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Golden Park [gillman*s park 12]

Golden Park

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  ぼくがこの公園を散歩するようになって久しい。それは2005年にこのブログを始めた時まで遡るのだけれど、と言うよりこの公園を散歩して目にしたものが余りにも新鮮だったので何とか自分の中に残しておきたいと思ったのもこのブログを始めたきっかけの一つだったと言った方が正しいかもしれない。

 それはともかくとしても、この公園が今ではぼくの人生の重要な部分を占めていることは確かだ。四季の移ろいに目を向ける心の余裕も感性もなかったぼくに、それじゃぁ人生損してるよ、と教えてくれたのは公園の木々やその上に広がる刻々と変わりゆく広々とした空だった。

 今日の夕暮れの公園は赤褐色に色づいた木々の葉に夕陽が当たって、あの伝説の黄金都市エルドラドの世界を彷彿とさせるような黄金色に輝いていた。この公園の景観はセンターアレーに植えられたメタセコイアの並木、それに池の半周に植えられた落羽松の鋭角的な形と、それと対峙するように池の反対側に配された柳の女性的な形との微妙な調和で作られている。

 メタセコイアと落羽松はどちらも三角形で樹の形も似ているし、常緑樹ではなくて初冬になると燃えるような赤褐色に染まることも同じだ。敢えて違いを言えば枝の伸び方がメタセコイアの方が幾分鋭角的に空に向かって伸びていることと、葉っぱがメタセコイアは対生(枝に両側の葉が向かい合ってついている)なのに対して落羽松の葉は互生だから互いちがいについているくらいだと思う。

 歳をとるにつれて段々と冬が好きではなくなってきているけれど、夕陽を浴びながら金色に染まった落羽松の落葉の絨毯を踏みしめて歩く楽しみは数少ない冬の楽しみの一つになっている。もしかしたら「静謐の悦び」という点では季節の中でも今は最良の時期なのかもしれない。

  (cam:NEX-7 & Xperia)

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草萌ゆ Autumn Sprout [gillman*s park 12]

草萌ゆ Autumn Sprout

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 おちついて死ねさうな草萌ゆる (種田山頭火)


 山頭火が松山の庵「一草庵」でこの句を詠んだのは昭和十五年三月十二日のことだった。全国を行乞の旅をしながら彷徨っていた山頭火の願いは、病んでも長く苦しまないで厄介をかけないで「ころり往生」を遂げることだったらしい。この句を詠んだ前の年の暮に山頭火は旅を終えて松山の寺の境内の庵に落ち着いた。

 その時同じような句を詠んでいる。「おちついて死ねさうな草枯るる」 表現は似ているけれども、その意味は随分と異なっていると思う。「草枯るる」の方は疲れ切ってやっとたどり着いたこの地で、あとは草が枯れるように自分の命も終わってゆくのだというような気持ちなのに対し、「草萌ゆる」の方は春に芽吹いてくる若草の力を目にして、安堵したような気持ちを込めてもういつ自分の命が終わっても良いというような境地にあったのかもしれない。(山頭火はこの年の10月に脳溢血で死去。58歳だった)

 春になって若草が芽を出してくる光景は、まだ世界が終わらないで続いているんだという何よりも確かなメッセージで、それは多分人の心にも力を与えてくれる光景なのだと思う。もちろんこの句のように「草萌ゆ」は春の季語なのだけれど、先日夕方に公園を散歩していたらそんな光景に出合ってしまった。

 公園の池を囲んでいる落羽松の葉はもう赤味がかった褐色をした秋の色になっている。クヌギもサクラも色づきながら自分の足元に落葉をひきつめている。その日は普段はあまり行かない、未整備地にある池の裏側の方に行ってみた。昼間は常連の釣り人たちが並んでいる池の畔にももう人影は殆どなかった。

 池の裏側は小高い丘になってる。さして広くないスペースなのであまり人も来ないところだ。そこには一定間隔でシイやクヌギなどの広葉樹が植えられている。足元には秋らしく赤や黄色の落葉がひきつめられているが、驚いたのは丘の向こうから差し込んで來る夕陽に照らされて、無数の若草が金の針のように光り輝いていたことだ。

 山頭火の句でいえば今は間違いなく「草枯るる」の時期なのに、まるでこれから春がやってくるような…「草萌ゆる」の光景。でも、若草の間に敷き詰められている無数の落葉は、今がまぎれもなく晩秋であることを示している。とても不思議な光景だった。もしかしたら、ぼくがよく知らないだけで普通のことかもしれないけれど、ちょっと得をしたような気になってしまった。

