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丘の上 [gillman*s park 11]

丘の上

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 公園の小高い丘の上はぼくの好きな場所だ。ぼくは極度の高所恐怖症だけれども、ここは好い。尤も丘といっても高さはせいぜい12,3メートルくらいのものだから大したことは無い。それでもここは足立区ではビルを除いては一番高い地面である。ここはぼくの散歩の丁度中間地点にあたる。ここからUターンして来た道とは反対側の公園の道をたどって帰路につく。

 丘の上は広場になっていて、そこに立つと360度のパノラマが目に飛び込んでくる。ぐるっと見渡せば、富士山、新宿の超高層ビル群、池袋のサンシャインビル、東京スカイツリーそして背後には筑波山の青黒い姿が見えている。この丘にはあさひの広場という名前がついていおり、朝日の眺めも素晴らしい。近年はここから初日の出を拝む人も増えているようだ。

 ここで目にできるのは眼下の街並みや遠方の眺望だけではない。ここに集う人達の姿も見ているととても興味深いものがある。一日の中の時間帯によって様々な人達がやってくる。朝夕には犬を連れて散歩に来る人達。昼は近くのオフィスの人らしいがランチをしている人もいる。ランニングをする人、ゆっくりとした散歩の途中で一休みする人。夕方には下校途中に遊びに立ち寄る生徒たち。本を読んでいる人だっている。音楽を聴いている人もいる。歌っている人もいる。 ぼくはいつも街並みを眺めている。


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 <あさひの広場>
  碧空 あおぞら
 眩しい夕暮れ


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見上げれば [gillman*s park 11]

見上げれば

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  ばあさんが二ヶ月間のリハビリ入院を終えて退院してきた。それまでのカミさんとの二人だけののんびりとした一日のサイクルが途端に慌ただしいものになってきた。夏の終わりころから体調を崩したこともあってそれに足の筋肉の衰えも加わって、車いすからトイレの便座への移乗の時などに立ち上がろうとすると膝がガクガクと震えるようになってしまっていた。

  今度で6度目くらいの入院になるけれど、今までは二カ月位入院して集中リハビリをするとそれなりに足腰はしっかりとするようになっていたが、さすがに90歳を超すと目に見えて状態が改善されたとは言えなくなった。誰でも入院中は自由にできず意に沿わないことが多いと思うのだが、今までは多少我慢していたようなことでも今回はすぐにばあさんの不満が爆発するようになって、病院の看護師が対応に苦慮してぼくのところに電話をしてくるということも何度かあった。

 病院の食事が薄味で塩気がないという不満は以前から言っていたので、二日おき位いにぼくかカミさんが病院に行くたびにフリカケ海苔や大根の味噌漬け、海苔の佃煮などご飯に味の付くものを持って行ったり、兄貴もお菓子やフリカケを差し入れたりしてくれていたのだが、見舞に行くたびに毎回いかに食事が味気ないか延々と聞かされるのもちょっと辛いものがある。

 食べ物の不満は今までもあったけれど、今回は神経から来る足の痛みが中々治まらなかったこともあって、医者や飲んでいる薬に対する不満が多かった。看護師から電話があって「ご本人がもっと良い薬はないか、とご家族に聞くように言っています」、とか「一旦家に帰って他の医者に診てもらいたい、と言っていますが…」等、向う側で対応に苦慮している様子が見えた。一度は結局外出許可をもらってかかりつけの目医者に連れて行った。もちろん、どこが悪いということではないのだけれどそれで本人は少し安堵するので連れて行って良かったと思った。

 今回は退院後に特に心配なことがひとつあった。ばあさんが介護認定を受けてからずっと親身になって担当してくれていたケアマネージャーさんと介護ヘルパーさんが勤務していた介護サービス会社が廃業することになって、お二人ともその仕事自体を辞めてしまうことだった。特にヘルパーさんはばあさんがまだ車椅子に乗るようになる前からずっと面倒を見てくれていた人なので、ぼくらも安心だったし何よりもばあさんの良い話相手になってくれていただけにぼくらもそうだが、ばあさんがそれを聞いたらきっと落胆するだろうということが心配だった。

