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メタルブルーの道 [gillman*s park 10]

メタルブルーの道

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 明け方に激しい雨がふった。しかし、その雨も止み午前中の散歩に出る頃には陽がさし始めていた。最近は散歩に出ようとすると、ばあさんの具合が悪いとか、その日のレッスンの準備ができていないとか、はたまたぼくの膝が痛いとか、何かしらがおきて午前中の散歩に中々でることができない。

  以前は毎日のように散歩に出ていたのに、このままでは散歩に出るのが一つの季節に2回くらいで、散歩に出るたびに季節感が変ってしまうような気がする。散歩の醍醐味は歩いているうちに普段では見過ごしてしまうような季節の変化のディテールに気がつくことにもあるのだから…

 出てみると公園はもうすっかり晩秋の佇まいだ。池のほとりのラクウショウは燃えるような赤褐色に染まり、桜の木の紅葉した葉もおおかた落ち切ってしまっている。平日の朝の公園は静かだ。歩いているうちに今年見逃してしまった、公園のアジサイハナミズキムクゲの花が頭の中をよぎっていった。時が来ればまた花は咲くだろうが、その花は今年と同じではない。

 見逃した時を取り戻すようにゆっくりと歩いた。お気に入りのスダジイの林に囲まれた道は、明け方の雨で濡れているせいかメタルブルーのような金属的な色を放っている。切り株の周りに吹き寄せられた落ち葉の上にやさしい木洩れ日があたっている。少し近寄って降り積もった落ち葉を見る。

 一枚いちまいが微妙な色合いをしているうえに全体としての色の組み合わせがたとえようもないほど巧妙で美しい。人間のようになんとか美しく見せようなどと言う邪心があったらこれ程に心を打つ優雅さにはならなかっただろう。偶然と言ってしまえば身も蓋もないが、自然は本来的にそのような美しさを持っていると考える方がぼくは好きだ。

 
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  *シルエット

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足元を見る [gillman*s park 10]

足元を見る

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      ■ なんぼう考へてもおんなじことの落葉ふみあるく (山頭火)

  どうしても足元の地面に目がいく季節がある。それは春の初めと秋の終わりだ。春先に咲ききった桜の花びらが地面を桜色に染めてゆく。そして、秋の終わりには色とりどりの落ち葉が地面を覆い尽くす。

  普段は人に踏みつけられるだけの地面がこの時だけは「どうだい!」と言わんがばかりにその存在感を誇示する。考えてみれば、桜だって銀杏だってこの大地のお陰で花をつけ、たわわに葉を繁らせることができたのだ。

  季節の変わり目に木々が大地を精一杯飾るのは彼等のせめてもの恩返しかもしれない。木々は自分たちの生命がこの大地に育まれていることを知っているかのようだ。一方、ぼくたちは自然にどんな恩返しをしてきたのだろうか。


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  <足元を見る>
     死ぬなら今だ
    足元を見る What's on earth?
    去ってゆくもの

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Autumn in the Park [gillman*s park 10]

Autumn in the Park

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  久しぶりの晴天。ここのところどんよりとした天気が続いていた。秋の長雨という奴で、梅雨時についで雨の多い時期らしい。秋晴れという言葉は秋には晴れが多いということより、雨が多いからそれに挟まれた晴れの日の天の高さが際立つために生まれた言葉かもしれない。

  公園の落羽松の葉もまだ色づいていないし、ススキの穂もまだ固くしまって花は開いてはいない。ただちょっと気の早いピラカンサの実だけが真っ赤に色付いている。つまり、全体としてはここはまだ秋にはなり切っていないのだろう。

 ぼくはこんな、季節と季節の間の時間も嫌いではない。過ぎて行った季節の余韻と、近づいて来る季節の予感に挟まれて一瞬時が止まったような感覚が心地よいのかも知れない。

 朝の空気の匂いがまだ残っている池の畔のベンチに腰掛けて胸いっぱいに空気を吸ってみる。目には明らかには見えないけれども、透明な空気の感触はすっかり秋になっている。

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 *久々のパノラマ写真です。また最近パノラマ写真を撮るようになりました。写真ではいつも無意識に何かを「切り取る」事を考えていますがパノラマ写真はまたそれとは違った楽しみを与えてくれます。それはちょうど演劇の開幕直後の舞台を一望するような感覚かもしれません。その舞台の上でこれからどんなシーンが展開されてゆくのでしょうか。

