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不器用でタフな人達 [下町の時間]

不器用でタフな人達


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 ■ 思い出リミックス1

 家々の裏口におかれていた
 黒いゴミ箱はいつ姿を消したのか
 東京ではゴミはもう大地に帰れずに
 煙となって昇天する
 泣きながら捨てたものも
 怒りのあまり捨てたものも
 取り返すすべはない
 だが心に溜まったゴミは
 澱となって沈殿している
 透き通る思い出の上澄みの下に
 今も

   谷川俊太郎東京バラード、それから」幻戯書房



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 親父は下町の千住でずっと菓子屋の町工場をやっていた。もとは菓子屋で職人の丁稚奉公から始めて所帯をもってから独立した。だからぼくの子供の頃の遊び場といえば近所の原っぱか工場の中というのが普通の暮らしだった。ぼくが物心ついた頃には従業員も何人もいて彼らは住み込みと通いの人に分かれていた。

 親父は「ダンナさん」と呼ばれて、お袋は「おカミさん」と呼ばれていたけれど、親父は根っからの職人だから工場に入りきりだし、お袋は工場で手仕事をすると同時に数字には疎かった親父に代わって会社の資金繰りや毎月の従業員の給料などの面倒はもっぱらお袋が頭を痛めていた。

 そういう風にお袋もたいてい工場に入っていたから、家には女工さん兼お手伝いさん(当時は女中さんと言っていたけど)が居て、お袋が忙しい時などはぼくの遠足の付き添いは彼女が代わりに行くことも多く、小学校の遠足等の写真にはお袋が写っていないで女中さんが写っていることもあった。

 ぼくが高校を出る頃までは家に住み込みの職人や女中さんが居たので、いわば小さな家での集団生活みたいな感じがあった。住み込みの職人は地方から集団就職で来たり、親父の田舎関係から来たり様々だったけれどみんな若かったから色々なトラブルも多かった。通いの渡り職人みたいな目上の人たちとの折り合いが悪かったりして大喧嘩になったこともあった。

 昔は休みと言えば月に二回くらいの日曜休みがあるくらいで、ずっと工場の中で顔を突き合わせているからストレスもあったのだろう。みんな朴訥でストレートだから人間関係には親父もお袋もいつも気をつかっていた。特に住み込みの職人(「若い衆」といっていた)は中学卒業後からずっと同じ一つ屋根の下で暮らしているので、一緒に住んでいるぼくら自分の子供達との関係とか、思春期の彼らの扱いとか色々なことにも何くれとなく面倒をみなければならなかったと思う。

 親父もそうだけれど他のみんなもいわゆる職人だから、人付き合いなんかはどちらかというと不器用な感じだけれど反面、昭和という激動の時代を生き抜く、へこたれないタフさも持っていたような気がする。みんなその後菓子屋で独立したり、転業したりしながらも所帯を持ち、子供を育て立派に生きてきた。親父が高齢で菓子屋をやめた後も正月などには挨拶に来る律義さも持っていた。ぼくの目の底には今もそういう不器用でタフな人達の姿がはっきりと刻み込まれている。


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 *平成も今年限りで終わることが決まり、昭和はますます遠くなりその記憶も当然段々と希薄なものになってゆくのでしょうね。これからはもっと複雑で先の見えない世界に突入してゆくと思うんですが、そんな時だからこそ子供の頃に見聞きした人たちのタフさがまぶしく見えます。彼らの姿はぼくにとって「透き通る思い出の上澄みの下に」沈殿している澱などではなく、勇気づけられる力強い想い出そのものです。


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荒川土手 [下町の時間]

荒川土手


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 以前撮った写真を見ていたら、そう言えばここのところ昔住んでいた千住あたりに暫く行ってないなと思った。この写真は数年前の夏の終わり、まだ母が定期的にリハビリ病院に長期入院していた頃撮ったものだ。その日もいつものように病院に行ったのだけれど、母のリハビリが始まったばかりでまだ時間がかかるということだったので病院の近くの荒川土手まで行って時間をつぶすことにした。

 土手の上は晩夏とはいえ日差しの力はまだ十分夏の厳しさを残している光にあふれていた。河原のグラウンドでは少年サッカークラブの練習だろうか、少年たちの甲高い声が土手の上まで響いてくる。少年たちの父兄と思われるギャラリーが数名。むせ返るような草いきれとじりじりと照りつける太陽。こんな感覚を子供の頃、何度も何度もこの土手で味わったことを想い出した。




