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ライカ、再建の道開ける [ドイツの目]

ライカ再建への道が開けた 2005年8月6日 ハンブルガー・アーベントブラート紙より要約



~ライカの安堵~
一週間にも及ぶ法的綱引きの後に疲労困憊したこのカメラメーカーの再建の道が開けた。

 この伝統ある企業は再建策に反対する五者の原告のうちの四者と法廷外で合意することが出来た。ライカ社は残りの一者の原告については合意を得られなかったと金曜日に発表した。それについてもこれ以上もめることなく収束するだろうと読んでいる。

 再建策は2300万ユーロの資金不足を埋めなければならない。再建策に反対する四者の原告も和解金を求めているのではなく、単に少数株主としての権利を守ろうとしているだけだとライカは述べている。ライカは原告に個々にメリットを与えたり、約束したりはしないとしている。ライカは新株を九ヶ月以内には発効するようにしたい。

提案されている再建案は1000万ユーロを150万ユーロ減資する事をもくろんでいる。同時に420万ユーロの資本準備金を取り崩し、最後の段階で、1350万ユーロの新株発行を通じて1500万ユーロの増資を行う。その際、大株主であるフランスのエルメス・インターナショナルSCA社とオーストリアのプロジェクト開発会社ACM社の二社が増資に参加することを確約しているということだ。
*ここらへんかなり数字的に込み入っているので間違いがあるかもしれません


不透明な将来に対するライカ・ユーザーの動揺にもかかわらず、同社の今期の最初の四ヶ月の売り上げは期待を上回って昨年同期を越えている。詳しい数値はまだ発表していないが…。

*Ansicht…まずは一安心というところだが、ライカ社の経営陣は少し楽観視しすぎているような気もするが…。いずれにしても再建策の行方が大株主二社の胸三寸と言うところが面白くない気もする。Mシリーズが依然強く、11月にはデジタルの新機種を出すらしいので次の展開を注目。ライカはどんなデジタルの世界を展開するのだろうか。

                                      


ドイツの目  ライカが危ない [ドイツの目]

~カメラメーカー・ライカの救済策揺らぐ~ 2005年7月18日 Die Welt紙より要約


 伝統あるカメラメーカー・ライカの救済策がまた危機に瀕している。
何人かの株主が取締役会決定の取り消しを求めて訴訟をおこしているため、いくつかの大株主がライカの生命線となる今回の新株発行に当面参加しないと表明している。企業報告書の中では、そのような状況なので再建は引き続き危機に直面しているとしている。

ライカ社は5月31日の臨時株主総会で新株発行による増資を決定した。これまでの情報によるとその決定に対し5件の訴訟が起こされている。そのうち4件については和解がなされた。新株発行によって2300万ユーロの資金が調達されるが、ライカ社はトータルな資金ニーズは5000万ユーロ必要と見積もっている。残りの2700万ユーロは銀行融資としている。

大株主のエルメス・インターナショナルとプロジェクト開発のACMは、訴訟が継続している間は新たな株式の引き受けは行わないと表明している。訴訟が片付いて初めて、増資への参加を決めると言っている。
ライカ社はブームとなっているデジタルカメラへの出遅れと価格低下の圧力の下で大幅な損失と売上低下をきたしていた。2004/5会計年度(3月31日)の決算でライカ社は1550万ユーロの赤字を出している。

*Ansicht…ライカと言えば、カメラ愛好家の憧れの的だったし、今でもライカ収集家と言われる人は多い。しかし技術革新で銀塩カメラがデジタルカメラに変わってゆく過程で銀塩写真にこだわったライカ社は遅れをとってしまったのか。
しかしこの変化は突然来たものではなくカメラの世界ではまずメカニカルからエレクトロニックへの変化が起きていたと思う。つまりカメラは今までのメカニカルな商品から電子機器商品へと変貌を遂げていた。
この段階で日本のカメラメーカーにも大きな変化がおきている。銀塩カメラに強かったメーカーの再編と電機メーカーの本格的参入の兆しだ。
成功体験が会社を危うくしてゆく、というのは今や経営学の基本的セオリーになっているが、ライカにもそのようなことが起きていたのか。
現在世界のデジタルカメラの90%が日本製と言われている。この成功体験もいつか足枷となる日がくるかも知れない。
                                            


ヒトラー暗殺  1944年7月20日 [ドイツの目]

 ことしも7月20日がやってくる。

 1970年12月10日。僕は友人とベルリンの地下鉄に乗って郊外のプレッツェンゼーにむかった。駅を降りると、そこは灰色の空の下に広がる工場地帯だった。工場街を抜けるとレンガ塀の刑務所が見えた。そこの一角に小さな倉庫のような建物があった。

そこが1944年7月20日におこったヒトラー暗殺未遂事件の関係者が処刑された場所だ。痩せこけた一人の男が案内してくれた。僕らが門を入ったとき、彼はうす暗闇の中に一人で立っていた。案内人ではなく自分もここを見に来た人らしい。

案内された建物の中に入るとコンクリートに囲まれた空間に、寒々とした電球に照らされて処刑者達をつり下げたフックが冷たく並んでいた。肉屋の冷蔵庫で肉の塊をつるすあのフックだ。それを指さした男の腕にどくろの入れ墨があったのを覚えている。