 公園の方に戻ると、もうどこもかしこも秋の風情だった。秋の夕陽に照らされて木々や散歩する人たちの長い長い影が公園の歩道の上に広がっている。一瞬ぼくの前を猛スピードで自転車が通り過ぎてゆく。何の変哲もない秋の夕暮れの一瞬だけれども、ぼくはこの一瞬を何度も想い出すかもしれないと思った。

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秋の日のヴィオロンの… [gillman*s park 12]

秋の日のヴィオロンの…

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    落葉(らくよう) [秋の歌]

    秋の日の 
    ヴィオロンの
    ため息の

    身にしみて
    ひたぶるに
    うらがなし・・・

    
鐘の音に  胸ふたぎ
    色かえて  涙ぐむ
    過ぎし日の 思い出や

    
げにわれは
    うらぶれて
    ここかしこ
    さだめなく
    とび散らう
    落ち葉かな

    (ポール・ヴェルレーヌ/上田敏訳)


 ぼくの公園の散歩コースは家のすぐ近くの公園未整備地区の入り口から始まる。未整備地区という名の通りそこは用地買収は終わっているけれどまだ公園としてちゃんと整備はされていない一画なのだけれど、これが結構広大な広さである。途中に道路が通っていたり、所々飛び地になっていたりするけれど、ぼくはどちらかというときちんと整備された公園内の敷地よりもこちらの方が好きなくらいだ。

 未整備地区の中をしばし歩いた後にやっと正式な公園の池の畔にでる。ここからの眺めは一年中いつ観ても飽きない。そばのベンチに腰かけて池に映り込んだ空を眺めているとなんとも心が落ち着く。自転車でやってくる釣り人の顔もいつも見る顔だ。対岸に見える公園の柳はまだ夏の名残で青々としているけれど、もう光はすっかり秋のそれになっている。

 ベンチに腰かけてつくづく秋だなぁと感慨にふけっていたら、ふと「秋の日の ヴィオロンの ため息の 身にしみて ひたぶるに うらがなし…」という詩の一節が浮かんできた。と言っても、後にも先にも曲がりなりにも詩の一節を暗唱できるのはヴェルレーヌの詩のこれきりなのだ。詩の本を読むのは好きだけれど、これ以外の詩は全く暗唱できない。

 なぜこの一節だけが頭に残っているのか。ひとつにはもちろん上田敏の訳詩のリズムがとても心地よくて頭に残りやすいということがある。上田敏の訳詩ではタイトルは「落葉」となっているけれど元々の原題は「秋の歌」というもので彼の訳も今風にいうなら「超訳」といった感じだ。しかしそれにしても実に心地よいリズムなのだ。

 しかし、この詩の一節が心に残った決定的な理由は、この一節が昔の映画のシーンの重要なキーになっていたからだ。その映画の名は「史上最大の作戦 The Longest Day」(1962)で三時間の大作だけれどもぼくは初めて見たとき映画館で二回続けて観た覚えがある。ぼくはまだ高校生だったけれど強烈な印象が残った。その中のワンシーンにこの詩が登場するのだけれど字幕に現れた「ヴィオロン」という文字とフランス語の発音がはっきりと頭に焼きついた。

 第二次世界大戦の終盤、極秘裏に進められていたノルマンディー上陸作戦を控えたある日、フランスのレジスタンスたちはラジオにかじりついてBBCフランス語放送の詩の朗読の時間に耳を傾けていた。それは朗読される詩の中に連合軍側から各レジスタンスのグループに対する情報の暗号が隠されていたからだった。それは「ドイツ占領地区のみなさんへ…」という呼びかけで始まる。

 詩の朗読の前に「ジョンの髭は長い」とか「私はシャムネコが好き」などのレジスタンスのグループを示す符丁が流される。「私はシャムネコが好き」はノルマンディー地方のレジスタンスへの呼びかけのようだ。続いて詩が朗読される。「秋の日の、ヴィオロンの、ため息の」いつもはこの詩の朗読はなぜかこの一節だけで終わっていた。

 そしてその日、それに続く「身にしみて、ひたぶるに、うらがなし…」が流された。 とうとうこのヴェルレーヌの詩の第二節が朗読された。それは二四時間以内に連合軍の大規模な攻撃が開始されるという暗号だった。フランスのレジスタンスはそれを待っていた。もちろんこれはすべて実話だ。同じ放送をドイツ軍情報部も聴いていた。ドイツの情報機関の長であるヴィルヘルム・カナリスは早い時点からこのヴェルレーヌの詩の第二節がBBCで流された時には連合軍による大規模な反抗が開始されることを掴んでいたが、最後までその情報が活かされることはなかった。

