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Nostalgia ~Dialogue~ [Déjà-vu]

[Déjà-vu]  ~Dialogue~


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 ■ なぜ反対するのか
人はしばしばある意見に反対する。ところが本当はそれの述べられた調子だけが同感できないのにすぎないのだが。

 Warum man widerspricht. - Man widerspricht oft einer Meinung, während uns eigentlich nur Ton, mit dem sie vorgetragen wurde, unsympathish ist.

 (F.ニーチェ『人間的、あまりに人間的』 第六章交わりの中の人間303  池尾健一訳)




 ニュルンベルクは城壁と砦の街だ。高台にあるカイザーブルク城からは街の全景が見渡せるので城の入り口はいつも観光客で賑わっている。

 そんな見晴らしの良い所なのに、二人のお嬢さんが景色などそっちのけで何やら言い合いをしている。綺麗なお嬢さん達が街を見晴らしている姿はそれだけでも如何にも様になるけど、このプチ・ファイトも絵になるなぁ。可愛いって得だなぁ。

 失礼してちょっと近づいて耳を傾けるとドイツ語ではなくその独特のリズムはイタリア語のようだ。ということで、話の中身は分からないので、身振りからぼくの方で勝手に想像。

 L:「ねぇ、ちょっと待ってよ」 R:「だって、そうじゃないのさぁ」
 ②「えっ、それってワタシのせいなの?」「誰もそんなこと言ってないじゃないの!」
  ・・・・
 ③「なんかさぁ、ちょっと言い過ぎたかも(笑)」「アタシも…」
 ④「ゴメン、もう忘れましょ」「うん…。 ねぇ、ちょっとそこのアンタ、何見てんのよ!」

 あっ、こっちにとんできた。

     (Aug.2015 in Nürnberg Kaiserburg)



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 Dialogue、対話と言うやつは自分の立ち位置とか、話の展開を読みながらしなけりゃいけないので、頭の巡りの悪いぼくなんかは最も苦手とするものだ。ドイツ人なんか得意そうだけど、ニーチェが「人間的…」で書いているのはぼくは常々ぼく達日本人に顕著な点だと思っていたんだけど…。

 ぼくが思うには、これは日本語の構造の問題かもしれないけれど、日本語は話し手が「どう考えているか」よりも「どう思っているか」が伝わりやすい言語のような気がしている。「考える」も「思うも」英語にするとTHINKになりそうだけど、ぼくらの頭の中では微妙に違うと思う。

 日本語は文末などの語尾の部分(文法的にはモダリティーと呼ばれている部分を含めて)が発達しているので、そこに話し手の様々な感情も乗せることが出来る。と同時に聴き手としては、その語尾から受けた感情情報等の上に話された内容を積み上げてゆくので、どうしても話の内容よりも相手が「どう思っている」かというところに目が行くような気がするのだ。それも一つの要因かと。

 ニーチェは相手が意見を述べる調子のことを「Ton」と言っている。これは英語のtone(トーン)」と同じで語気や語調などの言葉の調子のことで西洋人はそれに身振りが加わるので外から見ていても分かりやすいのかもしれない。というより彼らにとってはそれが当たり前だから、相手のトーンで自分の考えは余りぶれないで内容の可否を論じているのかと思ったらそうでもないのか。

 よく言われる高・低文脈文化という言語文化の見方がある。ざっくり言うと高文脈文化とは話された言葉だけでなく言外の意味や文脈を大事にする文化で「みな迄言うな」とか「行間を読め」という性質が強く、低文脈文化とは「言葉として話されなかったことは理解されない」とか「言ったことが全て」という文化のこと。

 E.ホールはこの高文脈文化言語の極端な例として日本語を挙げ、低文脈文化言語の代表格としてドイツ語を挙げている。一般的には高文脈文化は言葉が曖昧でものごとが感情面で決まってゆくことが多いのに対して、低文脈文化では言葉が明快で論理的に意思決定がなされるとされているけど、そこにニーチェのいうTonが入ってくると少し変わってくるようだ。「考えは分かるけど、その言い方が気に食わない」ということは人間である限りどこの世界にもありそうな話なのだ。

