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醜聞 [TV-Eye]

醜聞

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 ■ 醜 聞

 公衆は醜聞を愛するものである。白蓮事件びゃくれんじけん、有島事件、武者小路事件――公衆は如何にこれらの事件に無上の満足を見出したであろう。ではなぜ公衆は醜聞を――殊に世間に名を知られた他人の醜聞を愛するのであろう? グルモンはこれに答えている。――
「隠れたる自己の醜聞も当り前のように見せてくれるから。」

 グルモンの答は中あたっている。が、必ずしもそればかりではない。醜聞さえ起し得ない俗人たちはあらゆる名士の醜聞の中に彼等の怯懦きょうだを弁解する好個の武器を見出すのである。同時に又実際には存しない彼等の優越を樹立する、好個の台石を見出すのである。「わたしは白蓮女史ほど美人ではない。しかし白蓮女史よりも貞淑である。」「わたしは有島氏ほど才子ではない。しかし有島氏よりも世間を知っている。」「わたしは武者小路氏ほど……」――公衆は如何にこう云った後、豚のように幸福に熟睡したであろう。


 (芥川龍之介「侏儒の言葉」)



 今月の12日はぼくの好きなナンシー関の命日だったのだけど、彼女が生きていたら今の芸能界の諸々をどう見ていただろうかと想像したりする。最近は余りリアルタイムでテレビを見ることが少なくなったし、芸能界のニュースも「んなこと、どうでもいいじゃん!」と思うのだけれど、ナンシー関はそうではなかった。

 彼女は偉大なるミーハーというか、テレビに登場するスターや芸能人のあり様をテレビのこちら側で穴のあくほど見つめて、直感的に(とは言いつつある意味では極めて論理的に)本質的なものを喝破するという能力を持っていた。そこが偉大なるという所以だと思う。

 ナンシーは言う「わたしは"顔面至上主義"を謳う。見えるものしか見ない。しかし目を皿のようにして見る。そして見破る」ぼくらが半ば通り過ぎる背景のように無意識に観ているテレビの画面の向こうに映り込んでいる時代の匂いや、人間や大衆の根っこをナンシーは目を皿のようにして観ていたのだ。

 天野祐吉さんがまだ存命のころ、時々ぼくのブログにコメントを入れてくれることがあったのだけれど、以前ぼくがナンシー関のことについて少し書いた時もそこにコメントを入れてくれたことがあった。天野さんはナンシーと仕事をしたことがあったらしいのだが、彼はナンシーの眼力が怖かったと言っていたことを思い出した。


 ナンシー関が目を皿のようにしてみていた「芸能人」だけど、ぼくは若い頃から落語が好きなので「芸人」という言葉に畏敬の念を抱いていた。今は「お笑い芸人」などどちらかと言えば軽い感じで使われているような気がする。それに対してこのなんだか良くわからない「芸能人」という言葉の方が使われるようになった。芸[能]人という位だから芸人よりも「能」があるみたいなのだが、実際は歌や踊りや話芸などのいわゆる専門的芸を持っていない「芸no人」を指している場合が多い。別名「タレント」とも言う。

 それじゃあ、専門的芸のない彼らは何をもってメディアの海の中を泳ぎ回っているのかというと、これまたよくわからない「キャラ(キャラクター)」というものを武器にして渡り歩いている。曰く、良い人キャラ、おバカキャラ、外人キャラ、インテリキャラ、キモキャラ、いじられキャラ、カマキャラそしてヒールキャラつまり嫌われ者キャラ等々。

 これらを敢えて「芸風」と言えば言えないこともないけれど、そもそもその芸風の芯になる「芸」がない中での芸風なのでなかなか難しいことも確かだ。例えば、嫌われ者のヒールなぞは皆から100%嫌われてはメディアから駆逐されてしまうので、時々は無邪気さや、ひたむきさや、人情味や家族思いなどのプラス要素をタイミングをみて垣間見させなければならない。

 それによって、いつもはあんな事言っているけど、もしかしたらあの人も本当は良い人なのかも…と、でもこれも出しすぎて元のヒール感を消してしまう程になってはいけない。そのさじ加減が難しい。時折泥まみれになってゲームで頑張るデビ夫人も、さりげなく野村監督が漏らす野村沙知代のプラス情報だってヒールキャラのコントロール情報の一つには違いないのだ。

