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ハノイから [gillman*s Lands]

ハノイから


 ■…ハノイに旅立つまえ、私が想像世界のなかで勝手に関連づけていたヴェトナム像は、現地にのぞんだとき、なんら現実性をもっていないことが立証されたのである、過去数年間、ヴェトナムは私の意識の内側で、“弱者”の苦難と英雄行為を示す、ひとつの典型的な像として腰を据えていたのだ。しかし、私の心にとりついていたのは、じつは“強者”アメリカ像のほうであった―アメリカ的権力、アメリカ的残忍性、アメリカ的独善の形姿であった。

 ヴェトナムに存在するものと、究極的な出会いを行うためには、私はアメリカを忘れ去らなくてはならなかった。アメリカ的感性のうまれたもとになっている総体的な西欧的感性の限界を押しやぶるべく、もっと意欲的に努力しなくてはならなかった。だのに、私はヴェトナムの現実に対して、つかのまの、しろうとじみた首のつっこみ以上のことは、なにひとつ努めたことがことがないのを、つねに自分でも知っていた。…

  (スーザン・ソンタグ 著、邦高忠二訳 「ハノイで考えたこと」/晶文社1969年)



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  ハノイは夜がきれいだ。でも決して美しいというわけではない。夜になるとヤシの木の街路樹にらせん状に巻きつけられたLEDのライトや、広いアベニューにゲートのように設けられた色とりどりの何だかけばけばしいまでのイルミネーションなどが街の埃(ホコリ)で煤けた部分を隠してくれるからかもしれない。でも、そのちょっと虚勢を張ったようなこの街の夜の独特なきれいさは嫌いではない。東京に帰ったら真っ先に思い出すのは、この夜の光景だと思う。

 ヴェトナムはぼくにとってもう長いこと来たくもあり、同時に来たくもない国だった。ハノイという街の名前をきくとぼくが今思い起こすのはスーザン・ソンタグの「ハノイで考えたこと」(Trip to Hanoi)そして沢木耕太郎の「一号線を北上せよ」だ。ソンタグが北ベトナムの招待でハノイを訪れたのが1960年代末でそれが彼女のその後の思考にも大きな影響を与えているような気もする。


 ソンタグが1960、70年代のヴェトナムを手繰り寄せる記憶だとしたら、沢木耕太郎は1970、80年代のそれかもしれない。いずれにしてもぼくがそれらの本を目にしたのはもっと後のことで、それまでのぼくにとってのヴェトナムは当時毎日のように報道されるハノイ・ハイフォンの「北爆」やテト攻勢そしてフエ・ダナンの攻防戦などであった。平凡な学生であったぼくは従順な日本のマスコミと同様に多分にアメリカ的視点で、かの地を見ていたはずだった。

 ぼくの中でその井の中の蛙的な安寧が突き崩されたのは、隠れるようにして読んだヴェトナムにおけるアメリカの戦争犯罪的行為を糾弾した一冊のマイナーな本だったのだけれど、そこら辺は別の機会に述べるとして、それがぼくが日本を出る一つの大きなきっかけになったことだけは確かなことだった。ぼくが当時のソ連のナホトカからモロッコのカサブランカまで旅した少し後に沢木耕太郎がインドのデリーからロンドンまで旅行したのを知ったのはずっと後になってからのことだった。沢木耕太郎はぼくと同い年だから、当時彼がヴェトナムに対して描いていた姿と得ていた情報はぼくとそんなに変わらないものだったかもしれない。

  話はそれたけれど、それ以来ヴェトナムはぼくの胸に刺さった棘のような存在だった。しかし、時代は大きく変わって、今やぼくのいっている日本語学校でも大勢のヴェトナムからの留学生がいる。彼らからも話を聞く機会が多くなったし、逆に彼らの話を聞くたびに自分の中のヴェトナムとの乖離が大きくなってゆこくとに戸惑ってもいた。

 そんな時にカミさんがヴェトナムとカンボジアに行こうと言ってくれたので、その尻馬に乗ったようなものだ。ルートはハノイに入ってハイフォンを抜け、ハロンを回り、一旦カンボジアシェムリアップに入りそれからヴェトナム中部のダナンホイアンフエを回る。もちろん昔のようにベンチで一夜を明かすようなこともないお気楽な観光旅行だが、自分の歳と体力を考えればそれが順当でもあるし、限界でもあるのかもしれない。

 実際に旅してみるとソンタグのようにきっぱりと固定観念を捨て去るわけにはいかないけれど、ここを旅すると、もう久しく忘れかけている「生活」という言葉が身近に迫ってくる。それは稼ぐとか、働くとかいう意味だけではなく、生きることそのものに直結した言葉としての「生活」だ。それはある意味人間の強さの表現でもあるような気がした。今、いろいろな光景がぼくの脳裏に残っている。


