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The Last Summer [gillman*s park 13]

The Last Summer

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 今年の夏は暑かった。それでもやっと彼岸までこぎつけたという感じだけれども、それでも時折思い出したように真夏日がやって來る。さすがに公園の空は秋の気配が濃いけれどまだ気候が安定していないためか、その空の表情はめまぐるしく変わることが多い。

 毎朝、散歩のときには必ず寄る公園の丘は眺めが良いこともあるけれど、それよりもそこの一番の見どころは丘の上に広がる広大な空自体なのだ。丘の上で寛ぐ人の様子と空の表情との組み合わせは限りなく無限でいつまで観ていても飽きることが無い。ぼくは特に丘の下にある東屋から空をバックにした丘を見上げるのが好きだ。

 丘の上にはいくつかベンチがあって、そこには色々な人が座る。その時も年配の男の人が二人で座っていた。話し込むでもなく眼下に広がる公園とその向こうの街並みを見ているようだ。去ってゆく夏を目で追っているのかもしれない。もうすぐ彼岸だ。彼岸が近くなって今頃になるといつも親父と過ごした最後の夏のことを思い出す。

 9月26日が親父の命日だけれど、親父の亡くなった1995年という年はぼくにとっても大変な年だった。年初に起きた阪神淡路大震災に追い打ちをかけるように3月には地下鉄サリン事件が起きた。ぼくはといえば震災の対応とバブル崩壊で疲弊した会社の体力をなんとか取り戻そうと狂奔していた。

 そんな状況の中で連休明けに医師から親父の末期ガンが告げられた。風邪のつもりで近所の医者に診てもらったら、肺がんの疑いがありその日のうちに大学病院を紹介された。病名が告げられたのはその直後だった。その年の夏は会社の会議室と親父の病院の往復で過ぎて行った。親父と過ごした最後の時間を反芻する余裕も時間もなく駆け抜けるようにその夏は過ぎて行った。

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<reference>

呼びかける言葉
あの年の夏


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あ、秋かも [gillman*s park 13]

あ、秋かも

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 以前にもこのブログに書いたような気がするけれど、夏の最中(さなか)に、あ、今日から秋が始まったなと感じる日がある。この間もそんな日があった。日本には四季があるから、そんな感じを味わうのはもちろん夏だけじゃあない。次の季節の本格的到来の前にその兆しを感じるということがある。

 この間、インドネシアの留学生のA君と話していて「そう言えば、インドネシアにも四季があるの?」と聞いたら、A君は我が意を得たりというような顔をして「インドネシアにもちゃんと四つの季節がありますよ」、「え、どんな季節?」とぼく。

 「えーと、クソ暑い、とても暑い、暑い、ぬるい、の四つです」どうやらこれは日本人にインドネシアには四季があるの、と聞かれた時に使う彼のテッパン・ギャグらしいのだが、その時もみんなで笑った。今度は逆にA君から「日本人はどうやって、いつ夏が秋に変わったのか知るんですか?」と聞かれてしまった。

 うーん、一言で説明するのは難しいなぁ。ぼくはとっさに「天気予報で知るんだよ」と言ったけれど、余りうけなかったし、必ずしもそういうわけでもないなぁ。考えてみるとぼくらの季節感は実に複雑にできているようだ。A君の疑問に答えるにはまず暦(こよみ)の話をしなければならないかもしれない。

 ぼくらの先祖は元は中国から伝わって来た太陰太陽暦という暦を使っていた。昔は月の満ち欠けを見れば手元に暦が無くとも今日が何日か分かり便利なので太陰暦を使っていたんだと思う。太陰暦では一月が30日だから一年は360日になる。

 その一年を四つの季節に分けて、1〜3月が春、4〜6月が夏、7〜9月が秋、10〜12月が冬と決めたけれど季節を決定づける太陽の動きからすると本当は一年は365日だから、放っておくと一年に5日づつ季節がずれてゆくので、そのうち夏に雪が降るようなことになってしまう。

 そこで日々の日数は月の満ち欠けをいただいて、季節感の方は太陽の動きから持ってくることにして、そっちは夜と昼の長さの変化に注目することにした。まず、大まかに一年を四つに分ける。つまり夜が一番長くなる日と昼が一番長くなる日、そして一年に二回くる昼と夜の長さが同じになる日、それらを冬至・夏至・秋分・春分と呼んだ。