 一方、良い人キャラのトップを走っていたのがベッキーだった。ところがいくつかあるキャラタイプの中でこの「美人で良い人」というキャラは実はとてもリスキーで脆弱性を持ったキャラなのだと思う。先のヒールのキャラが実は良い人かもしれないというアンチ情報が過度に流れてもヒールキャラの力は弱まるかもしれないけれど、致命的ではない。もちろんifレベルだけど、例えば、おバカキャラのスザンヌが学生時代成績が良かったり、ボビー・オロゴンがホントは流ちょうな日本語が話せたり、ウエンツ 瑛士が実は英語がペラペラだったとしても、それは致命的ではない。

 ところが、良い人キャラにおいては、実はそれ程良い人ではないかもしれないという情報はそのキャラ芸能人に致命的になることがある。ましてそのキャラの主が美人とあればなおさらだ。冒頭の芥川龍之介の言葉にあるように、それは大衆の持つジェラシーに火をつけ手の付けられない事態を招くからだ。

 ちょっと意味はズレるかもしれないけど、それはニーチェの言う一種のルサンチマン(ressentiment)にも通ずる膨大なエネルギーを持っている。これが芸人であれば芸とキャラに一線を画することができるし、そもそも芸自体に善悪はなく巧拙があるのみだから上手くやれば逃げ道はあるのだ。ところがその芸がないキャラ芸能人にとってはキャラ=人格という図式があてはめられてしまい、風圧をまともに受けることになる。

 ベッキーの場合、報じられたSNSでの「サンキュー、センテンス・スプリング(文春)だね!」という一言が良い人キャラにとどめを刺すことになった。その後は龍之介の言うような大衆のジェラシーに火が付いた。彼女は先日復帰をしたらしいのだけれど余程戦略を練り直さないと難しい気がする。大転換してヒールキャラに転向することもあり得るが、それだってそう容易ではない。一つだけ考えられるのは芸no人から「芸」のある存在への転換だ。どこかで映画の脇役でも良いから演技を高く評価されて…。う〜ん、ナンシーならなんと言うだろうか?


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テレビの向こう側 [TV-Eye]

テレビの向こう側

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 いつも思うのだが、ぼくのようなありふれた市井の人間がどうしたら今世の中で起こっていることについて本当のことを知ることができるんだろうか。金と時間があればそのことが起こっている現場に行くのが良いのかも知れないけれど、そこに行ったって真実が見えるとは限らないし、第一何かが起こるたびにそこに駆けつけていたら自分の仕事なんか出来なくなってしまう。

 そこで、ぼくの代わりにそういうことをやってくれているテレビや新聞やジャーナリストと称される人達がいる。それはとても便利だしありがたい。それに時間の節約にもなる。特にテレビなどの映像を伴った情報にふれるとぼくらはそれを自分の目でみたような気になる。本当のことを知ったような気持ちになる。

 今回の大震災でぼくらは色々なものを目にしたし、記者会見やニュースを通じてありとあらゆる情報にも触れた。で、本当のことを知ったような気持ちに今なっているだろうか。なんだか、どんどんおかしいぞという気持ちになっている。東電だって、政府の言うことだってなんとか委員会だって、なんか変だぞという感じがしている。

 もっといえば、それらの動きを伝えるテレビや新聞等もなんか変だぞという気がしている。記者会見だって、通り一遍の質問の部分しか流さないし、アメリカの衛星画像ではとっくの昔に確認でき海外の新聞などには出ていた福島原発の惨状を示す写真もでてこないで、「30キロ先から撮影しています」なんてご丁寧なキャプションをつけたボンヤリとふやけた映像を流し続けていた。

 さっき、ぼくの代わりにそれをやってくれると言ったが、あくまでそれはぼくの代わりであってぼくではないから、そこにはぼくと違ったフィルターがかかっている。それは、ぼくが見る時にはぼくに都合のいいフィルターが掛かってしまうように、ぼくの代わりに見て来てくれた人に都合のいいフィルターが掛かっているはずなのだ。

 ぼくらはテレビなどを例え自分の目で見たとしても、そこには既に誰かのフィルターが掛かっていることを思い出して、デジタルカメラのように補正して見なければならないのだけれど、それは口で言う程容易いことではない。デジタルカメラの画像だってちゃんと補正するためにはパラメーターを設定しなければならない。つまり事実が曲げられる要素を勘案して補正しなければならないのだ。

 ぼく自身昔、企業の広報部門を担当して情報を送り出す側だったこともあるので、フィルターのかかっていない情報などあり得ない事は承知しているつもりだ。それはテレビで見る記者会見の映像にも言える事だ。以前、ホリエモン氏の記者会見の映像を見ていて、これは最初から結論ありきの絵作りだと思ったことがある。そこにはいかに吊るし上げを演出できるかという意図があったように思えた。