 たとえばこんなシーンが見られるかもしれません。Autumn in Life…このベンチの上では秋になるとこんな物語を感じさせる光景が見られることもあります。公園は時として季節の彩りとともに素晴らしい舞台を用意してくれます。

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ずっと奥の方 [gillman*s park 10]

ずっと奥の方

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 宮崎あおいが何故かロバにまたがって、大声で歌いながらやってくる。

 ♪答えはきっと奥の方 心のずっと奥の方

 これは最近テレビで流れているCMだ。何のCMだかはよくわからないけど、歌の言葉とそのシーンはやけに脳裏に刻み込まれた。「答えはきっと奥の方」 確かにそうなんだ、今の日本の答えはなかなか見えてこない。きっと奥の方にあるのかもしれない。奥の方にはあるのかもしれないけれど、なかなか見えてこない。

 「心のずっと奥の方」 大切なものは心のずっと、ずっと奥の方にしまわれてしまって、覗いても覗いても中々見ることはできない。人と人の関係も表面的な付き合いだけで、心のずっと奥の方まで届くような関係が持ちにくい。なんだかこの歌には今の日本が抱えている閉塞状況のようなものが如実に表れているような気がした。

 宮崎あおいはこの曲をいかにもあっけらかんと歌っていて、またそこも彼女の一つの味になっていて好いのだが、原曲はロックバンドのThe Blue Heartsが歌っており、時代の閉塞感をぶつけるようなもっと激しいものだった。その歌からは今の時代、特に若者が持っている閉塞感のようなものが切々と伝わってくる。 

 もっとも今に限らず、どんな時代にだって若者の心の中は閉塞感で一杯だったはずだ。それがある意味で社会を前に進める原動力になっていたことも確かだ。ぼくらの青春時代だって、ぼくらの心の中は閉塞感に満ち満ちていて、それがやがて学生運動というものに繋がっていった。また中国の若者達の閉塞感は文化大革命というものに繋がっていった。それらは確かに社会を揺り動かした。だが、それだけで単純に社会がよくなったとは言えない。

 過去を否定し、現状に飽き足らない若者の閉塞感が、エネルギーを得て一大政治運動となり社会を揺り動かしてゆくこと自体は貴重なことだが、それが若者だけの視野と力で動き出す時、それはやがて特異な高揚感となって歴史をあらぬ方向に導いてゆくことがあるのも歴史の事実が示している。ナチスドイツの運動を下支えしていたのも一面ではそのような高揚感だったかもしれない。

 一方、そのような時代には若者の高揚感を政治に利用しようとする人間が出てくることも歴史が示している。若者の味方をするような振りをして彼らを戦場に送りこんで行った政治家たちも歴史上にはこれもまた数え切れないほど存在した。日本はすでに高齢社会を通り越して超高齢社会になっている。若者を政治的に利用するのではなくて、中高年の経験も活かしながら手を携えて、諦めずにずっと奥にある本当の答えを探し当ててゆかなければこの国の未来は見えてこない。


 情熱の薔薇

  永遠なのか本当か 時の流れは続くのか
  いつまで経っても変わらない そんな物あるだろうか

  見てきた物や聞いた事 いままで覚えた全部

  でたらめだったら面白い そんな気持ち分かるでしょう

  答えはきっと奥の方 心のずっと奥の方

  涙はそこからやってくる 心のずっと奥の方

 

  なるべく小さな幸せと なるべく小さな不幸せ

  なるべくいっぱい集めよう そんな気持ち分かるでしょう

  答えはきっと奥の方 心のずっと奥の方

  涙はそこからやってくる 心のずっと奥の方

 

  情熱の真っ赤な薔薇を 胸に咲かせよう

  花瓶に水をあげましょう 心のずっと奥の方

 

  (作詞:甲本ヒロト/作曲:甲本ヒロト/唄:The Blue Hearts)


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秋のウサギ [gillman*s park 10]

秋のウサギ

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 公園の未整備地の空き地のはずれに消火栓がぽつんと二つ並んでいる。普段は雑草に隠れて見えないことが多いが草刈りをした直後などにはその姿を現す。その消火栓の姿は何となく草むらにうずくまった子ウサギの後ろ姿に似ている。

