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驛 Station [Ansicht Tokio]

驛 Station

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 ■…季子(すゑこ)は今夜初てこゝに來たのではない。この夏、姉の家の厄介になり初めてから折々憂欝になる時、ふらりと外に出て、蟇口に金さへあれば映畫館に入つたり、闇市をぶらついて立喰ひをしたり、そして省線の驛はこの市川ばかりでなく、一ツ先の元八幡驛の待合所にも入つて休むことがあつた。

その度々、別に氣をつけて見るわけでもないが、この邊の町には新婚の人が多いせいでもあるのか、夕方から夜にかけて、勤先から歸つて來る夫を出迎へる奧樣。また女の歸つて來るのを待合す男の多いことにも心づいてゐた。季子はもう十七になつてゐるが、然し戀愛の經驗は一度もした事がないので、さほど羨しいとも厭(いや)らしいとも思つたことはない。

唯腰をかけてゐる間、あたりには何一ツ見るものがない爲、遣場のない眼をさう云ふ人達の方へ向けるといふまでの事で、心の中では現在世話になつてゐる姉の家のことしか考へてゐない。姉の家にはゐたくない。どこか外に身を置くところはないものかと、さし當り目當めあてのつかない事ばかり考へつゞけてゐるのである。…
 (『或夜』永井荷風)



 ぼくは人混みというか雑踏が余り好きではない。尤も人混みが大好きなどというのはスリか痴漢くらいのもので大抵の人は好きではないと思うけど…。 会社を卒業してからは幸いにして休日混みそうな処は平日の昼間に行けるので、そう頻繁には人混みに出くわさないのでその点はありがたい。

 そんなぼくでも雑踏を有難いと思う、もしくは雑踏に癒されるということが稀にある、というよりはあったと言った方が好いかもしれない。それは駅の雑踏なのだけれど、もちろんいつでもと言うわけではない。今は余りないけど、会社にいる頃には年に何度か雑踏を求めて駅に行ったことがある。そんな時の駅は大抵、上野駅か東京駅のような大きなターミナル駅であることが多い。その頃は新宿や渋谷にはあまり縁が無かったからやはり上野か東京駅だったと思う。

 駅の雑踏に完全に紛れ込むのではなくて、そこからちょっと離れて雑踏を見つめることができる場所が好い。例えば駅構内のカフェとかコンコースを見下ろせる吹き抜けのベンチのような場所。今は変わってしまったけれど上野駅や東京駅にはそんな格好の場所が何箇所かあった。それはどう表現したら好いのか…、例えば「雑踏の中の居心地の好い孤独」のようなものをいつでも保証してくれるような処。

 そこは自然に囲まれた野原のように静寂でも、離れ小島の海岸のように心地よい波の音があるわけでもないけれど、雑踏の不規則な雑音が却って集中力と不思議な安堵感を与えてくれるような気がするのだ。そこに暫くいると行き詰った日常から、少しづつだが心が解放され遊離してゆくように感じられる。まず、そこが好い、これはもちろんぼくの場合だけど…。

 そこで時間が経って少し心が落ち着いてくると、やがて雑踏の細部に目が行くようになる。ひたすら先を急ぐ人。待ち合わせをしているらしい人。何回も頭を下げながら懸命に携帯でずっと話している人など等。目の前の群れの「塊」として目に映っていた雑踏が、次第に心の中で分解されて自分と等価な個別の存在へと変質してゆく。「あの人も結構大変そうだなぁ」

 そこにはこれから旅行に出かける楽しそうなグループだっている。ターミナルは遠く離れた土地と都会を結びつけるノード(結節点)でもあるのだ。それはぼくに自分の日常の外側にもっと広い世界があることを強く示唆してくれる。日常の枠の中でガチガチに固まった心が少し軟化するような気になる。

 でも、それでいきなり何かが解決するわけではない。それは言って見れば心の準備運動みたいなものなのだ。此処からはまた自分の世界に戻ってゆかねばならない。今度は雑踏の中の心地よい孤独感が集中力を高めてくれる。少しタガの緩んだ心はその集中力の助けを借りて何かを見つけ出す…かも知れない。

 もちろん、いつも何かが見つかるわけではない。大抵は目の前に広げた手帳のメモ欄が白いままその場を後にすることになるのだけれど、それでも心の状態は来る前とは確実に変化しているような気はするのだ。

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 *上野駅も東京駅もここ十年たらずの間に大きく変わりました。昔よく訪れたポイントもその殆どが変わってしまいました。一方、新しくできたポイントも多くそれを探して回るのもまた新たな楽しみです。

 先年修復が終わった東京駅にはドームも蘇ってきました。ドームは丸の内側の北と南にあり、南側は東京ステーション・ホテルから、そして北側はステーション・ギャラリーを通ってドーム内を一周する回廊に入ることが出来ます。