 昔まだ現役の頃、危機管理会社のコンサルティングを受けたことがあるがその時、いくつかのコンサル項目の一つとして謝罪記者会見の模擬訓練をしたことがある。そこには現役のテレビ局のカメラマンや記者なども覆面で参加していた。取材をし情報を送り出す側のプロの立場から幾つかアドバイスももらった。

 会見の席には、高級ブランドものの時計などは身につけて出ないこと。必ずアップで抜かれて視聴者の反感を買う絵作りをされる。会見者の足元が見えないように会見席にはテーブルクロスをかける。顔では神妙に謝っていても、足元の形相がだらし無いとそこをカメラに抜かれる。会見中は筆記具などは手に持たない。話をしながらボールペンなどをいじっていると、それが無意識の行為であってもアップにされると苛立ってみえたり、ちゃんと話を聴いていないようにみえて誠意を疑われかねない。記者会見の席のセッティングの際、会見者のテーブルは背後の壁にできるだけ近づけて置く。カメラが背後に廻って会見者の手元にある内部資料の映像をすっぱ抜かれないためだ。

 ここには二つの動きがある。真実を暴き出そうというジャーナリズムに基づいた攻防と、取材の方向性つまりあらかじめ想定したストーリーに合わせてフィルターをかけようとする動きだ。ぼくらが自宅の居間で何気なく見ているテレビの向こう側で、もしくはその情報を送り出す過程で何が起こっているか、ぼくなんかにはそう簡単に見抜く事は出来ない。悔しいけど一つのパラメーターで簡単に補正できる程現代は単純ではないかもしれない。

 かと言って全て諦めてしまうのはもっと悔しい気がする。もう少し自分の目と頭で頑張ってみようかなと。なにも真実を突き止めたいなどと大それたことを思っているのではない。只、騙されるのはごめんなのだ。何をしたらいいのかよく分からないけど、とりあえず天才的テレビウオッチャーだったナンシー関のあの言葉は何だったのか今、考えている。

 ■ わたしは「顔面至上主義」を謳う。見えるものしか見ない。しかし目を皿のようにして見る。そして見破る。(河出書房『ナンシー関』より)

 もちろん、ぼくには彼女のように見破る力は無いが、そのうち
何かが拾えるかもしれない。


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芸人リサイクル [TV-Eye]

 芸人リサイクル    ~ひな段は芸人のリサイクル場~

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 最近KYということがよく言われているらしい。もちろん「空気読めない」の略だが、この「空気」が曲者だ。古くは山本七平の「空気の研究」なんていうのもあるが、ここでいう空気とは雰囲気くらいの意味だろう。しかし、その底には、その場を支配している何か漠としたものに反対することの恐れが横たわっているという意味では同じルーツを持っていると言えなくもない。

 もう久しくこの「空気」がテレビのお笑い界を覆っている。つまり面白くなくても面白くないとは言わせない空気が蔓延した番組作りをしているからだ。有り体にいえば今旬といわれるエド・はるみなんかはいい例だ。たぶん八割方の人が何が面白いんだと思いながら見ている。もちろん、掴みの「グー」あたりはヘーと思うのだが、それだけである。その程度の掴みなら、小学校時代どのクラスにも一人くらい掴みのうまい子がいたのとなんら変わらない。彼が何か面白いギャグをやると、それは瞬く間にクラス中に広まって、しばらくの間は休み時間はそれでもちきりだが、すぐに飽きられてしまう。

 個人的には彼女を知らないので何とも言えないが、エド・はるみはそう悪そうな人そうには見えない。それだけにつまらない芸がよけい痛々しく見えてしまう。吉本興業としては、「グー」で一発知名度を上げておいて、そのうちレポーターかなんかで定着させようとしているのだと思はうが。その間、毎日つまらない画面を見せられる視聴者はいい面の皮だ。(イヤなら見るなよ、という空気も伝わってくる)

 きっとエド・はるみはいわば新商品を出したい吉本と、旬の過ぎた小島よしおの代わりを求めていたテレビディレクター達との共通した利害関係の中で生まれた案件なのだ。それは小島よしおレーザーラモンHGの後に担ぎ出されて来たプロセスと何も変わりはしないように見える。この軍産共同体ならぬ放産共同体が作りだした戦略は、メディアを駆使して彼らが送りだした芸人達を面白くないとは言わせない「空気」を作り出すことだ。その面白さが分らない奴は笑いが分らないのだという空気を作り出す、いわばお笑いのファシズムみたいな図式だ。だが、少しは気概のある人間がテレビ界にいたなら、こんなんでいいのだろうかと思うに違いない。毎年のように芸人を使い捨てにしていいのか。

