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ベトナムの光 [gillman*s Lands]

ベトナムの光

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 また、匂いの話で恐縮なのだけど、通常は外国に行くと嗅覚が普段よりも敏感になるような気がする。まず、その国の飛行場に降り立つとその国独特のにおいに気が付くことがある。それはその国独特の香辛料の香りだったり、地理的に潮の香りだったり、埃や排気ガスの匂いだったりその要素は千差万別だ。

 大昔、初めて早朝のウィーンの街に入った時、独特のパンの香りがしたのが今でもはっきりと記憶に残っている。アジアの街などで市場に入った時に津波のように押し寄せてくる喧騒の音の波とあらゆるものが混じり合った強烈な匂い。聴覚と嗅覚が嫌でも覚醒せざるを得ない状況に追い込まれる。それがまた旅のだいご味でもあるのだけど…。

 ところが嗅覚を失ってからはそういう楽しみがなくなってしまった。どこへ行っても現実感がない。匂いが分からないと味の感覚も半減するから、今まで匂いが苦手で食べられなかったものでも食べられてしまう。良いような、悪いような。ビジネスなどで必要にかられてどこか他国に住まなければならないようなときには食べられないものが無いということは得なことなのだろうけれど、楽しみで旅をするにはちと味気ない。

 人間は一つの機能を失うと残った機能が先鋭化されるということがあるらしいのだけれど、ぼくの場合はまだそういう風にはなっていない、なってはいないけれど、今まで以上に光のありように敏感になっているかもしれない。というか、そういうことで現実感を補おうという意識が働き始めたのかもしれない。

 日本にいるとぼくらは光の変化の中に季節の移ろいを感じることが多いけれども、季節の変化の少ないベトナムやカンボジアでももちろん光は刻々と変わっているし、場所によっても異なっている。ホイアンの中国人の古い商家の土間に差し込む光。薄曇りのダナンビーチの朝の湿ったような空気を抜けてきた光。バッチャン村の陶器工場に差し込む光はやわらかく白い陶器の肌を包み込んでいた。ベトナムにはベトナムの光があるような気がする。これからはもっと目を凝らして光をみつめてゆかなければ…。

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カンボジア 雑感 [gillman*s Lands]

カンボジア  雑感

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 アンコールワットの遺跡は前々から来たいと思っていたのだけれど、その割にはこの遺跡についての知識はからきしだった。大体アンコールワットとアンコールトムの遺跡の区別というか違いも判らず、それぞれ離れたところにあるのかと思っていたけど、アンコールトムがアンコールワットのすぐ背後にある寺院群だということも、ここに来て初めて知った次第。

 敷地の広さからいえば一辺が3キロメートルとアンコールトムの方が格段に広大なのだけれど、残された遺跡の状態からいえばアンコールワットの方が寺院などの建物が多く残されている。アンコールワットといえば必ずと言ってよいほど出てくるのが急な階段を持つ第三回廊と呼ばれる塔。

 ほとんど垂直に近いような階段を登るとアンコールワット全体を見晴らせるらしいのだけれど、以前は危険すぎて簡単には登れなかったのだが近年手すり付の木の階段が設けられた。と言っても建物の石の階段に沿って設けられたので上昇する角度は同じで、なんとも急な階段になっている。

 ぼくは極度の高所恐怖症なので最初から登る気はなかったのだけれど、その日は第三回廊に登る順番を待つ人の列が延々と続いていた。二時間待ちらしいので、ぼくにとっては登らない好い口実ができたようなものだ。ここを手すりなしで登った時の情景を思い浮かべただけでぞっとする。

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 東南アジアの旅は本当に久しぶりなので、このちょっとダラっとした気だるさみたいなものを忘れていた。それでもまだベトナムは急成長の最中(さなか)ということで街には気だるさの中にもむせ返るような活気はあったのだけれど、カンボジアの方はまだまだのんびりとしている。

 立ち寄ったシェムリアップ郊外のロータス・ファーム(ハス畑)には畑の中に小さなコテッジがあって、ここで休日には地元の人や観光客が昼寝をしたりランチをしたりして楽しむらしいのだ。周りにはアヒルがいたり、近所の子供が遊んでしたりのんびりとしている。管理人がいるらしい掘立小屋のわきには水たまりがあって、そこにはゴミやらペットボトルやらがたくさん浮かんでいる。その傍らではハンモックに載せられた赤ん坊がスヤスヤと寝ている。一瞬、昔の日本の姿を想い出した。


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 カンボジアでガイドをしてくれたのは、現地の日本語ガイドのポーピシットさん。日本語の発音も自然でよかったけれど、敬語もしっかりしているのには驚いた。どこで日本語を勉強したのか聞いたら、ここシェムリアップにある山本日本語学校で二年間勉強したという。その学校は1996年に日本語でカンボジア復興を目指すという趣旨で山本宗夫氏が創設した日本語学校でいままで多くの卒業生を送り出している。

 学校ばかりでなく、日本語を習得した学生の働く場としてガイドの派遣や観光バス等の手配、さらに土産物販売なども行っているらしい。ポービシットさんは実に気配りも細やかで、遺跡などの説明も丁寧でわかりやすい。ぼくが日本語の教師をしていたと話すと休憩の時など日本語文法の話で二人で盛り上がった。

 各地で日本語の現地ガイド三人に今回はお世話になった。ハノイのトーイさんはハノイの大学の日本語科で勉強をして今ではハノイにおいては日本人観光客のガイド、また一方ベトナム人観光客の日本旅行に添乗して日本各地を案内するなどインバウンドとアウトバウンドの両天秤で活躍している。

 フエ、ホイアンなどをガイドしてもらったジュンさんは、日本の商社マンからボランティアで日本語を教わったという。日本語はまだ片言に近いが持ち前の明るさで乗り切っている。もう少しちゃんと話せるようになりたいが、なかなか時間がとれないという。三人が異口同音に言っていたのは、最近は中国人の団体ばかりで、それに比して日本語のガイドの仕事があまり増えていないということだった。確かにどこへ行っても聞こえるのは中国語ばかりで…。これも、時代の流れか。


