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猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その28~ [猫と暮らせば]

猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その28~

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 普通の猫なんて居ないわ。(シドニー=ガブリエル・コレット)

 “There are no ordinary cats.” (Sidonie-Gabrielle Colette)


 子供の頃から今までいろんな猫と暮らしてきたけど、それだけにこのコレットの言葉には、そうそうと思わずうなずいてしまうところがある。とは言っても、たとえば道端でノラ猫に出会ってそのことを他人に話して、どんな猫だったと聞かれたときには「普通の三毛猫だったよ」とは言ってしまうのだけれど…。

 それじゃあ、普通の猫と普通じゃない猫の分かれ目は何かというと、ざっくり言えば自分にとって名前がついているかどうかだと思う。名前は普遍的なものを特別なものへと変質させる力を持っている。いつも見かけるノラ猫に密かに名前を付けた時から、その猫は自分にとって特別な猫になるのだ。言語学者のソシュールが、そのモノがあるから名前が付いたのではなく、名前を付けたことによってその内容が浮かび上がり規定されてくるのだというようなことを言ったことを想い出した。

 名前というのは、その名前を持ったものとの関係を変えるという魔力を持っていると思う。以前訪れた南海の孤島波照間島では、島の至る所にヤギがいる。普段は畑の雑草取りのためにか長い紐で繋がれてのんびりしているが、島を挙げての一大イベントである大運動会には潰してヤギ汁にすることも多いということだった。

 ぼくの泊まった島の宿にもココちゃんというヤギが居て飼い主のおばさんに聞いたら、そのヤギは名前を付けたのでもう食べないという。随分と可愛がっていてそのヤギの自慢話を聞かされた。でもそのヤギだって放たれて島のどこかをウロウロして他所で普通のヤギとして捕まったらヤギ汁にされるかもしれない。

 名前を付けて、普通じゃない存在になって一緒に暮らし始めたら、それはもう全くと言っていい程違う存在になるのだと思う。それは猫だって犬だって金魚だってカブトムシだってそうなのだ。本当はどこにも普通の犬や普通の猫やそして普通の牛や、ありふれた豚や普通の命などはないのだろうけれど、それをしてしまったらぼくらは生きてはいけないので、普通名詞というものを考え出して不用意に固有の名前を付けないようにしているだけなのだ。


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猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その27~ [猫と暮らせば]

猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その27~

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 ■私が猫と戯れているとき、ひょっとすると猫のほうが、私を相手に遊んでいるのではないだろうか。(モンテーニュ)
 “When I play with my cat, who knows if I am not a pastime to her more than she is to me?” (Michel de Montaigne, Apology for Raymond Sebond)


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 自分でブログをやっていて、こう言うのもなんだけど最近いつでもネットで繋がれる時代になって、逆に何か上質な孤独というものが世間から少なくなっているのではないかと。まぁ、世間のことはどうでも良いけど自分のことを振り返ってみても、いつもネットでつながっているみたいでメールが来たり、誰だれさんがSNSに書き込みしましたよ、みたいなお知らせが来たり…。

 人間にはときたま、そういうものからも解き放たれて素の一人になれる孤独のようなものが必要なんじゃないかと思ったりもしている。と言ってもずっとそうで話し相手も、連絡を取ろうとする相手も居ないのはただの孤独で、上質な孤独とは言えないような気もする。とても贅沢なことなのだけれど、時には一人で何かを想う時間も必要だし、カミさんとゆったりするような時間も必要だと感じる。

 そういう中で、猫と「二人」で過ごす時間はぼくにとってはかけがえのない時間になっている。それは一人きりで、もの想う上質な孤独の時でもないし、かといって人間同士で集う安らぎの時間でもない。ぼくにとってそれは何も考えない、そして何も想わない、純粋にそこに時間だけが存在するような瞬間に思える。そばに居る猫はぼくにとってそれ自体が幸せの時間そのもので、それ以外の何物でもない。 …むろん彼女が遊びに飽きてしまうまでだけれど。


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 ■ どんな猫の遊びにもルールとしきたりがあるが、それは参加するプレーヤーによって様々だ。猫は、もちろんルールを破ることはない。もし、猫が以前のルールに従わないことがあれば、単に新しいルールを作ったということだ。その新しいルールを急いで覚えて、遊びを続けるかどうかは、あなた次第だ。(シドニー・デンハム)
 Although all cat games have their rules and rituals, these vary with the individual player. The cat, of course, never breaks a rule. If it does not follow precedent, that simply means it has created a new rule and it is up to you to learn it quickly if you want the game to continue. (Sidney Denham)