 そこは天も見捨てたものではない。そんな状況を救うべく芸人リサイクルの市場がちゃんと今は出来上がっている。今、どこのチャンネルを回しても「ひな壇芸人」のオンパレードだ。MCと呼ばれる殆ど一人で番組のギャラをかっさらっていくような司会者の前に、その他大勢の芸能界人がひな壇に並んでいる。そのMCが投げたボールにうまく食いついた芸人の顔をすかさずカメラが抜いてゆく。きっとダラダラとカメラを回しっぱなしにして、後で編集をして番組に仕立てているのだろう。

 このMCと「ひな壇」のやりかたは、僕の知る限りでは1990年代の中盤に始まった「サンマの恋のから騒ぎ」あたりから始まっていると思う。外国人のお姉ちゃんや女子大生やその他怪しげなシロウトひな壇に並べてサンマと掛け合いをやらせる番組だ。この方式なら相手がシロウトでもうまい具合に食いついてきたところをつなげれば番組になってゆく。なかには西川史子みたいに勘違いしてタレントになってしまったギャル(今は、もとギャルか)もいたりするが、基本はシロウト相手のギミックなのだ。その仕掛けが今は芸人のリサイクルに使われている。

 よく見れば、いるわいるわ。ダンディ坂野レーザーラモンHGからギター侍、はてはあの猿岩石のなんていったっけ、あの人まで。つまりは皆シロウトと同じということか。だが、やはり高いギャラをもらっているMCは気配りも一味違う。中には旧知の芸人もいたりして特別に水を向けたりもしている。もっとも視聴者にとっては迷惑以外の何物でもないのだが… この間も島田伸介ダンディ坂野に振ったとき、彼はお決まりの「ゲッツ!」をやったが、当然旬を過ぎたギャグは
面白くもなんともない。もちろん伸介も面白くないことを承知で振っているのだが… そうやって笑いとテレビがどんどんねじ曲がり、つまらなくなってゆくのはなんとも哀しい。

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ぼくは海外に行くとよくホテル等でその国のテレビを見ます。
もちろん、どの国へ行っても日本のお笑い番組のようなものはあります。
しかし、どのチャンネルを回してもそんなものばかりやっている国はそうはありません。
それも同じような芸人が、同じようなことを際限なくやっている。
日本のテレビのプロデューサーってどうなんでしょう。
テレビでも、もっとちゃんと「」を見せられる場をつくってやらないと、
芸人さん達がかわいそうな気がします。
その上でちゃんと「」を見せられる芸人さんを世に出すのが、
プロデューサーの役目でもあるような気がしますが…


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巨匠は笑えない [TV-Eye]

 巨匠は笑えない

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 毎回かぶりものをかぶったビートたけしがいきなり登場して、スタジオの観客や出演者にスプレーや水をかけてパニックに陥らせる。観客は(観客席には最初から水除けのビニールがかかっていたりするが)びっくり、出演者たちも大はしゃぎで逃げ回ったりする。

 「世界まる見え!テレビ特捜部」はこのビートたけしのかぶりものイントロで始まる。もちろんスタジオにいる観客は普段見られないタレントが間近で見られるからはしゃいでいても当然だが、楠田枝里子所ジョージをはじめとする出演者も変にはしゃいでいる。というか、巨匠たけしがこんな面白いことをなさっているという「持ち上げ感」がありありでテレビの前に座っているこっちはどんどんシラけていってしまう。

 このかぶりものイントロはもちろんあの「おれたちひょうきん族」のたけちゃんマンなどの延長線上にある芸なんだと思うが、彼のお笑いにあの時代の輝きはない。テレビの前に座っていて最近すごく気になるのが、お笑い界の「巨匠」と呼ばれる(もしくは本人や周囲がそう思っている)タレントが出ているときに周りの芸人達が発する「持ち上げ光線」がこちらの素直なお笑い感を損なっていることだ。

 このビートたけしをはじめ、タモリサンマの出ているときには必ず、周りの芸人からこの「持ち上げ光線」が発せられている。最近はこの「持ち上げ光線」が島田紳助などにも向けられていることもすごく気になる。もちろん芸人間での成功者や先輩などに対するリスペクトは必要だろうが、それは楽屋でやってもらいたい。かつてテレビに出た時の桂三枝の巨匠振りが気に障って仕方なかったが、最近三枝自体がテレビに余りでなくなったのでほっとしている。