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 *旅行から戻って、疲れが溜まっていたのか風邪をこじらせたらしく結局一週間近く寝込んでしまいました。最近このパターンが多いので歳なのかなぁ。お蔭でなかなかダイエットでも減らなかった体重が一挙に4キロ近く減りました。まぁ、すぐ戻りそうですが。



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ヴェトナムとカンボジアのバイカーたち [gillman*s Lands]

ヴェトナムとカンボジアのバイカーたち

 ダナンからフエに向かって国道一号線を北上した。バスの窓からは漁船が数多く浮かぶダナン湾の朝が見える。ふと昔ニュースで知ったダナンビーチに押し寄せたアメリカ軍の上陸用舟艇のことが頭をよぎった。ぼくはその映像は見たかどうか記憶が定かではないのだけれど、きっとその光景はこの漁船の船影の数の比ではなかったのだろうと…。

 さっきから一台のバイクがぼくの乗ったバスと並走している。髪の長い女性が小さな女の子を後ろに載せて、バスに抜かれまいとして必死に飛ばしているようにも見えた。ダナンの海岸線を暫くの間並走して、やがてそのバイクは力尽きたようにぼくの視界から消えていった。その時ぼくはダナンという言葉のもつベトナム戦争の呪縛を解かれて、今の現実のヴェトナムに引き戻されたような気がした。


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  朝、宿泊地であった海沿いの街ダナンから古都フエに向かう。フエまでは約100キロ。バスはQL1A線、つまり国道一号線を北上する。あの沢木耕太郎の「一号線を北上せよ」に登場するホーチミンからハノイにまで至るいわゆるホーチミン・ロードの一部だ。

 沢木耕太郎の旅行記では、南部のニャチャンからバスで国道一号線をホイアン、フエに北上する様子が描かれているが、ぼくはカンボジアのシェムリアップから飛行機でダナンに入って、そこから小さなバスでホイアン、フエに向かった。ベトナムの道路はまだデコボコが多いのだけれど、さすがにこの国道一号線と高速はスムーズだ。

 この広い国道でもいたるところにバイクが走っている。ぼくの乗ったバスは路の行く手にバイクがいると「どけ、どけ!」というようにクラクションを鳴らし続ける。バスの窓から見ているとバイクは抜かれる時一瞬バスと並走して、そして恨めしそうにぼくの視界から消えてゆく。

 ヴェトナムの道路を見ていると、この国はバイクで成り立っているとさえ思えてくる。そのバイクの殆どは日本製だ。自家用車がまだ高根の花であるこの国では、バイクがファミリーの大事な脚なのだ。小さい子供を含めて一家全員が一台のバイクに乗ることは普通のことだとガイドが言っていた。

 運転手の後ろに乗るとしても、日本のように後ろから運転手の腰にしっかりと腕を回してしがみつくということは無いみたいだ。後ろの席に座った人が両手でスマホのゲームをしている光景を幾度か見かけた。国道を外れれば、かなりのガタガタ路なのに振り落とされないのかと見ているこちらが心配になってしまう。


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 バイクに乗っている人のファッションを見ていると飽きない。一番標準的な恰好は、実にカラフルなマスクとヘルメットという形だ。フード付のジャケットで頭からすっぽり覆いその上からヘルメットを被り、さらにマスクをするというスタイルも多かった。日本ではこのままの恰好ではコンビニには入れてもらえないだろうなぁ。

 南のホーチーミン市ではそうでもないけれど、中部のフエや北のハノイでは冬はバイクでは結構寒いからそういう恰好も必要なのかもしれない。生活に密着したたくましい姿のバイカーが多かったけれども、さすがに街なかに行くとバイクとバイクスーツをコーディネートした人や真っ赤なスクーターに身軽な恰好のスタイリッシュなバイカーも見られた。

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 ハノイを案内してくれた現地ガイドのトーイさんは、バイクで運べないものは無いと言って色々な写真を見せてくれたのだけど、その中にはバイクで大型冷蔵庫を運んでいる写真や、乗用車一台分のシャーシーを運んでいるものまであった。

 バイクで物を運んでいるシーンは特にカンボジアでも多く見られた。豚を二頭、それも生きている豚を運んでいた。豚はプロレスのバックブリーカーみたいに仰向けにさせられて、荷台に載せられている。よく見ると豚の背中の下に簀子(すのこ)のようなものが敷いてあって痛くないようになっている。

 どうやら市場で子豚を買ってきて大きく育てて売るらしいのだが、カンボジアの人の大胆さと細やかさの両面が垣間見られて面白かった。

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 カンボジアのガタガタ路を走っている時、バスがゆっくりと一台のバイクを追い越した。実直そうな青年が彼女らしい女性を後ろに乗せて走っている。女の人は後ろの席にまたがって乗るのではなくて、スカートをはいているためか、横座りになって乗っている。彼の腰に腕を回してつかまるでもなく、こんなガタガタ路でよく怖くないなぁ、と。

 バスがゆっくりと彼らを追い抜いてゆくときバイクの女性と一瞬目があったような気がした。彼女はちょっとはにかむような表情だったけどバイクの後ろで揺られながら、なんか幸せそうにも見えた。それはぼくの勝手な思い込みかもしれないけど、ぼくなんかがとっくの昔に忘れてしまった青春の一コマみたいな瞬間を垣間見たような気がして、今でも強く印象に残っている。


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ハノイから [gillman*s Lands]

ハノイから


 ■…ハノイに旅立つまえ、私が想像世界のなかで勝手に関連づけていたヴェトナム像は、現地にのぞんだとき、なんら現実性をもっていないことが立証されたのである、過去数年間、ヴェトナムは私の意識の内側で、“弱者”の苦難と英雄行為を示す、ひとつの典型的な像として腰を据えていたのだ。しかし、私の心にとりついていたのは、じつは“強者”アメリカ像のほうであった―アメリカ的権力、アメリカ的残忍性、アメリカ的独善の形姿であった。

