So-net無料ブログ作成
検索選択

香り無き世界 [新隠居主義]

香り無き世界
duft01rs.jpg

 ■ …味覚と嗅覚には無数の段階があります。記憶、経験、主観、偏見、演出、無数の要素によって好悪が一瞬に決定されます。 (開高健 「白いページⅡ」)



 手術から数日経って、今度は手術後のもう一つの山場である。手術の際に止血のために鼻の奥に詰められていた大量のガーゼを取り出すのだけれど、前回の手術の時はこの作業がとても辛かったのを覚えている。ピンセットでガーゼの端を挟んでもちろん少しづつ取り出すのだけれど、癒着している部分もあって何度も痛い思いをした。

 しかし、今回は休憩をはさみながら三回に分けて慎重に作業をしてくれたので恐れていたほどのことは無く一安心。ガーゼを全部取り除いた時点で医師が何やら蓋のあいたビンをぼくの鼻先に近づけて「これ匂いますか?」と聞いた。まったく何の匂いも感じられないので「いいえ、全然」というと分かりましたと言ってビンを戻して、ぼくの両方の鼻の穴に綿球を詰めた。

 「この時点で匂いが感じられることもあるので…、まぁ、一か月くらいかかることもありますから」 あれ、前は一か月から長くて三か月と言っていたような気がするんだけど。縮まったかな。医者にしてみれば、手術前に匂いはダメ元と思ってください、と保険を掛けてあるから…そう、悲壮なニュアンスは無かったけれど…。

 というわけで、手術後に高熱が続いたことはあったが何とか退院して、それでもまだ鼻の孔は綿球でふさがれている。来週外来で診てもらった時に調子が良ければ、この綿球は取れるはずだ。なにしろ鼻で呼吸できないので苦しいうえに両方の鼻の穴に白い綿球が詰まっているのが傍から見てもよくわかるので、なんか鼻血を出した小学生みたいで、みっともなくてマスクをしないと外出もできない。



 以前、匂いが全く分からない状態を「モノクロの世界のようで現実感が無い」と表現したけれど、開高健のエッセイを読んでいて嗅覚は実は好悪などの直観的できわめてパーソナルな感性を担っていることに気が付いた。視覚や聴覚は感覚器の中でも言わば、あくまでも相対的だがどちらかといえば客観的にものを捉える特質を持っている。

  それに対して味覚や嗅覚は客観的な感覚というよりどちらかといえば人間の「生理」に近いような気がする。記憶や経験や嗜好、それこそ偏見まで含めて自分の生きてきた時間枠の中で蓄積された極めてパーソナルな部分が露出してくる。視覚や聴覚には「傍観」とか「傍聴」などいわば客観的スタンスで受容することを表す言葉があるのに対し、「傍嗅」などという言葉は無い。

 それじゃあ、主に視覚と聴覚に頼っている今のような状態は、主観的でパーソナルな嗅覚や味覚に邪魔されないのでものを以前よりも客観的に捉えられているかというと、ぼくの場合客観性の方に傾くのではなくて、非現実感の方に大きく振れてしまっているようなのだ。考えてみれば通常、現実というのは誰にとっても一律に同じなわけではなくて、それは常に自己というフィルターを通しての認識なので、一種の自己フィルター装置である嗅覚がなくなれば、それにつれて現実感も無くなるのは当たり前といえば当たり前であるかもしれない。

 学問的には良くよからないけれど、ぼくらが日々体験している「現実感」というヤツは実は嗅覚や味覚というエゴがフル回転している生理的な感覚があって、その上に視覚や聴覚のより客観的な感覚が乗っかって初めてちゃんと成立するのではないかと感じている。これは旅をしてみると実によくわかる。新しい土地に着くとまず鋭敏に働き出すのは嗅覚であり、味覚である。逆に言えばこれが働かないと旅をしている実感も薄れてくるのだ。なんとか…ならないかなぁ。
Duft02rs.jpg

Jokou.jpg


 *入院中暇なのでネットで調べていたら、嗅覚はゼロになっても障害には認定されないようです。客観的な測定方法の問題もあるのかもしれないけれど、調香師やソムリエならずとも料理人や食品関係やある種の工事関係など職業自体が困難になることもあると思うんですが…。それでなくてもぼくもペンキ塗やボンベのガス漏れでも怖い思いをしたこともあります。嗅覚がゼロになるということは、単に生活が味気なくなるとか、リスクを察知しにくくなるということだけではなくて、日常生活の中で現実感をも喪失したストレスに晒されているのだということは、中々理解してもらえないようです。

  **嗅覚がゼロになると、実は味覚の方も感覚的には半分位になってしまう感じです。モノを食べ、咀嚼している時に口腔の中から鼻腔に上がって来る香りを潤沢に含んだ空気は言わば味覚の一部のようなもので、それが一切感じられないというのが味覚を鈍くする一因でもあります。



nice!(34)  コメント(8) 
共通テーマ:アート

nice! 34

コメント 8

親知らず

せっかく苦しい思いをしたので、嗅覚が戻ると良いですね。
鼻呼吸が出来ないのは不便ですが、時間の問題でしょうから楽しみに待ちましょう。
お大事になさって下さい。
by 親知らず (2016-12-17 19:25) 

coco030705

病院食、やはりおいしそうとは言えませんね。
ゆっくり養生なさってくださいませ。
by coco030705 (2016-12-17 23:40) 

ナツパパ

gillmanさんの記事を拝見して、嗅覚を改めて意識しています。
そうしてみると、生活の様々なところで、じつは嗅覚の影響を
受けているのだなあ、と自覚しました。
ぜひ、gillmanさんの嗅覚が戻りますように。
そして、カレーを存分に楽しんでくださいね。
by ナツパパ (2016-12-18 09:27) 

テリー

嗅覚が、戻るといいですね。
by テリー (2016-12-18 13:23) 

ゆきち

風邪で鼻が詰まっていると食事を味気なく感じるのを思い出しました。時とともに嗅覚が戻り、また濃厚な現実感を取り戻される日が少しでも早く来ますように。
by ゆきち (2016-12-18 21:37) 

としぽ

嗅覚が早く戻ると良いですね。
by としぽ (2016-12-18 23:46) 

fumiko

冒頭の画像で、Gillmanさんの嗅覚の状態を垣間見た思いです。
わさびを使った換気扇フィルターで嗅覚の鈍い方に匂いを感知させる話を聞いたことがありますが、
>生活が味気なくなるとか、リスクを察知しにくくなるということだけではなくて、日常生活の中で現実感をも喪失したストレスに晒されている
というGillmanさんのお言葉
仕事柄、五感、特に味覚&嗅覚あっての私なのですごくよくわかります。
by fumiko (2016-12-19 09:00) 

kuwachan

嗅覚が戻られるといいですね。そうなりますように。
私の父の場合は年齢的なものかもしれませんが
(gillmanさんのお母様とほぼ似たような年齢です)
匂いを感じなくなったと言っています。ただ食欲は旺盛です^^
by kuwachan (2016-12-19 12:30) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。