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猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その26~ [猫と暮らせば]

猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その26~


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 ■ 家族同様に暮らしていくうちに、猫はしだいに家庭の中心的存在になってくる。
この愛らしくも不思議な動物は生き生きとした静けさをかもしだし、王のような気品を漂わせながら悠然とわれわれのあいだを歩きまわり、自分にとっておもしろそうなもの、楽しそうなものを見つけたときのみ足をとめる。 (ジャン・コクトー)


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 クロが居なくなって二人と二匹は戸惑いながらも少しづつそんな生活にも慣れようとしている。朝、お腹がすいたとぼくを起こしに来るクロの役目は最初誰もやらなかったのだけれど、クロが居なくなってからぼくが朝中々起きてこなくなったからか、最近はレオがその役を引き継いだようで毎朝ぼくを起こしにやってくる。

 夕食などの食事の時テーブルに上がれるのはクロだけの特権だったのだけれど、それを引きついてぼくの晩酌の相手をするのはまだ出てこない。時折レオがテーブルに上がってくるけどつまらなそうに横たわっている。尤も小さかったクロとちがって体の大きいレオがテーブルの上に立っていられたのでは落ち着いて食事ができないけど…。やはりそれは小さな体のクロが適役だったのだと分かった。

 モモはライバルが居なくなったのでぼくの傍を独占できるようになったのだけれど、暫くの間はどこからかクロが出てくるんじゃないかと、キョロキョロする時期が続いた。最近は少なくなったがそれでも時々クロを探すようにウチの中を歩き回っている。それに変な話だけれど、クロが居なくなってモモは時々退屈するような感じで遊びをせがんでくるようになった。猫が退屈するなんてことはないはずなんだけど…。

 夜、寝床に入ってウトウトとし始めた頃、寝室の猫ドアが怖くてくぐれないレオが入れてくれと声を上げて催促するので渋々起き上がってドアを開けて入れてやると、その間に今までそばに寝ていたモモが部屋を出てゆく。またウトウトしたころ、今度は猫ドアが使えるのにモモがわざわざドアの外で鳴いている。しかたなくまたドアを開けに行くと、自分の手下のネズミを連れたモモがドアの外に立っている。やっとクロの居るころの調子が戻ってきた。それはそれでめんどくさいのだけれども、でも、そんなこんなのめんどくささは、猫がいればこその生活の遊びのようなものかもしれない。それも猫がくれる贈り物の一つだ。



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突然の別れ [猫と暮らせば]

突然の別れ


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  昨年の暮れくらいから、嗅覚を失ったことや母の事で気落ちした状態が続いてそれが身体にも響いているのか今ひとつ体調がすぐれない。そんな時に以前から予定していた旅行に思い切って出かけたのは良かった。

 暖かい国で東京の長引く寒さを避けられたのもありがたかったけど、何より一時花粉から逃れられたのも良かった。今度の旅行では色々と考えることもあったし、久しぶりのアジアに触れてエネルギーをもらえた様な気にもなった。

 旅の日程もあっという間に終わって、東京に帰る飛行機をハノイの空港で待っている間に留守番の者からメールをもらった。普通は余程の事がない限り旅行先にはメールはよこさないのだけれど…。メールには羽田に着いたら直ぐ連絡を下さいとあった。そういうメールがなくても、羽田に着けばいつも直ぐに連絡を入れているんだけど…、と訝った。その時は乗り継ぎ便の接続が余り良くなく空港で数時間の待ち合わせをしなければならなかった。

 高齢の年寄りを抱えている事もあって、飛行機を待っている間にも何があったんだろうかとどんどん気になって来て、あと数時間で羽田に戻るのだけど結局メールで問い合わせてしまった。帰ってきたメールはクロが今朝死んだ、というものだった。詳細は帰ってから聞くと答えたけれど、家に着くまで気持ちは虚ろだった。

 その日の深夜になってやっと家に着くと居間のソファーの上にタオルにくるまれてクロが横たわっていた。まるで眠っているようだった。でも身体に触るとひんやりと冷たいので生命の火はもう灯ってはいないことがわかった。何度もクロの身体を撫ぜてあげながら「あと、一日だったのにねぇ」と呟いた。