 ヴェトナムに存在するものと、究極的な出会いを行うためには、私はアメリカを忘れ去らなくてはならなかった。アメリカ的感性のうまれたもとになっている総体的な西欧的感性の限界を押しやぶるべく、もっと意欲的に努力しなくてはならなかった。だのに、私はヴェトナムの現実に対して、つかのまの、しろうとじみた首のつっこみ以上のことは、なにひとつ努めたことがことがないのを、つねに自分でも知っていた。…

  (スーザン・ソンタグ 著、邦高忠二訳 「ハノイで考えたこと」/晶文社1969年)



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  ハノイは夜がきれいだ。でも決して美しいというわけではない。夜になるとヤシの木の街路樹にらせん状に巻きつけられたLEDのライトや、広いアベニューにゲートのように設けられた色とりどりの何だかけばけばしいまでのイルミネーションなどが街の埃(ホコリ)で煤けた部分を隠してくれるからかもしれない。でも、そのちょっと虚勢を張ったようなこの街の夜の独特なきれいさは嫌いではない。東京に帰ったら真っ先に思い出すのは、この夜の光景だと思う。

 ヴェトナムはぼくにとってもう長いこと来たくもあり、同時に来たくもない国だった。ハノイという街の名前をきくとぼくが今思い起こすのはスーザン・ソンタグの「ハノイで考えたこと」(Trip to Hanoi)そして沢木耕太郎の「一号線を北上せよ」だ。ソンタグが北ベトナムの招待でハノイを訪れたのが1960年代末でそれが彼女のその後の思考にも大きな影響を与えているような気もする。


 ソンタグが1960、70年代のヴェトナムを手繰り寄せる記憶だとしたら、沢木耕太郎は1970、80年代のそれかもしれない。いずれにしてもぼくがそれらの本を目にしたのはもっと後のことで、それまでのぼくにとってのヴェトナムは当時毎日のように報道されるハノイ・ハイフォンの「北爆」やテト攻勢そしてフエ・ダナンの攻防戦などであった。平凡な学生であったぼくは従順な日本のマスコミと同様に多分にアメリカ的視点で、かの地を見ていたはずだった。

 ぼくの中でその井の中の蛙的な安寧が突き崩されたのは、隠れるようにして読んだヴェトナムにおけるアメリカの戦争犯罪的行為を糾弾した一冊のマイナーな本だったのだけれど、そこら辺は別の機会に述べるとして、それがぼくが日本を出る一つの大きなきっかけになったことだけは確かなことだった。ぼくが当時のソ連のナホトカからモロッコのカサブランカまで旅した少し後に沢木耕太郎がインドのデリーからロンドンまで旅行したのを知ったのはずっと後になってからのことだった。沢木耕太郎はぼくと同い年だから、当時彼がヴェトナムに対して描いていた姿と得ていた情報はぼくとそんなに変わらないものだったかもしれない。

  話はそれたけれど、それ以来ヴェトナムはぼくの胸に刺さった棘のような存在だった。しかし、時代は大きく変わって、今やぼくのいっている日本語学校でも大勢のヴェトナムからの留学生がいる。彼らからも話を聞く機会が多くなったし、逆に彼らの話を聞くたびに自分の中のヴェトナムとの乖離が大きくなってゆこくとに戸惑ってもいた。

 そんな時にカミさんがヴェトナムとカンボジアに行こうと言ってくれたので、その尻馬に乗ったようなものだ。ルートはハノイに入ってハイフォンを抜け、ハロンを回り、一旦カンボジアシェムリアップに入りそれからヴェトナム中部のダナンホイアンフエを回る。もちろん昔のようにベンチで一夜を明かすようなこともないお気楽な観光旅行だが、自分の歳と体力を考えればそれが順当でもあるし、限界でもあるのかもしれない。

 実際に旅してみるとソンタグのようにきっぱりと固定観念を捨て去るわけにはいかないけれど、ここを旅すると、もう久しく忘れかけている「生活」という言葉が身近に迫ってくる。それは稼ぐとか、働くとかいう意味だけではなく、生きることそのものに直結した言葉としての「生活」だ。それはある意味人間の強さの表現でもあるような気がした。今、いろいろな光景がぼくの脳裏に残っている。


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 ■…ヴェトナムには、ホーチミンからハノイまで、基幹道路というべき国道一号線が通っている。かって、ヴェトナム戦争の激しい時期には、新聞にこの道路のことが出ていない日はなかった。アメリカ軍の輸送用トラックが一号線でヴェトナム解放戦線に襲撃された。あるいは、アメリカは一号線を空爆することによって「北」からの補給路を断つ作戦にでた、などという具合に。
ホーチミンからハノイまでの距離は約千八百キロ。日本列島に置き換えると、本州の端から端、青森から門司くらいまでということになる。…


  (沢木耕太郎著「一号線を北上せよ」/講談社)

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[Photos]
・ホイアンのランタン売り屋
・結婚式を控えた?カップル(ホイアン)
・ハノイのタンロン城で記念撮影をするアオザイ姿の学生たち
・ホイアンの夜道
・街の床屋さん(ホイアン)
・フエの王宮の伝統舞踊ニューニャック




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駅で… [gillman*s Lands]

駅で…

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  日日

  ある日僕は思った
  僕に持ち上げられないものなんてあるだろうか

  次の日僕は思った
  僕に持ち上げられるものなんてあるだろうか

  暮れやすい日日を僕は
  傾斜して歩んでいる

  これらの親しい日日が
  つぎつぎ後ろへ駆け去るのを
  いぶかしいようなおそれの気持ちでみつめながら


  Days

  One day I wondered if there was something
  I would be unable to lift.

  The next day I wondered if there was anything
  I would be able to lift.

  As days lead toward darkness
  I walk on slumped over.

  watching, with doubt and fear,
  those familiar days gallop away backward,
  passing me by, one after another.