 それらが言わば季節の本番みたいなもので、それをさらに各々ほぼ二等分する処に立春・立夏・立秋・立冬を置き、それは各季節の始まりのようなものだ。この季節感に月の満ち欠けをベースにした太陰暦がズレて収まり切らなくなる時点で、調整のために閏月(うるうづき)を設けてその年は同じ月を二度繰り返すようにした。まぁ、良く考えたものだ。

 上にあげた八つの節目を含めて、それをさらに細かく等分して大暑や大寒等を加えて作られたのが二十四節気(にじゅうしせっき)というものだけど、それは中国の気候がベースになっていてぼくらの先祖はイマイチ満足できなかったのか、それに彼岸や土用や八十八夜などのいわゆる雑節を加えて日本の季節感を定置させようとした。

 それらはもちろん、主には農耕民族であった日本人の実用的要請に応えたものだと思うけれど、厄介なことに日本列島は南北に長いためにそれだけではその土地の季節感を捉えるには充分ではなかったはずだ。二十四節気などの暦日を頭に入れながらも最後は自分の感覚を研ぎ澄ませて季節の声を聴いていたのだと思う。

 ここでA君の質問に答えようとするなら、今のぼくらはまず天気予報のおねえさんの「今日は立秋ですよ」という言葉を耳にすると、ああこれから秋がくるんだなぁ、と思う。尤も新暦で言えば立秋は8月の始め辺りだからまだ暑いさかりだけど、ここら辺からよく耳を澄ますと秋の足音が聞こえてくる。そうしてやがて九月の声を聞くようになる。

 そう言う数値的な季節感を背景に、各土地で、各個人が季節の移ろいの兆しを感じるようになる。それは日の光の強さだったり、空気の肌触りだったり、雲の形の変化だったり、土地の恵みの産物の味の変化だったりするのだ。そうこうしている内にぼくらの心の中で新たな季節の姿がはっきりと浮上してくる。季節感というのは、そのように一言では言い表せない感覚なのだという他はない。

 その根底にはぼくらが先祖から受けついた、季節の移ろいの微かな兆しに気がつくことに歓びを感じる感性があるのだと思う。俳句もそれが形を成したものの一つだろう。
 でも、これじゃあA君への答えになっていないかな。

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 *竜巻の頻発などの今年の異常気象を見ていると、地球温暖化によって今ぼくらの季節感自体も危機に瀕しているような気がします。

 ぼくらの季節感はつまりは各人が育った土地なり環境の中で育まれた四季のイメージがあって、ぼくらは大人になっても常にそのサインを探していることによって生まれてくるのかもしれません。それが今崩れつつあるのかも…

  →今日から秋


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夏が好きなうちに [gillman*s park 13]

夏が好きなうちに

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 猛暑。日本各地で40度を越したらしい。東京は35度くらいだったが、ウチの二階の部屋は温度計を見たら41度を示していた。屋根の熱気が二階の天井裏に溜まり、加えて日当たりのいい部屋だから温室のようになってしまうのだ。普段だったらそれでも窓を開け放って扇風機を回してパソコンに向かっているところだけれど、昨日はさすがに耐えきれずに一階の居間に行ってクーラーを入れてカミさんと猫達と避難生活を強いられた。

 ぼくは夏に生まれたせいか、それでも夏が好きだ。昔は冬も好きだったけれど、歳をとってくると冬は筋肉が委縮してくるせいか頸の痛さも半端ではなく、辛い日が続くようになって来た。昔は木枯らしの吹く街をコートの襟を立てて歩くような風情が好きだったけど、今はそんな余裕はない。

 一昨日ばあさんの処に行ったら「外は暑いの?」と聞いたので死ぬほど熱いよ、と言ったけどピンと来ていないようだった。ばあさんがウチにいる頃は真冬と真夏はそれこそ一度単位の温度調整で神経をすり減らした。夏冬はほとんどエアコンを付けっぱなしにしていたのだけれど、それでも古い一軒家は断熱材も入っていないし、隙間風も来るので温度調整がちょうどよくはならない。本格的な夏・冬が始まると決まってばあさんは体調を崩していた。