 クロは突然死だった。その朝も元気に窓辺で日向ぼっこしていたのに、暫くして階下の居間に下りて行ってそこで倒れたらしい。以前飼っていたタマの場合と同じだった。18歳のタマはカミさんの膝の上で寝ている時いきなり全身を硬直させてクーッと呻いたきり逝ってしまった。ほんの数十秒のことだった。

 苦しんだ様子もなく、あっという間の出来事だった。眠るようなクロの表情を見ると、きっとクロもそんな風だったのかもしれないと思った。傍に居て看取ることはできなかったけれど、苦しまなかったようだったのがせめてもの救いだった。

 飛行機が羽田に着くまで、ずっと色々なことを考えていた。もしかしたら夜が寒かったのかとか、モモとケンカしたのかとか、苦しんだのか、とか…。でもクロの最期の様子を聞いて少し心の重荷がおりた。これからはクロと過ごした時間をゆっくりと噛みしめたいと思っている。

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 *クロは12歳でした。捨てられた子猫で雨のなか家の前で倒れていたのを母が見つけて飼いだしました。その時の模様を書きだしたのがこのブログを始める一つの契機ともなりました。そういう意味ではこのブログもクロの贈り物です。

**昨日、ペットの葬儀社さんにクロの火葬と埋葬をお願いしました。またこちらも歳をとってきているので、これを機会に我が家に安置してあったタマチャー先代レオのお骨をクロと一緒に埋葬のお願いをしました。


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猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その25~ [猫と暮らせば]

猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その25~

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 ■ 長いこと一緒に暮らしていると、犬は飼い主の言うことが分かるようになってくる。猫は長いこと一緒に暮らしていると猫の言うことを飼い主が分かるようになってくる。 (gillman)



  今回は古今の著名人が残したちゃんとしたアフォリズムじゃなくて恐縮なのだけれど、これは今まで犬や猫と暮らしてきたぼくの実感なのだ。犬と猫を比べるアフォリズムは多いけど、その大半はどちらかというと猫に分があるようだ。それは文学者などに猫好きが多いということもあるかもしれないけれど、猫の方が野生が残っているので人間にとっては、特に詮索好きの人間にとっては謎解きのような楽しみがあり魅力的に映るのかもしれない。

 いずれにしても、猫も犬も人類が同じ空間で同じ時間を過ごしてきた親しい存在であることに変わりはない。それだけに、その違いに目が行くのかもしれないけど…。その一番大きな違いはコミュニケーションのスタイルの違いがあるかもしれない。犬は常に飼い主とコミュニケーションを取りたいと思っているし、一方猫は自分の必要な時にのみ自分の欲求をわかってもらいたいという傾向がありそうだ。

 どうも、その傾向が飼い主の性向にも表れる、というよりそういう性向が犬か猫を選ばせるのかもしれないが…。いずれにしてもテイストが微妙に異なる。誤解を恐れずに端的にいうなら「犬は教える喜び、猫は学ぶ喜び」みたいな感じがありはしないか。最近は猫を飼っているから、どうも猫の言うことをきいてその通りにしていることに喜びを感じている自分がいたりして何とも不可解千万である。

 最近はモモがマッサージを覚えて、寝る前にベッドの上でぼくのお腹をひとしきりマッサージしないと気が済まない。マッサージといったって、もちろんあの猫特有のモミモミ運動なのだけれど、体重をかけて揉まれるとそれはそれでマッサージっぽくなるのだ。で、暫くたって気が済むと解放してくれるのだけれど、途中で起き上がったりするととにかく怒る。その様子を傍らでレオは冷ややかな目で見ている。両方猫なのに。わからんっ。あ、そういえば、こういうアフォリズムもあったなぁ。


 ■猫とは、解答のないパズルである。(ハーゼル・ニコルソン)
 A cat is a puzzle for which there is no solution. (Hazel Nicholson)



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猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その24~ [猫と暮らせば]

猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その24~

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 ■

 私は自分の家に持っていたい

 わけの分かった一人の妻と

 書物の間を歩きまわる一匹の猫と

 それなしにはどの季節にも

 生きて行けぬほど大切な

 私の友人たちと

  (アポリネエル/堀口大學訳)