   (「二十億光年の孤独」谷川俊太郎/W.I.エリオット訳、集英社)


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 ヨーロッパの駅がぼくは好きだ。大きなガラスドームの下にプラットフォームが何本も並んでいて、独特の雰囲気の空間を作り出している。ヨーロッパの古い街の中央駅は引き込み線になっている場合が多い。線路が旧市街を貫通して横切るのが難しいためだという。従って列車が中央駅に停まると、発車する時には列車の進行方向が以前とは逆になることがよくある。

 ドームの下に広がる何本ものプラットホームに終着駅のようにずらっと何台も列車が並ぶ光景は鉄道マニアでなくてもちょっと嬉しくなるような瞬間だ。大抵の中央駅には改札口が無いのも駅の雰囲気を開放的にしている一因かもしれない。基本的には列車の中、もしくは乗車時にドアのところでの改札が基本なのでぼくらが当然あると思い込んでいる駅の改札口は何処にも無い。

 ドレスデン中央駅のちょっとガランとしたホームで列車を待っていると、若いころ散々列車で旅行した時のことを想い出した。一番長く列車に乗り続けたのは、…確か南スペインのグラナダからデンマークのコペンハーゲンまで列車を乗り継いでいったことがある。その間ぼくが居た6人部屋のコンパートメントには色々な国の人が乗り込んではやがて彼らの下車駅に着くと降りてゆく。ぼくだけはずっと乗りつづけている。

 スペインで乗り合わせたおばあさんには昼飯をごちそうになった。フランスで乗り込んできた女の子たちとは夜中にどんちゃん騒ぎになった。夜が明けて潮が引くように皆が降りて行ってひとりコンパートメントに取り残された時の寂しさと、これからの自分の将来への不安などが襲ってきて一挙に落ち込んだことを覚えている。若いころは自分には何でもできそうだという昂揚した気持ちと、結局何をやっても駄目だという絶望した気持ちがまるでジェットコースターのように交互に襲ってきた。

 ホームでしばらくボーっとしているうちに、乗る列車の発車時刻が過ぎていた。しかし待っていたホームに列車が入ってきた気配はない。どうも直前に発車する番線が変わったらしいのだけれど、何のアナウンスも無かった。多分掲示板の表示には出ていたのかも知れない。急ぐ旅ではないので次の列車に乗ることにしたのだけれど…。なんとも間の抜けたのんびりとした話だ。しかし、ここから東にいったブダペストの中央駅にはつい最近まで難民が溢れていたと思うと急に厳しい現実が脳裏に浮かび、とても複雑な気持ちになった。

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 *最近は列車で旅することが減っていたのでうっかりしていたのですが、ヨーロッパではふつう発車のベルも鳴らないし、発車のプラットホームが変更になることも珍しくはないのです。ホームで待っていると向かい側のホームの列車がなんとも面白いデザインで、駆動車の側面に「ドイツ鉄道はドイツ連邦警察60周年をお祝いします。あなたの安全を守る二つの強力なパートナー」

 なぜドイツ鉄道が連邦警察を?、わからん。などと考えていたんですが、実はその列車こそぼくが乗るべき列車だったようです。発車が隣のプラットフォームに変更になっていたのですね。




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冬こそ音楽 Dresden~Berlin [gillman*s Lands]

冬こそ音楽 Dresden~Berlin

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 今回の旅行の目的は音楽会と美術館だったのだけれど、寒さ嫌いのぼくとしてはこの時期のドイツはいかにも寒くて苦手なのだ。それをおして、敢えて今と言うのは一つにはこの時期が音楽の言わばハイシーズンということで年末年始恒例のオペレッタ「こうもり」からシーズンならではの素敵なコンサートが目白押しだということ。

 さらにもう一つは、観光シーズンには列に並んだり背伸びして観なければならないような名画や美術館の作品がゆったりと観られるということ。今回は特に今まで中々まとめて観ることが出来なかったフリードリヒなどのドイツロマン主義の絵画をじっくりと観てみたいという魂胆なのだった。

 ぼくはクラシック音楽は余りよく分からないので今回一緒に行く友人にチョイスを頼んだのだけれど、ぼくの唯一のしかし外せない要望がゼンパー(ドレスデンのザクセン州立歌劇場)でのヴェーバーのオペラ「魔弾の射手」の観劇だった。他のオペラについてはからきしなのだけれど、この「魔弾の射手」と「こうもり」それに「魔笛」だけはなぜかテキストも頭に入っている。彼のおかげで結局下の様なバラエティーに富むチケットが手に入った。

□Semper/Der Freischutz
 ドレスデン・ザクセン州立歌劇場 オペラ「魔弾の射手
□Semper/Sonderkonzert Rudolf Buchbinder
 ドレスデン・ザクセン州立歌劇場 「ブッフビンダー・誕生日ピアノコンサート」
□Semper/Die Fledermaus
 ドレスデン・ザクセン州立歌劇場 オペレッタ「こうもり
□Staatskapelle Berlin/Geburtstagskonzert Zubin Mehta/Daniel Barenboim
 シュターツカペレ・ベルリン 「ズービンメータ・バースデーコンサートwithバレンボイム
□Berliner Phil./Thieleman/Berliner Phil./Pollini Chopin Piano Conc.#1
 ベルリンフィル 「ティーレマン+ポリーニ・コンサート


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 ゼンパーでの「魔弾の射手」はそれなりに素晴らしかった。それなりにというのは、大昔にマンハイムの歌劇場で何度か観て以来夢にまで見たこのオペラの揺りかごであるゼンパーの舞台なのだが、演出も良かったし、合唱はそれ以上に本当に素晴らしかったのだけれど、一部主役級の歌手の力不足が(良く分かりもしないのにナマイキかもしれないけど…)感じられてそこがなんとも残念だった。

