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黄金色の路 [gillman*s park 14]

黄金色の路

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 今日は散歩の時、いつもの公園に行く前にコンビニに寄って友人に宅配便を出した。その途中にも別の公園があるのだけれど、その一画の工業高校に沿った一本道が銀杏並木になっていて、そこは時期が来ると見事な黄金色に染まる。それを見る楽しみもあった。

 この前その道を通った時にはまだ時期が早かったのか、銀杏の木は緑色の葉を残して黄葉はまだこれからというところだった。ところが、今日そこを通りかかってみると、並木道の木々が見事に黄葉して路の上には黄色い銀杏の葉が敷き詰められて黄金の路になっていた。

 黄色く敷き詰められた銀杏の葉の上に幾筋もの木漏れ日が差し掛かって、それが銀杏の葉の裏の白い肌に反射して眩しい位だ。近づいて良く見ると、銀杏の葉の黄色の合間に紅の紅葉の落葉、それにこの時期に不思議なくらい瑞々しい緑色の草も顔を出している。自然が作り出す絶妙な色のコントラストはぼくらが如何に真似ようとしても足元にも及ばない。


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 この時期になって銀杏並木が色づいて、黄金色の路が出現するといつも思い出すシーンがある。昔、学生の頃親友と鎌倉を散策した時のこと。当時、彼は由比ガ浜に住んでいたのでぼくは殆ど毎週のように週末は鎌倉で過ごしていた。

 海の見える彼の部屋でぼくらはいつも朝まで語りとおした。今考えれば学生の青臭い論議だったが。その日もぼくらはとうとう一睡もしないまま、朝早く北鎌倉から裏道を抜けて浄智寺の方に向かった。民家と畑に挟まれた細い道を上ってゆくと、その道は小さな山を越えてやがて寺の脇の切通しにでる。

 もう少しで浄智寺が見えるという下り坂に差し掛かったとき、ぼくらは息を呑んだ。突然ぼくらの目の前に黄金色に光る落ち葉の敷き詰められた小道が現れ、その両側には色とりどりのコスモスの花が風に揺れて踊っていた。

 黄金色の路の両側の陽の光を受けたコスモスの花びらが、ひらひらと舞って一瞬蝶の翅のように見えた。すぐ近くにあるはずの鎌倉街道からの車の音も聞こえてこない。落ち葉が風でうごめく、サササッという音だけがひんやりした切通しに響いていた。

 まるで時が止まったように、ぼくらは暫く何もいえずにそこに佇んでいた。ぼくの脳裏にはそれが今でもはっきりと焼きついている。見上げると真っ青な空に、レースのように朝露をちりばめた蜘蛛の巣が浮かんでいる。黒と黄色の鮮やかな縞模様の女郎蜘蛛が一匹、巣の中央にいて、蜘蛛が身動きするたびに水滴が揺れてキラキラと光っていた。

 もう五十年近くも昔の話だ。その親友はもう逝ってしまったけれど、彼と共にその光景を見た記憶は思い出すたびに胸が痛むと同時に、あのこの上なく美しい光景を一緒に見てから彼が逝ったということが、ぼくにとって今でもひとつの慰めになっている。


 ■ 銀杏かゞやかに、山茶花はさみしく (山頭火)

 

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忘れていた秋 [gillman*s park 14]

忘れていた秋

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 ■ また逢ふまでの山茶花を数へる (山頭火)

 自分の体調のこともあったりして、ここの所なんだかバタバタしていて身の周りの変化に気づきにくくなっていたのかもしれない。散歩に行っても、あまりその情景が頭に入ってこない。散歩自体が日課の消化みたいな気持ちになっていたのか。

 当たり前のことだけど、世の中はもうすっかり秋になっていた。いつも散歩している公園の落羽松の葉も全て落ちて、地面はその燃えるような褐色の落葉の絨毯で覆い尽くされている。葉の落ちた落羽松の枝々をすり抜けてきた光がその絨毯の上に鮮やかな模様を作り出している。

 なんで、こんな秋の真っただ中に來るまで秋の到来に気付かなかったんだろう。以前ならそんなことは無かったはずなのに。池の畔のベンチに腰かけて考えた。それで、一つ気が付いたのは最近は散歩にカメラを持ち歩かなくなったことだ。

 取り立てて言うほどの理由は無いのだけれど、ただ何となく億劫になっていたのかもしれない。スマホを持ち歩いているから、何かの時は撮れるというような安易な感じもあったのかもしれない。でも、それはきっと違っていたのだと思う。

 ぼくにとっては写真を撮ること自体よりも、カメラを持って写真を撮ろうと思わない限り自分には見えてこない日常に潜んでいる何かに気づくことの方がずっと大事なのだと思った。それに…心の中のどこかで、どうせ自分の写真なんて、と思っていたのかもしれない。でも、本当に大事なのは撮る手前の処だったのだ。今日は忘れていた秋に出会ったような気持だった。

 ■ また逢へた山茶花も咲いてゐる  (山頭火)

 

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秋、コスモスな気持ち [gillman*s park 14]

秋、コスモスな気持ち

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 本職の詩人ともなれば、いつどんな注文があるか、わからないから、常に詩材の準備をして置くのである。
「秋について」という注文が来れば、よし来た、と「ア」の部の引き出しを開いて、愛、青、赤、アキ、いろいろのノオトがあって、そのうちの、あきの部のノオトを選び出し、落ちついてそのノオトを調べるのである。
 トンボ。スキトオル。と書いてある。

