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海岸線の向こう 〜ポルトガル・ギンショ海岸から〜 [gillman*s Lands]

海岸線の向こう 〜ポルトガル・ギンショ海岸から〜

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 ■ …それについては、檀一雄がサンタクルスから十六歳の娘のふみに宛てた手紙の中に記されている。
  
 ふみ様

 そらがカラッポになってしまって、空気さえ無いみたいな太陽ばかりが光り輝いています。砂浜が十キロばかり続いているから、そこを走り、泳ぐだけです。素敵な奥座敷が見つかり、その奥座敷で、(ドイツで買った三百円の)魔法瓶のお茶を飲むのが、うれしく、そこから三方に広がる大西洋を見下ろすのは、愉快を通り越しています。そこで、奥座敷の近所に海小屋を作れば、ペニシの風車小屋と、合わせて二軒。亡命するのに充分だろう、と、一人で悦に入っています。今はメロンと洋梨と葡萄と無花果の出盛りで、大メロン一個六十円(日本円換算)大瓜一個八十円の見当です。肉がバカみたいに安く、ふみも、父の小間使いになって、ここへ亡命してみたらどうですか。毎日西瓜(またはメロン)一個、大ビフテキ一枚支給します。  父

 そして、その手紙には、最後に「牛の津奥座敷景観」と記されたスケッチが描かれている。崖の上には「奥座敷二十畳岩」という岩が描かれ、その端の小高い部分が「父玉座」と記されている。…

  (「一号線を北上せよ」鬼火より/ 沢木耕太郎  講談社)


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 リスボンから車で西に40分くらい行った所にカスカイス(Cascais)という町がある。そこから少し山の中に入った王室の離宮のあるシントラ(Sintra)あたりまではシントラ・カスカイス自然公園と言って自然豊かな地域になっている。その地区の海っぷちにポツンと一軒のホテルが建っている。

 そこは17世紀にポルトガルがスペインのハプスブルク家によって支配された時代(60年間)に海の要塞として造られた建物で、今はラグジュアリーホテルとミシュランの星付きレストラン「フォルタレーザ・ド・ギンショ(Fortaleza Do Guincho)」になっている。ギンショというのはそこの海岸の名前で、サーフィンもできる海岸線がずっと続いている。建物はその海岸の崖の上に建っておりレストランの窓からは北大西洋の海を見渡すことができる。


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 窓越しに視界いっぱいに広がる海の水平線を目で追ってゆくと遥か右の方に岬が見えるのだけれど、そこがユーラシア大陸最西端と言われるロカ岬だ。そのロカ岬の向こうに日本の小説家、檀一雄が一年余り滞在して「火宅の人」を書き上げた小さな村サンタクルス村がある。

 サンタクルス村で彼は一軒の家を借り家政婦を雇って、彼の言葉を借りれば「天と地と私が鼎談(ていだん)できる所」で暮らしながら作品を書いた。時には村人を家に呼んで土地の材料を使って彼得意の料理を振る舞ったらしい。もちろん逆に彼が土地の料理を教わったということもあるだろう。

 のちに新聞の連載をまとめて出した彼の単行本「檀流クッキング」という本の中に、干ダラのコロッケ(バステーシュ・ド・バッカロウ)が出ているが、これは彼がこの時サンタクルス村で憶えたものらしい。

 ■ ポルトガルにやって来て、あちこちおよばれに出かけてゆく。例えば誕生祝だとか、何だとか…。するとまったく例外なしに「コジドー」と「バステーシュ・ド・バッカロウ」というご馳走が出される。「コジドー」というのは「煮る」ということで、煮物は何でも「コジドー」のはずだが、しかし客を呼んで「コジドー」といったら、大体様式がきまっている。…

…「バステーシュ・ド・バッカロウ」は、干ダラとジャガイモとタマネギを卵でつなぎ、パセリを散らしながら揚げ物にした至極簡単な料理であって、これなら、はなはだ日本人向きだ。殊更「馬鹿野郎のバステーシュ」と聞こえるから、みなさんも、せいぜい馬鹿野郎(干ダラ)を活用して、愉快なポルトガル料理を作ってみるがよい。子供のオヤッによろしく、また酒のサカナに面白い。…

   (「檀流クッキング」冬から春へより/ 檀一雄 中公文庫)

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  沢木耕太郎は檀一雄について「檀」と言う小説を書いているけど、その沢木がサンタクルス村を訪れた際の紀行文が「一号線を北上せよ」の中の「鬼火」と言う章に載っている。彼がそこを訪れた時には沢木は既に「檀」を書き上げて出版もされていた。檀一雄はサンタクルス村から日本に戻って四年ほどで肺がんでこの世を去っていた。沢木にとってこのサンタクルス村の訪問は言わば彼と檀一雄との関係の総仕上げのようなものだったようだ。

  レストランの外の崖に張り出したテラスに立ってゆっくりと水平線の端から端まで眺めた。この海岸線を右へ何処までも辿ればサンタクルス村に行き着く。左に目を移してその海岸線を、何処までも何処までも辿って行けばジブラルタル島の見えるスペインの想い出深い、懐かしい街アルヘシーラスにたどり着く。恐らくはもう二度と訪ねることの無いあの土地の匂いとあの時の陽の光を思い浮かべたら少し胸が苦しくなった。


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 *干ダラのコロッケはポルトのフレイショ通りの店で食べました。その時は写真(下の写真左)の様な小ぶりなものでしたが、スーパーあたりで売っているのをみると、ひと口では食べきれないような大きなものもありました。檀一雄はその本の中で、

 …さて、スプーン二本を左右の手に持ち、こね合わせたすり身をすくって、約五、六センチ長さの、三面の、稜を持った紡錘状の団子を作る。これが、娘達の自慢であって、日本の自称大家もシャペウ(シャッポ)を脱いだ。植物油でむらなく揚げれば、終わりである。 (「檀流クッキング」冬から春へ/ 檀一雄 中公文庫)


 と、こちらの方が素朴で美味そうですねぇ。

 **その時一緒に食べたのが、檀もきっと食べただろう「タコ飯」と「タコの天ぷら」(下の写真中)でした。タコ飯は一見赤飯のようですが、この色はタコから出た色のようです。どちらもタコが本当に柔らかくて、今まで食べたタコ料理の中でもピカイチでした。ちょっと日本人の口には塩分が濃すぎるかもしれませんが、こちらではそうなのかもしれません。

 ***ギンショのレストランで、檀一雄が同じ名前だと言ってそればかりを飲んでいたらしいのですが、ダン・ワイン(下の写真右)という赤ワインを飲みましたが、どっしりとした味の美味しいワインでした。ダンワインというのは銘柄の名前ではなくてポルトガルの中央部のダン川流域のダン地区でできたワインで、ポルトガルを通じて日本人が初めて口にしたワインはもしかしたらこのダンワインだったのかもしれません。