 ばあさんが入院した直後にケアマネーシャーさんからそのことを聴かされてぼくらも驚いたが、ケアマネージャーさんからばあさんのリハビリに支障が出る恐れがあるので退院まではそのことは伏せておいて下さいと言われた。不安なことはぼくらも同じだった。ばあさんのことはもちろん、ぼくらの気持ちも分かってくれて親身になって介護サービスをしてくれる相手とそう簡単に出会えるものではないと思う。

 ばあさんが退院したその日にケアマネージャーが来てくれて直に話をしてくれた。ばあさんはびっくりして泣きながら聞いていたけれど、こればかりは如何ともしがたいのだ。信頼のおける後任のケアマネージャーを紹介してもらってぼくらは一度会っているが、ばあさんは聞かされるのがその日が初めてなのでそのショックは大きいと思う。

 入院中一度ヘルパーさんがわざわざばあさんのところに見舞に来てくれたけれど、その時もヘルパーさんが今度変わることは伏せてあったのでばあさんには言えなかったと思う。そんな訳でヘルパーさんには今までのお礼もちゃんと言えてなかったのでばあさんを会わせたいとも思っていたが、ケアマネージャーさんが家に来た帰りがけに、今会うとばあさんが余計に辛くなるから新しいヘルパーさんに慣れて少し落ち着いてからにした方が良いと言われた。

 退院して今日で一週間になるけれど、急に寒くなったせいかばあさんの調子は余り良くない。また医者回りが始まってぼくもそれにつききりに近い形になった。週一回行っていたアメリカ人への日本語のレッスンも10月一杯で辞めてもうドタキャンの心配をするところも無くなったが、少し寂しい気持ちはぬぐえない。

 これからはまた公園への散歩が楽しみの中心になりそうだ。久しぶりに公園に向かう途中、農家の庭先に見事な皇帝ダリアの花が咲いていた。頭上高く咲いている堂々とした薄紫の花を見上げれば、その向こうには蒼い空が広がっている。ぼくの身の周りの世界はとても小さくなってしまったが、今はその小さい世界を、深くよく見ておこうと思った。


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  *自分の親ながら、もし一人だったら到底やってこられなかったと思うし、カミさんの頑張りだけでも無理だったと思います。ここまでなんとかやってこられたのは親身になってみていただいたヘルパーさんやケアマネージャーさんがあって初めて出来たことだと今も感謝しています。毎朝目が覚めると今日は一体どうなるのだろうと言う家族の不安の気持ちの支えにもなって頂いたことに心からお礼を言いたいと思います。

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今日から秋 [gillman*s park 11]

今日から秋

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  今日の光は昨日と違う。どう違うか巧く言えないけれど、直感的に言えば光が肌につき刺さって来ない感じがする。光を云々する前にそもそも自分を囲んでいる空気が違っているのかもしない。それは一つには肌にまとわりつくような湿気が失せていることだ。光は当然空気の中を通ってくるから、まず夏の終わりを捉えたのは空気の方かもしれない。

 ジムに行った帰りに久しぶりに公園で昼食を食べた。車だったのでジムの下のコンビニでノンアルコールのビールとサンドイッチを買って公園の池のほとりのベンチに腰掛けた。もう随分長いこと公園に来ていない様な気がした。もう昔のように壮麗な天使たちの群れが乱舞する姿は見られないけれど、水面すれすれのところを小さなチョウトンボが何匹か舞っていた。

 落羽松の木陰で何人かの釣り人が釣り糸を垂れている。この場所は一年中釣りをする人の特等席なのだろう、朝早くに散歩に来ても、もう自転車が置いてあり誰かしら座っている。ここからのパノラマはぼくが好きな公園の光景の一つだ。家の近くにこの公園があって、家に帰れば猫がいる。とりあえず、それで十分幸せな気持ちになれる。ぼくの中では今日からは秋ということになった。