 いくつかあるこのオペラの盛り上がる処で、何かもう一つ盛り上がらない。なんとも納得がいかず後でもう一度プログラムを見てみたら、主役級の三人(アガーテ、エンヒェン、マックス役)が三人とも代役になっている。(しかも代役の理由が三人とも病気のためとなっている。こんなことって…) ぼくはオペラ全般のことはよく分からないけど、こんなことはよくあることなんだろうか。前の音楽監督ティーレマンがドレスデンを辞める時、いろいろとすったもんだがあったみたいなのだけれど、そこら辺が影響しているのか、いずれにしてもなんとも不可解である。

 逆にもしそんなことがあっての事なら、それでもまがりなりにもここまで纏め上げたのは当日の指揮者、エストニア出身の若手の指揮者Mihkel Kütson(キュットソン?)の力があったからなのかもしれない。ちょっと肩透かしは食ったけれど、でもモノは考えようで、もしぼくが今回ドレスデンの舞台で完璧な「魔弾の射手」を観たとしたら、ぼくの中の魔弾の射手の夢はそれで終わった訳で、そういう意味では今後に期待が繋がったと思うようにしよう。


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 逆に望外の楽しい経験になったのが翌日のJ.シュトラウス二世のオペレッタこうもり」の公演だった。それは歌舞伎や洒脱な大衆演劇を観ているような理屈抜きの愉しさ。「こうもり」は大昔に一度観ただけなのだけれど、ビデオなどでは何度となく観てはいた。オペレッタ独特の語りと笑いのツボをくすぐる演出。とにかく観ていて楽しくて面白くて、後で芸達者な役者達にただただ感心させられた。ある意味ではオペラよりも幅広い芸の力が要求されると感じた。

 今回の舞台は演出も斬新だし、特に牢番役を演じたヴォルフガング・シュトゥンプ(Wolfgang Stumph)の演技は抱腹絶倒の連続だった。彼は歌手ではなくベテランの役者で10年以上もこのドレスデンやブレーメン等の舞台で牢番役をやっているらしい。また、他のドイツの小劇場(キャバレット)でも活躍しているベテランの役者だ。彼が単独で演技する歌の無いシーンがたぶん三十分位いは続いたと思うけれど、アドリブもまじえて全く飽きさせない、それどころかぼくみたいにドイツ語のあやしい人間でも涙が出るほど腹を抱えて笑わせる力量は凄いの一言に尽きる。

 また他のシーンでは、女中役のアデーレが舞台から客席に降りてきて客と絡み合うのだけれど、ぼくは前から二列目の席に居たのだが、彼女が演技でぼくの前の席の老紳士の膝に乗って彼をからかいながらもぼくの方に向かって手を差し出した。とっさのことで、ぼくは思わずその手をとって軽い握手をしたのだけれど、後から考えるとあれは差し出された彼女の手と握手するのでなく、差し出された彼女の手の甲にキスをするべきだったのだと気が付いたけど後の祭り。なんとも無粋なリアクションをしてしまった、反省しきり。でも、最高の夜だった。

 
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 ドレスデンからライプチッヒに移って、最後にベルリンに入った。ここは美術館が楽しみだったのだけれど、コンサートも二つ楽しみなのがあった。その一つがズービンメータの八十歳のバースデー・コンサートでバレンボイムもでる。これを皮切りに今年中に何度か開かれるバースデー・コンサートのシリーズの皮切りだったのだけれど…。

 結論から言うと、会場を間違えて聴けなかったのだ。なんともトホホな話。その日のオーケストラはベルリンフィルではなくてSKB(Staatskapelle Berlin)と言われるベルリン国立歌劇場のオーケストラでベルリン国立歌劇場(Staatsoper Unter den Linden)の建物は現在リニューアル工事のため、ここ数年は会場としてシラー劇場を使っている。手にしていたチケットにも大きくStaatsoper im Schiller Theaterと書いてある。生半可にそのことを知っていたためにあらぬ思い込みをしてしまった。

 で、何の疑問も持たずその日開場時間に合わせてシラー劇場に行った。ところが開場時間が近づいてもホールが開かないし、客も数人しか来ない。来た人は皆怪訝そうにしている。シラー劇場の壁に貼ってある公演案内には今日の演目もちゃんと出ているのに。その場にいたやはり不思議がっているドイツ人の夫婦と話してみると、自分たちもチケットを持っているのだけれど訳が分からないという。その内奥さんがスマホでネットを見て公演が中止になったらしいと言う。それにしては案内の張り紙も無いのが不可解だ。

 とにかく明日またチケットオフィスに来てみましょうよ、ということで別れたけれど、何とも解せない。モヤモヤしながらこのままホテルに帰るのも癪に障るので劇場の裏手に回ったら、レストランというか飲み屋があったので入った。これは幸いした。とにかく雰囲気の好い所で、それに女将さんも好い感じ。客は地元の人ばかりらしいけど、今までベルリンで入った飲み屋では一番居心地の好い所だった。Schiller-Klauseという店の名前の通りシラー劇場に関わる色々なアーチストが来たらしく壁には多くの写真が飾られていた。いいなぁ此処。うん、これはこれで悪くはない想い出になりそうだ。

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 *結局、会場を間違えたのでした。その原因は現在はSKB公演=シラー劇場でという思い込みでした。チケットの券面はいかにもシラー劇場ですが、よく見るとチケットの左下に小さく会場はベルリンフィルと書いてありました。その日の公演はちゃんとベルリンフィルで行われていたのです。そうだとすると、あの時ドイツ人夫婦の奥さんの方が何やらネットで見て急きょ公演中止になったと言った情報は何だったのでしょうか。最終的には他にもドイツ人や外国人など何人かの人がシラー劇場の前に集まったのですが、結局その情報でみな会場を後にしたのですが…。ああ…。

[ベルリンのオーケストラとメイン会場]
言い訳になりますが、ベルリンにおけるオーケストラの名前やメイン会場はなんとも紛らわしいのです。
・ベルリン・フイルハーモニー管弦楽団/Berliner Philharmoniker(オーケストラ名)
・ベルリン・フィル/Philhamonie Berlin(メイン会場名)