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                                          …つづく
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村の猫 ~オビドス村~ [gillman*s Lands]

村の猫 ~オビドス村~


 ポルトガルのオビドス村(Obidos)はリスボンから北に100キロほど行った処にある。13世紀はじめ、時の王ディニス王が王妃イザベルがスペインから嫁いできたときにこの小さな村をプレゼントして以来ポルトガル王妃の直轄地として栄えた。城壁に囲まれたメインストリートが一本きりの小さな村たげど観光客でにぎわっている。

 石畳のメインストリートの中ほどまで来ると、猫が道の真ん中に座っている。ゆっくり近づいて目線を猫の高さにする。日陰だから日向ぼっこでもないのだろうけど、逃げる様子はない。かといって餌をねだって近づいてくるわけでもない。目元の涼しげな三毛トラ。しばらくお付き合いすることにした。

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 ニャン。(こんにちは)
 ニャーン。(Bon Dia! こんにちは)
 何してるの?
 別に…。

 あ、子供が来た。
 子供:こんにちは~。
 ニャーン。

 行っちゃったねぇ。
 行っちゃった…。



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サンティアゴの背中 [gillman*s Lands]

サンティアゴの背中

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 カソリックの巡礼達はここスペインのサンティアゴ・デ・コンポステラを目指していずれもフランスの地から発する4つのいずれかの巡礼街道300キロを歩いてやって来る。そして彼らが最後にたどり着くのが大聖堂全体を見晴らすように置かれているこのサンティアゴ(聖ヤコブ)像の背中なのだ。暗く狭い階段を昇ってサンティアゴ像の後ろから両手を回し抱きついてその背中に口づけした時その苦しかった300キロの巡礼の旅が報われる。

 ぼくはキリスト教徒でも巡礼でもないけれど、サンティアゴ像の後ろから手を回しその両肩に手を置いた時何とも言えない安堵感を覚えた。とてつもなく大きな背中を感じた。巡礼の旅の目的の一つは旅の苦難を乗り越えてこのサンティアゴの背中に辿り着くことによって自分が変われるということらしいのだけど、その背中が彼らにどれほどの安堵と歓喜を与えてくれたかは想像に難くない。

 仏教の仏像にしてもキリスト教のキリスト像やマリア像などにしてもある種の宗教的装置と言って仕舞えばそれまでのことなのだけれど、そこには本来目に見えない信仰という世界を何とか見えるようにしたいという長い時間をかけた信仰者の継続的な意志と、一方それによって信仰や布教をより強固なものにしたいという宗教者の思惑が交差している。

 聖人サンティアゴの遺骨の上に大聖堂を建てることによって信仰に新たな光が差し込むと同時に、かたや教会は巡礼者で潤いこの街の不動産の大半を所有するようにまで裕福になる。もちろんぼくにはその事に対して何かを言う資格はない。どんな宗教でも大きくなれば、純粋な祈りと組織を拡大・維持する意志という二本の柱になってゆくことは自明のことなのだから…。

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 今週の日曜日からポルトガルに来ている。昨日はポルトガルの港町ポルトから北に250キロほど上がった北スペインのサンティアゴ・デ・コンポステラを訪れた。ここはエルサレムに次ぐカソリック教徒の聖地でサンティアゴ(聖ヤコブ)の遺骨を祭ってあり、中世から多くの巡礼が目指す地である。ぼくが訪れた時も丁度巡礼を終えた男女に出会った。

 彼女たちは八年かけて300キロの巡礼の道のりを少しづつ歩いて今日ようやく成就したということだった。日本のお遍路と同じように街道にはいくつか教会の宿坊の様なものや巡礼宿がありそのスタンプも誇らしげに見せてくれた。ただ、日本の八十八か所詣りのお遍路と違って、途中の何か所の教会を廻ったと言うのはさほど重要ではなくてあくまでも巡礼道を歩いてサンティアゴの背中にたどり着いたということが意味があるらしい。

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 カソリックの国、特にスペインやポルトガルを旅していると今でもここは宗教国家だなぁという気がする。考えてみれば数百年をかけてイスラムからレコンキスタ、いわゆる国土回復の戦いをして奪回したのだから無理もないかもしれない。とは言いながらも両国とも文化的にはイスラムの影響を色濃く残していて、それがその国の魅力の一つにもなっているような気がする。

 ここサンティアゴ・デ・コンポステラに来る前々日に訪れたファティマはカソリック教徒にとってのもう一つの聖地だ。こちらは時代的にはごく新しく1917年に起きた奇跡が元になっている。その年の5月13日三人の羊飼いの子供たちの前に聖母マリアが現れた。それから毎月13日に六度にわたってマリアが現れ、最後の10月13日には10万人のカソリック教徒が集まったと言われる。

 聖母マリアはここに教会を建てることとファティマの3つの預言と言われるものを子供達に告げた。以来このファティマの地は奇跡の地として多くの巡礼者を集め、当時は何もなかった平原に今では壮大なバジリカと呼ばれる大聖堂とにぎやかな街が出来上がった。バジリカと新教会にはさまれた広大な広場はバチカンのサンピエトロ広場をはるかにしのぐ広さだ。

 その広場を貫いて一本の道がバジリカ前の出現礼拝堂(聖母マリアが現れたと言われる場所に建っている)のところまで伸びているのだが、熱心な信者はその道を立膝の格好で一歩一歩にじり歩いて行く。来年はそのマリア出現の奇跡が起こってからちょうど100年目を迎える。式典にはローマ法王も出席する予定だと言う。何故ならこれはバチカンが正式に認めた数少ない奇跡だかららしい。

 ファティマの街の商店にはマリア像や奇跡を願って自分の身体の悪いところを治してもらうための蝋で出来た身体パーツの供え物などがずらっと並んでいる。毎年5月13日と10月13日にはこの広場に10万人を超す人が集まると言う。人々は奇跡を望んでいる。今世界は混とんとし始めてきた。イスラムとの争いは忌まわしい宗教戦争の様相さえ呈している。もし100年目にここで大きな奇跡を望めるなら、望むべくは世界に本当の平和が訪れることではないか。

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<Photos>
上から…
サンティアゴ・デ・コンポステラ大聖堂のサンティアゴ像背後
同、正面からの全景…像の背後に階段がある
今巡礼の旅を終えた巡礼者
ファティマの新教会と広場を横切る道
広場全景
バジリカ全景と広場に集まった信者への説教台

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街で… Nürnberg [gillman*s Lands]

街で… Nürnberg (ニュルンベルク)