 ぼくはこの子ウサギのピカピカのお尻に映りこんだ公園の空を見るのが好きだ。公園に散歩に行ったときには必ずと言っていいほどこの公園の端っこにいる子ウサギをのぞきに来る。

 この子ウサギのピカピカに光るお尻は不思議な力を持っている。そこに写し込まれているのは公園の空とせいぜい半径数メートルの世界なのだが、まるでこの世界がすべて閉じ籠められているような、そして別の世界への入り口のような気にさせる。

 ちょうど不思議の国のアリスが落ちたウサギの穴のように、どこか違う世界へとつながっているような気になる。草に埋もれた中に忽然と銀色のウサギが現れ、そのお尻には真っ青な空とそれをのぞきこむ自分の姿が映っている。まるでこの子ウサギが案内をしているようだ。

 この子ウサギのもうひとつ不思議な力は、そこに映り込む光景はいつも季節を先取りしているということだ。春夏秋冬、季節の変化はいち早くこの映り込んだ世界に反映されて強調されるからだろうか。まだ寒い冬の終わり頃にはもう温かい春の空の色が映り込んでいる。

 この間のぞきこんだときにはまだ十分暑かったが、子ウサギのお尻に映り込んだ世界はもう秋の空の色に染まっていた。今年はもう秋が来ないんじゃないかと心配していたが、今年もちゃんとやってくるようだ。ありがたいことだ。

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麗しき五月 [gillman*s park 10]

麗しき五月

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  ほんとうに久しぶりに公園にやってきた。なんだかんだこまごまとしたことが重なって朝の散歩もできないでいる。確かこの前公園に来たのは花冷えのする桜の時期だった。もう桜はとっくに散ってしまって、公園は黄菖蒲の時期を迎えていた。今日は空が高い。そして夏の高原のように空気が澄んでいる。

 平日だが公園には思いのほか人が多かった。小学生の団体や保母さんに連れられた幼稚園や保育園のお散歩組もあちこちに見られる。明るい陽に照らされた池の水面に子供たちの甲高い声が響き渡っている。ちょっと淀んで濁っていた世の中の空気が子供たちの声で浄化されたような錯覚に陥った。少し風はあるが、十分に温かい。

 ばあさんを連れてきて公園で昼飯を食べようと思った。この前、桜の時期にばあさんを連れてきてベンチでランチをしたときは、ちょっと風が冷たくて心配だったけれどこの陽気なら大丈夫だ。一旦家に戻ってばあさんを連れてきてランチをすることにした。この前は車で公園の駐車場まで乗せてきたけれど、今日は天気もいいのでカミさんが歩いて行こうという。

 ばあさんの車いすを押して公園まで歩いて行った。歩けば五分ちょっとの道のりだけれど、ばあさんは他人の家の庭先の花なんかにも物珍しそうな視線を送っていた。道々何か目につくものがあるたびに車いすを押す手を止めながらゆっくりと進む。途中公園の近くのコンビニで焼きそばとお握りとサンドイッチなどを買い込んだ。ついでにビールも。

 公園について、裏手の道から入るとそこはバーベキュー広場になっていて何組かの若者たちがワイワイ言いながらバーベキューをしていた。その先の池を見渡すキャンプ広場にはベンチとテーブルがあってのんびりとランチをするには格好の場所なのだ。空いていたテーブルを見つけてカミさんと三人で急ごしらえの食卓を囲む。

 向こうのソリゲレンデから子供たちの声が聞こえてくる。ハトが弁当のお相伴を期待してよってくる。時折、風は吹いているが、十分に暖かい。ハイネの詩のIm wunderschönen Monat Mai (麗しき月、五月に)という一節を思い出した。今日がまさにその麗しき五月なのかもしれない。


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花冷え [gillman*s park 10]

花冷え

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 東京でも桜が満開になった。公園のソメイヨシノも枝いっぱいに白い花をつけていた。千本桜と称して数年前にこの公園に植えられた桜の木々たちは、最初はほっそりとしていかにも頼りなげだったが、それから五年近くも経った今では幹の太さも枝を支えるに十分な若木に育った。若木なのでもちろん枝はまだ空に向かって伸びているから、見事な枝ぶりの木に花がたわわに咲いているという風情にはならないが、若木らしいみずみずしさがある。