 ぼくはこの北側のドームの回廊から駅の雑踏を見渡すのが好きです。ステーション・ギャラリーの展覧会に行った際には必ず寄っては、つい時間を忘れて眺めいってしまいます。

 ドームの回廊から下を飽きずに眺めていると、その中央にダークスーツの一団がやって来て、誰かを待っている様子。その内その待っている相手が来たらしく、丸天井の真下で名刺交換が始まりました。なんか厳かな儀式みたいに…フフ。ぼくも、ああだったんだろうなぁ。



 


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雑踏の力 [Ansicht Tokio]

雑踏の力


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 また嗅覚がゼロになってしまった。この前ちょっと鼻風邪をひいたみたいなので、その影響もあるかもしれないけど。先々月耳鼻科の医者に行った時、再手術するほどではないけど再発していると言われたのが気になっている。午前中に大井町の病院に行ってそのまま帰るのも何なんで、渋谷に出て新しくできた(と言ってももうずいぶん前になるけど)Hikarieで行われている写真展に行った。

 Hikarieで写真展を見てから渋谷に来たついでだからBunkamura Musiumのボッティチェリ展もまた見てゆこう。また、と言うのはこの間カミさんと来て観たばかりなんだけど、その後招待券を貰ったのでもう一度観ても好いなと思っていたところなのだ。

 ハチ公側に行くと、スクランブル交差点は平日の昼間だというのに大変な人。ここは今では外国人観光客の訪れる定番の場所になっているらしい。そう言えばここは映画のバイオハザードにも出てきたな。実際はカナダでセット撮影したらしいんだけど、雨のスクランブル交差点はとても印象的なシーンだった。後で知ったんだけどあの日本人ゾンビ一号は中島美嘉だったらしい。

 渋谷駅の二階のコンコースからスクランブル交差点を見下ろす。信号が青になると人々がアリの群れみたいに動き出す。小さなポケットデジカメしか持っていなかったのだけど、見ていてあんまり面白いので撮る。此処から見るとただの雑踏だけど、でもその雑踏の力みたいなのがここにも伝わってくる。

 スクランブル交差点の面白いところは、その雑踏が信号が青になるのを合図に拡散しながら各々の目的地に向かって、しかも互いに衝突しないで、しかもしかも信号が赤になる頃にはちゃんとわたり切って交差点の道路上には人が居なくなると言うことなんだな。無秩序めいた秩序。群れの究極形なのかな。

 ぼんやりと観ていると、それは雑踏であり或る種の群れなんだけれども、本当は一人ひとりが名前もあって自分の人生を背負っている言わば等価な存在の集まりなのだ。雑踏の力はそこから生まれ出ている。アンドレアス・グルスキーの写真みたいに群れであり、個である雑踏をイメージとして等価で捉えることが出来たら好いだろうなぁ。そんなことは、もちろんぼくなんかには到底無理なんだけども…。

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 *東急のBunkamura Musiumに行くために実際にスクランブル交差点を渡ってゆくと、その群れの中に外国人の多いこと。スマホで自撮りしながらわたる白人の女性、自撮り棒を掲げて撮りながらわたるアジア系のグループ。どこかの国のテレビのクルーらしい一団もいました。霊力のパワーじゃなくて、エネルギーに溢れているパワースポットという感じ。

 なんか、お祭りみたいでした。赤信号になる直前でわたりきって歓声を上げている若者もいたりして…。威勢は良いけど、なんだか疲れます。さっき、Hikarieから渋谷駅にもどる時、やっぱり雑踏の中を連絡通路を歩いていてふと見ると若者が二人雑踏を離れてガラス窓の向こうを見ていた。なんだか少しホッとして、自分も立ち止まってパチリ、でした。


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Tokyo Metropolitan Government Tower [Ansicht Tokio]

Tokyo Metropolitan Government Tower

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 最近になって隔週で東京都庁の近くまで行く用ができて、またよく行くようになったのだけど、都庁舎のあのビルが視界に入るとなんだかおちつかない。人を威圧するようで、前を通るたびに「おい、そんなに威張らなくたって好いじゃねぇか」とぼくは心の中で呟いている。

 前々からなんか不気味だなぁと思っていたんだけど、前もそういう雰囲気の建物を大昔のフリッツ・ラング監督の映画「Metropolice(メトロポリス)」の中で見たような気になった。不気味な摩天楼。

 自分の撮る腕の無さを棚に上げて言うなら、被写体としては面白いかもしれないけど、どう撮っても優しくは撮れないなぁ。あそこの中で働いている人たちが、都民のためのパブリックサーバントとして汗水たらして一生懸命やってくれている建物なんだという気持ちにはどうしてもなれない。

 どうしたって「メトロポリス」に出てきたように踏ん反り返った資本家や役人たちが世の中を、そして庶民を睥睨しているようにしか見えないのだ。司令塔のようにそびえ立つ摩天楼は利権に群がるアリ達をひきつけている巨大なアリ塚のように見える。で、そこに君臨していたあの都知事の姿がダブると、これはもう…。都庁舎は英語でTokyo Metropolitan Government Towerと言うらしいから、やっぱりメトロポリスの塔なんだ。