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 母の入院していた病院のある柳原から近い土手のこの辺りは、小津安二郎の「東京物語」や青春ドラマの「金八先生」にも登場するのだけども、ぼくが子供の頃遊んでいたのはここからもう少し上流に行った新橋と西新井橋の間あたりだったのだが、友達と自転車で家から荒川土手まで競争して最後に土手をこぎあがり、自転車を草むらの上に倒しまま大の字になると眩しい太陽が気持ちよかった。

 暫くして起き上がるとすぐ目の前にはお化け煙突があった。土手の上から見下ろす千住の町並みはゴチャゴチャとして埃っぽく、でもそこから聞こえてくる街の喧騒はまるでエネルギーの塊のようだった。不思議なことにこの頃の記憶はなぜかモノクロの感じがする。この日の空のように抜けるような青い空の記憶ではない。おそらくその頃の空はそんなに青くなかったのかもしれない。お化け煙突からも毎日黒い煙が出ていたし。

 一瞬、小津安二郎が「東京物語」をカラーで撮っていたらどうなっていたのかなと考えた。小津監督のことだから画面のどこかに赤い色を潜ませたとは思うのだけど、それを引き立てるようには当時の空は青くは無かったのだろうな。この日の青空なら小津監督の好きなAgfaの色味が活かせたかもしれない。荒川土手はぼくのふるさと東京の原点みたいなものだ。今度はゆっくりと向き合いに行きたい。



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すみだ北斎美術館 [下町の時間]

すみだ北斎美術館

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 両国の「すみだ北斎美術館」がオープンした。いろいろ紆余曲折があってやっと今年の11月の下旬にオープンしたので早く行きたかったのだけれど、入院などで中々行けなかったが何とか年内に行くことができた。

 美術館は葛飾北斎が住んでいた界隈である両国亀沢に作られたのだけれど、実はぼくも50年以上前に中学生の頃この美術館と通りを隔てた向かい側に住んでいたことがある。祖母と叔父夫婦が暮らす家が当時そこにあって、ぼくはそこにいっ時居候して両国中学に通っていた。

 久しぶりに訪れてその界隈を歩いてみると当たり前だがすっかり変わってしまった。50年も経てばそりゃ変わるわなぁ。子供の頃はやたらと広く感じられた通りも、今ではどこにでもある普通の広さの通りに感じられる。今は江戸東京博物館になっているが昔は青物市場のやっちゃ場だった場所から真っ直ぐ東に延びるその通りも今は「北斎通り」という名前になっているらしい。

 その頃は美術館の場所は公園だったと思う。学校の帰りによく遊びに行った所だ。今でも敷地の手前は公園になっているらしくいくつかの遊具もあった。その向こうに銀色に輝く独特のフォルムをした建物が建っているが、それが「すみだ北斎美術館」だった。

 建物の設計は妹島和世(せじま かずよ)氏である。妹島和世氏は西沢立衛氏と「SANAA」というユニットを組んで国内外の革新的な建築物を手がけており、「金沢21世紀美術館」やニューヨークの「新現代美術館」などに続く美術館建築としてルーブル美術館の別館である「ルーブル・ランス」の設計も手掛けている。

 美術館は建物の威容の割には建物自体は決して大きくは無い。というよりは美術館としての展示スペースは至極狭い部類に入ると思うが、区立という運営母体を考慮すれば北斎という単一のアーチスト専門の美術館としては十分かもしれないが…。

 展示スペースは3階と4階で、その日は常設展とオープン記念の「北斎の帰還展」が開催されていた。オープン後まだ日も浅いこともあってか、かなり混んでいた。1階と3.4階の展示階までは小さなエレベーター2基のみで階段では往き来出来ないので観客が多いと移動が大変という印象を持った。

 展示スペースの規模からいうと山種美術館や大田美術館クラスだと思うけど、そうなると美術館として生き残ってゆくためには今後のキュレーションが大事になると思う。常設展部分を見た限りではリピートさせるだけのインパクトのある展示にはまだなりきっていない感じがするのだけど、これからまだまだ改善されてゆくと思う。

 所蔵作品の内容はまだ詳しく分からないがモース・コレクションが中心だということなので、是非興味ある展示を今後も展開していって欲しいと思う。初代館長は、なんとぼくの母校の両国中学の前校長だった菊田寛氏だ。菊田氏はもとは美術教師だったということで美術には造詣は深いと思うので是非頑張ってもらいたい。

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 *色々とご心配をおかけしましたが、なんとか退院いたしました。手術からまもなく半月程経とうとしていますが、今のところまだ嗅覚が戻る気配はありません。医者の話では場合によってはひと月くらいかかることもあるそうですが、段々医者が手術前に言っていた「匂いについてはダメもとで…」という言葉が頭の中を駆け巡っています。