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 ■…ヴェトナムには、ホーチミンからハノイまで、基幹道路というべき国道一号線が通っている。かって、ヴェトナム戦争の激しい時期には、新聞にこの道路のことが出ていない日はなかった。アメリカ軍の輸送用トラックが一号線でヴェトナム解放戦線に襲撃された。あるいは、アメリカは一号線を空爆することによって「北」からの補給路を断つ作戦にでた、などという具合に。
ホーチミンからハノイまでの距離は約千八百キロ。日本列島に置き換えると、本州の端から端、青森から門司くらいまでということになる。…


  (沢木耕太郎著「一号線を北上せよ」/講談社)

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[Photos]
・ホイアンのランタン売り屋
・結婚式を控えた?カップル(ホイアン)
・ハノイのタンロン城で記念撮影をするアオザイ姿の学生たち
・ホイアンの夜道
・街の床屋さん(ホイアン)
・フエの王宮の伝統舞踊ニューニャック




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突然の別れ [猫と暮らせば]

突然の別れ


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  昨年の暮れくらいから、嗅覚を失ったことや母の事で気落ちした状態が続いてそれが身体にも響いているのか今ひとつ体調がすぐれない。そんな時に以前から予定していた旅行に思い切って出かけたのは良かった。

 暖かい国で東京の長引く寒さを避けられたのもありがたかったけど、何より一時花粉から逃れられたのも良かった。今度の旅行では色々と考えることもあったし、久しぶりのアジアに触れてエネルギーをもらえた様な気にもなった。

 旅の日程もあっという間に終わって、東京に帰る飛行機をハノイの空港で待っている間に留守番の者からメールをもらった。普通は余程の事がない限り旅行先にはメールはよこさないのだけれど…。メールには羽田に着いたら直ぐ連絡を下さいとあった。そういうメールがなくても、羽田に着けばいつも直ぐに連絡を入れているんだけど…、と訝った。その時は乗り継ぎ便の接続が余り良くなく空港で数時間の待ち合わせをしなければならなかった。

 高齢の年寄りを抱えている事もあって、飛行機を待っている間にも何があったんだろうかとどんどん気になって来て、あと数時間で羽田に戻るのだけど結局メールで問い合わせてしまった。帰ってきたメールはクロが今朝死んだ、というものだった。詳細は帰ってから聞くと答えたけれど、家に着くまで気持ちは虚ろだった。

 その日の深夜になってやっと家に着くと居間のソファーの上にタオルにくるまれてクロが横たわっていた。まるで眠っているようだった。でも身体に触るとひんやりと冷たいので生命の火はもう灯ってはいないことがわかった。何度もクロの身体を撫ぜてあげながら「あと、一日だったのにねぇ」と呟いた。

 クロは突然死だった。その朝も元気に窓辺で日向ぼっこしていたのに、暫くして階下の居間に下りて行ってそこで倒れたらしい。以前飼っていたタマの場合と同じだった。18歳のタマはカミさんの膝の上で寝ている時いきなり全身を硬直させてクーッと呻いたきり逝ってしまった。ほんの数十秒のことだった。

 苦しんだ様子もなく、あっという間の出来事だった。眠るようなクロの表情を見ると、きっとクロもそんな風だったのかもしれないと思った。傍に居て看取ることはできなかったけれど、苦しまなかったようだったのがせめてもの救いだった。

 飛行機が羽田に着くまで、ずっと色々なことを考えていた。もしかしたら夜が寒かったのかとか、モモとケンカしたのかとか、苦しんだのか、とか…。でもクロの最期の様子を聞いて少し心の重荷がおりた。これからはクロと過ごした時間をゆっくりと噛みしめたいと思っている。

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 *クロは12歳でした。捨てられた子猫で雨のなか家の前で倒れていたのを母が見つけて飼いだしました。その時の模様を書きだしたのがこのブログを始める一つの契機ともなりました。そういう意味ではこのブログもクロの贈り物です。

**昨日、ペットの葬儀社さんにクロの火葬と埋葬をお願いしました。またこちらも歳をとってきているので、これを機会に我が家に安置してあったタマチャー先代レオのお骨をクロと一緒に埋葬のお願いをしました。


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無香生活宣言 [新隠居主義]

無香生活宣言

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 結局、嗅覚は戻ってこなかった。今もゼロである。昨日は手術後三か月で術後の最終診察日だったのだが、三か月たっても嗅覚が戻っていないということで、医者にこれ以上の改善は期待薄だと言われた。どうやら嗅覚の神経自体がダメになっているらしい。

 嗅覚は大事な五感の一つなのだけれど、嗅覚が全くのゼロになっても障害とは見なされないということだった。それは一つには嗅覚能力の厳密な測定法が無いのも一つかもしれないが、ソムリエや調理師や調香師でもない限り社会生活にさして支障はないだろうという位の世間の認識もあるのかも知れない。

 だが、ちょっと考えれば、以前ぼくも部屋の壁のペンキを塗っていて危なく倒れそうになったけど、シンナーや強い揮発性の匂いも分からないので昏倒リスクが高まることくらいは想像できるし、火事の初期段階のきな臭い匂いや、ガス漏れだって感知できない。もちろんこれらの生活上のリスク対応能力が低下することは由々しきことなんだけれども、実は匂いが無くなることによる本当のダメージは長い時間の中でボディブローのように効いてくるのだ。