 この謎めいた人物であるヴィルヘルム・カナリスは生涯二つの顔を持っていた。ひとつは自分自身もスパイだったが諜報機関のトップとしての顔と、提督にまで上り詰めた優秀な海軍軍人としての顔である。カナリスの名前はぼくが大昔に勉強していた反ヒトラー抵抗運動の文献の中にもたびたび登場していた。一般にはカナリス提督と呼ばれていたが、名前がギリシャ系のためか小さなギリシャの提督とあだ名されていた。彼はドイツ人にしてはとても小柄で、真夏でも厚手の長いコートを羽織っていたというエピソードが残っている。小柄なので威厳を出すためとか、第一次大戦中の戦傷の後遺症の悪寒のためだとも言われていたが本当のところはわからない。当時ヒトラーと差しで話ができる数少ない人間の一人でもあった。

 彼はヒトラー体制の中枢にあって、しかも同時に反体制派の擁護もするという複雑な動きをしている。「金髪の野獣」と恐れられユダヤ人虐殺の推進者であったナチス親衛隊のラインハルト・ハイドリヒと親友ともいえる親交を結びながら、一方では大勢のユダヤ人たちをスイスに逃がしてもいる。彼の不可解な動きは最終的には1944年7月20日におきたヒトラー暗殺未遂事件に絡む調査の中で反体制派との接点があぶりだされることとなった。

 この事件では数百人にのぼる、中にはただ疑わしいというだけの理由の人々も含めて、大勢の人たちが残忍な方法で処刑された。大半はベルリンに今も記念館としてのこるプレッツェンゼーの処刑場で処刑されている。結局カナリス提督も捕えられて人民裁判所で一方的な判決を下され、フロッセンビュルク強制収容所において1945年4月9日絞首刑にされた。ドイツ降伏のちょうどひと月前のことだ。最後は地位も剥奪され無残に処刑されたカナリスの数奇な運命は、皮肉にも彼が暗号と見抜いていたヴェルレーヌの詩の後半がそれを暗示しているようだ。「…げにわれは うらぶれて ここかしこ さだめなく とび散らう 落ち葉かな」 歴史は時として皮肉屋で、そして残忍だ。

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少年時代 [gillman*s park 12]

少年時代

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  ♪少年時代 

 夏が過ぎ 風あざみ
 だれの憧れにさまよう
 青空に残された 私の心は夏もよう

 夢が覚め 夜の中 長い冬が
 窓を閉じて 呼びかけたままで
 夢はつまり 想い出の後先(アトサキ)

 夏祭り 宵かがり 胸の高鳴りに合わせて
 八月は 夢花火 私の心は夏もよう

 目が覚めて 夢のあと 長い影が
 夜に伸びて 星屑の空へ
 夢はつまり 想い出の後先

 夏が過ぎ風あざみ だれの憧れにさまよう
 八月は 夢花火 私の心は夏もよう

   (作詞・作曲 井上陽水)



 今頃になると、井上陽水の曲「少年時代」を聴きたくなる。陽水の歌も好いけれど、ぼくはアルバム「YOUSUI Tribute」に入っている忌野清志郎の歌ったバージョンが好きだ。照りつける夏の陽の下で虫網や釣竿を持って汗だくになりながら駆け回った子供の頃の情景が浮かんでくるような歌い方が好い。

 今散歩に来ている公園の辺りはぼくが小学生の頃、夏休みには虫採りや魚採りに来ていた辺りだ。でもそれはもう五十年以上も前のことだから、その頃にはここにはまだ公園は無かった。その頃はこの辺りは見渡す限りの田んぼだったと思う。ぼくは千住の街なかで育ったから近所に原っぱはあったけれど魚とりや昆虫採集は出来なかった。

 それで、夏休には同じ位の年周りの従姉妹たちがいる叔母の家に泊まり込んで過ごすことが多かった。夏休みの叔母の家では昆虫採集と昼寝と家では身体に毒だと言って食べさせてもらえなかったカキ氷が何よりの楽しみだった。その後、ぼくが中学に入ると夏休みに叔母の家に泊まるということは無くなってしまった。そして時代は高度成長が始まりここら辺の田んぼはどんどん宅地や造成地になっていった。

 ぼくが結婚して何年か後にこの近所に越して来た時には、ぼくが夏休みに魚採りをしていたこの辺りはまるでゴミの集積所のようになっていた。今考えると、この公園を造るための用地買収が始まっていたのだけれど本格的な建設着手までに二十年以上掛かったためか、辺り一帯は不法投棄されたゴミの山で見る影もなかった。