 **母校の中学校は江戸東京博物館の隣にあるんですが、昔はそこがやっちゃ場で塀一つを隔てた隣が母校の体育館でした。ぼくは剣道部だったので夏の暑中稽古の時など、稽古が終わるとやっちゃ場の人が塀越しにスイカを差し入れてくれたことなど、懐かしく思い出してしまいました。



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さよなら人情食堂 [下町の時間]

さよなら人情食堂

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 以前このブログでも千住のやっちゃばの時にもちょっと触れたこともあるけど、近所の青果市場である北足立市場の場外食堂「佐野新」が残念なことに今月一杯で店を閉めるらしいのだ。北足立市場というのは東京都中央卸売市場の1つで、以前は同じく中央卸売市場の一つである千住市場が手狭になったので昭和54年に青果部を今の場所に移転させたのが始まりだ。千住市場の方は今は水産物専門の市場になっている。

「佐野新」は元々千住市場で商いをしているお店だったが、それを機に北足立市場の方に移って場外食堂を始めたらしい。 その後昭和63年には花卉部門も設けられて北足立市場は本格的な中央卸売市場になった。そこはぼくがいつも散歩に行く舎人公園に隣接する所にあり、直ぐそばなのだけれど中に入ったことはなかった。ぼく自身は市場というか下町の言葉でいうと「やっちゃば」とは縁があって、幼稚園の頃は千住のやっちゃば(千住市場)の裏に住んでいたし、中学は今では江戸東京博物館になってしまっている両国のやっちゃばの隣の両国中学だった。

 ある時、食べ物屋や飲み屋に詳しい友人から北足立市場に場外食堂があるので行ってみないかと誘われた。自分の家のすぐそばなのに知らなかったのだけど…。行ってみると実に気の置けない、暖かい雰囲気のところで食べ物も美味しい。姉弟のごきょうだい(この場合は漢字ではかけないな)でやっていて、話をしているうちにご両人ともぼくの小学校の同窓生で、お姉さんとは幼稚園も同じことが分かった。その時は友人と不届きにも朝からビールを飲んで帰ってきた。野菜も新鮮、魚は千住の市場から仕入れているからこれまたうまい。

 それから何度か訪れて、一度はカミさんと行ったこともある。尤も近くの公園には朝いつも散歩に行くのだけれど、朝から一人で飲みにお店に寄る訳にも行かないのでそう度々行ったわけではないけど…。かといって場外食堂なので昼過ぎには閉めてしまうから、夜飲みに行くということもできない。でも、行くたびに妙に落ち着く。で、先日くだんの友人と久しぶりに訪れたら今月で閉店の話がでて…。

 前からおかみさんからも聞いていたのだけれど、段々とこの北足立市場で食堂を続けていくのが大変になっているらしい。というのも年々この北足立市場の取扱高が減って、活気がなくなっているらしいのだ。その原因は野菜・果物等の取引における大手のスーパーなどの比率が増えるにつれて、中央卸市場で仲卸を通す取引が減っているという現実があるのだ。

 大手のスーパーなどは産地での直取引や農家との契約栽培など仲卸を通さずに殆どの取引をしている。中には開発輸入と称して海外で商品開発をして直に輸入するケースも出ている。市場の活気がなくなれば、自然と食堂に来る人も減り経営的にも苦しくなる。場外売り場の建物の二階が食堂になっているのだけれど、ほとんどがシャッターが閉まっていて、やっているのはほんの数軒になってしまった。時代の流れかもしれないが、何とも寂しい。あのほっこりとしたイワシのフライがもう食べられないかと思うと、胃袋も寂しがっている。

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 *この北足立市場に入ってみると実に広いことがわかります。
敷地面積は61,076㎡で、実は今移転問題で話題になっている
豊洲市場の青果棟の敷地面積が58,000㎡なのと比べても
それより広いことがわかります。
物流上の立地は決して悪くはないので築地移転にからめての
再活用など何か活性化策はないのでしょうか。


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縁側の時間 [下町の時間]

縁側の時間

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  ■ 宗助は先刻から縁側へ坐蒲団を持ち出して、日当りの好さそうな所へ気楽に胡坐をかいて見たが、やがて手に持っている雑誌を放り出すと共に、ごろりと横になった。秋日和と名のつくほどの上天気なので、往来を行く人の下駄の響が、静かな町だけに、朗らかに聞えて来る。肱枕をして軒から上を見上げると、奇麗な空が一面に蒼く澄んでいる。その空が自分の寝ている縁側の、窮屈な寸法に較べて見ると、非常に広大である。たまの日曜にこうして緩くり空を見るだけでもだいぶ違うなと思いながら、眉を寄せて、ぎらぎらする日をしばらく見つめていたが、眩しくなったので、今度はぐるりと寝返りをして障子の方を向いた。障子の中では細君が裁縫をしている。
「おい、好い天気だな」と話しかけた。…   (夏目漱石「門」)