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*写真の被写体としては嫌いではないですが、
メンテナンスや使いやすさを無視した設計で、
雨漏りや老朽化対策などで最大1000億円近くも
かかると聞くと、税金をとられる方としては
腹立たしい思いがしますねぇ。

Metropolis





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Ginza,Ginza [Ansicht Tokio]

Ginza,Ginza

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 十二月に入ると届きはじめる賀状欠礼の葉書が昔よりは段々と増えているような気がした。それは歳から言ってもぼくの知人もそれ相応の年齢になっているから身内の訃報も増えてもおかしくはないのだが…。

 考えてみたらなんか去年もそうだったような気がするのだけども、それに加えて正月を過ぎてから知人本人が亡くなったと言う葉書が遺された人から來るようになった。今年も大学時代に仲の良かった友達が年末に亡くなったと奥さんから葉書が来た。

 彼とは大学時代は毎日のように会っていたけど、卒業して仕事に就いてからは忙しさにかまけて中々合うことが出来なかった。数年前に、ほんとうに久しぶりに会って昔二人でよく飲み歩いた神楽坂の飲み屋で一緒に飲んだのが最後だった。

 今日、検査で大井町の病院に行った帰りに銀座の鳩居堂(きゅうきょどう)に寄って、その友人宅に手向けの線香を送る手配をした。その中に友人の奥さん宛に昨晩書いた手紙を入れてもらった。用を済ませて鳩居堂を出てもそのまま家に帰る気がしなくて、ちょっと街をぶらつくことにした。


 銀座六丁目は松坂屋の跡が再開発で工事中なので、工事現場になっている。Nikonギャラリーの前も工事のフェンスで囲まれていた。冬にしては強すぎるくらいの直射日光がビルの谷間からスポットライトのようにフェンスにあたっている。

 都会の中に突然出現した舞台のようで見ていたら写真を撮りたくなったけど小さなコンパクト・デジカメしか持っていなかった。それでも好いと思って結局三十分位通りに立って撮りながらその舞台上で繰り広げられるシーンを見ていた。

 光線の加減で影が二重になったり、ちょっとE・ホッパーの絵に出てくるニューヨークのシーンの様だったり。影と実体の関係が、寄り添うように見える時も、後を追いかけるように見える時や角度によっては手を繋いでいるようにも見える時もあって、いつまで見ていても飽きない。

 寂しそうな人の影はもっと寂しそうだし、はつらつと闊歩するエネルギッシュな人は、影の方が遅れまいと慌てて後からついて行っているように見える。影は実体の性格を虫メガネのように拡大するものなのかも知れない。暫くすると、さすがに通りかかる人がぼくをいぶかしげに見るようになったので止めたけれど…。

 病院の後、銀座に着いたとき重くのしかかっていた気持ちが少し和らいだ。何があっても街は動いているし、人も生きている。そしてまだ自分も生きている。街は時には人を拒絶し孤独に引きずり込むこともあるけど、逆に勇気づけることもある。今日は後者の方かも知れない。


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 *ここ数年で銀座はすっかり変わってしまった感がありますが、ここにきて銀座六丁目の再開発や阪急百貨店跡地などまた大きく変わりそうです。松坂屋の跡地には観光バスの大規模なバスターミナルを供えた地上十三階の建物が出来るようです。

 ぼく自身は銀座が高級ブランドばかりのよそよそしい街になってしまったようで、忌々しい気持を持っていました。子供の頃から憧れていた粋な大人の街から、キンキラの成金趣味の街に…。でも、考えてみれば銀座とて生きている街ですから変化し移り変わってこそ生きていると言えるのかもしれません。これからも銀座の変化を楽しむ気持ちで見続けようと思っています。

 there were also...
 銀座の猫
 たそがれの銀座
  銀座よ
 こどもたち



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晩秋の彩 [Ansicht Tokio]

晩秋の彩

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  昨日久しぶりにいつものオジサン三人で写真を撮りに行った。最初は神楽坂に行った。神楽坂はぼくが大学生の頃友達が小石川に住んでいたので良く遊びに行ったし、そこにあった映画館の佳作座は当時昔の名画が観られたので随分と通った記憶がある。

 十年くらい前に一度その友達と神楽坂で飲んだけれど、それ以来きていなかった。今回は裏路地を撮りたいということで散々徘徊したけれど、どれもモノにならずぼくのは全滅。結局、神社の前の鳥茶屋でうどんすきを食して早々と次の拠点に…。

 次に来たのは神楽坂から歩いてそう遠くないところにある小石川後楽園。ここは水戸様の上屋敷内にあった庭園で、岡山の後楽園と区別するために小石川後楽園と呼んでいる。岡山の後楽園も行ったことがあるけど、向こうは背後の山を借景にするなど壮大な庭だが、ちょっと散策するにはこちらの後楽園の方があっていると思う。先日中国から留学して今大学で都市環境を学んでいる女性に、都会の中の日本庭園を見たいと言う話があった時にもここと清澄庭園、安田庭園等を紹介した。