 話をビートたけしにもどすと、少なくともサンマタモリは今でもお笑いの延長線上で生きている。周りの「持ち上げ光線」の中であっても「笑っていいとも」でのタモリの振る舞いは辛うじてお笑いのカテゴリーに納まっているが、今のビートたけしの「かぶりもの芸」は寒いという他はない。ビートたけしはお笑い界の巨匠であると共に今や映画界の巨匠でもあることを十分意識している。そのギャップが大きければ大きいほど両方の領域での巨匠感を増幅することを知っているのだ。だがそれもそろそろ鼻につき始めている。

 映画監督として数々の映画賞を手にしたということは、テレビのお笑い界からすればいわば既に「あちら側」に行ってしまった人である。一旦「あちら側」に行ってしまった芸人が時々「こちら側」に戻ってきてテレビの中でいくらお笑いをしても、「他人を笑わせる」というよりは「他人に笑われる」芸を主体としたテレビのお笑いの世界では、テレビのこちらにいる笑う側はもう素直に笑えないのだということをビートたけしは知るべきなのだ。

 やはり「画伯」として「あちら側」に行ってしまったツルちゃんこと片岡鶴太郎が時たまトーク番組に出て「とびます、とびます」とか「ピー、ピー、ピーコちゃんじゃありませんか」といっても周りは失笑するばかりだ。もっとも鶴太郎の場合は彼からもう「こちら側」には戻りたくないという空気が出ているし、またお笑いの巨匠でもなかったこともあるが。

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 お笑い人としてのビートたけしの本当の面白さは、ツービート時代を見ていないと語れないと思っています。作品毎の落差は大きいように思いますが、映画監督としても素晴らしいことも間違いないと思います。ぼくは特に彼の「座頭市」が好きですね。彼はベネチア映画賞までとった監督が、おどけてかぶりもの芸をすることで、その落差によって監督業の方の深さが際立つことを知っています。かぶりものはいわばその落差の象徴なんですね。しかし、もしたけしが表芸としてかぶりもの芸を続けているならその効果もあるかもしれませんが、他の芸人や芸能人に囲まれその「持ち上げ光線」の中でやっていたのでは、ただの旦那芸になってしまい逆効果なのだと思います。テレビ東京の「たけしだれでもピカソ」などで芸を語るトークではいい味がでているのだから、かぶりものはもう若手芸人に任せたらどうかと思うんですが…どうなんでしょう


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スザンヌの時代 [TV-Eye]

 スザンヌの時代

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 「クイズヘキサゴン」でおバカタレントが大ブレークして以来、どのチャンネルを回してもスザンヌつるの剛士をはじめとするおバカ三人組の顔を見ない日はない。「クイズヘキサゴン」は番組が始まった当初はその名の通り六角形のテーブルに六人のタレントが相対して知識と駆け引きを競うクイズ番組だった。それはそれで結構面白かったのだが、いつのまにかクイズ番組というよりはひな壇芸人島田紳助とのトークを楽しむという趣に変わってきた。

 番組がそういう形になると紳助の舌鋒はもちろん正解の時よりも不正解の時の方が鋭く、つっこみも見てても面白いということになる。つまり、今の番組の作りではケタ外れの不正解が番組の進行上不可欠なものとなったのだ。今までお利口タレントとして看板を張っていたラサール石井麻木久仁子たちは、一転しておバカタレントの引き立て役に回らざるを得なくなってしまったのはなんとも皮肉だ。

 このスタイルが定着し始めると、紳助のトークだけでなくおバカタレントの存在自体が世間の注目を浴びるようになった。それはもちろんそのおバカぶりが視聴者の優越感をくすぐるからでもあるが、同時に番組に登場するおバカタレントに共通する「常識のなさ+屈託のなさ、もしくは+潔さ」みたいなものが変に共感を得てしまったからだと思う。つまり「爽やかおバカ」という新たな芸能界のセグメントを作り出したわけだ。

 彼らが登場する背景には、視聴者が立て続けに芸能人の腹の立つおバカぶりを見せ付けられ、うんざりしていたということがあるに違いない。「別に…」という不機嫌なおバカ、何かというと自分のことを「うのはね~」といいつつ男と金に目のない傲慢なおバカや「羊水は腐る」という無知蒙昧のおバカ等などに視聴者はイラついていた。そこに、いわば「爽やかおバカ」の登場である。視聴者の気持ちと目が自ずとそちらに向いたのも偶然ではない。