  夏目漱石の小説「門」はこんな縁側の情景から始まる。小説「門」はこれから複雑な人間関係のドラマが始まるのだけれども、まるでその前の一時の静寂を楽しむように縁側の時間が展開してゆく。

 今の都会では一軒家といえども縁側とその先に広がる自宅の庭などは望むべくもないが、ぼくの子供の頃は下町の家でも縁側と庭付きの家も珍しくはなかった。ぼくが育った千住の平屋の一軒家にも縁側と庭があって、庭には親父がこしらえた小さな池もあった。

 今思ったらそれほど広くはないスペースだったのだろうけれど、子供の時は縁側の一直線がとても長いものに感じられてよく端から端までダッシュして親に叱られたものだ。子供部屋はあったけれど、特に夏などは家に居る時は大半は縁側で過ごしていたように思う。

 そこは勉強部屋にも(めったに勉強などしなかったけれど…)、プラモデルを組み立てる部屋にも、夏は子供の寝室にも自在に変わることができた。家族のイベントも考えてみればほとんどがそこで行われていたな。夏の花火や冷えたスイカの種の飛ばしっこ。夏の終わりになるとどこからともなくスイカの芽がでくる。

 ぼくのウチは当時は親戚に同じくらいの歳の子供が大勢いたので、親戚の子供達が集まって遊ぶのもやはり縁側だ。縁側でちらし寿司やお菓子を皆で食べる。パーティーなんぞというハイカラな言葉は使いこそしなかったけれど、今考えてみればそれは紛れもなくパーティーだったのかもしれない。

 そして縁側の縁の下は子供たちにとって格好の探検の場所でもあった。ちょっとヒンヤリした空気と微かな埃とカビの匂い。その先に広がる闇は行ってみたいような、行くのが恐ろしいような。ぼくは一度その縁の下で戦時中の防毒マスクを見つけたことがある。最初はなんだかわからなかったけど、その不気味な仮面のようなマスクの先に突き出していた象の鼻のようなパイプが尋常ならぬものだということは子供心にも感じとれた。

 縁の下からは子猫の声が聞こえたり、家で飼っていた鶏の卵が出てきたり異空間につながるドラえもんのどこでもドアみたいな感じだ。今でも地方の農家や古民家に行くと縁側のある家が残っている。それらの家の縁側に座ると、何とも言えない安心感に包まれるのはぼくだけだろうか。もし、時間にも世界文化遺産のように世界時間遺産というものがあるとすれば、貧しくとも幸せだった「縁側の時間」は間違いなく世界時間遺産になると思うのだけれど…。



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職人という生き方 [下町の時間]

職人という生き方

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 ぼくの親父は菓子職人だった。和菓子の職人だけど、和菓子といっても「おこし」と呼ばれるもので今では雷おこし位しか知られていないかもしれない。親父は学校を出てから丁稚奉公を経て自分の会社を作って何人か職人を使って小さな町工場(まちこうば)をやっていたけど、自分自身も職人であることに変わりはなかった。

 辞書で職人という言葉をひくと、【自分の技能によって物を作ることを職業とする人】と出ているけど、親父はまさにそういう人だった。同じ年代の同業者達が段々と中小企業の社長然としてゆくのを傍目で見ながら、彼等とは通り一遍の付き合いだけはしても自分は工場に入り続けた。

 無骨で寡黙な人だった。ウチのばあさんはいつも「お父ちゃんが、もうちょっと外交上手だったら良かったのにねぇ」と言っていた。その頃は営業のことを外交と言っていたのだけれど、かといって親父は決して人嫌いなわけではなかった。それどころか、大手の菓子問屋の経営者などからは朴訥な性格が可愛がられて「もっと、頻繁に社長が顔を出せば注文も増えるんだけどなぁ」と言われた時も「今のままで良い」と行かなかった。工場(こうば)にいた方が良かったのだろう。

 仕事の金の工面はばあさんがした。もちろん基本は親父の商売で自分たち家族と住み込みの職人達を食わせているのだけれど、商売には大きな波がつきものだ。おこしは夏は売れないし、デパートなどでちょっと売れ残れば返品を食らって売上金からその代金を相殺される。最も堪えたのは菓子問屋の計画倒産だった。