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 今回はバイロイトに行くのに羽田からミュンヘンに行ってそこからまた飛行機でニュルンベルクに行き、さらにそこからタクシーでバイロイトに入った。帰りも同じ経路で帰ることにしていたので最終日にニュルンベルクで一泊することにしていた。ニュルンベルクは何回か来たけれど好きな街の一つだ。

 ニュルンベルクで泊まるホテルは決めていなかったのでバイロイトのコンサートの日程が終わる頃、ネットで調べて予約を入れた。帰りの飛行機が朝なのでニュルンベルク空港に近い処にしたのだけれど、行ってみると本当に空港の目の前でしかもホテルの前には市内へ行く地下鉄の駅がある。

 空港駅から市街地の中央駅までは地下鉄で二十分位なので手軽に街に出られる。予約していたホテルには昼前についてしまったのだけれど、少し待っただけで部屋に入れたし、無料で部屋のグレードアップをしてくれていた。荷物を置いて即中央駅に向かった。大抵は車で来ていたので地下鉄に乗るのは初めて。

 空港から郊外のローテンバッハまでゆく地下鉄U2号線は全線が開通したのは1999年というから、ぼくが最初にこの街に来たころにはまだなかったはずだ。地下鉄は新しいせいもあるけど、飾り気はないが機能的で清潔ですっきりとしている。車両も日本のように中吊りの広告も無くシンプルだ。ヨーロッパでは多い自転車が乗せられるというのも気が利いている。

 ニュルンベルクに限らず地下鉄の中みたいに都会の情景を観察するのも旅の楽しみの一つだ。バイロイトから来るとこのニュルンベルクは大都会に見える。色んな所へ行くと出来るだけ地下鉄に乗るようにしているのだけれど、地下鉄の中と言うのはその都会のその地域の感じが比較的ストレートにでている感じがする。

 ある意味では都会に住む人間の生活に密着しているものなので、その色合いが反映されるのかもしれない。治安の良くない、もしくは不安のある地域の地下鉄は何となくうす暗くて汚いし、そうでない都市の地下鉄はそれなりに好い雰囲気をしている。ここの地下鉄もそういう意味では好い雰囲気だけど、写真を見ると天井にしっかりと監視カメラがついている。今、大挙してシリアなどの難民がドイツに押し寄せている。これからの治安のことも考えるとこういう監視カメラは必須なのかもしれない。

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 中央駅で降りて城壁の中の旧市街地にゆく途中ニュルンベルク州立劇場(Staatstheater Nürnberg)の前を通った。なんとも懐かしい建物だけれど、ここにはちょっと苦い思い出がある。もう大昔になるけど1971年の9月24日にこの劇場にヴァグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を見に来たことがある。

 その時は市政何百年記念かの記念行事としてミュンヘンあたりからも一流の歌手を招いてマイスタージンガーの公演を行うということで、ぼくも思い切って結構いい席の切符を買って友達と一泊の予定でハイデルベルクから車で向かった。ニュルンベルクでのマイスタージンガーの上演、それも選りすぐりのメンバーとあって会場は満員の盛況だった。

 例のわくわくするような前奏曲が終わって、劇は滞りなく進んでいたのだが、第二幕の職人たちの乱闘シーンで主役のハンス・ザックス役の歌手が本当に怪我をしてしまい頭から血を流すしまつ。ただちに幕が下りて何十分か待たされた挙句当日の公演はそこで中止となった。後日憤懣やるかたなく劇場に手紙を出したら入場料の一部を返してくれたけど…。


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<Photos (上から)>
・地下鉄U2号線ニュルンベルク空港駅の構内
・地下鉄の車両風景
・ニュルンベルクのカイザーブルク城
・市庁舎前のベンチで

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*ニュルンベルクは坂の多い街です。坂の上のカイザーブルク城から降りてきて市庁舎の前のレストランで一休みしました。外のテラス席で道行く人を眺めながらのんびりとコーヒーやワインを飲むというのが楽しみの一つですが、ぼくも暫くボーっとして通りを観ていました。

 レストランの丁度向かい側の市庁舎の壁に何台かベンチが置かれていて、カップルが座ったり中には本を読んでいる人もいます。そんな中におばあちゃん世代と孫でしょうか犬を連れた一家が一つのベンチにかたまって座っています。ぼくの頭の中にフト「家族の肖像」という言葉が浮かんできました。こんな穏やかなシーンがいつまでもずっと続いてほしいと願いながらシャッターを押しました。


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Wagner contra Liszt [gillman*s Lands]

Wagner contra Liszt

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 バイロイトの目玉と言えばもちろんリヒャルト・ヴァグナーだけれど、その中心となるのが丘の上に立つFestspielhaus(祝祭劇場)と彼と妻のコジマが暮らした邸宅ハウス・ヴァンフリートだ(写真上)。邸宅の入って正面に見える楕円形の大窓からはその庭、そしてその後ろに広がる広大なホーフガルテンの森が見える。初めて来たときも感じたのだけれど、この部屋の様子を見ただけでヴァグナーの良く言えば壮大な、皮肉を込めて言えば尊大な性格を感じ取ることができる。

 1886年の7月にフランツ・リストがここバイロイトで亡くなった時には、(その時はヴァグナーは既にその数年前に亡くなっていたけれど)、ヴァグナーの妻でありリストの娘であるコジマ・ヴァグナーによってリストの遺体はこの部屋に一時安置されたらしい。ヴァグナーがリストのことをどう思っていたのかは分からないけれど、リストはヴァグナーの作品を熱心に世の中に紹介していた。

 天才とはそんなものだと割り切ればそれっきりなのだけれど、ヴァグナーの生涯を知れば知るほど「俺様」気分に辟易する。不倫と借金踏み倒しの連続。ニーチェを廃人にし(これはもちろん比喩だけれども)、ルートビヒ王を死に追いやっても自分はこのヴァンフリート荘で豪奢な生活をしていたと思うと、ちょっとやりれない気持ちになってしまう。尤もヴァグナーをここまで神格化してしまったのは、本人の尊大な性格だけでなくコジマやバイロイト・サークルと呼ばれた人たちにおうところが多いのだけれど…。

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 実は今回バイロイトに來るまでヴァグナーの邸宅のすぐ近くにフランツ・リストの家があるとは知らなかった。今はフランツ・リスト博物館になっているけど昔来たときにも気が付かなかったのでその後に博物館になったのかもしれない。場所は本当にヴァグナー邸の敷地のすぐ隣の一軒家で、入り口の門の処に小さなプレートが貼ってあるだけなのでうっかりすると見逃してしまいそうだ。