 しかし、スザンヌ達は本当におバカなんだろうか。そんなことは端から誰も本気で思ってはいない。あれも芸のうちと思っているのが半分、あの程度のおバカは身の回りにも結構いると思っているのが半分。現にどう見たってわざと間違えているとしか思えない場合も目に付いてきた。同じ問題を違う間違え方をしたり、うっかり正解してしまったり。おバカを通すのも結構努力がいるのだ。だが、芸としたらその底は意外と浅い。

 この先この爽やかおバカの時代がいつまで続くのか楽しみだ。ヘキサゴンで人気の出たタレント達についていえば、まぁ、プロダクションの戦略は見えている。どこかでおバカ以外のちょっぴりシリアスな面を垣間見せて、テレビドラマかなんかに潜り込むという軌道修正を行うのだろう。でも、その方がいいかも知れない。なんたって、芸能界にガッツ石松がいる限り生半可なおバカキャラでは生き残っていけないのだから。

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 おバカキャラといえば藤山寛美の演じたキャラが有名ですが、大げさに言えば、あれはおバカのフィルターを通して常人が見ることのできない世界を見せてゆくことによって、人生の機微に近づいて行こうとするものでした。その背景には人間のペーソスというウェットな部分があってそれが力になっていたと思います。ガッツ石松にしても世間は彼がかつて世界の頂点に立ったことのある男だと知ったうえで、彼の天然ボケボクシングバカぶりを楽しんでいるところがあると思います。それに対し、スザンヌに代表されるような「爽やか」かも知れないけれど、「乾いたおバカ」の存在が今後どうなってゆくのか楽しみではあります。

*おバカはTVの中のキャラだし、本当のところはわからないけど「愚か」とは違うと思うんです。愚かというのは一流大学をでても、民間にたかったり狭い視野で自分の保身しか考えないような輩のことを言うんだと思いますね。


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ナンシーの遺産 ~わたしは見破る~ [TV-Eye]

 ナンシーの遺産 ~わたしは見破る~

 やあ、みんな。テレビからは悪い電波がでているから、見るとばかになるぞ。てなわけで、はじめましてナンシー関と申します。どうでもいいかそんなことは。きょうは、そのばかの元凶であるテレビのお話をしたい。ポップティーンというのは、将来ある若い娘さんに人気の雑誌と聞いた。若者よ、ばかを恐れるな。ばかになるけどテレビを見よう。テレビは全然これっぽっちも役に立たないけどおもしろいぞ。何いってんだかなあ。

 とにかく、私はナンシーと名乗ってはいるが立派な社会人である。そして普通、立派な社会人というのはそんなにテレビを見ないものであるが、私は一日に15時間くらいテレビを見ている。そこできょうは、ばかになりにくいテレビの見方を教えるとする。… 
(「Popteen」89年7月号 河出書房『ナンシー関』より)

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 ぼくはテレビが好きだ。というよりは、好きだったと言ったほうがいいかもしれない。昔、広告宣伝の担当をやっていたこともあって一度に二画面のテレビを見ていた時代もあった。かと言ってテレビの裏側が知りたいとか、特定の芸能人などに関心があったわけでもなかった。ただ、テレビの向こう側に流れてゆく時代の風景といったものが何となく好きで、列車の窓から外の景色を見るようにテレビを見ていた。

 ところが最近テレビを見ていても、とんとその景色が見えなくなってしまった。それはもちろん、ひとつにはぼくが歳をとったせいで感性が鈍ったからだ。だがそれだけではないような気もする。ぼくらはテレビを見て育った最初の世代だ。物心がついた時はまだラジオの時代だった。しかし、悪がき時代にテレビが登場するやいなや、街頭テレビの力道山の姿とともにその不思議なメディアはぼくらの心を掴んでしまった。

 それ以来テレビはその姿を何度も変えていったが、それでもその変わる様がぼくには見えていたつもりだった。それはテレビで育った世代としての自負のようなもので、わかるはずだという根拠のないものだった。それがわからなくなってしまった。急につまらなくなってしまった。それは何が変わってしまったのだろうか。自分の老化のせいだけなのか。それもある。が、最近思っているのは、テレビがメディアとしてのその本性を現しだしたのかも知れないということだ。そんなことはあの駅前の街頭テレビにぼくらが群がっていた時代からテレビが持っていた特質だったのにぼくが気がつかなかっただけなのかもしれないが。