 時期的には紅葉の時期も終わって、庭園の池もシーズンオフの修繕に入っていたし、庭園には人の姿もまばらだったが、派手な紅葉の最盛期の時とはまた違った趣があったように思う。木々には所々それでもしがみつくようにして派手な黄色や紅の葉も残ってはいたけれど、やはり美しい場面は地面や落葉が漂う水面に移っていた。




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 小石川後楽園は回遊式日本庭園だから、広さの割に見どころは多い。同じ池もアングルが変わるとまるで違う景色に見えて來るのだ。その視点の変化は清澄庭園よりもこちらの方があるような気がする。歩きながら池につながる小川の水面を見た時に、あっPLフィルター持って来ればよかった、とまた準備不足の後悔。と言っても、今までも殆ど使ったことは無かったのだけれど…。でも水面に漂う流れ星の群れのような紅葉の葉は魅力的だなぁ。残念。

 というわけで、PLフィルターなしで、逆に水面の反射をハーフミラー的に使える場所と薄暗く漆黒にちかい水面を探してうろうろ彷徨った。結局そうそう都合良い場所は無い訳で、適当なところで妥協、というよりは自分の能力として妥協せざるを得なかった。

 とはいえ、何よりの収穫はこの時期、晩秋というよりは既に冬の入口にも実に微妙で味わい深い彩の世界がある、ということに気付いたことだ。初秋の満艦飾の色づいた木々が、夏が去った寂しさを忘れさせるためのものだとすれば、この晩秋の渋い色は、これから冬を迎える覚悟みたいなことを迫っているのかもしれない。



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 *写真をやっていると、季節が巡ってくるごとに、ひとつ今まで気が付かなかった季節の佇まいに目がゆくというのが嬉しいですね。

 最後は新橋のガード下の店で反省会。と言っても一向に反省の弁は無かったですが、写真に限らずあ~だ、こ~だと騒いでいるのが何より楽しいひと時でした。



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(cam:NEX-7/TX-30)

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復元… [Ansicht Tokio]

復元…

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 先週は珍しく週に二回も丸の内界隈を散策した。10月の東京駅舎の復元完成を控えて東京駅の丸の内側は結構な人出でにぎわっていた。特に東京駅を見に行ったわけではないけれど工事の足場が取り除かれて駅舎の全体像が現れるとその姿はいやでも人目を引くことは間違いがない。

 最初は東京駅の「復元(復原とも)」ということがピンとこなかったけれど、JRが今回の復元を「完全復原」と言っているように戦争で破壊されていた東京駅舎は戦後すぐに急ピッチで復旧されていた。ただ戦後すぐということもあって、東京駅の威容を印象付けていた左右のドームを持つ部分は本来の3階建てではなく2階建てとして再建されたらしい。

 その部分が今回本来の3階建てに復元されたということだ。急作りの2階建てでの復旧とは言え戦後直ぐに駅舎を復元させたのは凄いと思う。如何に当時の国鉄マン達が鉄道の顔としての東京駅舎にこだわっていたかを感じさせる。

 この東京駅舎のように先の戦争で破壊された建築物を復元したのを、今年久かたぶりに訪れたドイツの街でも見ることができた。代表的な例で言えば、ローテンブルクの街並みベルリンのクーダム広場のヴィルヘルム教会そしてドレスデンフラウエン教会などだけれど、復元の仕方はそれぞれ微妙に異なる。

 ローテンブルクには中世の街並みが今もそっくり残っている。観光客は中世の別世界に飛び込んだようにその美しさに目を見張っているが、その多くは第二次世界大戦の爆撃で破壊されその後再建されたものだ。ローテンブルクの街並みはまるでそんなことなどなかったように中世のままの姿で建っている。ローテンブルクは観光地だからそのことについては声高には言わない。でも、もちろんよく見れば街を囲む城壁の壁に復元に資力を投じた人々のプレートが並んでいる。

 ベルリンのクーダムのヴィルヘルム教会は復元というよりは保存と言った方が良いかもしれない。東京でいえば銀座の四丁目のところに爆撃で破壊されたままの屋根を持つ悲壮な教会が建っている。広島の原爆ドームと類似しているかもしれないけれど、もっと町なかにあるということではそのインパクトは強い。

 ドレスデンは第二次世界大戦中に街が爆撃で徹底的に破壊し尽くされた都市として東京と並んで世界に知られている。破壊され尽くした瓦礫の中からドレスデンの旧市街はまた昔の姿で建ち上がった。その象徴としてフラウエン教会は長い年月をかけて瓦礫の一つひとつを拾い集めてそれをジグソーパズルのように組み上げて復元された。今、広場の真ん中に建っている教会の壁を見ればどの部分が残された瓦礫の石で、どの部分が新たに調達された石で出来ているかが一目瞭然で分かる。焼け焦げた石と新たな石では色が異なるからだ。歴史は形として残す必要もあると彼らは考えている。

 ドイツの街には至る所に歴史のモニュメントがある。それに街自体が石でできている石の文化だから街が歴史を覚えている。形が残れば語り継がれて行く機会が増えてゆくに違いない。それに対して日本の街は木で出来ていたから破壊も容易だけれど復興も速いかもしれない。しかし街も人もすぐに歴史を忘れてゆく。