 前にも書いたことがあるけど、匂いが全く無い世界というのは一言でいえばモノクロ映画を観ているようで現実感に乏しい。変な例えだけれど、テレビでやっているサスペンス・ドラマか何かで殺人事件のシーンがあって死後何日もたった被害者が見つかる。本当ならばその付近は腐乱死体の腐敗臭が立ち込めていて、現実には居たたまれない状況のはずだが、テレビを見ているぼくらは他人事のようにストーリーの展開の方に関心を向けることができる。それは匂いを抜くことによって現実感が薄まってゆく一つの例だ。匂いのない日常というのは要はそういうことなのだ。

 匂いが無いと毎日がどことなくうわついた、現実感を欠く浮遊感の中で過ぎてゆく。そのうち本当に奪われたのは匂いではなく、人生を噛みしめる貴重な瞬間、時間であったことに気が付く。全ての時間の質が変わってしまったことに気が付く。無くしたのは、ゆっくりとコーヒーやお茶を飲みながら本を読む時間であり、妻とバカを言いながらテレビを見つつワインを飲む時間であり、干した布団の陽の香りを胸いっぱい吸いこみそれに包まれて眠るという…。失ったのは上質な時間。

 昨日、もしかして、と言うはかない望みも絶たれて、言わば医者に「無香生活宣言」をされたようなものだ。でも、それで少しは踏ん切りがついたような気がする。まぁ泣き言は今日のこれ位にして、無くしたものを嘆き続けるより、残ったものに感謝してそれを磨き上げて、香り無き日常の楽しみ方を自分なりに探究してゆこうと思っている。それに良いことだって一つはある。匂いが分からなくなって猫のトイレを掃除するのが苦にならなくなったことだ。

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*最近テレビのコマーシャルを観ていると、
実に香りに関する事項が多いことに気が付きます。
印象としてはざっくり言って3割くらいは
香りに関するメッセージが入っているような…。
食べ物や化粧品の宣伝はもちろん
洗剤、芳香剤などの良い香りを売りにしているもの
また逆に匂いを取り去る消臭剤など等。
匂いが分からなくなると、実は世の中は
様々な匂いに囲まれていることがかえってよくわかります。


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小さくなる背中 [新隠居主義]

小さくなる背中

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  …老いるってことは病(やまい)るってことと同じ。
 だけど、それは闘うんではなくて、猫とつきあうように、病とか老いに静かに寄り添ってやるもんだと思うんだよね。一緒に連れ添っていくというか。

 よく、頑張んなきゃとか、しっかり生きなきゃとかいうけど、頑張んなくてもいい、寄り添っていけば。力まずに、それも自分だという風に生きていくと、すっと楽になる。そんなこと思ったの、つい三、四日前なんだけどね。(笑)…

  (緒形拳「私と猫」)



 母はこの2月で97歳になった。それまでは比較的しっかりしていたんだけれども、昨年の夏の終わりころから急激に認知症の症状が顕著になり年末の介護認定の更新では要介護4ということになった。

 母が認知症と診断されたのはもう十年くらい前になるが、その時に当時通っていた大学院の精神医療の授業で教わっていた医師にそのことを相談したら、認知症を治す薬も予防する薬もまだないが、唯一症状の悪化を緩やかにする薬があるので服用した方が良いというアドバイスをもらった。

 かかりつけの精神科医に処方してもらって、幸いその薬が母にあったのか副作用はみられなかったので(叔母は一度その薬を試したがむくみの副作用がひどく止めたのだということを聞いていたので心配だったが…)以来ずっと続けていた。そのお蔭かその時々で状態に波はあるものの何とかやってこられた。もちろんその間にも、この前まではアレはできたのに最近は出来なくなったなどというものが徐々に増えていった。最初に俳句ができなくなって、それから新聞が読めなくなって、とうとう字を書いたりメモもとれなくなった。

 今は調子がいい時はぼくやカミさんのことは分かるけれど、そうでない時は話しかけても中々反応しなくなった。車椅子の生活なので足のむくみが気になってマッサージしてあげるのだけれどいつもの「ああ~、いい気持ち」という声も聞かれなくなったし、頸のマッサージをするために後ろに回るとほんとに背中が小さくなった。

 ここのところ二、三日日差しの暖かい日が続いたので近くのお寺に散歩につれて行ったのだけれど、周りに関心がなく早く帰りたがるようになった。以前は口癖のようだった、どこが痛いとかもう生きてるのが嫌になったとかは言わなくなったけれど、そうなると、そんな泣き言、繰り言でもいいから言ってもらいたいという気にもなってくる。車いすを押しながら、これから益々母の背中は小さくなっていくんだろうなぁと想った。気が付けば自分ももう身体の無理の利かない老いの中にいる。今は寄り添うことくらいしかやってやれない。

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