・ベルリン国立歌劇場管弦楽団(シュターツカペレ・ベルリン)/Staatskapelle Berlin(オーケストラ名)
・ベルリン国立歌劇場/Staatsoper Unter den Linden(メイン会場名) 但し、現在同劇場がリニューアル中のためシラー劇場/Schiller TheaterがStaatsoper im Schiller Theaterとしてメイン会場になっている

・ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団/Deutsche Oper Berlin(オーケストラ名)
・ベルリン・ドイツ・オペラ/Deutsche Oper Berlin(メイン会場名)

 また先日来日した
ベルリン・ドイツ交響楽団/Deutsches Symphonie-Orchester Berlinはまた別の楽団です。他にもベルリン・フィルを本拠地とするベルリン放送交響楽団/Rundfunk-Sinfonieorchester Berlinなどもありますね。複雑な一因は旧東ドイツ時代の楽団との統廃合などの影響もあるようです。


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<Photo>上から…
・ドレスデンのザクセン州立歌劇場
・ザクセン州立歌劇場内
・オペラ「魔弾の射手」のカーテンコール、中央は指揮者のキュットソン
・開場時間間際になっても誰もいないシラー劇場前
・シラー劇場裏の飲み屋Schiller-Krause内、3枚
・ロゴ上、ドレスデン歌劇場前のCafe Schinkelwache店内から
・ズービンメータの"幻の"チケット


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ヴェンダースみたいに [gillman*s Lands]

ヴェンダースみたいに

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 (「ベルリン天使の詩」に関してのインタビューで)…私にとって、旅をしている状態がいちばん居心地がいいのだ。1か所にとどまっていると、すぐ退屈するし、観察力も鈍っててしまう。未だに知らぬ場所に出かけて、そこをあてどなくさすらう。その高ぶり、感覚の増幅が、私にはたまらない魅力だ。ちょうど熱に浮かされている感じだろうか。わたしが"旅"を、もっと厳密に言えば"動いている状態"をテーマにするのは、そうした私の想いの所産と表現できるだろう。…
   (「Wim Wenders Faraway,so close!」 Interwiewより)


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 ライプチッヒからベルリンまでICEの特急で1時間とちょっと。隣の席にはドイツ人の老夫婦が座った。時々だんなと二言、三言言葉を交わす程度で奥さんの方はじっと窓を見つめている。目をつむっている時もあるけれど、眠っているわけではない。ぼくはこの二人がどんな旅をしているのか気になった。とは言え、今は自分も旅人であることに違いはない。

 その作品にはロード・ムーヴィーが多い映画監督ヴィム・ヴェンダースは彼にとっては旅をしている状態がいちばん居心地が好いという。ぼくは旅が好きだけれども必ずしもそれが一番居心地が好いとは思っていない。事実旅に出するとすぐ家に帰りたくなってしまうのだ。数日すると諦めがついて旅を続けようと言う気になるけど…。

 今の日常にだって別に退屈したことはない。それじゃあ何で旅に出るのかというと、どこか他所に新しい日常を探しに行っているような気がする。それは、今の日常に退屈していることなんじゃないかと言うかもしれないけれど、そうではなくて単純にどこかに別の日常があって、そこにも身を置いてみたいし、そこにはそれを構成している人たちがいるのだということを知りたいだけなのだ。

 だから、何処かへ行っても熱心に観光地を観て周ると言うのはあまり好きじゃない。その街にお気に入りの美術館と飲み屋があればそれで十分で、というよりそれを探して歩いていると言った方が好いかもしれない。ということはそういう所が見つかればその街ではそれで十分であとはホテルの部屋の所定の所に所定のモノを置いて身の周りの日常の環境を整えればそれで好いのだ。

 ただ、ヴェンダースの言うように旅に出ると、日常で鈍ってしまった観察力が蘇ってくるというのは確かにあるかもしれない。旅先で見聞きしたものを自分の日常と比べたり、もっと言えば旅先で自分の身を守るためにも目を凝らすということが必要になって來る。観察という点でいえば、ぼくの場合写真を撮るために旅に出ることはないけれど、旅でカメラを持っていると自分の裸眼では気が付かないところにも目が行くような気がして、カメラはぼくのもう一つの目であるように感じている(もちろん写真の巧い下手は別として…)。

 ヴェンダースのロード・ムーヴィーの場合、旅は目的地に着くことよりもその旅自体が目的であるような場合が多い。旅の中で感じたこと思ったことは、もしかしたらその旅でないと生まれなかったことなのかもしれない。隣の席の老夫婦のご婦人のようにボーっと窓の外を見ていることもその旅の重要な産物なのだ。そういう意味では列車の旅は豊かな時間を与えてくれる。12時間の飛行機の旅よりも1時間ちょっとの列車の旅の方が物思いにふける時間がずっと多いような気がするのだ。

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Dresden~Leipzig [gillman*s Lands]

Dresden~Leipzig ドレスデンからライプチッヒへ

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 ドイツの状況は随分と変わってしまっていた。年明け早々ドレスデン等に冬の音楽シーズンに音楽を聴きに行くのと、逆にシーズンオフのすいた美術館を回ることにしていたのだけれど、出発前の年明けにネットで在独日本大使館のサイトをチェックしていたら「12月31日深夜(現地時間)、ミュンヘン市警察は、深刻かつ差し迫ったテロの脅威があるとの理由からミュンヘン中央駅とパージング駅に近づかず、群衆が集まる場所は避けるよう警戒を呼びかけました。 一時、両駅は警察により封鎖されました」という注意喚起を見つけた。

 ドレスデン空港へはミュンヘン空港で乗り換えてゆく予定だったのでその後の経過に注意をしていた。幸い危惧したような事件は無かったけれど、念のため外務省の「旅レジ」にドイツ渡航の登録をして緊急事態に注意喚起メールを受け取れるようにしておいた。そうして7日には羽田を飛び立ったのだけれど、その頃には年末にドイツのケルンで起きた難民によるドイツ人女性への暴行事件の騒ぎが拡大しつつある様子が耳に入り始めていた。