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 <Mini-log>
 ぼくも応援している南三陸町にある山内鮮魚店被災地応援ファンドについて、先日募集していた5,000口が、ぼくも含めて1392人の出資で全額集まり満額達成となりました。また仮ですが同社の新店舗もオープン、先日は震災後初めての塩辛も出来上がりました。長い道のりですがまず、一歩を踏み出したということだと思います。

 リアスの恋人たち
 はじめの一歩



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牧野先生の嘆息 [gillman*s park 11]

牧野先生の嘆息

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 ■ 私はこれまで数度にわたって、アジサイ紫陽花ではないこと、また燕子花がカキツバタでないことについて世人に教えてきた。けれども膏肓(こうこう)に入った病はなかなか癒らなく、世の中の十中ほとんど十の人々はみな痼疾(こしつ)で倒れてゆくのである。哀れむべきではないか。そして俳人、歌人、生花の人などは真っ先きに猛省せねばならぬはずだ。

 全体紫陽花という名の出典は如何。それは中国の白楽天の詩が元である。そしてその詩は「何年植向仙壇上、早晩移植到梵家、雖在人間人不識、与君名作紫陽花」(何ンノ年カ植エテ向フ仙壇ノ上(ホト)リ、早晩移シ植エテ梵家ニ到ル、人間ニ在リト雖ドモ人識ラズ、君ガ与(タ)メニ名ヅケテ紫陽花ト作(ナ)ス)である。そしてこの詩の前書きは「招賢寺ニ山花一樹アリテ人ハ名ヲ知ルナシ、色ハ紫デ気ハ香バシク、芳麗ニシテ愛スベク、頗ル仙物ニ類ス、因テ紫陽花ヲ以テ之レニ名ヅク」である。

考えてみれば、これがどうしてアジサイになるのだろうか。アジサイをこの詩の植物にあてはめて、初めて公にしたのはそもそも源順(みなもとのしたごう)の『倭名類聚鈔(わみょうるいじゅしょう)』だが、これはじつに馬鹿気た事実相違のことを書いたものだ。今この詩を幾度繰り返して読んでみてもチットもそれがアジサイとはなっておらず、単に紫花を開く山の木の花であるというに過ぎず、それ以外には何の想像もつかないものである。ましてや元来アジサイは日本固有産のガクアジサイを親としてそれから出た花で断じて中国の植物ではないから、これが白楽天の詩にある道理がないではないか。

従来学者によっては我がアジサイを中国の八仙花などにあてているが、それは無論間違いである。そしてまたアジサイは中国の繍毬ならびに粉団花に似たところがないでもないが、これらも全く別の品である。しかし近代の中国人は日本から中国へ渡ったアジサイを瑪理花(毬花の意)とも、天麻理花(手毬花の意)とも、また洋繍球とも、あるいは洋綉球ともいっているが、この洋は海外から渡来したものを表わす意味の字である。とにかくアジサイを中国の花木あるいは中国から来た花木だとするのは誤認のはなはだしいものである。そしてこのアジサイを日本の花であると初めて公々然と世に発表したのは私であった。すなわちそれは植物学上から考察して帰納した結果である。 (牧野富太郎 『植物一日一題』)


 「何度言ったらわかるんだ。アジサイ紫陽花じゃないって言ってるのに…」と言う牧野先生のため息が聞こえて来そうだが、先生の按じた様にもうちょっと手遅れのような気がする。ぼくらの頭にはもうしっかりとアジサイ=紫陽花という図式が染みついている。 先生によれば、紫陽花というのは元は中国の白楽天(白居易)の詩に出てくる花で、名前は何だか分からないけど、何か紫色で綺麗な香りの良い花があった、それを紫陽花と称したのだがそもそも日本原産のアジサイが白楽天の時代に中国にあるはずはないと言う。従って、アジサイに紫陽花の字をあてるのはおかしい。牧野先生の言っていることは正しいにちがいない。