 あれほど悲惨だった東京の大空襲だって形としては僅かに上野や両国辺りに記憶の断片があるだけだ。そんな中では東京駅舎は戦争の貴重な石の記憶だったに違いない。3階建てだった駅舎がなぜ2階建てになってしまったのか。そして戦争で東京駅舎が破壊された時、誰が死んだのか。それはどのようにして破壊されたのか。もう誰も語ろうとしないのか。

 もちろんぼくは今回の東京駅舎の完全復原に反対ではないし、それが今のぼくらに元気を与えてくれることも確かだ。でも、今の丸の内界隈の騒ぎやテレビのCMを見ていると、なぜぼくらが東京駅舎を「復原」しなければならなくなったかという戦争の記憶がまるで飛んでしまっているような気がする。まるで何処かの商店街の大売り出しのイヴェントのようだ… 今、また世界がきな臭くなっている。東京駅舎の完全復原、それは戦争という過去を忘れるための復元なのか、それとも語り継ぐための復元なのか、立ち止まって考えてみる必要があると思う。

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 *都市が巨大な記憶装置であると言ったのは、ドイツ文学者の池内紀氏だったと思うんですが、西欧では街を歩くと無数の名前が呼びかけてくると言います。広場や通りや公園にも土地に縁の人々の名前を付けたり、モニュメントがあって人や事件を記憶にとどめようとしている、というような内容のことを彼はエッセイに書いていました。

 このように都市の歴史の記憶装置としての役割は何も石の文化でなくともできることはあるんですが、日本では例えば東京の「黒門町」という古典落語にもよく登場する由緒ある地名さえ、いとも簡単に「上野一丁目」などというなんとも素っ気ない地名に変えられてしまう。あたかも全てを忘れてしまいたいかのように…

 **今、テレビで流されている東京駅復元CMのイッセー尾形さんのナレーションはとても落ち着いていていいと思います。「いままでの100年、これからの100年…失われた部分を取り戻す」という短いナレーションですが、60秒の「歴史篇」では「…戦争で形を変えていた丸の内駅舎が誕生した時の姿で蘇ります…」というきちんとした表現になっています。これを機会にもう少しあの時代のことを知るようになれば、これからの100年ももっと良くなると思います。

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Almost Autumn [Ansicht Tokio]

Almost Autumn

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 新宿御苑の芝生ってこんなにフカフカして気持ち良かったかなぁ。その前に、ぼくはゴルフをしないので芝生がこんなに伸びるということ自体を知らなかった。踏みしめると足が少し沈み込んで、そのくせ適度なところで下からしっかりと支えてくれるような感じがした。芝生は夏の記憶を留めているのか、まだ青々としてそしてツヤツヤとしている。

 少し下り坂になった芝生の斜面に目をやると、芝生が草の海のように波打っている。風のせいか、人の通った後なのか、表面が波打って、それが光を受けて輝いている。柔らかで掌で撫でてみたくなるような質感の波がうねっている。芝生に気を取られてそれだけを見ていると夏と変わらないようだけれど、所々に横たわっている近くの林からやってきた枯葉に気付くともう夏ではないと知らされる。It's Almost Autumn.

 昨日、いつものカメラ仲間と都内を歩き回った。前回来たときは不覚にも新宿御苑の閉園の日に来てしまったけれど今度は大丈夫。いつも皆のスケジュールとお天気とのにらめったこだけれど昨日の天気は曇り。どんよりとした空の下の公園は影も無く平面的に見えてしまう。平日なのと本格的な秋の風景にはまだ早いこともあってか園内に人はまばらだ。ぼくも毎年留学生たち等とここに来るのだけれど、それは大抵、桜の時期かプラタナスの葉が色づいた頃だ。でも、このひっそりとした雰囲気も悪くないと思った。

 午後は丸の内に出た。ここは新宿御苑とはうって変って大勢の人でにぎわっていた。10月1日に復元が完成する東京駅の姿を見に来ている人も多いし、丸ビルが新しくなって10年になるのを記念したベンチアートが開かれているのでそれを見るために散策している人も多かった。「ベンチアート in 丸の内」と銘打ったイベントでは、中央通りを中心に歩道におかれているベンチにいろいろな著名人などの彫像が置かれている。

 アートと言っても街なかにあってしかも自由に触れ合える形なのでとても楽しい。彫像は坂本竜馬やアインシュタインなどの歴史上の人物。建築家の辰野金吾やジョサイア・コンドルなどの丸の内界隈に縁のある人物。チャップリンや美空ひばり、ジャイアント馬場それに白鵬関までいる。仮面ライダーの座っているベンチではツアコンらしい女性がツア日程をチェックしているのか一生懸命書類に目を通していた。その女性の懸命さと我関せずのような仮面ライダーの鷹揚な構えのコントラストがとてもほほえましかった。そういえば芸術の秋もそこまで来ている。It's Almost Autumn.