 フランツ・リストの住居はヴァイマールブダペストで訪れたことがあるが、ここは隣家のヴァグナーに嫁いでいるコジマに会うために借りていたようだ。しかし、この家が彼の臨終の家となってしまった。博物館にはリストのデスマスクと臨終の部屋が残されている(上の写真)。リヒャルト・ヴァグナーの華麗な(?)女性遍歴に比べても、リストのそれも彼に劣らず華麗だけれど晩年はヴィトゲンシュタイン侯爵夫人との添い遂げられない純愛に悩み続けた。リストの臨終の部屋の壁には彼女の肖像画がかけられていた。

 リスト博物館のある通りの入口にある建物が今はジャン・パウル博物館になっている。恥ずかしながらジャン・パウルは名前くらいは聴いたことがあるけれど、具体的なことは殆ど知らなかった。ところが一旦気づいてみるとこのバイロイトはヴァグナーの街であると同時にジャン・パウルの街でもあった。彼の銅像や彼の名前の付いた広場、至る所に彼にちなんだものを見ることができる。

 ジャン・パウルはドイツの19世紀の小説家。彼の小説「巨人」に触発されてグスタフ・マーラー交響曲第一番「巨人」をかいたことでも知られているということだ。彼はここに1804年から1825年まで住んでいたのだけれど、調べている内にその後この建物にはヒューストン・スチュアート・チェンバレンが住んでいたことが分かって驚いた。この建物は戦前はむしろチェンバレン・ハウスとして人々に知られていた。そのことは何処にも書かれていなかったけれど…。(ただし、ジャン・パウル博物館のホームページにはその旨が書かれている)

 チェンバレンはコジマ・ヴァグナーの娘エーファと結婚しており、その時コジマがこの屋敷を買い与えたと言われる。チェンバレンは元はイギリス人であるが、反ユダヤ的著書「19世紀の基礎」の著者として知られている。ぼくも昔ハイデルベルクで買った上下二巻のその本を持っているけれど、当時はその本はバイエルンやウィーンの中流家庭には大抵ワンセットはあったと言われている。もちろんヒトラーも読んでいたはずだ。それはアーリア人種の優位性を提起しナチズムの源流の一つとなっている。彼の名前とその著書は今のドイツ人の記憶から消したいものの一つだ。チェンバレンこそヴァグナー家とヒトラーを結びつける発端のキーワードだった。

 そのチェンバレンも属していたバイロイト・サークルはヴァグナーを神格化した働きをしたと同時に反ユダヤ的性向も持っていた。コジマ・ヴァグナーはマーラーがウィーンフィルの指揮者になった時彼がすでにカソリックに改宗していたのを知らずにユダヤ人を指揮者にするのはいかがなものかという手紙を書いた。元々コジマはマーラーの音楽家としての実力は充分認めていたのだけれど、とうとうバイロイトに招くことはなかった。

 今まで出てきた、バイロイトを巡る人々の生きた時代と没年齢を書きだしてみると色々なことが頭に浮かんでくる。

 Jean Paul 1763-1825 (62)
       Franz Liszt 1811-1886 (75)
        Richard Wagner  1813-1883 (70)
            Cosima Wagner  1837-1930 (93)                 
                 Huston Chamberlain 1855-1927 (72)
                   Gustav Mahler  1860-1911 (51)

 コジマ・ヴァグナーは長生きして父リストの力添えもあってバイロイト音楽祭の柱を創り上げ、息子のジークフリート・ヴァグナーへと繋いで行った。

 いつも思うのだけれど、音楽も絵画も文学も全ての芸術は、それを生み出した人物の生い立ちや生きた時代、経験や性格などの極めて個人的なものに依拠して生まれてくる。その意味ではヴァグナーの音楽も決して例外ではないと思う。敢えて言えばぼくはヴァグナーの生き方やその性格はどちらかと言えば好きではない。しかし芸術の本当の凄味は出来上がった作品は出来上がった時点からその人物の手を離れて一人で生き始めるということなのだと思う。ヴァグナーの生き方がどうあろうと、それが彼の作品の感動を減衰することはないのかもしれない。それは一つの救いでもある。



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 *ヒューストン・S・チェンバレンの実兄であるバジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain)は実はお雇い外国人として1873年に日本に来ています。小泉八雲とも親交があり東京帝国大学で教鞭をとり、退任後外国人初の名誉教授となったらしいです。

 俳句を英語訳したり彼は日本文化紹介の先駆的な役割を果たしたのですが、基本的には西洋文化中心主義で日本文学に対しては余り高い評価をしていなかったと伝えられています。これでやっと日本とバイロイトが繋がったわけです。

 **最後の写真はヴァンフリート荘に続く、ヴァグナー夫妻が好んで散歩したと言われるホーフガルテンです。緑の深い静かな公園でした。




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バイロイト音楽祭2015 コンサートの合間に [gillman*s Lands]

バイロイト音楽祭2015 コンサートの合間に

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 バイロイト音楽祭は毎年7月末から8月末まで開催されている。全期間が3つのZyklus(ツィクルス)と呼ばれるサイクルに分かれて、基本的には「ニーベルングの指環」の舞台がメインで公演される。「指環」は全4話で構成されているから、「指環」関連で都合12回の舞台があることになる。

 その間に「トリスタンとイゾルデ」や「ローエングリン」などの「指環」以外のヴァグナー作品の公演が入って來る。「指環」はツィクルス毎に連続して行われる訳ではなくその間に「指環」以外の作品が入ったり、休演日があったりで全4話を観ようと思ったら結局一週間位の滞在はやむを得ない。

 コンサートのある日は3時にはホテルを出発するので身支度などを考えると、朝食後午前中に街なかを散策するくらいしか時間が無い。休演日には一日使えたので電車で30分くらいで行ける近郊のKulmbachに行ってみた。観光旅行で海外に來ると中々一つのホテルに長逗留するということはできないので、これはこれで貴重な体験かも知れない。

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 バイロイトの旧市街も他のヨーロッパの都市と同じように狭い地域にかたまっているので何回か散策すると方向音痴のぼくでも大体の位置関係がわかってきて親しみがわいてくる。一度朝六時くらいにホテルを出て明け方の街を散策したことがあるけれど、朝日を浴びたGasse(ガッセ)と呼ばれる路地の佇まいが素晴らしかった。

 バイロイトは小さな町だから音楽祭とヴァグナー関連を除いたら何日もいると観光すべきものがそうあるわけではないから飽きてしまう人もいるかもしれないが、この街の路地散策は何ものにも代えがたい。それにヴァグナー関連を除けば、と言ったけれどもそれ自体も歴史を知れば知るほど興味が湧いてきて、そうすると街のそこここにそういった歴史の足跡が残っていることに気が付くのだ。

 <Photos (上から)> 

夜明けの街角…まだ薄暗い路地の向こうに、教会の塔が朝日に照らされて浮かび上がっている。近くのホーフガルテンの庭園から飛んできたのか鳥が二羽空を横切ってゆく。手前にはゲオルゲ・グロッス (1893 - 1959)の個展の案内が貼ってある広告塔が見える。