  一説によると白楽天の詠んだそれはライラックではなかったかとも言われるが、本当のところはさだかではない。それにしても牧野富太郎という人はすごい。彼はぼくがまだ子供の頃に亡くなったけれど、小学校を中退という境遇にもかかわらず独学で植物学を勉強して日本屈指の植物学者になった。 というより、牧野富太郎のお陰で日本列島は植物学的に見れば実に多数の固有種を育んだ極東の奇跡の島だということが明らかになって来た。

 彼が亡くなった時ぼくはまだ十歳位だったが、彼が如何に勉学に励み研鑽を積んだか盛んにラジオなどで報道していたのを薄っすらと覚えている。 昔の人の研鑚というのはきっと今のぼくらのいう努力とはレベルがちがっていて、ぼくらの想像をはるかに超えるようなものだったような気がする。インターネットや豊富な文献など色々なツールや勉学の機会に恵まれているぼくらには推し量ることのできない苦労と工夫があったんだと思う。逆にだからこそ本当の知識が身についたのかも知れない。

  そんな牧野博士だから、生半可で好い加減な知識が世の中に流布していることに我慢がならなかったのかもしれない。でも先生、もうちょっと手遅れかも知れないです。紫陽花は広辞苑にもでちゃってるし… ぼくが思うには、ぼくたち日本人はこの「紫陽花」っていう字が好きなんじゃないかと。「紫陽花」という漢字を見ると、日本人には雨上がりの薄日を受けて紫色に染まる花の風情が脳裏に浮かんで来るのだろう。もしかしたら紫陽花という名前をもらってアジサイも喜んでいるかもしれない。こんなこと言うと、また牧野先生に叱られそうだが。

  ■ あぢさゐの 毬の幼き 帰郷かな (鈴木真砂女)


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牧野富太郎
1862−1957。現高知県生まれ。植物分類学者。小学校を中退し、独学で植物学者を志す。東京大学理学部植物学教室で研究、同大学助手、講師を務める間に全国の植物の採集調査を続けて多数の新種を発見し、日本の植物分類学の基礎をつくる。『植物学雑誌』『植物研究雑誌』を創刊。理学博士、第1回文化功労者、没後文化勲章受章

 <gillman*s blog review>
 紫陽花には曇り空がよく似合う
 宴の後
 雨の中の花火
 リンネの遺産

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時代 [gillman*s park 11]

時代

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 が咲く頃、椿は落ちてゆく。公園の桜は満開の時期を迎えたが、咲いたそばから折りからの強い風にゆすられて吹雪のように散りはじめている。年に一度だけ見られる光景。見事で華々しく、そして少し寂しくなる春の光景。潔い桜。椿は未練がましく散ってゆく。公園の裏の地面の上で花たちが、もがくように横たわっている。人それぞれ、花それぞれの生き方があっていい。それを許してくれる時代であってほしい。
  
 もう何年も前から時代が動いている感じがしていた。そんなことは当たり前かもしれない。確かにいつだって時代は動いている、だが何年も前から、ぼくらが学校で教わってきた時代とはちょっと違う動きをしているような気がしていた。ぼくらは時代の中に生まれ、その空気を吸って育っている。同時にぼくら自身も時代を作っている。だがそれがどういう時代かは少し離れて見ないとわからないものなのかもしれない。ぼくらは今、どういう時代を作りつつあるのだろうか。震災後一カ月。

 →時代

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椿赤く [gillman*s park 11]

椿赤く

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  ■ 椿赤く 思ふこと多し (山頭火)

 種田山頭火はこの他にも随分と多く椿の句を残している。行乞の旅で野原を歩いている彼にとっては彩の少ない時期にも花をつけている椿の花がよく目に付いたのかもしれない。ぼくなんかには普通の椿と寒椿と山茶花の区別もあまりつけられないから、暑い時期以外はどこかしらで椿が咲いているような気にさえなっている。