 医者の言うように本来は人間は暑い寒いを体感してはじめて健常な身体が維持できるのだということは分かっているけれど、ばあさんのように90歳を過ぎたら許容できる寒暖の幅はそう広くはないのだ。たとえそのほうが身体には好いと分かっていても青息吐息の辛そうな姿を看過することはできない。そういう意味では一年中春のような今のホームでの生活は以前よりはずっと安心できる。

 少し日が高くなり始めた午前中の公園を散歩しながら考えた。いずれ自分も、もちろん長生きすればの話だけれど、ばあさんのようにこのウチでは真夏、真冬が耐え難い季節になる時が来るかもしれない。ぼく自身は四季の変化が好きなのだけれど、身体の方がどこまでついていけるか。事実まず好きだった冬が嫌いになりつつあるし…。夏が好きなうちに何とかしないと。

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(cam:NEX-7)

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夏休み [gillman*s park 13]

夏休み

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 夏休み

作詞/作曲:吉田拓郎

麦わら帽子は もう消えた
たんぼの蛙は もう消えた
それでも待ってる 夏休み

姉さん先生 もういない
きれいな先生 もういない
それでも待ってる 夏休み

絵日記つけてた 夏休み
花火を買ってた 夏休み
指おり待ってた 夏休み

畑のとんぼは どこ行った
あの時逃がして あげたのに
ひとりで待ってた 夏休み

西瓜を食べてた 夏休み
水まきしたっけ 夏休み
ひまわり 夕立 せみの声


 夏休みが始まった。平日の朝の公園の常連は散歩の年寄りと、出勤前の一走りだろうかスウェットスーツや短パンで走っている若者達なのだけれど、そこに虫取り網や釣竿を持った子供達が加わると夏休みが始まる。

 もうぼくには夏休みは直接関係ないのだけれど、夏休みと聞くと何だかちょっとウキウキすると同時に、宿題は?、と心配になって次の瞬間、あぁもうないんだなとホッとする。余程嫌だったんだなぁ、宿題が。
 小さな子供達は真夏の期間だけオープンされる公園のじゃぶじゃぶ池でお母さんなんかと遊ぶけれど、小学生位になると友達と連れだって玉網とバケツを持って池で遊ぶ方がずっと愉しいようだ。
 ぼくも子供の頃は夏休みにはちょうどこの辺りで玉網や虫捕り網を持って走り回っていた。尤も、もう六十年近くも昔の話だけど… もちろんその頃はここは公園ではなくて見渡す限り田んぼや畑の続く田園地帯だった。

 ぼくはこの近くで生まれたけれど、すぐに千住の街中(まちなか)に引っ越してそこで育ったので、普段はぼくの身の回りには工場や商店があるばかりで田んぼも畑もなかった。その時代には所々に原っぱはあったけれど、それは青々とした田園の風景とは無縁の景色だった。

 そんなわけで普段は近所の原っぱで遊んでいたけれど、夏休みになるとこの近くの叔母の家に泊まりに行った。叔母の家にはぼくと年回りが近いいとこ達が居たので、長い時には十日位泊まっては毎日遊びまわっていた。日が暮れるまで魚とりや虫を追いかけていた。

 その叔母もとっくに他界し、当時一緒によく遊んだいとこもずっとアメリカに住んでいるのでもう長いこと会っていない。田んぼや畑だった今の公園の場所は、その後高度成長時代に宅地になり一部は廃材置き場のようになって荒れていたけれど、その後ずいぶんと長い時間をかけて今のような大きな公園となって形は違うけれどもまた緑が戻ってきた。

 今朝、散歩した時池の淵で子供達が玉網で何かをすくっていた。子供の甲高い声が聞こえてくる。何かが捕れたんだろうか。その子供達の脇を杖をついた老人がゆっくりと歩いてゆく。ぼくはその様子を少し離れたところから見ていたのだけれど、なんか、昔の自分とこれからの自分が時を超えて今、目の前を通り過ぎて行ったような錯覚に陥った。

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(cam:NEX-7)
 
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街の自然 [gillman*s park 13]