 公園は今もまだ完全には完成していない。しかし、段々と公園らしい姿を現し始めてきた。ぼくにとっては完成した部分が余りにも整備されすぎてそれ以前の姿を知る者としては、もう少し自然の形を残して欲しいとも思うのだけれど、それは我儘というものかもしれない。数年前に比べると目にする昆虫の数が激減しているのも気になるが原因は分からない。

 散歩コースの中でぼくの好きな公園の池の畔に立つと、一時は目を見張るほどに群れをなしていたが最近はとんとその姿を見かけなくなっていたチョウトンボの姿が水面に見られた。また以前のようにハナムグリトンボミツバチ達が戻ってきてくれればいいのだけれど… 家に戻ろうとすると公園の真っ青な空の中を瑠璃色の縞を翻しながらアオスジアゲハが泳いでいった。

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青い花 [gillman*s park 12]

青い花

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 東京も梅雨入りしたみたいだ。雨に勢いづいたように公園のアジサイの花も咲きそろった。アジサイの葉は特徴的だから花の咲いていない時でもアジサイの木だということがすぐ分かるけれども、それでも花の時期になると、「あれ、こんな処にあったっけ?」という意外な場所に花を見つけることがある。

 アジサイの花はガクアジサイから大きなブーケのように華やかな園芸種まで花の形を愛でる楽しみと、咲き出してからの花の色の変化の楽しみと両方が楽しめるのも好い。公園にも色々な種類のアジサイが咲いている。白やピンク、紫そして青。もちろん単純にそうした色だけではなくてその中間や二つの色がグラデーションになっているのもある。

 その花の色によって随分と印象が変わってくる。清楚な感じの白いアジサイ、華やかなピンク、鮮やかで高貴な感じの紫、そして青い花はどこか妖しい感じがする。公園の一画に見事な青い色のアジサイが咲いていた。最初は白っぽい花にブルーの縁取りがあった小さい花の塊が、大きくなるにつれて見事な青色の花に変わっていった。その花を見ていて若い頃に読んだノヴァーリスの小説「青い花」を想い出した。

 もう随分昔のことなので殆ど忘れかけていたけれど何故か小説のタイトルの「青い花」という言葉は強烈にぼくの印象に残っていた。その時も「青い花」より「青き花」とか「蒼き花」の方が好いんじゃないかな、などと想ったことも想い出した。もっとも「青い花」という題は日本語版でのタイトルであって原題は主人公の名前からとった「Heinrich von Ofterdingen(ハインリッヒ・フォン・オフターディンゲン)」という長いものだった。日本語訳の「青い花」というのは主人公が夢の中で見る妖しい青い花からとられていると記憶している。

 ぼくはよく青空文庫からiPadにダウンロードして小説を読んでいるけれど、ドイツにも青空文庫のようなProjekt Gutenberg.De というサイトがあって数多くの名作が無料でiPadにダウンロードできるようになっている。ぼくは最近は大学の頃ゼミで勉強したことになっているけれど実は殆ど真剣に読んではいなかったカフカの作品をよく読む。ノヴァーリスの「青い花」もそのサイトにあったけれど、なぜかそれは英語訳のバージョンだった。

 英語でも勉強になるからいいかなぁと思ったけれど、そのタイトルを見ていっぺんに読む意欲が失せてしまった。日本ではその小説のタイトルが「青い花」になっていたけれど英語版のタイトルは「Henry of Ofterdingen: A Romance」だった。日本語版の「青い花」に比べれば人名をそのまま活かしてタイトルにしている所は買えるけれどHeinrich(ハインリッヒ)がHenry(ヘンリー)ではあまりではないか。頭に浮かんでくる主人公の顔が違ってしまう。それに続くサブタイトルが「A Romance」ではちょっとなぁ、ハーレクイン・ロマンスみたいで…

 もっとも日本語の題の「青い花」もかなりぶっ飛んでいるけれど、そう悪くは無いと思う。ノヴァーリスのこの小説はドイツロマン主義の名作のひとつだけれど、ドイツロマン主義を表す時の色をイメージするとやはり「青」にならざるを得ない。赤や白や黄色では全くと言っていいほどそぐわないと思う。青い色の花はこの小説のようにどこか現実離れした夢の中の出来事のような妖しい雰囲気を含んでいる。

 梶井基次郎は「筧の話」の中で青い花についてこう言っている。「…私はそれによく似た感情を、露草の青い花を眼にするとき経験することがある。草叢の緑とまぎれやすいその青は不思議な惑わしを持っている。私はそれを、露草の花が青空や海と共通の色を持っているところから起る一種の錯覚だと快く信じているのであるが、見えない水音の醸し出す魅惑はそれにどこか似通っている…