何人もの人々がこのフックにピアノ線で首を吊され処刑された。その部屋にはギロチンも置かれていた。僕たちは、しばし呆然と立ちすくんだ。ふと我にかえって振り向くと、案内してくれた男はもういなかった。この光景は一生忘れることはできない。人間は人間に対してどんなに残酷なことでも状況次第では出来るのだと思った。

帰り道、背筋の凍るような思いで白樺の並木道を地下鉄の駅まで歩いた。いまだに心に鉛のようなものが引っかかっている。


 
西ドイツに戻って、7月20日事件についていろいろと調べてゆくうちに当時のドイツ国内には様々な抵抗運動のネットワークがあり、彼らは微妙な関係を保ちながら活動をしていたことも分かってきた。と同時に、これに関係する研究や史実の扱い方に当時の西ドイツ政府の並々ならぬ執念を感じた。と言うよりは、少し違和感を感じたと言った方が正確かも知れない。その違和感は以下の3つぐらいの要因から発生していたように思う。

①ナチスドイツ下での抵抗運動の存在は、敗戦で打ち砕かれた「ドイツ人の誇り」を喚起し、ドイツ人の心の復興を支えるものとしてスポットライトがあてられ、保存された史実なのだと思った。まがりなりにも独裁者を引きずり降ろし、自分たちの手で決着をつけたイタリアに対し、ドイツは最後まで独裁者の支配下で終戦を迎えねばならなかったというドイツ人の心にささった棘に、このドイツ抵抗運動の史実は癒やしの効果を持っている。つまりドイツも自らの手で決着をつけようとしていた、という自負を与えてくれるのだ

②7月20日のヒトラー暗殺未遂事件の首謀者フォン・シュタウフェンベルグ大佐や、やはり事件に関わったと見られ自殺を強要されたロンメル将軍などが生粋の伝統的ドイツ国防軍軍人であったことを強調することにより、ナチスではない軍人集団の存在を知らしめたかった。(ナチスではないが国防軍の軍人も儀式で全員ヒトラー総統に忠誠を誓わされていた。その誓いが軍の反ヒトラーの動きを封じたという説もあるが。)
                                      
③そして対外的にもあのときヒトラー暗殺が成功していれば、という「歴史のif」を現実味を持って語ることにより、ナチ
スに染まらなかった、まっとうなドイツが存在したことを示したかったのだと思う。

そして、その執念は今でも続いているように感じる。


*上の写真はドイツのホームページに乗っていた最近の写真だが、以前はこんなに「きれい」ではなかったし、この写真にはないがギロチンも置かれていた。傍らには枯れて埃をかぶったバラの花が二、三本置かれていたのを覚えている。処刑された人々の無念さが伝わってくるような現場だった。


 


外国人労働者とドイツ [ドイツの目]

 ここのところ少子化問題と関連して外国人労働者の問題についていろいろと論議されているようだ。一方、外国人による犯罪や不法就労の問題も足下の問題として発生している。どんな方法が日本にとって、そして外国人にとって良い方法なのかそろそろ明確なビジョン作りに向けて論議し、政策化してゆく時期に来ているのかも知れない。


 ドイツは現在国民の10%近くが外国人で占められる社会になっている。僕がドイツにいた1970年頃、ドイツには大挙して外国人労働者が入ってきていた。彼らはGast Arbeiter(ガスト・アルバイター)と呼ばれ、移住でなく招かれて働いている労働者だった。

働いて貯めた金を本国に送る、いわば国際的出稼ぎであった。一番多かったのはトルコ人でイタリア人やユーゴスラビア人、ギリシャ人などもいたように思う。僕のいた小さな街にも大勢のガスト・アルバイターがいて、道路工事や建設現場、レストランなどで働いていた。

街のあちこちで、いろいろな摩擦も起きていた。夏の夜には町外れの広場に、街娼を求めて大勢のガスト・アルバイター達がたむろして異様な雰囲気を作っており、町の人は眉をひそめていた。身近なところで何かがなくなると、トルコ人の仕業ではないかとか、裏では囁かれもした。

 そのうちガスト・アルバイター達はドイツ政府の思惑とは別に国から家族を呼び寄せ定住をするようになった。友達になったトルコ人は、ドイツの大学をでてドイツで働くために勉強をしていた。ドイツ経済が成長してゆく過程でガスト・アルバイターは間違いなくドイツの労働力の下支えをしていたと思う。

 僕は自分の目ではそこまでしか見ていないが、その後ドイツ政府は支度金までつけて彼らを国に帰そうとしたがうまく行かなかったらしい。それもそのはずでドイツの学校を出て、ドイツ語を母語とする二世達が育ちはじめており、彼らはもう祖国には帰ろうと思わない。

そしてドイツ経済が低迷期に入ると、外国人がドイツ人の労働機会を奪っている、ということでごく一部であるが排斥運動なども起きている。旧植民地を抱えているフランスでも同じような問題が起きているらしい。


 現在の日本においては社会環境も時代も違うが、それでもドイツの例は一つの参考になるかも知れない。今後どのような戦略で世界とつきあってゆくか、どのようなコミュニティーを作ってゆくのか、僕らは今まさにその戸口に立たされている。いずれにしても日本はもう少しオープンな、そしてまた多様性を受け入れる社会になる必要があるかもしれない。昨年、日本経団連が「外国人受け入れ問題に関する提言」というものを発表し、論議のたたき台を提供しているが、それに比べて政府の動きは鈍い。

 


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