街の自然

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 ここのところちょっとバタバタしていて少し公園散歩から遠のいているので、明日の朝あたりからまた再開しようと思っているのだけれど、少しご無沙汰していると公園の木々や下草の具合はどうなっているんだろうかと気になって仕方がない。

 毎日行っていると気が付かない変化でも一週間も行かないと季節が動いているのがよく分かる。もちろん毎日行っているとそれに全く気が付かないかとそうではない。恐らくは気が付くポイントが違うのだろうと思う。

 たまに行くと、ああ葉っぱが青々としてもうすっかり春だなぁ、とか木々の葉も落ちて冬が来たなぁというように頭に入ってくるのは季節の節目のような顕著な変化を示す事柄が多いけれど、それが毎日散歩で訪れていると目に入ってくるのは季節の移ろいの兆しや予兆のようなものが多いかもしれない。

 これから向かってゆく季節の予感や今が盛りなのだけれどその中に既に生まれつつある季節の終焉の兆しなど、ともすれば大きな季節の変化に埋没してしまうような小さな変化に気付くと、季節と言うものがより深く心の中に沁み込んでくるような気がする。

 そういう感慨は大自然の中に身を置いたり住んだりした方がより強く感じられるのだろうけれど、ぼくの場合大自然はちょっと苦手で街の中にあるいわば小自然みたいなものの方が安心して季節感を楽しむことができるのだ。それに街では木々の色や咲く花の変化と同じように遊ぶ子供や道行く人の姿にも季節は表れてくる。彼等だって自然の一部なのだから。

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元気って、好いなぁ。 [gillman*s park 13]

元気って、好いなぁ。

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 いつも散歩に行く公園だけれど、日曜には行かない。
 人がたくさんいて、
 バーベキューの焦げ臭い匂いが余り好きじゃなくて、避けていた。
 なのに、ゴールデンウイークのさなかに、
 無性に公園に散歩に行きたくなって行ってしまった。

 案の定、公園の中は人だらけでお祭りかと思った。
 子供がわけもなくそこら中を駆け回る。
 ちょっと歩いて、すぐ池の畔のベンチに腰をかけた。
 ベンチの周りにも草の上にシートを広げて、
 ピクニックをしている人がたくさんいる。

 そのうち若い女性が二人でバトミントンみたいなのを始めた。
 厳密にはバトミントンじゃなくて、
 ラクロスのスティックの先みたいなものを使っていた。
 ベンチに座っているぼくの前で、元気に跳ね回っている。

 なんか元気って、好いなぁ。
 ぼくもちょっと元気になった。
 元気は、元気を呼ぶのかもしれない。
 もし、他人が元気そうにしているのを見て、うっとおしく感じるとしたら、
 それはたぶん自分がいま幸せじゃない証しかもしれない。
 で、ぼくは今、きっと幸せなんだと思った。

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(cam:NEX-7/Cybershot DSC-F717)


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 *下の写真の方は8年前に撮ったものですが、ファインダーの向こうから元気光線がこちらにやって來るような光景はカメラを覗いていてもなんともうれしくなる瞬間ですね。そんな元気光線を逆にうっとうしく感じるときは、なにか自分の心の中に影があるのかもしれません。そんな時に素直に元気をもらう気持ちを持てたらと思うんですが、自分にもそれはできなかったなぁ…

 


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春の予感 [gillman*s park 13]

春の予感

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  あの大雪以来、久しぶりに公園を散歩した。公園の中には雪はもう残っていなかった。それでも公園に来る途中、民家の日当たりが悪い北側の隅には氷のように固まった雪が残っている姿も見られた。公園の東側の入り口から入ってゆき、いつも猫たちがたむろしている駐車場に抜ける一画にくると、白と黒のブチの猫が鳴きながらぼくの方に近寄ってきた。

 散歩のときによくここを通るけれど、人の姿を見るとさっと逃げてしまう猫と、逆にすり寄ってくる猫とその反応も猫によって様々だ。その黒ブチはぼくの足元に来ると体を摺り寄せてきた。頭や喉を撫ぜてやると気持ちよさそうにおとなしくしている。暫く遊んでから「もう、行くからね」というとトコトコとベンチの方にかけて行ってその上にのった。