 秋になると、蜻蛉(とんぼ)も、ひ弱く、肉体は死んで、精神だけがふらふら飛んでいる様子を指して言っている言葉らしい。蜻蛉のからだが、秋の日ざしに、透きとおって見える。
 秋ハ夏ノ焼ケ残リサ。と書いてある。焦土である。
 夏ハ、シャンデリヤ。秋ハ、燈籠(とうろう)。とも書いてある。
 コスモス、無残。と書いてある。

 いつか郊外のおそばやで、ざるそば待っている間に、食卓の上の古いグラフを開いて見て、そのなかに大震災の写真があった。一面の焼野原、市松の浴衣(ゆかた)着た女が、たったひとり、疲れてしゃがんでいた。私は、胸が焼き焦げるほどにそのみじめな女を恋した。おそろしい情慾をさえ感じました。悲惨と情慾とはうらはらのものらしい。息がとまるほどに、苦しかった。枯野のコスモスに行き逢うと、私は、それと同じ痛苦を感じます。秋の朝顔も、コスモスと同じくらいに私を瞬時窒息させます。
 秋ハ夏ト同時ニヤッテ来ル。と書いてある。

 夏の中に、秋がこっそり隠れて、もはや来ているのであるが、人は、炎熱にだまされて、それを見破ることが出来ぬ。耳を澄まして注意をしていると、夏になると同時に、虫が鳴いているのだし、庭に気をくばって見ていると、桔梗(ききょう)の花も、夏になるとすぐ咲いているのを発見するし、蜻蛉だって、もともと夏の虫なんだし、柿も夏のうちにちゃんと実を結んでいるのだ。

 秋は、ずるい悪魔だ。夏のうちに全部、身支度をととのえて、せせら笑ってしゃがんでいる。僕くらいの炯眼(けいがん)の詩人になると、それを見破ることができる。家の者が、夏をよろこび海へ行こうか、山へ行こうかなど、はしゃいで言っているのを見ると、ふびんに思う。もう秋が夏と一緒に忍び込んで来ているのに。秋は、根強い曲者(くせもの)である。 …

(太宰治「ア、秋」)



  ぼくはコスモスの花が好きだ。ちょっとひょろっとして風に吹かれている様を見るといかにも秋が来たんだなぁというような気持にさせられる。最近、園芸種のキバナコスモスが流行らしく庭園や道路脇の植え込みなどでも盛んにみられるようになったけれど、ぼくにとってはあれは余りコスモスという感じはしない。やっぱりコスモスと言えば白から濃い赤紫まで微妙な諧調を持つ色々な花々が点在して風にそよいでいる姿がしっくりくるような気がする。

 太宰治は随筆「ア、秋」の中で自分のメモを引用する形でコスモスを無残と評している。コスモスは優しい感じがする花だけれども、その佇まいにはどこか一抹の寂しさが付きまとっている。花の盛りを過ぎたコスモスがひよろっとした茎を風になびかせて揺れている姿は確かに多少言い過ぎの感はあるが無残と言えないこともない。尤も、それを情欲にまで持ってゆく飛躍は太宰らしいけど…。

 太宰のモノの見方はぼくにしてみれば曲がりすぎているところもあって中々共感しずらいこともあるけど、この随筆の夏と秋の行(くだり)はぼくもいつも同じようなことを感じていた。「…夏の中に、秋がこっそりと隠れて、もはや来ているのであるが、人は、炎熱にだまされて、それを見破ることが出来ぬ…」という行はまさにその通りだと思う。

 昼間の炎熱はあっても、ある朝起きてみるとまだ真夏なのに空気の温度感が昨日と違う、もしくは照りつける陽の光によってつくられる影の濃さの移ろいを見て、あ、陽の力が弱まったなぁ、などちょっとした皮膚感覚のレベルでぼくたち日本人は季節の変化を感じ取っているのかもしれない。ぼくはこういう「季節の糊代(のりしろ)」みたいなのが好きだ。去ってゆく季節への名残と来るべき季節への期待のサイクルがぼくらの日常を彩っている。

 でも、まぁ、太宰のように「秋は、ずるい悪魔だ。夏の内に全部、身支度をととのえて、せせら笑ってしゃがんでいる」とまで言われれてしまうと秋もかわいそうな気がする。たしかに、秋の手下のコスモスは短日植物だから夜の長さがある程度以上長くならないと花芽が形成されないのだけれど、夏の内から茎の中でじっと準備をして虎視眈々と秋の到来を狙っているともいえる。だから、「秋は、根強い曲者である」なのか。

  しかし、世の中よくできたもので一つのモノに対しても色々な見方がある。太宰が無残と評したコスモスも野口雨情の手にかかればどこか夢の国の花のように感じられる。コスモスのひょろ長い茎を下から見上げれば、また違う世界が見えて來る。子供の目線か、それよりもっと小さい虫の目線か、それともコスモス畑に寝転んで風に揺れるコスモスの花々を見上げたのか。青空に不規則に浮かぶ大小の花が、まるで空中を舞う熱気球のようにも見えて來るではないか。ぼくはこの見方の方が好きだなぁ。



   セイタカコスモス
 
  セイタカ
   コスモス
   セイクラベ
 
  オテテヲ
   アゲテモ
   トドカナイ
 
  タカイナ
   タカイナ
   カテナイナ
 
  ワタシノ
   セイデハ
   カナハナイ


  (野口雨情「朝おき雀」)



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あ、秋かも
今日から秋


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