 テレビは今や娯楽だけではなく、ニュースワイドショーの形でぼくらの意見形成と世界観に大きな影響を与えている。政治や文化の面などで、どんな世論調査をしたってテレビの報道の方向を逸脱して意外なものがでてくることはない。それはテレビが大衆の要望や意見をとらえて番組を作っていいるからだというが、本当にそうだろうか。今、テレビは下らないと一蹴して活字インターネットの世界に転ずる方法もある。しかし茶の間のテレビは今やネットを飲み込み、世界中の番組までリアルタイムで家庭に届くメディアとして蘇ろうとしている。だからどうということはないのだが、僕自身は自分のテレビの見方をもう一度考えようと思っている。といっても眉間に皺を寄せて難しいことを考えるわけではない。要は、どうしたらもっと面白く見られて、そして騙されないか、ということだ。

 ナンシー関はもういない。消しゴム版画家という一風変わった技能を引っさげて登場した彼女の真骨頂は、消しゴムのスタンプに定着された数々の芸能人などの顔と同時に、コラムを通じて発揮される彼女の「見抜く力」だということに世間が気がつくのにさして時間はかからなかった。ナンシー関の凄さはテレビという得体の知れないものを、最後までブラウン管のこちら側から見つめ続けたことだ。テレビ界の業界人にはならず、ましてやタレントにもならずひたすらウオッチャーとしてテレビを見つめ続けた。だから彼女のコラムにはぼくらの知らない芸能界の裏話なんかは出てこない。全てはぼくらと同じように彼女の目の前のブラウン管の中で展開されていたことだ。

ナンシー関は言う。

 わたしは「顔面至上主義」を謳う。見えるものしか見ない。しかし目を皿のようにして見る。そして見破る。

芸能人と呼ばれるものが実は「芸能界人」であり、芸ではなくテレビの中では己の性格を商品として売っていることが彼女のスタンプやコラムを通じて浮き彫りにされてゆく。

 テレビに載った情報は全て仕組まれている。情報を送り出す側がいる限りそれは仕方のないことだ。ナンシーはそれを承知の上で見ている。目を皿のようにして見ている。そして何が仕組まれているか見破る。オリンピックが始まる前から「感動をありがとう!」なんというサブタイトルのついた番組があれば、たちまちナンシー関の格好の餌食にされたはずだ。

 ぼくは今まで、ぼくのような普通の人間が自分の周りのありふれた情報から何が分かるかを考えようとしてきた。もちろん自分の足で見に行けるものは極力行って見るが、ぼくらは全ての情報の発生現場に立ち会うことはできない。また、世の中には多くの場合全く相反する情報も存在している。結局、ぼくらのようなごく普通の人間が真実に近づいてゆくためには目を皿のようにして見、自分の感性に照らし合わせて考えるということを重ねてゆくしかないように思う。ナンシー関はそれを大まじめに、かつ野次馬根性でやるとけっこう面白いよ、と教えてくれた。

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 空前のおバカブーム、臆面もなく新聞の見出しをそのまま使う昼のワイドショー、あさましい大食い、インチキオーラを発する平成のラスプーチンたち、どのチャンネルを回しても同じように出てくる雛段芸人、ニュースキャスターが消えて代わりに勘違いしてニュース番組に座っているお笑い芸人タレント、等など。もしかしたらテレビは今の日本の時代を一番如実に映しているのかもしれません。そんな日本の姿を見たくないという心理が働いてぼくはテレビをみることを拒否していたのだと思います。

 しかし、テレビで流れていく風景のその一つ一つをなぜなんだろうと考えると、時代の背景が見えてくるのかもしれません。ナンシーの視点は芸能人というテレビの中の特異なものに向けられていたのですが、見ているものはその背後にある別のものだったのかもしれません。季節時代はそれ自体やその総体を見ることは難しいのですが、それらはあらゆるものの細部に映りこんでいると思います。それが何か拾ってゆくのも楽しいかも知れません。

⇒ぼくの好きなナンシー本ナンシー関(文春別冊)/何だかんだと(角川文庫)/何を根拠に(角川文庫)/小耳にはさもう(朝日文庫)/小さなスナック(文芸春秋)/ナンシー関の「小耳にはさもう」FINAL CUT(朝日文庫)

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こんなのも見たことある? [TV-Eye]

 アメリカの番組編を作ったら、日本編も作りたくなった。日本のテレビ番組もけっこう見てるな。テレビ初期の頃は自分の家にテレビがなかった時期もあって、近所のテレビのある家に見に行っていたこともあった。

下町だから、その家のおやじさんがちゃぶ台で晩酌なんかしている脇で平気で寝転がったりして見ていた。「日真名氏飛び出す」が終わる8時頃になると、もう遅いから帰ってきなさいと母親が呼びに来たりしていたっけ。