 二つ並んだベンチの左側の方では工事現場の交通整理のオジサンが、休憩時間なのかベンチに座って携帯で電話をしている。ぼくがさっき来た時から電話しているので、結構長電話みたいだ。そうか、この黒ブチはオジサンが相手してくれないのでぼくの方に来たのかもしれない。黒ブチは今度はベンチの反対側に座って電話が終わるのをじっと待っているみたいだ。ベンチの両端に座っているオジサンと猫の間に白い木漏れ日が溢れて、春の予感がした。


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 *結局この後、黒ブチはオジサンの電話が終わるのを待ちきれないで、足の周りをグルグル回り始めました。公園の一画での微笑ましい光景を後に池の畔に行くと裸になった落羽松がそびえていました。その姿を見ると春はまだまだかなと思いましたが、三本の落羽松の間に立ってその幹を見上げると、枝の隅々まで神経のように新しい小枝が伸びて春の準備が整いつつあると感じました。

(cam:NEX-7)


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Tokyo Snowstorm [gillman*s park 13]

Tokyo Snowstorm

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 雪が降り始めたと思ったらあっという間に積もって、二階から見る近所の屋根は真っ白になってしまった。天気予報ではこんな雪の事は予想していなかった。大かたまた爆弾低気圧のせいなんだろう。窓から降りしきる雪を見ていたらちょっと公園の様子を覗いてみたくなった。もちろんあわよくば良い写真が撮れないかという下心もあってだけれど。

 ぼくが外出する支度をするのを見てカミさんは呆れていた。いっぱい着込んで雨じゃないからフードをかぶれば良いと両方のポケットにGX200とTX-7を入れて、首にNEX-7をブル下げて一歩玄関を出たらもう、しまったと思った。吹雪みたいで視界はきかないし、あっという間にレンズは雪だらけ。横から吹き付けているからたまらい。

 呆れ顔のカミさんを後にして行ってくると言った手前すぐに戻るのも癪なので、とにかく公園までいつもの散歩コースをたどることにした。首に下げていたNEX-7をコートの中にしまいこんだので胸のところが大きく膨らんで、何のことはない降りしきる雪の中を徘徊している怪しいオジサンという風体になった。

ぼくが勝手にゼブラ公園と呼んでいる途中のポケットパークでは子供たちがはしゃいでいた。道を歩いているのは子供とそしてこの寒いのに犬の散歩の人だけ。公園に着くとさすがにそこには人影はなかった。踝の上までくる雪を踏みしめて歩く。いつも歩いているところだから、どこが道でどこに溝があるかは分かっているから歩けるけれど、初めての場所だったら雪の下がどうなっているかかわずに不安になりそうだ。

 水分を多く含んだ雪の重みに耐えかねて折れる枝のバキッという音がそこここから聞こえてくる。風に揺られた枝から雪の塊がバサッと落ちてくる。小さな森の方では餌を求めてか鴉の群れが大声をあげながら飛び交っている。雪の公園には結構いろんな音が鳴り響いている。風上側の樹の幹にまとわりついた雪、ベンチにこんもりと積もった雪、柳の枝に花のようにしがみついている小さな雪の玉、ここが東京とは思えない程美しい。

 でも段々と、手はかじかんでくるし、鼻水は垂れるし。写真を撮るには風が強すぎてレンズに雪がかかってしまう。北国の人から見たら笑っちゃう位の吹雪なんだろうけど… 写真を撮りたくなるといつも衝動的にウチを出てしまうけれど、現場に来てからあれを持って来ればよかった、これもといつも後悔する。今日もそう。でもまぁ、そんなに写真は撮れなくても、これはこれでいい散歩だった。

  (cam:NEX-7/GX200)

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*そうなんです、上の写真の左端にいる女の子が持っている
黄色いハサミのようなもの、実は雪玉作り器なんです。
東京の雪は水分を多く含んでいて雪玉を作っていると
すぐ手袋がびしょびしょになってしまいます。
そこで、この雪玉作り器を使うと手が冷たくないし、
かつきれいな真ん丸の雪玉が作れるというわけです。
その証拠にその右側の女の子がまさに投げようとしている
手の中の雪玉は見事な真ん丸ですね。
いかにも都会的な道具。
もしかしたら、雪合戦用のオフィシャル・グッズ
なのかも知れませんが…


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