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 ドレスデンは今までにも何度か訪れているけれど、最近ではドレスデンはPEGIDA(西欧のイスラム化に反対する欧州愛国主義者)の本拠地として彼らのデモが頻繁に繰り返され、またそれに反対する親移民派のデモも行われていた。そうした動きを危惧してかドレスデンの旧市街のアカデミーの壁にはDas Land, das die Fremden nicht beschützt,geht bald unter.(異国人を保護しない国はやがて没落する)というゲーテ作品の中の言葉が掲げられていたし、ゼンパー(ドレスデン州立歌劇場)の電光掲示板には「素晴らしい音楽は多彩な色彩を持っている」などの異文化との共存をたたえるスローガンが流されていた。

 ドレスデンに着いて二日目の夜、デュッセルドルフの総領事館から明日ケルンで大規模な反難民デモが予想されるのでその一帯には近づかないようにとの注意喚起のメールが来た。そのメールを見るまでも無く、ドイツのテレビでは連日ケルン事件の報道が頻繁に流されていた。幸いドレスデンでは不穏な動きは無かったが…。

 ドレスデンには四日ほど居たので買い物の必要もありいつもは行ったことのないエルベ川の向こうの新市街に行った。橋を越えてアルベルトプラッツからローテンベルガー通りをあがって横道に入ると、通りの様子が一変する。商店の様子もタトゥー屋や外国食品の店など怪しい雰囲気の店が多いし、何よりもほとんどすべての家の壁にペイントがしてある。なんか一昔前のブロンクスのようだ。道行く人の会話からも独逸語らしきものが聞こえてこない。

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 一昨日ドレスデンから列車でライプチッヒに移動した。ドレスデンでは目立ったPEGIDAの動きは無かったけれど、ここライプチッヒはある意味でもっと過激なLEGIDA(Leipzig gegen die Islamisierung des Abendlandes/西洋社会のイスラム化に反対するライプツィヒ)の本拠地でもある。

 旧市街を歩いている時、街なかや聖トマス教会で一枚のポスターを見かけた。Leipzig Beilbt Helle.(ライプチッヒは明るいままだ)つまりライプチッヒは明るい、明晰で、差別のない街であり続けると言う意味だと思う。その意思表示として今日ロウソクの灯りを持ち寄って光の鎖を作ろうと言う呼びかけだった。

 これはつまりLEGIDAの動きをけん制するものだと思うけれど、LEGIDA側も黙ってはいないだろう。街へ出た時異様なほどパトカーが多かったのはそのせいだったのだ。旅の疲れもあったので昨日の晩は駅前のホテルで早目にシャワーを浴びて部屋でワインを飲んでいた。外は小雨が降りだしている。底冷えのする晩。

 部屋で寛いでいると窓の外がさわがしい。ホテルの部屋の窓の下を大音響をあげてデモが通って行く。教会の先の広場に向かってるようだ。人々は手に手にロウソクを持って広場に向かってる。どうやらあのポスターの「Leipzig bleibt helleライプツィッヒは明晰であり続ける」という共生賛成派の意思表示のデモのようだ。反対派の殴り込みが無ければいいのだけれど…。

 人々は雨の中ここの近くの聖ニコライ教会の方に向かったようだ。ここは東ドイツ時代1989年10月9日、7万人に膨れ上がった参加者が「我々が人民だ(Wir sind das Volk!)」(=我々こそが主権者たる国民だ)と叫び大規模なデモが起こった場所。それが東ドイツ平和革命の発端だった。その1ヶ月後にベルリンの壁は崩壊した。

 夜更けまでテレビのニュースを見ているとデモの様子が簡単に報じられた程度だったが、一夜明けて詳細なニュースが入ってきた。昨日のデモ後、共生派との衝突こそなかったがやはりLEGIDAが暴れ出し、街なかで破壊行為を行い騒乱状態になって250人が逮捕された。やはり心配していた事が起こった。 今…ドイツは揺れている。

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 *ドイツは現在でも他の地域に比べて安全な国であることは間違いが無いのですが、現在のように膨大な数の難民の流入やEUの不安定化が続くようだと、治安上の不安も増大してくるのではないでしょうか。また、ドレスデンにしろ、ライプチッヒにしろ旧東ドイツの地域であるということが関係あるのかもしれません。言われていることですか未だに東西ドイツの地域的経済格差があるようです。

 **ドレスデンの新市街の一部の様子を見ると、毎週日本でいう大掃除くらいのレベルの掃除をする整理整頓好きのドイツ人気質からすれば、とれもストレスのかかる光景かも知れません。価値観の闘争の面もあるような気もします。

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ライプチッヒ。不穏な夜。


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Saudade 郷愁 [gillman*s Lands]

Saudade 郷愁

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  リスボンジェロニモス修道院の中に入ると、うす暗い空間の中に細長いステンドグラスをすり抜けてきた光に浮かび上がった二つの石棺が目に飛び込んでくる。一つはポルトガルの国民的詩人ルイス・ヴァス・デ・カモンイス(Luís Vaz de Camões)そしてもう一つはヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)の棺だ。

 この二人はポルトガルの栄光を作った。ガマはインドへの航路を発見しポルトガルの目線を世界に向け、カモインスはそのガマが築いた航路でアジアに向かい言葉の世界でポルトガルの栄光を築いた。諸説があるけどガマがこの世を去った1524年にカモンイスがこの世に産声を上げたというのも暗示的ではある。

 そして、さらに暗示的なことは、そのカモンイスが世を去る1580年、ポルトガルは事実上スペインに併合される。60年後にスペインから再び独立するけれど以降は植民地ブラジルの富をよりどころにしてきた。考えてみれば、イスラム教徒からレコンキスタ(国土回復)を行い、スペインから離れ、そして今度はナポレオンが…。