教会広場…教会の裏手の広場にはまだ誰もいない。ひっそりと静かで、石畳がまだヒンヤリとしている。建物に差し掛かった朝日がことさら眩しく感じる。

ポップな路地…目抜き通りであるマクシミリアン通りからは横に抜ける路地が何本もはしっている。それらを一本一本探るようにして歩いてみる。趣のある建物の狭間に突然ポップな絵が描かれた塀が出現。これも好いなぁ。

ショウウインドウに映る街角…何処へ行ってもぼくが一番好きなのは、その土地のありふれた光景だ。ショウウィンドウに映り込む建物のイメージがなんかとても素敵に見えた。

路上コンサート…マクシミリアン通りに人が集まりだす頃、バイエルンの民族衣装をまとったグループが路上で演奏を始める。ブロックフレーテと魔笛にでてくるパパゲーノが吹いているような笛、それに民族楽器らしいチターのような楽器。バッハもとても長閑な響きになる。どこかサウンド・オブ・ミュージックのワンシーンのような…。

銀食器に映る宮殿…バイロイトには新宮殿と旧宮殿とがあるけど、これは旧宮殿の向かいにある銀食器店のショウウィンドウに飾られていた銀器に映った宮殿の姿。ぼくはガラスや水面や金属に映り込んだ世界が好きだけれど、これも美しいと思った。




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バイロイト音楽祭 2015 ~その2~ [gillman*s Lands]

バイロイト音楽祭 2015 ~その2~

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 バイロイト音楽祭はドレスコードがあると聞いていたので、めんどくせぇなぁ、と思いながら渋々ブラックタイを用意していったのだけれど、結論から言うと用意していって良かったと思っている。ドレスコードと言ってもそれを外すと会場に入れてもらえないというわけではない。実際にごく少数だけれどもジーパンにティーシャツという人も見かけた。

 でも、自分でもコンサートの数時間前から身支度をしてブラックタイに着替えると、気持ちが変わってよーし今日は気合を入れて観るぞと言う気になるし、それよりもこういう格好をするのは一つの楽しみなのだという気がしてきた。音楽祭はそれもこれも含めてドイツ人の楽しみになっているんだ。

 目一杯気張っている人たちもいるけど、ぼくの後ろの席に座っていたハイデルベルクとミュンヘンから来たおばちゃんたちは上品な格好をして、一年間楽しみにしていた音楽祭にやっときた興奮みたいなものが感じられた。席につくと機関銃のように話し出して、幕が上がる前からオバサン達のテンションは上がっていた。みんながお金持ちな訳じゃないけどそれなりにおめかししてやって來るのだと思う。

 これって、どこかで味わった雰囲気だなぁと思っていたけど帰りの飛行機の中で想い出した。それは子供の頃何度か行った歌舞伎座の顔見世興行などの会場の雰囲気に似ている。ぼくの家は普段は歌舞伎座なんかに行けるような家庭ではなかったけれど、親父がお菓子の町工場をやっていたので、年に何回か菓子問屋に歌舞伎座の切符を付き合いで買わされていた。きっとその菓子問屋もそのまた上のデパートかなんかに押し付けられたものだろうと思うけれど…。

 子供の頃はぼくが日本舞踊を習っていたからか、歌舞伎座には何度か連れて行かれた。そういう時は一張羅(いっちょうら)を着て、少しお澄まししていなければならない。子供心にはそれは息苦しくて決して楽しくはなかったけれど周りの大人の何となく晴れがましい雰囲気や、みんなのちょっと上気した顔色なんかが面白かったのを覚えている。バイロイトの晴れがましさはそんな歌舞伎座の雰囲気に似ていた。


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*下の写真はバイロイト音楽祭の名物カップル。毎日異なったスタイルで登場する。
いつも女性のドレスの色と男性のタキシードのカマーベルトの色がコーディネートされている。
最初の日はシャンパンホワイト、次の日がピンク、それからグリーンそして最終日は赤だった。
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 話を舞台の方に移すと、四夜にわたって行われたヴァグナーの「ニーベルングの指環」の舞台。祝祭歌劇場の音の響きそしてキリル・ペトレンコ指揮の音楽と歌い手のパフォーマンスは非の打ち所がないくらい素晴らしかったけどカストロフの演出が全てを台無しにしていたと思う。

 バイロイトはヴァーグナーの実験工房という位置づけだからある程度の脚色は仕方ないけど、例えば劇中での無神経で暴力的な機関銃の音やエグいセックスシーンは奇をてらったモノ以外のなにものでもない。それらは観ているぼくには何の必然性も了解できないし、意味すらも理解できない。

 それに目立ったのはステージに突然出現するスクリーンに投影される映像だ。カリガリ博士を思わせる陰影の濃いモノクロのドイツ表現主義的な映像。ある時は脈絡のない断片的映像を連続させたモンタージュ的映像。さらにはドキュメンタリータッチとおぼしき、現在舞台上で行われているシーンの実況映像。なんとハンディカムを持ったカメラマンが堂々と舞台の上で撮影している。

 その何れもがアリアの場面や重要な歌の場面で展開されるので観客は音楽に集中することができない。実はもともとこの「指環」の演出はドイツの映画監督ヴィム・ヴェンダースが行うはずだったのが条件が詰めきれず延期になったという話があるので、彼の向こうを張って映像を多用したのかと勘繰りたくもなる。

 いずれにして、それらは音楽や歌を盛り上げると言うよりは、観客の集中力と感動を減衰させる働きしかしていない。また全体を通して舞台上で常に展開される煩雑で無駄な小芝居が多く、それを見ているうちに怒りがこみ上げてきて、感じられるのは只々演出家の悪意のようなものだけだった。

 ワグナー家が取り仕切ってきたこの音楽祭も始めてから140年近くになり、今はリヒャルト・ヴァグナーの曾孫のカタリーナとエファ・ヴァグナーの姉妹が仕切っている。会場を見渡すと客の殆どが中高年だが、もし一見ポップでモダンな演出を採用することによって若い層を取り込めると考えてのこの演出の起用だとしたら何とも愚かなことだと思う。やるべきことは他にあると思うのだけれど…。もしまともな演出だったらどんなに素晴らしかったかと思うと残念でならない。

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「指環」の演出はともかく、舞台装置は全て大規模な回り舞台になっていて効率的に場面転換が
できる工夫がなされていて、これはこれで素晴らしいと思った。

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 *実は「指輪」に先立って観たLohengrin(ローエングリン)もびっくり演出でした。ある意味ではこちらの方がもっとぶっ飛んでいるけど、少なくともおぼろげながら演出意図が想像できたような気がします。