 上の言葉は大佛次郎の随筆「猫のいる日々」に出てくるアポリネエルの詩だ。なんとも静謐で良き時代の文化人の理想のような生活にも思える。これはアポリネエルでなくとも、こういう雰囲気の生活に憧れるのは西欧はもちろん昔の中国でも、日本の文人でもあるのではないか。

 もっとも僕なんかの今の生活はそんな静謐さにはほど遠いけれど、妻・書物・猫・友とその要素だけは一応整っている。そればかりか、猫は三匹もいる。まぁ、数の問題じゃないけれども…。感謝しなければならない。

 考えてみたら、その四つは自分が死に物狂いで働いていた時期にもちゃんと自分の身の回りにあったのだ。ただ、それに目を向けてつくづくとその有難味に感謝する気持ちの余裕も、その時間の余裕も無かったのだと思う。

 幸い今はそれに気付き感謝する時間も十分にあるけれど、今度は先に時間がそうは残されていないことに思い至る。時間はできたが、他方で今度は残された時間との戦いが…。と、以前は思っていたけど所詮時間と戦っても勝ち目はないので、今は一日一日を大事にすることに徹するようにしている。

 大佛次郎はこの随筆の中で、自分が臨終の時には猫がそばに居て欲しいと言っている。そればかりか、もしあの世というのがあってそこには猫が居ないのだったら自分の棺桶に入れて欲しいとも。もちろんこれは例えの話だけれど、それ程に猫を好いていたということだろう。

 大佛次郎はあの世に猫を連れて行きたいと言ったけれど、ぼくは自分が先に逝って万一猫だけが残ったらどうしようと心配している。ウチの猫は今、12歳、11歳、9歳だから猫にすれば決して若くはない。人間の平均寿命からすれば普通はこちらの方が長生きするのだろうけど、そこは何とも言えない。

 これからも、猫の居ない生活は想像し難くずっと飼い続けたいと思うのだけれど、万一猫が残った時のことを思うとカミさんともう新しい猫は飼えないかもねぇと話している。身内や周りに引き取って可愛がってくれそうな者がいるなら安心できるのだけれど、残念ながら猫嫌いと猫アレルギーなどで里親候補はみつからない。



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晩酌猫 kuro [猫と暮らせば]

晩酌猫 kuro

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 食事の時には基本的には猫たちを食卓には載せないのだけれど、クロだけは例外でぼくが食事をしながら晩酌をしている脇に控えている。クロは身体が小さいことと、ばあさんの躾でそうなってしまった感がある。食卓の上に居てもさして悪戯はしないのだが、かと言って油断しているとお魚ののったお皿にソーッと手が伸びてきたりする。

 クロは2004年の10月にまだ生まれてひと月も経たないような子猫の時に家の前で倒れていたのをばあさんが保護したのが縁で飼い始めたからもう12歳になる。この間テレビで日本の飼い猫の平均寿命が11歳に伸びたというニュースをやっていたので、クロももう飼い猫の平均寿命を超えたわけだ。

 以前飼っていた白猫のタマは18歳まで生きたからクロもまだまだ頑張ってもらいたいのだけれど、ばあさん猫になったからか、最近とみに人使いがあらく、やきもちやきになってきた。とにかくぼくが家に居る時は一日中後をついて回る。普通猫は余りそういうことはないのだけれど、それにクロだって以前はそうでもなかったのだけれど…。

 一匹だけで飼っている場合はそうでもないのかもしれないけど、三匹もいると独占欲が出てくるのかも。朝も朝食が終わるとなんとかぼくを寝室の方に連れてゆこうとする。とにかく自分の気が済むまで話さない。後ろを振り向き振り向き人を寝室へと誘導する。寝室に入ると自分はさっさとベッドに上がって横になる。これが朝の儀式で、これをしないと一日がはじまらない。

 一事が万事で何かやって欲しいことがあると、ぼくの所に来て鳴く。しらんぷりをしていると、段々大声になる。ぼくが椅子に座っている時は立ち上がってぼくの袖を引っ張る、結局根負けして言う事を聞いてしまうのだ。モモはそういうところが見たくないのか、プイとどこかへ行ってしまう。ここら辺が今の悩みと言えば悩みではあるけど、晩酌猫のクロをはべらせての夕餉のひと時は何ものにも代えがたい時間だ。いつまでも続いてほしいと願っている。


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猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その23~ [猫と暮らせば]

猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その23~

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  ■猫のたたずまいには、孤高を堪能しているような何かがある。
    
(ルイス・J・カミュティ/米国の猫獣医、1893~1981)
  There is something about the presence of a cat...that seems to take the bite out of being alone.