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Nostalgia 〜Voyages〜 [Déjà-vu]

[Déjà-vu]   〜Voyages〜

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 ■ Voyages

 …見ることのほんとうのゆたかさは、細部にある。細部に目を凝らし、一つひとつの前でしばし立ち止まり、それから改めて全体を視野に収める。それが見るということだ。…

 …私が好きな旅は、一度に一メートルか二メートルしか進まない旅である。いちいち立ち止まっては、一つのものの新たな面をゆっくりと眺めたい。少し右か左へ行って腰を下ろして見れば、すっかりちがうふうに見えることがよくあるものだ。その方が百キロ進むよりずっといい。…

 …決まりきった見物旅行に陥らないコツは、変化にとんだゆたかなものを対象に選ぶことだ。とは言え、見る術を身につけるにつれて、どんな景観にも尽きることのない見る喜びが潜んでいることが分かってくるだろう。どこにいても星空を眺めることはできるし、それは名所の断崖にけっして劣らないのである。…


  (アラン『幸福論』 No.52 Voyages 村井彰子訳)




 ぼくは暫くの間一組の家族を眺めていた。とても不思議に感じた。絵のようにきれいなトラカイ城がすぐ後ろにあるのに奥さんは何もない空をバックに旦那の顔を何枚も撮り続けている。旦那の顔がすごく好きなのかな。きっと、素敵な写真が撮れてるんだろうなぁ。家族揃っては撮らないんだ。子供は関心なさそうだし…。

  奥さんは最後に一枚申し訳程度にお城に向かって旦那の写真を撮った。でも、それってカメラが近すぎやしないか? 大写しの旦那の顔の向こうにお城がちょこっと。でも、それが好いんだね。そうだね。ちょっと写真なんかに興味が湧くと、構図がどうのピントがどうの、レンズがどうのと小賢しいことばかりが頭に浮かんできて、その内自分にとってほんとうは何が撮りたかったのか忘れてしまうのかも知れない。(May 2014 in Lithuania Trakai)



 一人で旅する時は熱心にどこかを見て回るということはあまりない。広場でボーっとしていたり、部屋でダラダラしたり、本を読んだり…。写真を撮るために旅をしているわけではないから、ほんとうはカメラは無くても好いのかもしれないけれど、カメラを持っていると情景を漠然と見るのではなくて細部や変化に目が向くようになることがありがたい点かも知れない。

 そのせいか写真を撮ると、撮っていない時よりも後になってもその記憶は鮮明に残っていることが多いような気がする。後で撮った写真を見ればさらにその時の空気の感じまで思い出すことがある。それはうまい下手というよりも後で記憶をたどれるように無意識のうちにその中に自分なりの記号のようなものを写し込んでいるからかもしれない。

 ぼくにとってのその記号みたいなものは光や形であると同時に人であることが多い。たとえ壮大な自然の絶景であってもぼくの場合そこに人影がないと、ぼくには無縁な光景に感じてしまう。ぼくの中では目の前の景観に人影が加わって初めて情景となる。何故そうなのかはこれから考えてみたいと思うけど、いずれにしてもその情景とその時の自分の感覚を記憶に留めておきたいためなのだ、写真を撮るのは。それは過ぎ去ってゆく時への愛しみというか、追憶というか、つまりはNostalgiaなのだと思う。それはある日突然[Déjà-vu] のようにやってくる。

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きっと歳をとったせいだと思うのですが、
以前撮った写真を整理しながら見ていると
色々なことが頭に浮かんできて中々整理が出来ません。

写真を撮った時の情景から、写真の絵柄やその土地の名前
などがきっかけで写真とは直接関係ないような事柄まで
脳裏をよぎって妄想の世界に入り込むことがあります。

それらを時折「NOSTALGIA」の中で呟いてみようかな…と。






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