 青い花は空や海や湖などを想い起させる。ましてや朝露や小雨に濡れた青いアジサイの花からは水の音さえ聴こえてくるようだ。そう言えばアジサイの学名はhydrangea(ヒドランジア)で、これはラテン語で「水の器(うつわ)」と言う意味だ。青いアジサイにじっと耳を傾ければ水音が聴こえてくるかもしれない。


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 *主人公の名前がその小説のタイトルになっている作品はドイツ文学でも多いですね。特にヘルマン・ヘッセの作品には多いようです。その内の何作かは原題は人名でも日本語版では別のタイトルがついているものがありますね。例えば、「郷愁」(Peter Camenzind)、「春の嵐」(Gertrud)、「漂泊の魂」(Knlup)などがそうですね。

 **西欧の名前(ファーストネーム)は日本のように漢字の意味や造語でつけられているものより、聖人や歴史上の偉人などにちなんだものが多いせいか、文化圏をまたいで共通の名前が存在します。しかし、発音やスペルは微妙に異なるためぼくらが聴くと全く異なる印象をもつことが多いですね。

 このHeinrichもハインリッヒといえばぼくらはハイネを想起しますし、Henry(ヘンリー)といえばフォードとか、Henri(アンリ)と読めばルソーというように当該の国の著名人が浮かんできますが、それは基本的にはぼくらは現地読みを片仮名表記したもので覚えるように教育されてきたからで、対応した名前が自国にもある西欧ではきっとアメリカではアンリ・ルソーはヘンリー・ルソーと言われているのだと思います。だからハインリッヒ・フォン・オフターディンゲンがヘンリー・オブ・オフターディンゲンになっても少しもおかしくは無いのですが…


 ***ネットで見たら、このノヴァーリスの「青い花」に出てくる花は青いチコリの花らしいのですが、その花はぼくには全く馴染みのない花だったのでぼくはずっと勝手に青い矢車草をイメージしていました。矢車草はドイツの国花でもありますが、その素朴な楚々とした佇まいがぼくは好きです。

 えーと、矢車草について一部加筆です。ちょっとややこしいのですが、通称ヤグルマソウには二種類あります。たぶんぼくらがヤグルマソウという時頭に思い浮かべる青い花は和名がヤグルマソウで後述するユキノシタ科のヤグルマソウと混同しないようにヤグルマギクという名前で呼ばれることもあるようです。前者のヤグルマソウ(ヤグルマギク)はドイツではKornblumeという名前でその鮮やかな青色が愛されており、一説にはチコリでなくこれがノヴァーリスの青い花だという人もいるようです。

 もう一方のユキノシタ科のヤグルマソウは、白い花ですね。青い花の方のヤグルマソウはキク科なので全く違う花なのですが、ちょっとややこしいです。ぼくは矢車草というと青い花のヤグルマギクを思い浮かべますが、人によっては白い花の方を思い浮かべるかもしれないので念のためです。


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一夜の花 [gillman*s park 12]

一夜の花

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 …「夢にすれば、すぐに活きる」と例の髯が無造作に答える。「どうして?」「わしのはこうじゃ」と語り出そうとする時、蚊遣火(かやりび)が消えて、暗きに潜めるがつと出でて頸筋にあたりをちくと刺す。

「灰が湿っているのか知らん」と女が蚊遣筒を引き寄せて蓋をとると、赤い絹糸で括りつけた蚊遣灰が燻りながらふらふらと揺れる。東隣で琴と尺八を合せる音が紫陽花(あじさい)の茂みを洩れて手にとるように聞え出す。すかして見ると明け放ちたる座敷の灯さえちらちら見える。「どうかな」と一人が云うと「人並じゃ」と一人が答える。女ばかりは黙っている。

「わしのはこうじゃ」と話しがまた元へ返る。火をつけ直した蚊遣の煙が、筒に穿てる三つの穴を洩れて三つの煙となる。「今度はつきました」と女が云う。三つの煙りが蓋の上に塊(かた)まって茶色の球が出来ると思うと、雨を帯びた風が颯(さっ)と来て吹き散らす。塊まらぬ間に吹かるるときには三つの煙りが三つの輪を描いて、黒塗に蒔絵を散らした筒の周囲(まわり)を遶(めぐ)る。

あるものは緩く、あるものは疾(と)く遶る。またある時は輪さえ描く隙なきに乱れてしまう。「荼毘(だび)だ、荼毘だ」と丸顔の男は急に焼場の光景を思い出す。「蚊の世界も楽じゃなかろ」と女は人間を蚊に比較する。元へ戻りかけた話しも蚊遣火と共に吹き散らされてしもうた。話しかけた男は別に語りつづけようともせぬ。世の中はすべてこれだと疾(と)うから知っている。