 代金は長いサイトの手形払いで目一杯納品させておいてある日突然倒産。売掛金を回収に行くともう債権者の列が並んでいる。ある時、今の金額で言えば一千万円近くの売掛金を踏み倒された時は、ばあさんが事務所にへたり込んでしまったのを子供心にも憶えている。たとえ一円でも回収して来いと送り出した番頭が持って帰ってきたのは、古びた柱時計ひとつ。

 あとは、もぬけの空だった。そのもう動かない古びた柱時計は今もぼくの部屋の壁に掛かっている。ずっと後になっても、ばあさんはその時計を見ると一千万の時計とため息をついた。ばあさんの金繰りで何とか連鎖倒産は免れたけれど、そんなことは一度や二度ではなかったようだ。

 家には女中さん兼女工さんが居たけれど、昼間はもちろんお袋も工場に入った。工場は子供の頃のぼくの遊び場でもあったし、忙しい時は子供なりにも手伝わされた。ばあさんは工場の作業の合間を縫って週に何度か近所に日本舞踊や三味線を習いに行っていた。それを親父は工場の者に示しがつかないと言って、内心面白くは思っていなかったみたいだけれど、それはばあさんの唯一の息抜きだったろうし、それがあったからやって行けたんだろうと思う。

 親父はほとんど酒を飲まない人だったので、ぼくが大人になって一緒に住んでいても二人で酒を酌み交わしてジックリと話をした記憶がない。ただ、昔ぼくがドイツにいた時親父から手紙を貰って、その中でぼくのことを「君(きみ)」と呼んでいたのが妙に新鮮だったのを憶えている。その職人の親父は七十を前に仕事を辞めた。それから約十年間、親父は社交ダンスとビリヤードと週末の競馬の日々を送って八十になる直前、秋の彼岸の頃に逝ってしまった。

 最近、親父のことをよく想い出す。いや、想い出すというよりその存在を身近に感じると言った方が良いかも知れない。親父は考えようによっては好い職人人生を送ったようにも思う。自分の技能によって物を作ることを職業とするのが職人かぁ。ぼくの仕事は目に見える形にはならないものだった。自分の腕ひとつで生きる職人に憧れたこともあったけれど、商売で苦労したウチのばあさんは「お勤めさん」が良いよと言った。

 商売としての菓子屋を裏で支えていたばあさんは、商売人は24時間仕事のことを考えていなければならないけど、お勤めさんなら家に帰ればあとは全部自分の時間だからと…。そういえば、ばあさんはお勤めさんの娘だったのだ。結局のところぼくはお勤めさんになったのだけれど、時代はお勤めさんにとって、そう柔(やわ)な時代ではなくなっていた。猛烈社員から企業戦士の時代へ、大変革時代が来て、そして熾烈な競争社会の到来と、時代は家に帰っても息を抜くことさえ許してはくれなかった。


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谷根千今昔 ~千駄木・根津~ [下町の時間]

谷根千今昔 ~千駄木・根津~


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 ■青年

 小泉純一は芝日蔭町(しばひかげちょう)の宿屋を出て、東京方眼図を片手に人にうるさく問うて、新橋停留場から上野行の電車に乗った。目まぐろしい須田町の乗換も無事に済んだ。さて本郷三丁目で電車を降りて、追分(おいわけ)から高等学校に附いて右に曲がって、根津権現(ねづごんげん)の表坂上にある袖浦館(そでうらかん)という下宿屋の前に到着したのは、十月二十何日かの午前八時であった。

  此処は道が丁字路になっている。権現前から登って来る道が、自分の辿って来た道を鉛直に切る処に袖浦館はある。木材にペンキを塗った、マッチの箱のような擬西洋造(まがいせいようづくり)である。入口の鴨居の上に、木札が沢山並べて嵌てある。それに下宿人の姓名が書いてある。… …

(森鴎外/「青年」新潮社)



 根津神社で昼すぎに落ち合う約束になっていたので、昼前に日暮里駅で降りてそこから谷中・千駄木を歩いて根津神社まで行くことにした。森鴎外の小説にあるようにぼくなんかも根津神社ではなく根津権現という名前が頭に入っている。権現というのは神仏習合の時の呼び名なので、神仏分離が原則の現在では神社と呼んでいるのかもしれない。

 平日とあって境内は人の姿もまばらだ。これが四月中旬からのツツジの季節だったら、それこそ平日でも大勢の人でごった返して大変なことになる。お祭りのハレ(霽れ)の場も良いけど、ぼくは神社やお寺はやはり今日のような普段の(褻)の静謐な感じが好きだ。

