるでエネルギーの塊のようだった。不思議なことにこの頃の記憶はなぜかモノクロの感じがする。この日の空のように抜けるような青い空の記憶ではない。おそらくその頃の空はそんなに青くなかったのかもしれない。お化け煙突からも毎日黒い煙が出ていたし。

 一瞬、小津安二郎が「東京物語」をカラーで撮っていたらどうなっていたのかなと考えた。小津監督のことだから画面のどこかに赤い色を潜ませたとは思うのだけど、それを引き立てるようには当時の空は青くは無かったのだろうな。この日の青空なら小津監督の好きなAgfaの色味が活かせたかもしれない。荒川土手はぼくのふるさと東京の原点みたいなものだ。今度はゆっくりと向き合いに行きたい。



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輝ける闇 [新隠居主義]

輝ける闇

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 ■ 輝ける闇

 …ある日、一人の友人に作品のテーマを説明して、もしうまくいったらこういう感覚を表現してみたいのだといった。

 何でも見えるが何にも見えないようでもある。
すべてがわかっていながら何にもわかっていないようでもある。いっさいが完備しながらすべてがまやかしのようでもある。何でもあるが何にもないようでもある。

 友人はウィスキーのグラスをおき、それはハイデッガーだといった。ハイデッガーにその観念がある。彼は現代をそういう時代だと考えた。それを「輝ける闇」と呼んでいる、と教えてくれた。…

   (「あぁ、二十五年。」開高健/潮出版社)



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 後に開高健の「闇」三部作(三作目は未完)となるその最初の作品「輝ける闇」のタイトルを決めるくだりが上のような感じで、彼はそのタイトルを梶井基次郎の使った「絢爛たる闇」という言葉とのどちらかにしようかと迷ったらしいが結局「輝ける闇」の方にしたという経緯があるらしい。

 ハイデッガーが「輝ける闇」という言葉をどういう文脈の中で使ったのか哲学に疎いぼくには分からないけど、ぼくが注目したのは開高健の言った前半の方だ。読めば読むほど、それって正にインターネットの世界のようではないか。そういう状態を「輝ける闇」と称し、それこそ今の時代がそうなのだととらえると、それはそれで今の時代を掴む一つの切り口になるかもしれないと思った。

 彼の作品「輝ける闇」自体はベトナム戦争下における私小説的な色彩のもので、ハイデッガーの「輝ける闇」とは直接関係ないと思うのだけど、彼がこの作品に取り掛かろうとした時、彼の頭に去来したカオスのようなものは正に今日的なものだったような気がする。

 日常生活で日々インターネットに接していると、ある時はそれが民主的社会の守護神にも、知恵の集合体のようにも見え、またある時には逆に軽薄さ、愚かさの集合体のようにも見える。そこに流れている情報も本当のようで、嘘のようで、嘘のような本当のようで…。不都合なことを世間の目から隠そうと思ってもウィキリークスのようにどこかしらから漏れ出して来たり、それでいてサイバー空間の背後では企業、組織や国家の作為がうごめいている胡散臭さも漂っている。

 あらゆる面で情報は出てくるが、それが真実かどうかわからないし、それを見極めるぼくらの力と意欲は逆に弱まっているかもしれない。「検索」で得たぼくらの断片的知識はぼくらの頭の中でいつか再構築され真に活きた知識になってゆくのだろうか。この輝ける闇は既にぼくらの時代をすっかり覆っているからそれを使わないから、とか関わらないから、といって頭の上を過ぎ去ってゆくものでも、昔に戻れるものでもない。

 超大国の指導者がデルファイの巫女のように、たった140文字の舌足らずなメッセージを頻繁にだし、それに人々が翻弄されている。別の場では匿名性に隠れてむき出しになった感情が噴き出す。誰もがネットに繋がった映像デバイスを持ち歩き時代の証人になってゆくが、時には映像も巧みに編集され改ざんされ流布されてゆく。きっと、ぼくら一人ひとりが今、輝ける闇の中を手探りで歩んでいるのだ。輝ける闇がその輝きを失ったとき、本当の闇が訪れる恐ろしさも感じている。




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変哲も無い日常 [新隠居主義]

変哲も無い日常


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 ツツジの季節も終わって、公園の丘は草が生い茂げり、風が吹くとそれが波のように揺れて風の通り道が見えるようだ。カメラを構えたぼくの後ろからやってきた風が、ぼくの頭を通り越して前の草むらをフーッと一吹きしたように一瞬へこませて過ぎ去ってゆく。そんな時ほんとうは草いきれもするのだろうけど…それはぼくには分からない。 何の変哲もない日常がキラキラと輝いて見えるこういう瞬間が良いなぁ。