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Samba de Summer [Ansicht Tokio]

Samba de Summer

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 今年は本当に暑い日が続く。毎年夏の盛りの今頃に会って旧交をあたためる友人がいる。ドイツ時代の友人で今はドイツ人の奥さんとイギリスに住んでいるのだけれど、年に一度今頃実家のある東京に里帰りしてくる。

 彼も写真が趣味なので、東京で会うときは最近は連れ立って下町散策をして廻ることが多い。今回は柴又帝釈天の周辺を歩こうと昼過ぎに出だしたけれど、外はクラクラするような強烈な日差しと暑さ。柴又に着いたけれど、余りの暑さにすぐいつもの参道入り口のえびすやに逃げ込んでうな重の昼飯。

 ここのところウナギが大分値上がりしていると聞いていたけれど、確かにえびす屋のうな重も大分値上がりしていてびっくりした。そのせいか昼どきにもかかわらず店の中はほとんど空いて居る。大和屋の天丼の方にすれば良かったかなぁ、と思ったけれどあそこは今日はきっとクーラーがそんなに効いてはいないかもしれない。今日の尋常でない暑さを避ける「涼み代」だと思うことにした。

 店を出て帝釈様を見てから山本亭に行く間の道がこれまた半端なく暑い。距離にすればいくらでもないのだけれど、寺の練塀にそったアスファルトの道がとにかく暑い。山本亭は昭和初期の純日本家屋なので日本庭園に向かって開け放された広々とした屋内はさほど暑くは感じなかった。結局ここの座敷で抹茶アイスをいただいて長時間まったりとした。

 最後はスカイツリーの足元をちょっと覗いて浅草に、と思って押上駅で降りてスカイツリータウンに出たら土曜日でしかも、多分夏休み最後の土曜日でもあったためか身動きのできないほどの人出。人混みをかき分けるようにして反対側の京成東京スカイツリー駅側に抜けて、一直線に浅草へ。

 浅草で何処かでゆっくりしようという魂胆だったのだけれど、浅草駅に着いたらスカイツリー以上の人出。駅前の通り沿いに人がびっしり立っている。何事かと思って駅の売店のおばちゃんに聞いたら、これから浅草サンバカーニバルのパレードが始まるのだという。知らなかった!

 
 交通止めで通りが渡れないので駅前の地下道を通ってやっと通りの向こうに出るとものすごい音量でサンバのリズムが聞こえてくる。パレードが近付いて来ると、移動用のスピーカーも一緒に移動しているらしくサンバの強烈なリズムが脳天に響き渡るようで、自然に体が動いてしまう。友達とぼくは沿道の人の列にもぐりこみカメラを構えた。Samba de Summer。ひょんなことで、エネルギッシュな夏に出会った。

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 *カーニバルといえばブラジルのリオのカーニバルが有名なので灼熱のイメージがありますね。浅草のカーニバルはサンバ・カーニバルですから強烈な夏の日差しと日焼けしたビキニの女性が似合いますが、本来のカーニバルとは謝肉祭という名の通り断食の季節に入る前に食べ物に感謝し整理する時期で普通は冬の最後の季節にあたることが多いので季節感はリオのカーニバルとはだいぶ違ったもののようです。

 
 **浅草のサンバ・カーニバルはなんか最近のような気がしますが、もう始めてから31年にもなるということで、ちょっと意外でした。三社祭は浅草のイメージがあったのですがカーニバルはちょっと不思議な感じがしたのですが、実際のパレードを目の当たりにしてみると迫力に驚きました。

 ***ぼくが大昔いた南ドイツの街ではカーニバルをファッシング(Fasching)といってそれが冬の一番厳しい時期に当たるため仮装パーティーなどで馬鹿騒ぎをして寒さを吹っ飛ばす風習がありました。当時大学で行われたファッシングパーティーに行ったことがありますが、大学の校舎の階段には飲んだくれて抱き合ったカップルが溢れていてスムーズに歩けなかったことを思い出しました。

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Yebisu [Ansicht Tokio]

Yebisu

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 月一回通っている大井町の病院に行った帰りに、久しぶりに恵比寿にある東京都写真美術館に寄った。写真展は写真家の田村彰英氏の個展「夢の光」展と東京都写真美術館の収蔵写真作品を中心に写真の技法を歴史的に俯瞰したコレクション展「光と影の芸術 写真の表現と技法」展が開催されていた。

 田村氏の個展では彼が大判のカメラで捉えた大型船の座礁の光景が迫力もあり特に印象深かった。一方、美術館の収蔵作品を中心とした「光と影の芸術…」展はまさにダゲレオタイプ以来、限りなく続けられてきた写真の技法の実例を目の当たりにできるこの美術館ならではの展示で、展示はもちろん同時に刊行されている公式図録「光と影の芸術」も優れた解説書になっていると思う。

 恵比寿は病院の帰りにたまに寄るのだけれど、再開発以前の姿を知っている者からすればまるで変わってしまって全く別の街になってしまった感がある。ここはもともとヱビスビールの出荷駅があったところで、恵比寿と言う地名もそこから来ている。ぼくがサラリーマンだった頃には線路端のサツポロビールの工場敷地に置かれた列車の客車をビヤレストランにしたビヤステーションがあって夏は会社の帰りによく同僚と行った記憶がある。