 その演出は主な登場人物以外は全てネズミというものでした。オペラというより昔ベルリンで見た演劇かブレヒトの作品の舞台のようでした。主人公のテノール歌手のKlaus Florian Vogtの透徹した歌声が絶品だっただけにこれもまともな演出で見たかったような気がします。あ、それを期待する人はメトロポリタンに行け、ということかな。

 **あ、演出のことで我を失ったので書くのを忘れてしまいましたが、この祝祭歌劇場の音は格別でした。四十数年前には中に入れなかったのですが、その木造のホールの外観と中を覗いただけで良い音がしそうだなぁ、と思いました。

 今回は聴いた席が二階バルコンの最前列中央付近と良かったこともありますが、音のバランスというか混じり具合が絶妙で特筆すべきは歌手の言葉がはっきりと聞き取れることです。ドイツ語の意味は分からないにしても、単語の輪郭がちゃんとしていると言う印象があります。

 ***リヒャルト・ヴァグナーの邸宅ハウス・ヴァンフリートの敷地内に今年の六月に完成したリヒャルト・ヴァグナー博物館の入口にはバイロイト音楽祭を指揮した代々の指揮者の写真が飾られていました。良く見てみたのですが、見落としたのかもしれませんが、2005年に指揮をした日本の大植英次氏の写真が見当たりません。

 オケの音が大きすぎたとか、団員とうまく行っていなかったとか取りざたされましたが、結果として1年で契約解除になったようです。あそこでの史実としてはバイロイトでは彼は指揮しなかったかのように、展示から外すのは余りフェアーな扱いとは言えないなぁ、と思いました。


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バイロイト音楽祭 2015 ~その1~ [gillman*s Lands]

バイロイト音楽祭 2015 ~その1~

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 先週からドイツのバイロイトに来ている。ヴァグナーの楽劇を連続上演するバイロイト音楽祭のためだけれど、ここに来るのは実はひょんなことからチケットが手に入ったからだった。ぼくはクラシック音楽にはあまり知識が無いし、ましてやヴァグナーは大昔に大学でヴァグナー音楽の大家の高木卓先生に習ったことがあるとは言え、ヴァグネリアンでもない。

 しかし、今から四十数年前にバイロイトを訪れてその時は音楽祭は終わった直後で(もちろん期間中だとしても切符は手に入らなかっただろうけど)残念な思いをしたことがあるので、一度は聞いてみたいと思っていた。それが今年の春、友人のそのまた友人が二人で行くことになっていたのだけれど一人が急きょ行けなくなってしまったのでそのピンチヒッターで行くということになった。

 行くと言ってもバイロイト音楽祭はドレスコードがあるし、ヴァグナーの歌劇はタンホイザーとかトリスタンとイゾルデなどは何度か舞台でも観たことがあるけれど「ニーベルングの指輪」となるとレーザーディスクは持っているけど、それも確か一度くらいしか観ていない。なにしろ四部作の全部を観るには15時間もかかるのだから…。しかし何事も経験だから行ってみることにした。

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 久しぶりに訪れたバイロイトは余り変わっていないはずだけれど、昔の記憶としては祝祭歌劇場(Festspielhaus)とヴァグナーの居宅であるヴァンフリートホーフあたりしか覚えていない。泊まったホテルは旧市街のはずれにあるホテルで、公演のある日にはホテルが祝祭歌劇場までの送り迎えのバスを出してくれる。バスが出発する時にはロビーにはタキシードなどで正装した男女の客が勢ぞろいしてシャンパンが振る舞われた。

 町はずれの丘の上にある祝祭歌劇場までは車で20分位。外側は今は修復中でファサードの写真を印刷したテントで囲まれていた。なにしろ建物が古いので冷房も無い。いくらドイツの夏でも満員の劇場の中はとても蒸し暑くなるのでぼくもそうだけどほとんどの男性は劇が始まる前に上着を脱いでいた。暑い時には例年、何人か倒れると脅かされた。

 一階の平土間の座席は座る面が木のままなので大抵はホテルで座布団を借りてゆく。ぼくも初日は分からないので借りて行ったけど、幸い二階バルコンの一番前の席だったのでフカフカの椅子で助かった。さらに上の写真を見てもらうとわかると思うのだけれど、座席にはいわゆる縦の通路が無い。あとから真ん中辺りの席につこうとすると端から全員に立ってもらわなければならないのだ。

 そのために開演や休憩明けには入場合図のファンファーレが間隔をおいて三回鳴らされる。一回目のファンファーレで真ん中近くの席の人が自席に赴き、二回目のファンファーレでその両側の人が、そして三回目で一番外側の席の人が入場するという手順だ。これを知らなかったり、無視したりすると大勢の人に迷惑をかけることになる。慣れてしまえばなんということはないのだけれど、最初は面食らうし、なんじゃこれと言う気にもなるけれど、みんなその不便を楽しんでいる風にも見えるのだ。

 今回見たのはLohengrin(ローエングリン)とニーベルングの指輪のDie Walküle(ワルキューレ)、Siegfried(ジークフリート)そしてGötterdämmerung(神々の黄昏)の四舞台。雰囲気も含めて充実していて楽しめたけれど、正直言ってかなり疲れる。公演のある日はなにしろ3時にホテルを出発して、公演が始まると一時間づつ2回の休憩をはさんでホテルに戻れるのは夜の11時ごろになるのだ。それが四日間。もちろん間に休演日はあるけど結構体力もいる。それもまたいい経験なのだけれど…。


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 *一番下の写真は地元の写真屋が撮ったもので、休憩時間などにバルコニーから撮ったものを翌日か翌々日に街の中にある自分の店のショーウインドウに掲示するのでその中に自分が写っているのがあれば買うと言うわけです。ぼくも小さく映っているのが一枚ありました。


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   ホテルの部屋で自撮り、
   自分の葬儀用ですね。



..
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中世ギルドの朝 〜フランドルから〜 [gillman*s Lands]

中世ギルドの朝  〜フランドルから〜

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 ブルージュブリュッセルの丁度中間あたりにある街ヘント(Gent、英語読みではゲント)には中世のギルドハウスの街並みが今も残されている。レイエ川の運河に沿って西側に広がる穀物河岸(コーンレイ)と東側のグラスレイ(香草河岸)と呼ばれる地区には中世におけるギルドの隆盛を彷彿とさせる建築群が見事に残されている。

 それはファン・アイクの有名な祭壇画「神秘の子羊」のある聖バーフ大聖堂のほど近くにある。ぼくがヘントを訪れた時はまだ朝早くで、街がやっと動き始めた時刻だった。船の往来もまだ少ない運河の水面は鏡の様に静まりかえっており、そこに壮麗な中世の建築群の姿が映り込んでまるで一幅の絵の様だった。