 椿の花の赤を際立たせているのは花を囲む葉の深い緑色だ。庭の端のちょっと薄暗いところに植えられた椿の木に咲いている真っ赤な花の周りには、妖しい雰囲気さえ漂っている。山頭火に「思ふこと多し」と言わせたのもそんな椿の妖しさかもしれない。公園にも何箇所か椿が植えられている場所があるが、いずれもあまり目立たないところだ。いつも散歩の時に通る池の畔には盛りを過ぎた寒椿らしい花をつけた木が何本か立っている。

 色褪せて少し白っぽくなった花が、それでも落ちずに枝にしがみついている。崩れかけた花の形がダリの絵の中の融けてゆく時計のように幻想的に思える。その姿が散歩の間中ぼくの心にへばりついて離れない。何ということはないのだが心が落ち着かない。椿の花がどうということよりも、それを見て動かされている自分の気持ちにうまく名前が付けられないことに落ち着きのなさを感じている。

 それはどういう気持ちなんだろうか。不安なのか、哀愁なのか、耽美なのかそれとも名前をつけようもない今だけの通り過ぎてゆく一瞬の気持ちの揺らぎなのか。極めて即物的に解釈すれば、ここのところ自分の身の周りに起こっている色々なことに対する自分の気持ちが椿の花に投影していると言えなくもない。やはり、椿赤く思ふこと多し、か。

 
 椿、咲き切らぬ口惜しさ
 さざんか
 ひっそりと

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 *お陰さまで、総閲覧数が1,000,000件を超えました。不定期で気まぐれな更新ですが、これからもよろしくお願いいたします。ありがとうございました。

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Stand by me [gillman*s park 11]

Stand by me

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 公園の雪はもうほとんど消えてしまったが、日陰の部分にはちょっと青味がかった雪がかろうじて残っていた。日射しは少しづつ温かみを増してきたが風はまだ冷たい。特に雪の残った日陰を通ってきた風は手がかじかむほどに冷たい。寒いのは苦手だが散歩で得られる爽快なこの気分は何にも代えがたい。

 公園と通りを一本はさんで向かい側にはまだ公園としての整備の済んでいない一帯が広がっている。どちらかというとぼくはそっちの方が飾り気がなくて好きなのだが、そのなかに小高い丘のような原っぱがある。広々とした野原で夏にはそばを通るライナーを眺めながら昼寝をするにはちょうどいい場所だ。

 その丘の端に数本のクスノキの大木に囲まれた一画がある。林と呼ぶには小さすぎるが、それでもこんもりとしていて中に入ると木々に抱かれた感じがする。そこの木々は夏の間犬を散歩させる人たちに心地よい日陰を提供し、犬と一緒に一休みする恰好の場所なのだ。犬を連れた人たちがここで語り合っている風景をよく見かける。

 今日も犬を連れた人たちが木の下で語り合っていた。冬なので強い日射しを避けるというわけではないが、この木の下が彼らにとって挨拶を交わす場所になっているのだろう。遠くから見ていると、立ち話をしている人たちの影とそれをじっと窺うような犬のシルエットが殊の外美しい。

 この公園では犬を散歩させている人たちを大勢見かける。寒さよけの派手なベストを着た小さな犬が飼い主の前をちょこちょこ歩いている様ももちろん可愛いが、ぼくは犬たちが飼い主のそばにさりげなく寄り添っている姿を見るのが好きだ。背筋をピンとさせて、もう何千年も戦いも平和もどんな時代もぼくらと暮らしてきた、そんな誇りのようなものまで感じる。

 ぼくは子供のころから犬と一緒に育ったので犬が好きだし、一緒にいると安心する。猫たちとはまた違った感情がある。犬がいるとなにか自分の味方がそばにいるみたいで心が落ち着くのかもしれない。ぼくは犬と向かい合いでなくて、並んで座って同じ方角をぼーっと見ているのが好きだ。子供の頃飼っていたクロともそうするのが好きだった。クロがぼくのそばに座って… Stand by me. いつもそこにいるだけで心強かった。