 ところでヱビスビールは今はサッポロビールの一ブランドになっているのだけれど、昔からヱビスビールの「」とか平仮名で書いた時のゑびすビールの「」が気になっていた。それを「エ」と読むのは知っていたけれど、じゃなんで「エ」や「え」じゃないのかと不思議だった。そのわけを知ったのは日本語教育の勉強をしている時に日本語史を学んでからだった。

 大体、小学校で五十音を習った時に何で「エ」が3つもあるのか不思議だった。ア行とヤ行それにワ行にも「エ」があるけど、何でなのかは教わらなかったように思う。結論から言うと大昔、奈良時代までは3つの「エ」は発音自体が違っていて、それぞれ[e][ye][we]と区別していたらしい。そう考えると五十音表どおりなのだ。しかし、その後段々と[ye]や[we]の発音は[e]に吸収されて行ってしまった。

 3つの「エ」の中でも[we]は表記で言えば、文字としては「ゑ」並びに片仮名の「ヱ」が使われるが、こちらの方は比較的後の時代まで「え・エ」と区別されて使われていたらしい。元々平仮名の「ゑ」は漢字の「恵」を略したものから発生したので「恵比寿」の読みに「ゑびす」が使われているのではないかと思う。もっとも時代によってはこの「ゑ」と「え」それに「へ」も含めて[ye]と発音されており大分混乱していたようだ。

 五十音表に従えば「ヱビス・ゑびす」をローマ字で書いたら「Webisu」となりそうだけれど、ヱビスビールのラベルには「Yebisu」と書いてある。これはさっきの混乱を引きずっているのか、江戸時代には「エ」も「ヱ」もローマ字では「YE」と表記したらしい。そういえば日本のお金「円」を「YEN」と表記するのもその名残らしい。

 病院から真っ直ぐウチに帰るのではなくて、寄り道するのも好い気分転換になる。これからもたまには病院の帰りに変容したYebisuに寄ってみようと思う。もっともその本音の目的は新しくなったビアステーションでのフレッシュなジョッキ・ビールなのだけれど…

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 *東京都写真美術館は恵比寿ガーデンプレイスの一画にあるのですが、ここはいつ来ても独特の雰囲気があります。西欧風であっても時代が錯綜したようなスタイルの建築物があって、アングルによってはどこの国なのか分からない絵が見えてくる面白さがあります。

 *昔の日本語は今とは大分発音が異なっていたようです。今の「[hana]」も時代によっては「パナ[pana]」と発音したり、その後には「ファナ[Φana]」と発音していた時代もあるようです。


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荷風の浅草 Asakusa [Ansicht Tokio]

荷風の浅草 Asakusa

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 …ジャズ舞踊と演劇とを見せる劇場は公園の興行街には常盤座(ときわざ)、ロック座、大都劇場の三座である。踊子の大勢出るレヴューをこの土地ではショーとかヴァライエチーとか呼んでいる。西洋の名画にちなんだ姿態を取らせて、モデルの裸体を見せるのはジャズ舞踊の間にはさんでやるのである。見てしまえば別に何処(どこ)が面白かったと言えないくらいなもので、洗湯(せんとう)へ行って女湯の透見(すきみ)をするのと大差はない。興味は表看板の極端な絵を見て好奇心に駆られている間だけだと言えばいいのであろう。われわれ傍観者には戦争前にはなくて戦敗後に現れて一代の人気に投じたという処に観察の興味があるのだ。

 ジャズを踊る踊子は戦争前には腰と乳房とを隠していたのであるが、モデルが出るようになってから、それも出来得るかぎり隠す部分の少いように仕立てたものを附けるので、後や横を向いた時には真裸体(まっぱだか)のように見えることがある。昨年正月から二月を過ぎ三、四月頃まで、この裸体と裸体に近い女たちの舞踊は全盛を極めた。入場料はその時分から六拾円であるが、日曜日でない平日でも看客は札売場(ふだうりば)の前に長い列をなし一時間近くたって入替りになるのを我慢よく待っていたものだ。しかし四、五月頃から浅草ではモデルの名画振りは禁止となり、踊子の腰のまわりには薄物や何かが次第に多く附けまとわれるようになった。そして時節もだんだん暑くなるにつれ看客の木戸前に行列するような事も少くなって来た。

 一座の中で裸体になる女の給金は、そうでない女たちよりも多額である。それなら誰も彼も裸体になるといいそうなものであるが、そんな競争は見られない。普通の踊子が裸体を勤める女に対して影口をきくこともなく、各(おのおの)その分を守っているとでもいうように、両者の間には何の反目もない。楽屋はいつも平穏無事のようである。 …