 その時ぼくの頭を去来したのは、ぼくら(つまり現代人は)はなんでこういう美しい建物や街並みを造りそして残せないのだろうか、ということだった。この建物の多くは13世紀から16世紀にかけて造られた建築群なのだけれど、今の建物よりも美しいかどうかは別としても、少なくともぼくらの今作りつつある街並みなんぞはその永続性だけでも既にこれらの建築群に負けているに違いないのだ。

 たかだか50年前に造られた国立競技場を壊して、またぞろ3000億円もかけて新しく作ろうとしている。それだって一体何年もつのだろうか。アジリティー、つまり迅速性というものを基本においている現代文明は見方を変えれば、積んでは、そのそばから崩れてゆく賽の河原の石のように儚いものかもしれない。一説によると一般的なコンクリートの耐用年数は50年〜60年と言われている。すぐ出来あがる物は、すぐ壊れると喝破した先人の言葉は正しかったのかもしれない。

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上の写真:
前にトラックの止まっている家から順に左へ
自由船員組合のギルドハウス(ブラバント・ゴシック様式1531年)
小麦計量検査官のギルドハウス(後期バロック様式1698年)
港使用税徴収官の小さな家(フランドル・ルネサンス様式1682年)
穀物倉庫(ロマネスク様式1200年)
穀物計量検査官のギルドハウス(フランドル・ルネサンス様式1435年)
メーソンのギルドハウス(ブラバント・ゴシック様式1527年)

(cam:NEX-7)


 

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 ブルージュで食事をしたレストラン「Duc de Bourgogne」の建物は昔の皮なめし職人のギルドハウスでした。ヨーロッパを旅するとどこへ行っても教会ばかりでちょっとうんざりするところもありますが、視点を少し変えて中世あたりからの商業活動に目を向けると、また違ったものが見えてきます。

 ここ数年訪れてきた、バルト海沿岸のリトアニア、ラトビア、エストニアそして北ドイツのハンブルクやブレーメンならびにリューベックなどのハンザ都市、さらに今回の北海に面したオランダならびにフランドルは特に都市同盟やギルドといった商業の動きが昔から活発でした。

 もちろん、ぼくは専門家ではないので興味本位の野次馬根性で見ているだけなんですが、それでもそれらに関する豆知識はフェルメールやレンブラントの絵の背景を理解する助けにもなるし、単に過去のことだけではなく現在の金融や保険そして都市機能の成立や職業倫理観などぼくたちが今住んでいる世界の一つの底流を作り出していることにも気づかされます。


[ギルドに関する手元メモ]

「ギルド」というとざっくり言って「同職組合」という理解でいたけれど、基本的にはそれでも間違いではなかったが、もう少し掘り下げて知りたいと思った。

まず日本で言う「ギルド」はドイツではGilde、イギリスではGildもしくはGuild、フランスでGuildeというので英語経由で入っているのかもしれない。(ネットで「ギルド」を調べると関西のバンドの「ギルド」とコンピュータ・ゲームのことばかりがでている)

ギルドは10世紀に北イタリアのヴェネチアやジェノヴァあたりから始まり、11世紀にかけて北フランス、フランドルそしてドイツのライン河流域に集中的に発生しその後全ヨーロッパに広がって行った。

ギルドには大きく分けて
①商人ギルド(Gilde=独)と
②職業ギルド(Zunft=独)に別れ、
発生的にはまず①の商人ギルドが前述のように北イタリア近辺で始まった。またその両方の役割を持つ総合ギルド(Gesamtgilde=独)というものも存在した。総合ギルドは商業ギルドが職業ギルドを取り込んで総合化してゆくケースと、逆に最初は総合的だったものが商人ギルドと職業ギルドとに分化してゆくケースとがある。

さらに細かく言えば①の商人ギルドは、
a)広域商人ギルド(遠隔地交易をおこなう商人仲間で、例えばハンザ同盟等)と
b)都市商人ギルド(都市定住型の商人仲間)に分かれる。
いずれにしても商人ギルドは次第に力を付けてゆき都市運営を独占しようとしたりしたため、職業ギルドが運営の参画を求めてギルド間抗争、すなわちツンフト闘争(Zunftkämpfe)がドイツを中心に起こった。

またギルドの目的について言えば、商人ギルド、職業ギルドを問わず、その設立目的は外に向かっては権利保護による独占、ウチに向かっては相互扶助ということに尽きるかもしれない。さらにこれらのギルドは中世の都市共同体の大きな部分を担っていたと考えられる。特に商業ギルドの有力メンバーは街の参事会議員になる等の形で、都市運営の担い手にもなって行った。

一方、職業ギルドの中では厳格な徒弟制度が確立され、親方(Meister=マイスター)、職人(Geselle=ゲゼッレ)、徒弟(Lehrling=レールリンク)という身分制度が運用されることとなった。なお職業ギルドには親方だけが入ることができ、親方は仕事場と職人と徒弟を抱えている。職人は通いの有給の者で、親方になるには経験を積んで職人を経なければならない。また徒弟とは住み込みの基本的には無給の者である。

後年、職人から親方になるには親方の下での経験の他に数年をかけて各地の親方の処に行って修行をする遍歴職人を通過しなければならない職人遍歴制度(Wamdergesellentum)が行われるようになった。そのためには時には何年も各地を遍歴し辛い修行を余儀なくされる。

この辺の様子はシューベルトの歌曲(「美しき水車小屋の娘」/「冬の旅」)やH・ヘッセの小説(「クヌルプ」)にも度々でてくる。マイスターでいえば、もちろんヴァグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」が有名でマイスタージンガーとは試験に受かった職匠歌人で劇の中にも靴屋、金細工などのギルドの親方たちも出てくる。主人公のハンス・ザックスは靴屋のマイスターである。またこのマイスター制度は現在でもドイツの職業制度である「手工業マイスター制度(Handwerksmeister)」のもとになっているらしい。

また、ギルドはこんな力も持っていた。例えば画家のレンブラントがその浪費壁のために破産に瀕し結局1656年に全財産を処分せざるを得なくなった時に、行政や債権者たちは比較的穏健だったがアムステルダムの画家ギルドは彼に厳しくレンブラントをもう画家として扱わないことを決めた。これに困り果てて結局奥さんと息子が画商を開業しレンブラントを雇う形をとったらしい。

商業ギルドでは交易のために遠隔地に赴き船舶の事故などがあった場合にギルドメンバーが死亡した時などに遺族の補償や損害の軽減などから相互扶助ならびに原初的保険機能も生まれたと考えられる。