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 *身の回りの何の変哲もない日常の中でも、時折瞬時にして消え去る幻影のように、時が美しい表情を見せることがあるのだと思います。

  ⇒ Autumn ありふれた光景


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神々の黄昏 [gillman*s park 11]

神々の黄昏  Götterdämmerung

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 二羽のカラスが茂みの中から飛び上がり、ジークフリートの頭上に弧を描き、やがてライン河に向けて飛び去って行く。
HAGEN/ハーゲン:「ならば、あなたは、あのカラス達のささやきも聴き取れるのか?」
 (ジークフリートは勢いよく立ち上がり、ハーゲンに背中を向けると、二羽のカラスを目で追う)
HAGEN:「あれは俺への呼びかけだ!報復せよ・・・と!」
 (ハーゲンはジークフリートの背中に槍を突き立てる。グンターはハーゲンの腕をとらえて止めさせようとするが・・・手遅れだった。ジークフリートは盾を両手に高く持ち上げ、それを振りかざしてハーゲンを粉々にしようとするが、力尽き、盾を背後に取り落してしまう。盾の上には、彼自身がどしんと音を立てて、崩れ落ちてしまう)
VIER MANNEN/四人の男達: (もう無駄とは思いつつも、ハーゲンを押しとどめながら)「ハーゲン!何をする?」
ZWEI ANDERE/別の二人:「何をしたんだ・・・? 」
GUNTHER/グンター:「ハーゲン・・・!何をしたんだ?」
HAGEN:(地に伏したジークフリートを指し示しながら)「偽誓を罰したまでのこと!」
 (ハーゲンは悠然とそっぽを向き、一人で岩山の頂を越えて姿を消す。二羽のカラスの出現と同時に辺りをつつみ始めた黄昏の中を、ハーゲンはゆっくりと退場していく。グンターは心の痛みに耐えかねるように、ジークフリートの傍らに崩れ落ちる。男達は、思いを込めて、死に行く男の周りを取り巻く)
 
         (オペラ対訳プロジェクトGötterdämmerung 神々の黄昏より)


 これはリヒャルト・ワグナーの楽劇「ニーベルングの指輪」四部作の最終作品「神々の黄昏」の一場面。血気盛んな若き勇者ジークフリートが世界制覇をたくらむ男ハーゲンに殺害される場面だ。二羽のカラスが黄昏の中をライン河目指して飛び立ってゆくことによって、これから起こる悲劇を暗示している。

 公園の黄昏時はカラス達がねぐらに帰る時刻でもある。日が傾き始めるとカラスたちは空を舞いながらそれぞれのねぐらを探し始める。けたたましく鳴いて仲間同士のいざこざもあちこちで起こり始める。だが空の色に藍色が混じり始めるようになるとお互いの位置も定まったのか静かになってくる。

 たいがいは大木の枝や電線の狭い範囲に一定の距離を置きながら集団で寝ていることが多いが、中には、はぐれカラスか、群れから離れて一羽だけ枝にとまって寝ているものもいる。群れているカラスは不気味だが、一羽だけで枝に止まっているカラスは時には孤高の哲学者のように見えることがある。

 カラスは不吉な鳥のように思われるが、日本の八咫烏(やたがらす)もそうだが太陽神の使いとみなされている神話は他の国にもある。太陽の神の使いであるカラスが夕陽を背景に黒々とした冬枯れの枝にとまっている光景はまさに神々の黄昏の光景のようだ。


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 *夕暮れの彩は実に豊かです。地表に近い残照の色ひとつを取ってみても燃えるような炎の色から、赤黒いオレンジ、鮮やかなオレンジそして限りなくピンクに近い空の色まで様々です。それが時間や天候や見る角度で刻々と変わってきます。まさに黄昏時はマジックアワーなんですね。

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ファウストの黄昏 [gillman*s park 11]