・昔見たテレビ番組・日本ドラマ編(順不同)
▼日真名氏飛び出す、白い桟橋、お笑い三人組、チロリン村とくるみの木、とんま天狗、てなもんや三度笠、すちゃらか社員、光子の窓、番頭さんと丁稚どん、少年ジェット、月光仮面、仮面の忍者・赤影、隠密剣士、宇宙少年ソラン、素浪人月影兵五、白馬童子、ホイホイミュージックスクール、私の秘密、少年探偵団、二十の扉、夢で逢いましょう、げはげば九十分、シャボン玉ホリデー、アップダウン・クイズ、鉄腕アトム、ジャングル大帝、ダイヤル110番、鉄人二十八号、ワンダースリー、マグマ大使、狼少年ケン、怪傑ハリマオ、七人の刑事、プロレス・アワー、ずばり当てましょう、がっちり買いましょう、忍者部隊月光、七色仮面、ウルトラマン、ウルトラQ、底抜け脱線ゲーム、ひょっこりひょうたん島、三匹の侍、イレブン・ピーエム、私だけが知っている、若い季節、エスパー、エイト・ピーチェス・ショウ、おそまつ君、エイトマン、木枯らし紋次郎、ザ・ガードマン、兼高かおる世界の旅、大人の漫画、スター千一夜、事件記者、まぼろし探偵、遊星王子、旗本退屈男、銭形平次、ジーメン75、クイズダービー、キイハンター、日曜寄席

*皇太子(現天皇陛下)ご結婚パレード実況中継1959年…家庭へのテレビ普及の引き金となった、我が家でもこの前の週にテレビを購入した
*日本におけるテレビの本格カラー化…カラー本放送開始1960年9月、NHK全放送カラー化は1971年10月/NHKホームページより


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これ全部知ってりゃ同じ世代だ [TV-Eye]

 このあいだ、夜眠れないんで、昔見たテレビ番組のタイトルをつらつら想い出していたら、でるわ、でるわ、よけい眠れなくなった。それにしてもガキの頃はテレビばっかり見てたんだなぁ。


 そう言えば西部劇ってどこへ行っちゃったんだろう。きっとインディアンを悪者にできなくなって、勧善懲悪スタイルの絵作りができなくなって消えたんだろうと思うけど。映画だと「小さな巨人」(1970)や「ソルジャーブルー」(1970)のあたりからアメリカ人も脳天気に先住民インディアンを悪者に出来ない雰囲気になっていたんだと思う。

タイトルはちょっと不確かで怪しいのもあるけど、これ全部知ってるし、見たこともあるって人は、たぶん僕と同じ世代だな。

・昔見たテレビ番組・アメリカドラマ編(順不同)

▼名犬ラッシー、ガンスモーク、ライフルマン、保安官ワイアット・アープ、ローハイド、ララミー牧場、ボナンザ、アリゾナ・レンジャー、テキサス決死隊、アニーよ銃をとれ、バット・マスターソン、幌馬車隊、拳銃無宿、名犬リンチンチン、ローン・レンジャー、パパ大好き、うちのママは世界一、パパは何でも知っている、サーカスボーイ、青春の川?、ベン・ケイシー、メディコ、逃亡者、0011ナポレオン・ソロ、ハイラム君乾杯、カメラマン・コバック、ヒッチコック劇場、ルート66、バットマン、グリーン・ホーネット、ルーシー・ショウ、コンバット、バックス・バニー・ショー、タイム・トンネル、インベーダー、早撃マック、ギャラントメン、スーパーマン、アンタッチャブル、ハイウェイ・パトロール、モーガン警部、87分署、怪傑ゾロ、バークにまかせろ、ウイルアム・テル、アイバンホー、ミステリー・ゾーン、サンセット77、ハワイアンアイ、透明人間、じゃじゃ馬億万長者、弁護士ペリー・メイソン、ウッド・ペッカー、名馬フリッカ、わんぱくフリッパー、かわいい魔女ジニー、ポパイ、奥様は魔女、三バカ大将、トムとジェリー、おばけのキャスパー、ディック・トレーシー、ディズニー・ワールド、サンダーバード、エド(話す馬)、スパイ大作戦、チャーリーズエンジェル、バイオミック・ジェミー、鬼刑事アイアンサイド、警部マックロード、刑事コジャック、刑事コロンボ

*青春の川?…タイトルもはっきりしていないけれど、内容は小さなアメリカの町のボートハウスに住む兄弟たちの物語で、両親のいない兄弟が喧嘩をしながらも支えあって生きてゆく、という物語だった。主演はモンゴメリー・クリフトだと思い込んでいたが、彼のフィルモグラフィーを見ても載っていない。どなたか知っていたら教えてください。


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