  永井荷風 「裸体談義」より


 永井荷風が足繁く浅草に通うようになったのは終戦直後からだと思う。空襲で焼け出されて市川の知人宅に居候をしていたのが、同地にやっと居を構え少し落ち着き初めた頃だ。浅草ロックの踊り子達とも親しくなり、自身の作品も浅草ロック座の舞台にかけたりもしていた。冒頭の随筆「裸体談義」は昭和二十四年に書かれたのだけれど、その頃の浅草の街の猥雑さが良く出ている。

 今では荷風の描いた浅草の面影はほんとうに少なくなってしまったけれど、ぼくはその頃の雰囲気を脳の片隅でかろうじて記憶している。ぼくがまだ小学校の低学年の頃だから、この「裸体談義」が書かれた少し後になる。親に連れられて何度か奥山劇場に演劇を見に行った。奥山劇場は伝法院の通りの辺りにあったと思うのだけれど、劇場の前には池があったのを覚えている。

 演劇といっても奥山劇場で行われていたのは当時全盛を誇っていた女剣劇でウチが観に行っていたのは浅香光代の舞台だった。その頃は女剣劇といえば浅香光代の他に二代目大江美智子や不二洋子等がいたらしいけれど、ぼくが舞台を記憶しているのは浅香光代の舞台だけだ。なんで女剣劇を観に行ったのかを以前ばあさんに聞いたことがあるけど、その頃ぼくの家はお菓子の製造をしていたので浅草の取引先から何度か奥山劇場の切符を買わされたらしいのだ。

 奥山劇場では二階席から観ていた記憶がある。眼下のスポットライトに照らされた舞台のちょっと派手な色のライティングの中で、渡世人の格好をした女役者が大勢の男を相手に刀を振り回して殺陣を展開する。その殺陣の最後に形が決まって大見得を切ると、客席から「まってましたーっ」とか「いよっ、あさかーっ」とかの掛け声がタイミングよくかかる。舞台は大抵日本舞踊と女剣劇の二部構成になっていてどちらにも浅香光代が出ていたように思う。ぼくもその頃は日本舞踊を習っていたこともあって剣劇の方よりも踊りの方が面白かった。

 永井荷風は以前からあった浅草のチャンバラ劇が殺伐としているといって余り気に入らなかったらしい。荷風はそこら辺をこの「裸体談義」の中でも苦々しい心もちで書いている。女剣劇も主人公はほとんどが渡世人で、人情を絡めた彼等の出入りが題材になっているものが多い。そういう意味ではこれらの女剣劇も荷風の好むところではなかったかもしれない。

 … 浅草の興行街には久しく剣劇といいチャンバラといわれた闘争の劇の流行していたことは人の記憶している所である。博徒無頼漢の喧噪を主とした芝居で、その絵看板の殺伐残忍なことは、往々顔を外向(そむ)けたいくらいなものがあった。チャンバラ芝居は戦争後殆どその跡を断ったので殺伐残忍の画風は転じて現代劇に移ったものとも見られるであろう。…(裸体談義)

 荷風の好みは、どちらかと言えばペーソスと色気のある寸劇やバアレスクとよばれるようなものだと思われたから、やっぱりそれは奥山劇場ではなくて浅草ロック座なのだと思う。子供だったぼくにはその頃の浅草の猥雑な雰囲気は理解できなかったけれど、その頃目にした浅草の街の様子は今でも目に浮かぶ。雨が降るとぬかるみになってしまう伝法院通りやそれに沿ってズラッと並ぶテント作りの古着屋、広い路の両側に映画館や劇場のノボリが林のように立っていた六区界隈。そんな光景の中を伝法院通りを水たまりを避けながら蝙蝠傘をさして歩いている荷風の姿が浮かんでくる。


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 *ぼくがまた浅草に行くようになったのは大学時代で、学校から電車一本で行けたので授業が早く終わる日や、時にはさぼって浅草にでることもありました。行き先は映画館かフランス座。当時フランス座にはビートたけし等も出ていたらしいですが、ぼくらの目当てはそこにはありませんでした。ぼくは演芸の方はコントよりも当時はもっぱら落語で上野の鈴本や、当時盛んに行われていたラジオ局が行う落語の公開録音を渡り歩いていました。

 映画の後は、お金のある時には田原町にいまもある「あらまさ」に寄ってちょっと呑むか、金の無い時は北千住の立ち呑みでした。ぼくの大学の頃にも浅草にはフランス座の辺りにまだ猥雑感が残っていたような気がします。今はちょっと毒が抜かれた街のようになった感じがしますが、それは浅草が時代の風を感じ取りしたたかに生き残ろうとしていることの証でもあると思っています。

 **荷風の随筆にでてくるショーは当時「額縁ショウ」と言われたものだと思います。額縁をかたどったフレームの中で、セミヌードのモデルが名画のシーンよろしくじっとしているというものです。それでも随分と話題になったらしいですから、ある意味では鷹揚な時代でした。しかし、その理由はモデルが動く形でのショーが禁止されていたからです。そんな背景で台頭してきたのが女剣劇でした。そこには風俗をとりまく複雑な時代背景があったのだと思います。その後のぼくが大学時代の頃の浅草フランス座ではミュージック・ホールという触れ込みでショーダンスとその合間にコントが行われていました。



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