 本来なら花見の盛りの頃だが冬の日のように寒い。公園には白いソメイヨシノとともに濃い紅色の寒桜も植えられているが、心なしか寒桜の方が似合う季節の様な錯覚に陥る。こんな日を花冷えのする日というのだろうか。散歩をしていても身体が冷え切ってしまうような天候だ。これでは花見も辛いだろう。家に戻って熱いコーヒーを飲んだ。

 【花冷え】というのは美しい語感の言葉でぼくは好きだが、調べてみると「桜の咲くころ、急に冷え込むことがあるが、そのころの季感をいう。京都の花冷えはとくに有名だが、全国どこでも見られる現象である。春寒の感じとは違う(角川書店 合本俳句歳時記 第三版)」とある。

 それでは【春寒(はるさむ)】とは何だろうかと、これも歳時記で調べてみると春寒の項に類似季語として「春寒し」「寒き春」「春寒(しゅんかん)」「料峭(れうせう・りょうしょう)」などの言葉が併記されている。解説には「春が立ってからの寒さ、余寒とおなじであるが、語感や心持のうえで微妙な違いがある。春寒には余寒ほどの寒さの余韻はない。料峭は春風が寒く感じられること。(同俳句歳時記)」とある。日本人は本当に季節を見つめてきたんだなぁ。


  ■ 花冷えの汁のあつきを所望かな (高浜虚子)

 

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  *花冷えなどと風流な言葉は使っていますが、実はこんな日は年寄りやぼくのように頸椎など骨の手術をした人間には身体の辛い日でもあります。ばあさんは今朝から寝ています。早く本当の春が来ないかなぁ、というのが本音のところです。

 もちろん、昔の人にだってこんな日はつらい日であることに変わりはなかったと思うんですが、それを花冷えと表現するとは昔の人は風流だったんですね。風流とは「痩せ我慢」と見つけたり。昔「(いき)とは痩せ我慢と見つけたり」と看破した人がいましたが… だから快適だけを追い求める現代には風流も、粋もないのでしょうか。


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春まだき [gillman*s park 10]

春まだき

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 今日は朝からどんよりとしている。寒そうなのでちょっと躊躇したが意を決して散歩に出る。以前は毎朝食後に散歩していたが、いつの間にかやめてしまった。きっときっかけは雨の日が続いたり、ばあさんの具合が悪かったりなのだが、それはきっかけに過ぎず要は寒いなか外に出てゆくのがおっくうになっただけなのだと思う。

 久しぶりに来た公園は、全くの冬景色で木々も裸で寒々としている。考えてみたらこの舎人公園に来るのは今年になってはじめてなのだ。こんな感じだったかな。しばらく来ないうちに、公園とぼくとの関係がなんとなくよそよそしくなったように思った。

 公園からしばらく足が遠のいたのは、もちろん寒さのせいもあるが、公園の光景が変わりつつあることへの抵抗感のようなものもあった。公園から土が減り舗装された道やアスファルトの駐車場のスペースが幅を利かせてくるというような物理的外見の変貌もあるが、同時に利用者が増えることによって公園内でゴルフの練習をしたり、犬を放したまま散歩するなど見ていてあまりうれしくない光景が多くなったことに嫌気がさしたこともある。

 クラブの素振りならまだしも、草むらでゴルフボールを打っているのを見かけることもある。カミさんには危ないからやたら注意しないように言われていたが、どうしても目のあたりにすると声をかけて注意をしてしまうのだが、その後の気分はいいものではない。それに注意をしたって、こちらの姿が見えなくなればまた始めることは分かり切っている。

 犬を連れてきてブラッシングをしたまま毛の塊をそこらに散らかしていってしまう場合も多い。そんなこんなは、できるだけ見ないようにしているがそう意識することがまた厭になることがある。国はその国民のレベル以上の政治家を持つことができない、という格言は公園にも当てはまるかもしれない。

 とは言いながら、しばらく公園から遠ざかってみて季節の息吹に触れない生活はやはりつまらないことに気付いた。ぼくにとって、季節を感じて生きることが今はとても大切なことに思える。というわけで、また朝の散歩を再開することにした。春も来ることだし… 公園はまだ冬の様相だが、丘の上では既に河津桜が数本ピンク色の花をつけていた。それにぼくの鼻はもう花粉でうずうずしている。春はもうそこまで来ている。

   ■ 啼いて二三羽春の鴉で (山頭火)

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