 
ぼくは放浪癖があるのか、暫くジッとしていると何処か遠くに行きたくなる。そのくせ、旅に出るとすぐにウチに帰りたくなるという厄介な性格だ。旅に行きたいと言っても何か特別なものが見たい訳ではなくて、敢えて言えば他の日常に身を置きたいという欲望が湧いてくるのかもしれない。かと言って、今の日常が嫌だとか飽きたという訳では全然なく、それどころか何の変哲も無いありふれた今の一日をどんなにか愛おしく感じているのだけれど…。

 旅にでてもそこでゆっくり飲める飲み屋とくつろげる部屋があればそれで良いので、旅先のホテルの部屋でも何とかそこでの小さな日常を作り出そうとして、洋服や持ってきた身の回り品のしっくりくる置き場所を求めて部屋の中をウロウロしたりしている。何のことはない、オランウータンの巣作りみたいなものだ。

 でも、歳をとると段々と遠くの初めての土地に足を踏み入れるのがおっくうになって、出来れば何処か遠くの国か街に馴染みの宿と飲み屋があって、そこに行けば異なる日常のスイッチが入るなんて…不届きなことを夢見ている。沖縄はぼくにとってそういう土地になりつつある。もちろん、それは沖縄が数千円で行ける時代になったからなんだけども…。そんな足元の日常とか、もう一つの日常などと言う事を考えていたらそう言えば画家のアンドリュー・ワイエスがそうだったなぁ、と思い出した。

 ぼくはアメリカの画家アンドリュー・ワイエスの絵が大好きだ。彼の絵の特長の一つに、風景や情景などで描く対象となっている地域が極めて限定されているということがある。描く対象というよりは彼が居た場所が極めて限定的だったということ。旅行も殆どしなかった。秋から夏は自宅のあるペンシルバニア州のチャッズ・フォードという村で生活し、夏から秋にかけては別荘のあるメイン州のクッシング村に滞在した。代表作の「クリスチーナの世界」もそのような環境で描かれた。

 狭い日常の世界、地域的にも限定された極端な地方性について彼は「…このひとつの丘が私にとっては何千の丘と同じ意味を持つ。このひとつの対象の中に私は世界を見出す」と語っているし、また「…題材を変えることは私にとってそれほど重要なことではない。なぜなら、ひとつの題材からいつも新しい発見があるからだ」とも言っている。(「アンドリュー・ワイエス 創造への道程」/Bunkamura)


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 この間渋谷の東急Bunkamura Museumにアメリカの写真家ソール・ライターの写真展を見に行ってライター自身が述べた同じようなフレーズに出会った。「私が写真を撮るのは自宅の周辺だ。神秘的なことは馴染み深い場所でおきると思っている。なにも、世界の裏側まで行く必要はないんだ」(「All about Saul Leiter」/青幻舎)

 彼はファッション写真などの世界から退いた後、ずっとニューヨークの自宅周辺の写真を撮り続けた。彼の写真には何の変哲もない日常の中にきらめく愛おしいような瞬間が定着されていた。それは彼が言うまさに「神秘的なこと(mysterious things)」なのだということが抵抗なく納得できる写真の数々だった。日常を深く感じとれれば、そこには全世界を見ることと等価な世界があるのだと彼も言っているような気がする。まだ自分の中で燻ぶっている旅への誘惑に抗いつつも、ぼくも今まで以上に身近な日常の世界を深く感じ取れるようになりたいと思っている。



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無口な手 [新隠居主義]

無口な手


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 ■ 母の日の てのひらの味 塩むすび (鷹羽狩行)


 母の使っていた歳時記を読んでいたら鷹羽狩行のこんな句が出ていた。そういえばぼくも子供の時はよくおやつの代わりに母におにぎりを握ってもらった覚えがある。ウチの場合はもあったけれど、どちらかと言えば味噌のおにぎりが多かったような気がする。

 おにぎりを握るとき、母は掌に味噌を塗ってその手でシャカシャカと握っていた。母の手のひらの味はよく覚えていないけれど、その手の生き生きとした表情は子供心にもいかにも手際がよさそうで見ていて心地よかったのを覚えている。

  子供の頃の記憶にある母の手は実に雄弁だった。父の工場の手作業をテキパキと助ける傍ら、三味線を弾き日本舞踊も習っていた。父が商売を辞めてからは、母の手は日本画、油絵、木彫りそして習字にと益々雄弁になっていった。その母の手が沈黙し始めたのは数年前からだった。

  いつも書いていた俳句用の母のメモ帳の文字が乱れ出したと思ったら、やがて文字が判読できないものに変わっていった。それでも母の手は懸命に折り紙を折ろうとしていたが、ある時からそれも無理になった。そして言葉も殆ど発しなくなった母との唯一残された意思疎通の手段が手だった。

  母の調子の余程いい時は何かつぶやくが、それ以外はぼくが何か言うと分かったと言うふうに手をギュッと握りしめた。今、その母の手が本当に無口になった。ぼくが話しかけながらちょっと強く手を握りしめると、いつも握り返していたのが、返ってこない事が多くなった。