 ウチには白、黒そして灰色の三匹の猫がいる。日中に三匹で一緒にいることはまずない。尤もぼくとカミさんも日中は別の部屋にいることがおおいけど…、猫も含めて1日に二度はみんなが一緒の部屋に集まる。

 それは朝食と夕食の時なのだけれど、その時間の催促をする担当が猫たちの間では決まっているようなのだ。朝食の時はクロが呼び出し担当で朝一番でベッドの上にぼくをおこしにくる。

 クロのタイムリミットは7時半でそれ以上になると、「ニャゴー(おきろ〜)」と大声を出してぼくの顔の上に乗ってきたりする。その間他の二匹は「早くおこしてこいよ〜」といった感じでぼくとクロのやり取りを見つめている。猫たちは家中みんなが揃わないと自分たちの食事も始まらないのを知っているようだ。

 夕食の催促担当は白猫のレオで、彼のタイムリミットはちょっと細かくて5時20分。ぼくが二階の部屋でパソコンを打っていたりすると、カミさんの食事の支度が始まる5時頃には一階の階段の下でぼくが降りてくるのを待っている。

 暫く待っても降りてこないと、そこで二、三回鳴いて今度は二階の階段を上がった辺りで待機。それでもダメだとダルマさんが転んだ、みたいにジリジリとぼくの机に近づいて来る。

 そして5時20分になると、ついに待ちきれなくなってぼくの机の上に乗ってきてぼくの顔の真ん前にきて睨みつけてンニャ〜。こうなるともう、もう一緒に階下に降りるまでかんべんしてもらえない。灰色猫のモモは催促担当はやらないけど、猫用のランチョンマットを床に敷いてぼくが猫茶碗を三つ用意しているうちに真っ先に定位置について待っている。

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 食事が終わっても飼い主としては暫し猫を交えてまったりとした家族団らんのひと時を…、と思うのだけれど、猫たちは自分たちの食事が終わると「は~い、解散!」みたいに各々のお気に入りの場所に散ってしまう。

 レオは大抵は一階の居間の出窓に陣取る。一階の寝室のベッドの上はクロもモモもお気に入りの場所なのだけれど、これは早い者勝ちなので二匹一緒に居ることはない。

 モモがベッドの争奪戦に負けた時は大抵二階のぼくの机の上で午前中を過ごす。クロのお気に入りの場所は二階の出窓の所で、寝そべって外を見たいのでブラインドが邪魔だと器用に手で広げて外を見ている。

 モモもクロも甘えるのが好きでぼくの膝の争奪戦もあるのだけれど、それだってひとしきり甘えて満足すると、自分のお気に入りの場所に行って寛いでいる。基本的には一人が好きなのかもしれない。

 猫は一人でいてもちっとも寂しそうに見えない。それどころかその佇まいには侵しがたいような、他人が邪魔するのがはばかられるような雰囲気さえ漂ってさえいる。一人で居ることのあの心地よさ、そしてそれで好いのだというあの確信はどこからくるのだろうか。

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猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その22~ [猫と暮らせば]

猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その22~

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 ■老いと猫

 …老いるってことは病(やまい)るってことと同じ。
 だけど、それは闘うんではなくて、猫とつきあうように、病とか老いに静かに寄り添ってやるもんだと思うんだよね。一緒に連れ添っていくというか。

 よく、頑張んなきゃとか、しっかり生きなきゃとかいうけど、頑張んなくてもいい、寄り添っていけば。力まずに、それも自分だという風に生きていくと、すっと楽になる。そんなこと思ったの、つい三、四日前なんだけどね。(笑)…

 
(緒形拳「私と猫」)


 結婚してから初めて飼った猫タマ。ぼくが四十の時、その時の上司に頼まれて白い子猫をひきとった。何も考えずにタマと名付けた。臆病だったけど病気一つせず18年の天寿を全うした。この18年間はぼくにとって最も忙しい時期でもあった。

 まだ暗いうちに家を出て、帰ってくるのは大抵深夜過ぎ。子供の頃からずっと猫がいて一緒に育ったようなものだけど、自分で「飼う」というのは初めてだった。でもタマが来て感じたのは子供の時とおんなじで飼うというより一緒に暮らすという感覚だった。