 イベリア半島の隅っこに、その先は海しかないという地勢的な運命が彼らにいち早く大洋に目を向けさせたのかもしれないけれど、片方では自分の国土自体も安泰ではなかった。上っ面を撫でただけの旅人の無責任さで言えば、そんな歴史がこの国の独特の雰囲気を作り出しているのかもしれないと思った。だからだろうか至る所にSaudade(サウダーデ/サウダージ)の空気が色濃く残っていた。

 サウダーデというのは郷愁と訳されることが多いけれど、よく言うノスタルジーとはまた少し違うらしい。うまく他の国の言葉には訳せないと言うけれど、ノスタルジーのように過ぎ去った過去に想いを馳せると同時に、ぼくらアジア人の基本的メンタリティーでもある「切なさ」みたいなものを色濃く含んでいるらしいのだ。

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 東京に戻る日が近づいた晩、地元の人が来るというバロカ通りにある小ぶりのファドハウスに行った。  さして広くない店内では店専属のギタリスト二人にファドの歌手が短い休憩を挟んで数曲づつ歌う。もちろんノーマイク。夜明けまで店はやっているらしいけど、そんなに遅くまでは居られないから、三人の歌い手の歌を聴いて後ろ髪をひかれる思いで店をでた。

 ぼくは、フラメンコ・ギターにのせて魂を振り絞るように歌うスペイン人エル・カマロンカンテ(歌)が大好きだったのだけれども、ファドはそれともまた異なる。それはもう少し押さえたいわば日本の演歌みたいな印象だ。もちろん歌にはアジアの印である「こぶし」がはいる。これはアラブの影響だろう。言葉は全く分からないけれど、ずっと聴いていても飽きることが無いし、ずっと聴いていたい。ほんとうに名残惜しい気持ちで店をあとにして夜中の路地に出た時、なんとなくこれがサウダーデの気持ちなのかな…と感じた。

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 *コインブラという村のCD店で今お薦めのファドのCDは何かと聞いたら、このMARIZAの最新のCD「Mundo(世界)」を薦めてくれました。帰って聞いたら実に好いアルバムでした。今風のサウダーデが感じられます。彼女の歌はYoutubeにもありましたので、是非一度聴いてみて下さい。もちろん往年の名手アマリア・ロドリゲスの歌も素晴らしいです。

 **本年も拙ブログをお訪ねいただきありがとうございました。みなさま良いお年をお迎えください



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Bon Dia! Lisbon [gillman*s Lands]

Bon Dia! Lisbon


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 リスボンの朝。古い街区であるアルファマ地区の路地は、石畳を洗う水で雨が降った後のように濡れていた。人々がポイ捨てした吸い殻や犬たちの落し物がそれできれいに流されるというわけだ。人々が動き出して、段々と活気が出てくる。路地裏の小さな店でリスボンの交通機関の一日券を買っていると、店の前の通りが交差する角におばさんが店を広げだした。

 店と言っても濡れた石畳の上に白い布をひきつめて、その上に次々と商品らしきものを並べてゆくだけ。商品はどうやら女性の下着がメインのようだ。そんなに人通りが多い訳ではないと思うけど…。しばらく見ていると、その内集金袋のようなものをブル下げたオジサンがその通りの角に立ってウロウロし始めた。

 オジサンは盛んに露店の方を気にしているんだけど、おばさんに話しかけるでもない。それともぼくが一日券を買った店に用があるのか。その店は駄菓子屋みたいにお菓子なんかも売っているけど、宝くじも売っている。店の中には近所のおばあさんやおじいさんらしい人が宝くじを買ったり、以前買ったのが当たっているかのんびりと見てもらったりして、狭い店の中はちょっと混んでいた。

 やがて通りかかったおばさんが店?の女性と何やら親しげに話して下着の品定めをしている。暫くしてその中から何点かを選んで買って行った。なんかリスボンの庶民の朝の雰囲気がマンマンでいいなあ。此処はもっと若い時に来たかったなと思った。靴の底が擦り切れるほどにこの坂の街を歩いて…。


 考えてみたら確かにポルトガルは今回が初めてだけれど、国境までは大昔に一度来たことがある。1971年の2月19日、友人とドイツから車でスペインの南端のアルヘシーラスまで行って、そこに車をおいてその前年の夏に続いて二度目のモロッコカサブランカまで行った帰り、セビリアを出てアラセナで一泊してから北スペインに抜ける前にポルトガルの国境が近くそこを超えればリスボンまですぐなので寄ってゆこうという魂胆だった。

 今はポルトガルもEUの一員だから国境が無いようなものだけれど、当時は国境の検問所もあって、その時はスペイン側とポルトガル側の間に両側がフェンスに囲まれた細く長い一本道があって、そこは丁度国境の中間地帯の様なものだったのかもしれない。その一本道を抜けると少し開けたところに出て、そこに国境検問所と事務所があった。

 そのまま入国できるものと思ったら、ポルトガルに入るにはビザがいるという。即時発行ビザは国境の事務所で発行できるけどそれには100エスクードかかるということだった。今はEUになったのでどこでも€(ユーロ)だけども、当時はスペインはペセタでポルトガルはエスクード。100エスクードと言えばいくらくらいか、たぶん1000円くらいのものだったと思うのだけど…。

 貧乏学生にはそれでも高く感じられて、それに幾分かをエスクードに替えなければならないし、そうすればロスもでる。ぼくの財布には小銭レベルだけどモロッコのデルハムとスペインのペセタ、その前に通ってきたフランスのフラン、それに虎の子の幾ばくかのドイツマルクがごっちゃに入っていた。結局、それならいいや、と断ってスペイン側に戻った。

 もちろん今だったら入国を迷うことはないけど、その時はポルトガルだってスペインとそんなに変わらないだろう、位いの気持ちでいた。あの頃にもしリスボンに入っていたら、この街の虜になっていたかもしれない。今でもポルトガルの国境についたときの国境警備員のBon Dia!(こんにちは)という陽気な声が耳に残っている。



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