ぼくらが観光でヨーロッパを訪れたり、歴史に目を向ける時どうしても教会ばかりに目が向きがちだけれど、こうした商業の部分にも目を向けてみるのも面白いと思う。もちろんギルドそのものは教会や宗教と無縁ではない。むしろ彼らの守護神としてギルド毎に自分たちの聖人を設定するなど密接な関係を持っていた。

観光で訪れる有名な教会の中にも、貴族の専属の礼拝堂と並んでギルド毎の専用の礼拝堂などがある場合もある。そんな時はそれらを訪ねて何のギルドだったのかを知れば、その土地で当時どんな職業が力があったか等が想定できるかもしれない。その土地のその時代に思いを馳せるのも、それはそれで楽しいと思った。


(May 2015 in Brugge)


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望郷 Heimweh [gillman*s Lands]

望郷 Heimweh


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 オランダデン・ハーグに近い北海を望む海岸の保養地にはまだ人の姿はまばらだった。海水浴という時期ではないからシーズンオフのうちに入るのだろうか。尤も緯度でいえば樺太辺りに相当する北海沿岸のここでは夏でも日光浴が主で海に入る人は少ないらしい。そう言えばヨーロッパでは海岸に置かれている日光浴用のベッドにも三方に風よけの覆いが付いているのを見かけるので、風などは夏でも冷たいのだろう。

 ぼくはちょっとへそ曲がりのところがあるので観光地やリゾート地でもシーズンオフの時の様子が好きだ。沖縄も冬や春先に毎年行くのも花粉逃れもあるけれども、厚化粧をしていないその土地の素顔みたいなものがちょっと寂しそうなところも好きで。今のここの海岸にもそんな空気が流れている。

 ちらほらと観光客やリゾート客も海岸にはいて、砂浜を歩いていたり、さすがヨーロッパのリゾートらしく馬で散歩している人もいるけど、雰囲気は何となくのんびりとしている。カメラを覗きながら海岸を歩いている内にぼくの視界の左隅に海岸に腰かけてジッと海を見ている二人の女性が入ってきた。

 ぼくはそっと近づいてゆく。頭からスカーフを被った二人の中年の女性はどうやらインドネシア系の女性らしかった。オランダでも多くの外国人移住者を見かけるけど、その中でもインドネシア系や中華系も多いような気がする。旧植民地と関連があるのだと思う。昔アムステルダムに行った時、街中にインドネシア料理店と中華料理店の多いのに驚いたけどそれは今でも変わらないらしい。


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 彼女たちの後ろに立ってぼくも同じ視線で海を眺めた。渚の少し手前で波頭が崩れて白波が立っている。灰色がかった水平線を真っ白な帆の船がゆっくりと滑って行く。この海をどこまでもまっすぐ行けば北極だし、左に行けばイギリス、右に行けばノルウェーのスカンジナビア半島が突き出ている。ここからほど遠くないところにあるオステンドからはイギリスのドーバーまでフェリーが出ており、昔一度友達と車で渡ったことがある。

 彼女たちかその親たちの故郷のインドネシアは遠く遠くにあるけど、海はどこかでつながっている。鮮やかな青い色をしたインドネシアの海にも。ぼくの中でふと「望郷」という言葉が浮かんできた。もちろんそれはぼくが勝手に想起した言葉なのだけれど、異国の地で海を見ているとなんとなくそんな気持ちになる。

 記憶の中でオランダ、インドネシアと手繰ってゆくと、ぼくの頭の中にはオランダ等で活動している女流美術家フィオナ・タンのことが浮かんでくる。彼女の映画興味深い時代を生きますように」(原題:Moge u in interessante tijden leven=オランダ語)は彼女のルーツであるインドネシア華僑の一族がインドネシアの華僑排斥暴動を逃れて世界中に離散し移住していった経緯をたどりながらオランダの親戚も訪ねるというドキュメンタリー映画だった。

 彼女の一家は華僑の母がオーストラリア人の男性と結婚していたためにインドネシアを逃れてオーストラリアに移住したけれど、タン自身は成人して拠点をオランダやドイツに移している。この映画の中で終始彼女が問うているのは自分自身のアイデンティティーなのだ。中国人の母とオーストラリア人の父を持ち、幼少期にはインドネシアに住み、オーストラリアで学校を出、今はヨーロッパで活動している。一体自分は何人なのか?

 最近ヨーロッパに行くと移民が多いのに驚かされる。その最初の兆候はぼくが居た1970年代にドイツが大量のトルコ人労働者などを招き入れたのが最初かも知れない。もちろんフランスやイギリスなどには旧植民地地域の移住者がいたけれど今のように街の何処をあるいても目につくというほどではなかった。

 
ドイツでのトルコ人も既に二世、三世の時代になりつつあり今ではトルコ系ドイツ人という位置づけにもなっている。他のヨーロッパ諸国の中でもイスラム文化との問題も複雑化していることでもわかるように文化と言うのはそう易々と融合はしないのかもしれない。当然、移民二世、三世の世代においては自分たちのアイデンティティーの問題も起きて來る。自分たちは何者なのか?

 この映画の中では…、その旅の終わりにタンは「私は中国人ではない、私は何者でもない、私は私自身でしかない」と感じる。そこに行き着くまでの葛藤と心理的距離はとてつもなく大きいようにぼくは思う。彼等には望郷の念さえも遠いところにある存在なのかもしれない。もしかしたら望郷とは、明確に帰るところがある人間にのみ許される感情なのだろうか。


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 *海岸のレストランNordzee Boulevardの中は時折吹く海岸の強い風も避けて、そこから窓越しに見える風景は正に穏やかな春の海という感じでした。この後地元オランダ人の何かのクラブらしい団体が大挙して入ってきて、大変な騒ぎでしたが…。

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 **この保養地の地名はScheveningenという名前で、日本ではスケベニンゲンとかスヘフェベニンゲンとか表記されて、何かと地名ギャグの対象にされますが、実際はオランダ語に堪能な現地のガイドでも中々発音がしにくいような読み方でした。敢えてカタカナで表記するならスヘフェニンヘンみたいな。

 ***望郷というとぼくなんかは映画の「望郷」(Pépé le Moko)を想い出します。封切りが1937年ですからもちろんテレビの映画劇場かなんかで観たのだと思いますが、主演のジャン・ギャバンが出航する船に向かって叫んでいたラストシーンが印象的でした。

 望郷は英語ではHomesick(ホームシック)だと思いますが、どうも軽くて今ひとつピンとこないんです。ぼくはドイツ語のHeimweh(ハイムヴェー)と言う言葉の方がしっくりきます。ハイムと言うのは英語のホーム(正式にはHeimatで故郷のことを指していると思いますが)、ヴェーというのは嘆きとか悲しみで、故郷のことを想って嘆き悲しむという意味ですから、望郷の感じが良く出ていると思います。


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