 タマのおかげで家に居る貴重な時間がどれほどくつろいだものになっていたか、それが寄り添うということだったのだと、最近になって実感するようになった。猫の持つ独特の距離感ときまぐれさが却ってさり気無い寄り添い感を作り出してくれる。

 2005年の5月3日、タマはカミさんの膝の上で突然逝ってしまった。タマの晩年は穏やかなものだった。ソファーの陽だまりの中で寝ることがなによりも好きだった。自分の老後もこうだといいなぁ、と思いつつその隣にそっと座ったことも何度かあった。

 今、ぼくも歳をとって目はかすむし、歯は抜ける、腰は痛いし息切れもひどい。でもそれは抗ってみても仕方のないことだと思うようになった。緒方拳の言うように猫と暮らすみたいに、老いに寄り添ってやるというのも大事かもしれない。まぁ、言う程簡単にはいかないと思うけど…。


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 *緒方拳のこの文章は2008年の雑誌「猫びより」7月号に乗ったものです。その後この緒方拳を含め何人もの著名人がこの雑誌で自分の猫を語った部分を集めて「私と猫」という一冊の単行本になりました。

 緒方拳が亡くなったのは2008年の10月、71歳でした。この記事が載ったのが2008年の7月号ですから、ということはこの雑誌が取材していくらも経たないうちに亡くなっているということになります。

 この頃にはご本人も自分の病状には覚悟をしていたようなので、彼の口から発せられたこの言葉には実感と凄味があるように思います。彼が愛ネコの「オーイ」達と写っている写真はまさに枯れた大木のようでした。

 **緒方拳の自宅は京浜東北線沿いにあって細長い彼の家の庭をそとネコがいつも通り抜けていました。彼は通り過ぎる何匹かのネコに、「品川、大井、蒲田、川崎」などと駅名をつけていたのだけれど、その中の茶トラの「オーイ」だけが居ついて家猫になったらしいです。


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猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その21~ [猫と暮らせば]

猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その21~

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 ■ 猫は、毛皮を被った道楽者である。(テオフィル・ゴーティエ)
  The cat is a dilettante in fur. (Theophile Gautier)
  

 確かに猫を見ていると「額に汗して」というタイプではないなぁと思う。冒頭のように19世紀のフランスの詩人テオフィル・ゴーティエ(名前は知っていても作品は読んだことはないけど…)はそれを道楽者と表現した。でも、道楽者というと落語に出てくる若旦那みたいに、吉原通いや芸者衆に入れあげて挙句の果てに親に勘当される(落語「船徳」「湯屋番」「唐茄子屋政談」のように)みたいなイメージがあるのだけれど、ちょっとなんか違うなぁ。

 そこで元の文章を見ると英語では「The cat is a dilettante in fur.」でもゴーティエはフランス人だから当然フランス語に違いないのでフランス語では「Le chat est un dilettante en fourrure.」となっている。いずれも「道楽者」というところには「dilettante(ディレッタント)」という言葉が使われているので、ここら辺が彼が言いたかったところなのだろうか。

 ディレッタントという言葉は調べてみると、「専門家や学者ではないが、文学や芸術を愛好し、趣味生活にあこがれる人。つまり好事(こうず)家」となっているけど、日本ではディレッタントと言うとアマチュアとか生半可に知識などをひけらかす人を小ばかにしていうことが多いらしいが…。

 でも、西欧ではこのディレッタントという言葉にはそういう嘲笑的な意味合いは無いようだ。むしろ尊敬の香りさえ漂っている。例えばウィーン楽友協会(Gesellschaft der Musikverein in Wien)の設立から長いことその演奏活動を支えていたのはディレッタントと呼ばれる演奏家たちで、彼らは音楽以外にほかに職業を持っていたというだけで演奏技術はプロの演奏家たちと何ら変わらなかった。敢えて今風に言うなら「玄人はだし」という事かもしれない。 

 では猫はいったい何のディレッタントなのかといえば、それは優雅に人生を楽しむディレッタントなのかもしれない。いつも居心地のいい場所に陣取って、自分の関心の向くままに生きようとしている。似たような表現になるけど、寺山修司はもっと過激な表現で「猫は財産のない快楽主義者」とも言っている。ぼくらが日常生活で目いっぱいになって心の余裕がなくなってしまっているような時、猫を見てフト肩の力が抜けるような気になるのは、そんなところから来ているのかもしれない。




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