 境内でのんびりしながらひとしきり写真を撮り終えたころ友人二人がやってきた。もう一人はちょっと遅くなるということだったので、取りあえずソバでも食べようということになって根津裏門坂を上がったところにある大学病院の前の蕎麦屋「夢境庵」に行くことにした。

 そこは昔親父がその大学病院に入院している時、見舞いに行った帰りによく寄ったところだ。親父は末期の肺がんで結局その病院で亡くなったのだけれど、入院している間、夜仕事が終わると毎日のように本郷の会社から病院に寄っては親父の顔を見た。そして病院から家に帰る前に、時にはその蕎麦屋に寄って気持ちを落ち着けてから帰ったこと等想い出した。


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 ソバを食べ終わった頃もう一人の友人も来たので、谷中の方へ歩いて行くことにした。不忍通り(しのばずどおり)を道灌山の方向に行くと次の坂が団子坂だ。ここら辺でもこの団子坂と次の動坂はとても勾配が急で、昔学生の頃大雪の降った時などはバスが坂を上がれずに降ろされたことがあった。

 団子坂の丁度中ほどに森鴎外が半生を過ごした自宅「観潮楼」がある。ぼくの通っていた学校はそのすぐ近くだ。鴎外の自宅はぼくが学校に行っていたころには鴎外図書館(正式には文京区立鴎外記念本郷図書館)といって地域の図書館になっていたけれど、この間久しぶりに行ってみたら「森鴎外記念館」という森鴎外に関する資料館になっていた。ぼくの記憶では場所も前は通りの反対側だったような気がするのだけれど。

 今回は不忍通りではなく、それに沿って走っているへび道と呼ばれる曲がりくねった裏道を歩いて行った。車一台がやっと通れるくらいの細い道は子供の頃から見慣れている下町の街並みだ。子供の頃当たり前だった風景が今では人が珍しがって散策すると思うと、少し複雑な気持ちになった。

 千駄木の裏路地を抜けて三崎坂に出たあたりから周りは寺ばかりの寺町になる。よくまあこれだけ寺が集まったものだと感心するほど寺がある。三遊亭圓朝や山岡鉄舟などの墓があったり、築地塀の美しい寺があったりで飽きない。

 気が付くと結構な距離を歩いていた。駅にしたら3つ位の駅の間だけど朝から都合三回行ったり来たりしている。でも、各々好き勝手なものを撮りながら友人達と過ごす時間は何とも楽しいひと時だ。それに、後に控えている「反省会」も…。今回は根津の「串揚げ はん亭」で大いに反省?した。

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 *根津の蕎麦屋の先の広い通りに出ると夏目漱石が「吾輩は猫である」を書いた漱石邸跡(そこに建っていた通称「猫の家」は現在は明治村に移築されています)がありますが、この狭いエリアに漱石・鴎外という明治の二大文豪が住んでいたのは興味深いですね。

**ぼくは何故か森鴎外とは縁があってドイツ繋がりもそうですが、昔住んでいた千住には森鴎外が若い時住んでおり、そこからドイツ留学に向かった鴎外の実家である森医院がありましたし(今は足立税務署になっています)、高校の時はすぐ側に鴎外の終の棲家であった観潮楼がありました。

 漱石と言えばイギリス、鴎外と言えばドイツと言う風に留学先も違う二人はその作風も異なりますが、同じ時代のそれも一時期同じ地域の空気を吸っていたことを思うととても興味深いですね。実は漱石の住んでいた「猫の家」には、一時期鴎外も住んでいたことがあるということです。

 現在でも漱石の小説は広く読まれているのに対して、鴎外の作品は最近はそれ程読まれていないような気がして少し残念です。鴎外の作品には、漱石とはまた違った深遠な世界があると思うのですが…。


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谷根千今昔 ~谷中~ [下町の時間]

谷根千今昔 ~谷中~


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 ■書斎と星

『東京にはお星さんがないよ。』
 と、うちの子はよく言ふ。
『ああ、ああ、俺には書斎がない。』
 これはその父であるわたくし自身の嘆息である。
 まつたく小田原の天神山はあらゆる星座の下に恵まれてゐた。山景風光ともにすぐれて明るかつたが、階上のバルコンや寝室から仰ぐ夜空の美しさも格別であつた。これが東京へ来てほとんど見失つて了つた。
それでもまだこの谷中の墓地はいい。時とすると晴れわたつた満月の夜などに水水しい木星の瞬きも光る。だが、うちの庭からは菩提樹や椎の木立に遮られて、坊やの瞳には映らない。…
(「書斎と星」北原白秋/「白秋全集 第一三巻」)