  車椅子の上で、ジッと目を瞑ったままの母の手は、辛うじて母の心に繋がっていた一本の細い糸だったのだけれども、それも今途切れようとしている。ぼくはその母の手を握りながら、その二つの手をジッと見つめて、暫くして持っていたスマホで一枚の写真を撮った。撮った写真をよく見てみたら、自分の手も母に劣らず皺だらけの手になっていた。老人が老人の手を握っていた。



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新宿 しんじゅく Shinjuku [Ansicht Tokio]

新宿 しんじゅく Shinjuku


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  人なつかしさだけが、行き場を失って空っ風のように

  渦巻いている孤独な町。

  だが、私たちにとって、新宿は、最後の町なのだ。

  ここを失なったら、もう、どこも帰る「町」はないのである。

       (寺山修司/気球乗り放浪記) 



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  新宿のことは余りよく知っている訳ではないので、偉そうなことは言えないけれど、最近の新宿は何か違うという感じがしている。中学は両国、高校の頃は本郷谷中、大学なってからも北千住上野銀座界隈が馴染みだったので、新宿はたまに行くくらいだった。それでも新宿三丁目の都電通りや花園神社の紅テントや今は高層ビル地帯になっている淀橋浄水場の記憶があれば昔の新宿を語る資格は一応あると思うんだけど…。

 歌舞伎町のコマ劇場もなくなったし、ゴールデン街は、はみ出し若者やフリーク親父たちの憩いの場からディープ感たっぷりの外国人向け観光スポット的な色彩を帯びてきたし、あの新宿西口地下広場は何の政治色もない能天気なスペースに変わってしまったこと等など。あえて言うなら牙を抜かれた虎のような…、毒を抜かれたフグのような。

 1969年の冬、数千人の若者が西口地下広場に集まってベトナム戦争反対のフォーク集会が開かれた。真冬の熱気。すぐさま政府は新宿西口地下広場は、「広場」ではなく「通路」であるから集会は許可しないと、露骨な弾圧に出た。ぼくらは日本には「広場」がないから革命が起こらないのだ、と冷笑するしかなかった。

 それから通路はホームレス達のねぐらになり、やがて忘れ去られた。でも、それでもその先に高層ビルは増え続けていった。すべてが一新されたのは、都民を睥睨する砦のようなあの都庁がやってきてからかもしれない。役人達が気持ちよく通勤できるようになのか通路が整備され、動く歩道までつくられた。確かにきれいになって、快適になって…そして、毒も熱気も、ついでに人なつかしさまで姿を消して、新宿はどこまで無機質な街になってゆくのか。



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  *もちろん、西口と東口では今でも雰囲気には大きな差があるように思いますが、それでも寺山修司の言っていたような人なつかしさは希薄になっているような気がします。と言いつつも、本当は大好きな街ではあります。今は毎週のように行っていますが、西口が多いので東口方面にもまた行くようにしたいと思っています。


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ベトナムの光 [gillman*s Lands]

ベトナムの光

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 また、匂いの話で恐縮なのだけど、通常は外国に行くと嗅覚が普段よりも敏感になるような気がする。まず、その国の飛行場に降り立つとその国独特のにおいに気が付くことがある。それはその国独特の香辛料の香りだったり、地理的に潮の香りだったり、埃や排気ガスの匂いだったりその要素は千差万別だ。

 大昔、初めて早朝のウィーンの街に入った時、独特のパンの香りがしたのが今でもはっきりと記憶に残っている。アジアの街などで市場に入った時に津波のように押し寄せてくる喧騒の音の波とあらゆるものが混じり合った強烈な匂い。聴覚と嗅覚が嫌でも覚醒せざるを得ない状況に追い込まれる。それがまた旅のだいご味でもあるのだけど…。

 ところが嗅覚を失ってからはそういう楽しみがなくなってしまった。どこへ行っても現実感がない。匂いが分からないと味の感覚も半減するから、今まで匂いが苦手で食べられなかったものでも食べられてしまう。良いような、悪いような。ビジネスなどで必要にかられてどこか他国に住まなければならないようなときには食べられないものが無いということは得なことなのだろうけれど、楽しみで旅をするにはちと味気ない。

 人間は一つの機能を失うと残った機能が先鋭化されるということがあるらしいのだけれど、ぼくの場合はまだそういう風にはなっていない、なってはいないけれど、今まで以上に光のありように敏感になっているかもしれない。というか、そういうことで現実感を補おうという意識が働き始めたのかもしれない。

 日本にいるとぼくらは光の変化の中に季節の移ろいを感じることが多いけれども、季節の変化の少ないベトナムやカンボジアでももちろん光は刻々と変わっているし、場所によっても異なっている。ホイアンの中国人の古い商家の土間に差し込む光。薄曇りのダナンビーチの朝の湿ったような空気を抜けてきた光。バッチャン村の陶器工場に差し込む光はやわらかく白い陶器の肌を包み込んでいた。ベトナムにはベトナムの光があるような気がする。これからはもっと目を凝らして光をみつめてゆかなければ…。

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