「御夢の物語りは」とややありて女が聞く。男は傍らにある羊皮の表紙に朱で書名を入れた詩集をとりあげて膝の上に置く。読みさした所に象牙(ぞうげ)を薄く削った紙小刀(ナイフ)が挟んである。巻(かん)に余って長く外へ食(は)み出した所だけは細かい汗をかいている。指の尖(さき)で触ると、ぬらりとあやしい字が出来る。「こう湿気てはたまらん」と眉をひそめる。女も「じめじめする事」と片手に袂の先を握って見て、「香でも焚きましょか」と立つ。夢の話しはまた延びる。…

  夏目漱石 「一夜」より



 これは夏目漱石の短編「一夜」の一節だけれど、ぼくは漱石の作品の中でもとりわけこの一編が好きだ。極めて短い小説で、はっきりとした筋があるわけでもない。男二人と一人の女が蚊遣を焚いた和室でとりとめのない夢の話をしている。それは一見芸術談義の様相を呈してはいるがそれもまたとりとめのない話だ。

 八畳の座敷に立ち上る蚊遣の煙。庭の紫陽花の繁みの向うから隣家が奏でる尺八と箏の音が聞こえてくる。三人の他愛のない一夜の会話を紫陽花の花がじっと聴いているようだ。話の中には蜘蛛も蟻も登場する。若冲も出てくる。しかしそれは話の添え物であってこの噺の主人公ではない。

 この噺の本当の主人公は漱石の美意識だとぼくは思った。それは漱石の美意識でもあり、そして恐らくはその時代の日本人が持っていた美意識なのかもしれない。髭無き男(三人のうちの一人)が言う、「八畳の座敷があって、三人の客が座る。一人の女の膝へ一疋の蟻が上がる。一疋の蟻が上がった美人の手は…」「白い、蟻は黒い」

 静謐で妖艶で幻想的な美意識の世界。それは間違いなく漱石のもっと前の時代から日本人の頭の中に引き継がれてきた美意識なのだと思う。この小説を読むたびに、自分の今の借り物の安っぽい美意識がとてもみじめなものに見えてしまう。紫陽花の花が嗤っているようだ。


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  *公園のアジサイも咲き始めました。華やかで大ぶりなアジサイの花の塊の足元にひっそりと咲いていたガクアジサイの花がとても可憐でした。毎年今の時期になるとアジサイの花が見られることがとても幸せなことのように思えます。

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桜はまだか [gillman*s park 12]

桜はまだか

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 東京も昨日桜の開花宣言をしたみたいだけれど、公園のソメイヨシノはまだ蕾のままだった。それでも濃いピンクの彼岸桜が数本咲いている一角では気の早いグループが木の下にシートを敷いてお花見をしていた。本格的な開花を待ちきれないみたいだ。

 春休み中とあって公園の中は子供連れの人で一杯だ。いつもは静かな公園もこの時期にはソリ・ゲレンデなどから子供達のはしゃぎまわる甲高い声が聞こえてくる。バーベキューのコーナーからはあの独特の匂いが漂ってくる。焦げくさいような、いろいろな食物の匂いが混ざり合ったちょっとすえた様な匂い。ぼくはその匂いがあまり好きではない。嗅覚が殆どダメになってしまったぼくの鼻は意地の悪いことにその匂いだけには敏感なのだ。

 バーベキュー広場を後にして通りを一本渡って公園未整備地区の方に入ると今までの喧騒が嘘のように人気のない静かな平原が広がっている。ここはいつまでもこのままの形で残しておいて欲しいと思う。もう長いことこの公園を見つめているけれど、素晴らしかった散歩道が遊具やコンクリートの歩道などの過剰な「整備」でつまらない場所になってゆく姿も随分目にしてきた。テーマパークのようにいろいろな設備を作って「遊ばせてもらう」スペースを作ることも良いかも知れないけれど、日本にももっと大人が静かに「遊ぶ」場所も残しておいてもらいたいと思う。 


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 *一年に一度くらいは夫婦で旅行したいということで去年から年一の旅行をすることにしてこの春も年初から準備をしていました。予定の日が近づくにつれてやっぱりばあさんの心気症の症状が強くなって医者通いが続いています。旅行に行く前日までまた以前のように直前でドタキャンをすることになりはしないかとストレスがつのります。

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春が来る前に [gillman*s park 12]

春が来る前に

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 昼ちょっと前に公園に散歩に行った。途中でマスクをかけてくるのを忘れたことに気がついた。家に戻ろうかとも思ったけれど、面倒くさいのでそのまま散歩を続けることにした。この間もマスクを忘れて花粉症のために目の痒みと鼻水でひどいことになったのだけれど…