 小田原で震災に罹災した北原白秋は東京の谷中に引っ越してきた。東京も震災にあったに違いないのだけれど、こっちに引っ越してきたと言うことはまだ谷中付近の方は大丈夫だったのかもしれない。東京の下町に引っ越してきて白秋は書斎もないし星も見えなくなったと嘆いている。

 白秋が住んでいたのは谷中の商店街に降りる手前を左に曲がって朝倉彫塑館を過ぎた辺りだけれど、そこら辺には幸田露伴も住んでしたことがあるし、ちょっと先には岡倉天心の屋敷もあった。いずれも今は当時の面影はない。天心の屋敷跡はポケットパークのような小さな公園になって六角堂の形をした記念碑があるのみだ。


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 一昨日、いつものカメラ仲間と谷根千を散策した。いつ頃から谷中・根津・千駄木をまとめて谷根千と称するようになったのかは知らないけれど、少なくともそんな昔ではないと思う。というのは、もう50年も昔になるけど、ここら辺はぼくの通学路だったのだけれど当時はそういう呼び方はしていなかったと思うのだ。

 当時は日暮里駅から谷中の坂を下って不忍通りにでて団子坂のきつい坂を登り森鴎外の住んでいた観潮楼のちょっと先にある高校に通っていた。卒業してからは全くと言っていいほどここら辺に来ることは無かったけれど、数年前に日暮里舎人ライナーが出来て日暮里駅を頻繁に利用するようになって、また谷中方面にも来るようになった。

 数十年を経て、ここら辺を歩いてみて驚いたのは谷中商店街を始めここら辺がすっかり観光地のようになっていたことだ。休日などは裏道を含めて散策する人で一杯だそうだ。それを裏付けるように狭い裏路地にもカフェや小物を売るお店が出来ている。外国人の観光客が多いような気もする。

 千住で育って、中学は両国、高校は駒込、会社が本郷と下町にしか住んだことが無いぼくにとっては白秋が嘆いたようなごちゃごちゃとした街並みは当たり前の光景なのだけど、見る人によっては迷路のようで面白いのかもしれない。もっとも方向音痴のぼくにとっては分かりにくいこと甚だしいのだけれど…。とは言いながら、歩いていて何となく安ど感があるのはやっぱり生まれ育った街並みの匂いを感じているからだろうか。   

    …つづく


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*散策当日は昼ごろに根津神社の境内で待ち合わせでした。ぼくは日暮里駅で降りて谷中を抜けて不忍通りを根津まで歩いたのですが、集合後また谷中まで歩き、そこからまた根津まで戻ると言う風に谷根千を都合三回行ったり来たり。でも、その度に道筋を変えて歩いたので今まで知らなかった路も通れて良かったです。

**知らなかったのですが谷中銀座は猫の商店街としても知られているらしく、猫を目当てに来る人も多いようです。とは言えいつも猫にお目にかかると言うわけでもないので…。今回の商店街の写真も一週間くらい前に撮ったものと、当日の午前中集合場所に行きながら撮ったものと、仲間と散策中に撮ったものと混ざっています。ぼくはどちらかというと猫よりも猫を撮っている人の方に関心がありますが…。


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下町、こころの風景 [下町の時間]

下町、こころの風景

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 長いこと生きていれば誰でも一つや二つの心の原風景と言えるような光景を持っていると思う。それは故郷の山河であるかもしれないし、生まれ育った街の細い路地の奥にあるのかも知れない。ぼくにとってはその一つが荒川土手の光景だ。

 お化け煙突の見えるぼくの育った町の近くには隅田川荒川(荒川放水路)という二本の川が流れていた。隅田川の方が家からは近かったけれど、隅田川の護岸はコンクリートの堤防で囲まれていてその細い堤防の上を歩いて遊んだりして、今考えるとなんとも危ない遊びだったような気がする。

 それに比べると荒川は草の生い茂る広々とした土手に囲まれていた。家から近いには違いないのだけれど、子供の足にしてみれば結構な時間がかかるから頻繁に遊びに行くようになったのは、やはり小学校高学年になって自転車を買ってもらってからだった。

 ところが、まだ小学校低学年の頃に一度だけ友達と歩いて土手まで行ったことがある。ある時当時ウチの近所に住んでいた少し年上の油屋のシロちゃんと荒川土手に行こうということになって、随分と歩いて西新井橋の先の土手まで遊びに行った。土手で遊んでいる内にシロちゃんが近くに親戚の家があるから行こうと言い出したので、ぼくとそれから一緒に居た女の子もついて行った。

 土手の上を荒川に沿って歩いて行ったのだけれど、行けども行けどもその親戚の家とやらに着かない。段々と日も暮れかかって来て女の子もべそをかき始めた。結局ぼくらは千住から荒川の小台(おだい)の方まで歩いてやっとシロちゃんの親戚の乾物屋の家にたどり着いた。