ファウストの黄昏

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  黄昏時は「逢魔が時」と言って悪魔が飛び交う時間帯だ。昼と夜とに挟まれた真空地帯のような時間は不安定で瞬く間に夜の闇のなかに吸い込まれてゆく。一日の時の流れのなかに奇跡のように現れては瞬時にして溶けさってゆく。その時、運がよければぼくらは幻を見ることが出来るかもしれない。


 公園の池も黄昏時にいつもとは全く異なった表情を見せることがある。そう度々あることではないが、その光景は息を飲むほどに美しい。しかし、不思議なことに誰も立ち止まってその瞬間を見ることもないのだ。ぼくにはそれが不思議でならないが、もしかしたら自分達がその光景の一部となって溶け込んでしまっているためにその美しさに気がつかないのかもしれない。

 だが黄昏の奇跡は一瞬たりとも留まっていてはくれない。目を離せば永遠に戻ってこない、その時だけの美しさが目の前を通り過ぎてゆく。ゲーテの戯曲「ファウスト」の主人公ファウスト博士は悪魔メフィストフェレスに魂を売ってこの世のあらゆる物事を体験し手にする。

 物語ではファウスト博士があまりにも有名なあの台詞を吐いたとき、世界の全てを体験するという彼の望みが成就したことになる。と同時にそれはメフィストとの賭けに敗れることをも意味し、ついに彼の命はメフィストフェレスのものとなる。ファウストはその時呟いた「時よとまれ、お前は美しい!」 Werde ich zum Augenblicke sagen: "Verweile doch! Du bist so schön ! " 

  この光景を前にぼくも心の中でそう呟いていた。もちろんぼくはファウスト博士のように全世界と交換しうるような高邁な魂など所有していないから、そう呟いたとしても悪魔に魂を取られたりはしない。だからこれからも何度でもそんな瞬間に出会いたい。そして不可能と知りつつもできればぼくの脳裏にその時を留めておきたいと思った。

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  *散歩の途中に素晴らしい光景に出合うといつも三脚を持っていないことを後悔するんですが、じゃあ三脚をもって散歩する気になるかというと、きっと散歩の回数が減ってしまいそうです。ということで当分は今まで通り手ブレのリスクを冒しながらお散歩カメラを続けようと思っていますが…


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眩しい夕暮れ [gillman*s park 11]

眩しい夕暮れ

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  最近は夕暮れ時に散歩することが多い。ここのところずっと天気の良い日が続いているので夕暮れ時は空が茜色に染まって美しい。公園の空は広いから、刻々と変化してゆく微妙な空の色の移ろいを愉しむことができる。

 公園の池の畔を抜けて坂を登りきると小高い丘の上に出る。そこからは360度街中が見渡せる。天気の良い日には左手に東京スカイツリーそして右手に富士山を望むことができる。振り向くと遥かかなたに筑波山のシルエットが浮かんでいる。

 公園の丘の上に立って下の街を見下ろすと、町並みの向うから子供の甲高い声や、板金工場の金属を叩いている音らしいもの、青信号で発進する大きなトラックのエンジン音などの生活音が聞こえてくる。街は日が暮れきるまでのもう一頑張りをしている。

 丘の上には犬を連れて散歩中の人、ゆっくりと歩いている老人、学校帰りの高校生など色々な人がいる。高校生達は部活の帰りだろうか、三人の男女が大きな声で歌いながらステップを踏んでいる。とめてある自転車にはギターケースが立てかけられている。ちょっとオレンジ色を帯び始めた空気の中で彼らの姿は眩しいほどに輝いていた。

 歳をとることだって悪いことばかりじゃない。やがて静かにモノを見つめる時間だってやってくるし、今まで見えなかったものが見えてきたような甘い錯覚を味あわせてもくれる。でも、彼らのこの夕暮れの中での眩しさはどうだろうか。自分ももしかしたらあの頃、こんな光を出していたんだろうか。


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