 空は晴れているけれど風が結構強いし、その風が手に当たるとかじかむように冷たい。いつもの池の畔まで来ると一人のおじさんが鳥にパンくずの餌をやっている。ほんとうはここでは餌をやってはいけないのだけれども、散歩の際にここを通りかかるとたいてい誰かしらが餌やりをしている。

 鳥の方もそれを承知しているらしく、それらしい人がやってくると最初にハトカラスが、それからカルガモオオバンなどの水鳥がやってきて、最近では餌を投げ上げる人が多いのでヒヨドリ達も集まってきて木の上から餌が投げ上げられるのを狙っている。最後には鳥たちのおこぼれにあずかろうと、池の鯉達が近づいてくる。

 そのうち、もう一人のおじさんが近づいてきて餌を放り上げるとサッと鳥が飛んできてさらってゆくのを見て「すごいねぇ」といった。パンくずの餌を投げ上げているおじさんは自分が褒められたみたいに「まぁね~」とか言っていたが、もう一人のおじさんの方はそれに耳を貸す風もなく空を見上げていたので、それが単なる外交辞令で褒めたんだということが分かった。集まってきている鳥達のメンバーを見るとどうやら冬の渡り鳥たちは殆ど次の渡りの地に旅立ってしまったようだ。集まってくるのは留鳥達ばかりだ。

 鳥たちもおじさん達もみんなもうすぐ春が来ることを知っているみたいだ。そう、あと一息のところまで春は来ている。もうすぐだなぁ、と思った刹那、春が来る前にやっておかなけれゃならないあれやこれやがぼくの頭をよぎった。気がつけば毎日ダラダラと過ごしていて、やるべきことをやっていなかった。それと、これと、それから、あれも… 早く家に帰ってかたずけておかなくちゃ。

  (cam:Nikon D5000)


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You Must Believe in Spring [gillman*s park 12]

You Must Believe in Spring

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 もうそろそろ春になったっていいじゃないかぁ、と思いながらコンビニとばあさんの薬を薬局にとりに行きがてら公園まで足を伸ばした。夕方からは曇り空になるらしいけれど、今朝は明るい陽射しが気持ちのいい朝だった。天気がいいと重いカメラでも苦にならないのか、コンビニに行くと言いながらもいつものGRDⅡじゃなくてD300が首にしっかりとぶる下がっていた。

 少し歩き出してから、用事を済ますのは後にして散歩を先にすることにした。光が好いうちに光の中を歩こうと思った。公園の南側の丘にくるといつものようにこんもりとしたクスノキの木立の下で犬を連れた数人の人が犬を遊ばせながら雑談をしている。 遠くから見るとこの小さな森はまだ黒々として見えるけれど、枝の間をすり抜けて下草を照らしている光はもう温かい色をしている。


 何匹かの犬たちは日向の草の上に座り込んで日向ぼっこをするように空を見上げている。 春が近いのは公園にいる人の数が増えたのでも分かる。池の畔のウッドデッキの上では近所のおじさん達が何やら話している。「マスクして、花粉症かぁ?」「んな上等なもんじゃあねぇんだよ。風邪だよ、風邪」「まぁ、歳食ってくると花粉症にもならねぇっていうからなぁ」「あれ、大崎さんは今日はどうした?」「ああ、今日は来ねえとよ」「どうしたんだろうなぁ?」「色々と大変みてえだな」

  おじさん達の会話を聴きながら犬はデッキのそこらへんをウロウロしている。首輪をしているけどリードは付いていない。誰の犬かは分からない。おじさん達からちょっと離れた処に女性が一人で立っている。彼女の犬かもしれない。 ぼくは池にせり出したデッキの手すりに寄り掛かっておじさん達を眺めている。

 デッキの上でのおじさん達と犬と女性の配置がなんか演劇の舞台の上の一つのシーンのように思えた。筋立てがこれからどうなるのかは分からないが… なんか大変そうな大崎さんの話が展開するのか。でも、春はもうそこまで来ている。You must believe in Spring.
 