 その頃には街のあちこちに灯りがともり始めており、やっと店にたどり着いたぼくたちを見て親戚のオジサンはびっくりした。もちろんその頃は携帯もないから家に連絡もしていない。オジサンは慌ててクロ電話でぼくの家に電話を入れてくれた。案の定、家の方では大騒ぎになっていた。ぼくたちは子供の足で5キロ近くも歩いてたどり着いたので、くたくただった。結局、お菓子かなんかを食べさせてもらって、オジサンのトラックで家まで送ってもらった。六十年近くも昔の話だ。

 もう少し大きくなって自転車を買ってもらってからは頻繁に土手に来るようになった。時には土手の上の道を伝って堀切の方まで行くこともあった。自転車に乗っていると特に夏の間は土手の上は川風が気持ち良かった。引っ越したこともあって大人になってからは、殆ど行くこともなくなったけれど、あの気持ち好い風の肌触りや土手の下のグラウンドから聞こえてくる野球チームの掛け声など、今でも深く心に残っている。


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 *母が90歳近くになってからは年に何回かは定期的にリハビリ病院に入院することが続きました。母の入院していていたリハビリ病院は荒川土手のすぐ近くにあったので、母に面会に行った際、リハビリ中の時などに時間つぶしによく土手に上りました。

 土手に上って左手をみると東武線の鉄橋、右手には京成線の鉄橋、その向こうには東京スカイツリーが見えます。この場所は小津安二郎監督の「東京物語」にも登場します。主人公の息子の町医者が診療所をひらいているところです。

 ぼくが子供の頃自転車で走った時と同じように、今でも土手の下のグラウンドからは少年たちの元気な掛け声が聞こえてきます。ただ、当時の野球少年たちは今ではサッカー少年に変わっていましたが…。


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夏が通り過ぎて行く [下町の時間]

夏が通り過ぎて行く

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  今朝起きたら、もう秋になっていた。毎年思うのだけれど、夏の盛りを過ぎたころ一日のどこかの瞬間で夏が終わろうとしていると感じることがある。それは吹いてくる風に混じってくる冷めた温度の空気だったり、時折空の隅に現れる秋色の蒼だったり、木々の間を通り抜けてくる光の透明度だったり、夏のそれとは何となく異なる秋の予感のようなものだ。

 冬の日の中に春が段々と立ち上がる、三寒四温のように、季節はグラデーションのように次第に移り変わってゆくのかもしれない。でも、それと矛盾するかもしれないけれど、ぼくには昨日で夏ははっきりと終わったと感じるような季節の節目の一日があるという思いもある。今朝がそんな日だった。もう、少し前から朝晩は涼しくなって秋が近いのだと思っていたけれど、それでも時折寝苦しい夜や呆れるほど強い真昼の日差しがかえってくることもあった。

 でも、今朝起きて、もうそんな日は戻っては来ないだろうとはっきりと感じた。それは何が違うのか定かではないけれど、自分の中に潜んでいる動物的な感覚が季節の節目を感じとっていたのかもしれない。そんな日はちょっとさみしい気持ちにもなるけれど、そんな微妙な季節感を持つこの国に生きている幸せを感じる時でもある。


 この間ウチの前を町内の祭りの神輿が通り過ぎて行った。最初に子供たちが曳く山車が来て続いて子供神輿、そして最後に大人神輿がやってくる。町内の祭りは毎年ではなく何年おきかに行われているのかもしれないが、前の時も家の二階から写真を撮った覚えがある。ここでも本祭りと影祭りのようなものがあるのかわからないけれど、今年の祭りの行列は前回のよりも人数も多いようだった。今まで見たこともない女踊りの行列まで出ていた。

 通りを祭りの行列が通る少し前には広報車が来てスピーカーで神輿が通ることを触れ回る。近所の奥さんたちが自分の家の前に出てくる。真夏の日差しを受けて通りのアスファルトは煮えたぎるような暑さだ。深川で生まれ育ったカミさんは祭りが大好きだけれど、いつもウチの前を通る神輿を見て、なんで誰も水をかけてあげないんだろう、といぶかっていた。

 確かに深川の八幡様の祭りでは神輿に盛んに水をかけることで有名だけれど、ここらでは見たことがない。ところが今年は前触れに回っている広報車が「バケツに水を用意して神輿にかけてやってください」と言っていたので、近所の奥さんたちも手に手にバケツを持って出てきた。カミさんも喜んでバケツを持って通りに出て行った。今、目の前を夏が通り過ぎて行った。

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