 (cam:Nikon D300)

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 ⇒公園、あの日、あの場所 Stand by me

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 「You Must Believe in Spring」はBill Evansのぼくの好きなアルバムタイトルでもあり、もちろんその中に収録されている曲の名前でもあります。作曲は多くの名曲を世に出したミシェル・ルグラン、作詞がアラン&マリリン・バーグマンです。

 エヴァンスのこのアルバムは彼のアルバム「Walz for Debby」とならんで不朽の名盤と言っていいと思います。エヴァンスのピアノのリリシズムが曲の至る所に溢れています。この曲はメロディーはもちろん歌詞も素晴らしく、その内容はどんなに辛くともやがて春はやってくるのだから、そう信じなきゃ…というものですが、この曲を録音した数年後にエヴァンスは薬物などの荒廃した生活の果てに命を落としました。彼には春は来なかったのでしょうか。

 ピアノでこの曲を堪能するにはエヴァンスのこのアルバムがベストだと思いますが、この美しい歌詞を堪能したいならオペラ歌手のジェシー・ノーマンがミシェル・ルグランの曲を歌っているアルバム
I Was Born In Love With You Jessye Norman Sings Michel Legrandも素晴らしいです。ジャズとは異なる発声法で歌われたルグランの曲は今までとはまた違った魅力を見せてくれます。

You must believe in Spring.jpg I Was Born In Love With You Jessye Norman Sings Michel Legr.jpg


 You Must Believe In Spring
 

 ♪ When lonely feelings chill
   The meadows of your mind,
   Just think if Winter comes,
   Can Spring be far behind?

   Beneath the deepest snows,
   The secret of a rose
   Is merely that it knows
   You must believe in Spring!

   Just as a tree is sure
   Its leaves will reappear;
   It knows its emptiness
   Is just the time of year

   The frozen mountain dreams
   Of April’s melting streams,
   How crystal clear it seems,
   You must believe in Spring!

   You must believe in love
   And trust it’s on its way,
   Just as the sleeping rose
   Awaits the kiss of May

   So in a world of snow,
   Of things that come and go,
   Where what you think you know,
   You can’t be certain of,
   You must believe in Spring and love
   You must believe in Spring and love

     (Alan & Marilyn Bergman / Michel Legrand)



     


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なごり雪 [gillman*s park 12]

なごり雪

SchneeDsc03348.jpg


  朝起きたら外は雪だった。昨日は天気予報を気にしていなかったのでちょっと意外な雪だ。外はかなりの降りだ。雪は比較的細かい粒なのだけれど、随分と水分を含んでいるらしく地面に落ちるとベタッとした感じになる。

 今日は午前中ケアマネージャーがウチに来て話をした後、日本橋あたりで友人と昼飯をとる予定だったのだけれど、雪はやみそうもないので、足元も危ないから取りやめた。ケアマネージャーが帰った後、窓から降りしきる雪を見ていたら公園はどんな景色になっているだろうか、ということが気になり始めてきた。

 午後になると雪がやんで陽が照りだしてきた。早くも軒先の雪が溶けだしてあちこちでポタポタという音がする。水分を多く含んだ雪だから溶けるのも速いのだろうか。公園の雪も溶けてしまうなぁ。友人との会食を断っておいて、のこのこと公園に出かけてゆくのも申し訳ないと思ったが、誘惑には勝てなかった。

 公園は人影も殆ど無かった。いつもの坂道には一筋の足跡があるだけでその先には真っ白な雪の平原が続いていた。池の畔に行くと、ぼくと同じように誘惑にかられたのか二三人の人がカメラを持って立っていた。用意万端三脚を構えている人もいる。ぼくはそこまで根性がないから軽めのα350を首から下げてポケットにGX200を入れて歩き回った。雪がベタベタと足にまとわりつく。

 公園のそこここでカラス達が騒いでいた。もともとここの公園にはカラスが多いのだけれど、今日は特にその姿が目立つ。人によってはカラスを毛嫌いするけれど、ぼくはこの公園のカラスを撮るのが好きだ。良く見るとカラスにはいろいろな表情がある。まぁ、ちょっと多すぎる気はするけど… 種田山頭火カラスの句を沢山詠んでいる。

 彼の場合カラスには「鴉」という字を使っている。普通は「烏」の字の方を使うことが多いのかもしれない。「烏」の方はカラスの形から来た象形文字だが、「鴉」の方は漢字の「牙(ガ)」の方がカラスの鳴き声を現す擬声語らしい。いずれにしても山頭火は行乞の旅で目にするカラスに自分の心理を投影することが多かったのかもしれない。 

 ■ 寒うをれば鴉やたらにないて (其中日記)

 ■ なにもかも凍つてしまつて啼く鴉 (其中日記)

 ■ 雪の鴉のながながないて (其中日記)


 今年はこれが最後の雪かもしれない。元来「なごり雪」という言葉は無いのだけれど、イルカの歌ったなごり雪は抵抗なくぼくらの心に浸みこんできた。それは春先に訪れる名残り惜しい別れを象徴する言葉として生きているかもしれない。別れを告げるのは愛する人であったり、古い自分であったり、去りゆく季節であったり。今年の冬はさほど名残り惜しくはないかも知れないけれど…

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