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盛り場 浅草伝法院通り [下町の時間]

盛り場 浅草伝法院通り

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  盛り場という言葉を最近あまり聞かなくなったように思う。今はどちらかというと繁華街という言い方の方が多いかもしれない。ぼくは盛り場という言い方も嫌いではない。なんとなく猥雑で、ちょっと怪しい雰囲気も出ているではないか。

 ぼくは千住で育ったので盛り場というと、地元の北千住上野浅草あたりがそれにあたった。当時ぼくらにとっては銀座は盛り場という感じではなくちょっと特別な場所だった。身なりなどでも行くのにいくばくかの心構えがいるという意味で他の盛り場とは違っていた。

 浅草には浅草寺の近くに奥山劇場というのがあって、子供の頃には親に連れられて浅香光代などの女剣劇を見せられたことが何度かあるが、浅草の街によく行くようになったのは大学に入ってからかもしれない。大学の授業をさぼって浅草ロックフランス座のあたりをうろついていた。

 後で知ったのだが、丁度その頃にはぼくと同い年のビートたけしが北千住をもじった北千太という芸名でフランス座にでていたらしい。それ以前にも萩本 欽一などもこのフランス座にでていたらしい。萩本 欽一はぼくの高校の先輩でもあるので浅草は何かと縁が深い思いがする。

 昨日、一年ぶりに会った友人と浅草に呑みに行った。ドイツ時代からの友人なのだが、彼はもうずっとイギリスに住んでいて毎年夏に東京にくるのでそのたびに会ってどこかで呑んでいる。浅草寺本堂の外側の修理はすっかり終わったらしく、もとの壮大な瓦屋根の外観にもどっていた。

 仲見世を抜けて伝法院通りの方に入る。平日の夕刻だがけっこうな人どおりだ。この伝法院の通りは昔はテント作りの古着屋や土産物屋が並んでいたが、今は江戸時代風の店構えの建物が並んだ小奇麗な通りになっている。もっともこの先のロックはもう昔のような活気はなくちょっと寂れた感じになっているのが残念だが…

 一緒に行った友人は日本に住んでいる時もここら辺の下町にはあまり縁がなかったらしい。たまには下町気分を味わうのもいいだろうということで浅草にやってきた。伝法院通りをお寺の敷地に沿って行くと、右手にみんながホッピー通りとか牛筋煮込み通りとか勝手に呼んでいる通りに出る。

 店の前にテーブルを並べた呑み屋がずらっと並んでいる。客引きがいるが最近よく行く店は決まっているのでまっすぐそこへ行くが、昨日に限って店が閉まっていた。仕方なく隣の店に入るが実はこちらの店の方が一般には知れているのだが。隣の店は実直そうな親父の人柄がよかったが、牛筋の煮込みの味はぼくにはこっち方があっているように感じた。

 友人と通りに出されたテーブルで呑みだす。まずはジョッキの生ビールで乾杯。つまみは納豆のてんぷら、それにお決まりの牛筋の煮込み、サメの煮凝り、マグロのぶつ切りなど。それからビールのあとはホッピーで出来上がるという寸法。昨日は仕上げにデンキブランまで呑んでしまった。連日の酷暑も、関東をかすめて行った台風のおかげか気温も下がり一息ついて、気持ちのいい夕風も吹いていた。

 ここは以前は主に近くの場外馬券売場で馬券を買った親父さんたちがホッピーを呑みながらラジオのイヤホンを耳につっこんで競馬中継に興じる呑み屋街だったのだが、今はどの店にも一組くらいは外国人観光客が座っている。ぼくらが呑んでいた店にも外国人観光客が座っていたが、それよりもこの店にも電話で席の予約が入っていたのには驚いた。時代は変わったな。 

 浅草のように下町に活気が出てくること自体は嬉しいのだが、どこかブランド化して薄っぺらな感じになってゆくのも少しさみしい感じがする。だが、それは客の勝手で贅沢な言い草というものだろう。街も人も時代に応じて変わってゆかなければ生き残ってはいけない。浅草にはそこらへんの時代の新旧の塩梅を巧く織り交ぜながら生き残っていって欲しいと思った。

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昔日の光 [下町の時間]

昔日の光

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 この間リハビリ病院に入院しているばあさんの所に行った時、少し時間があったので病院の周りをうろついた。病院に着いたらばあさんのリハビリ訓練の時間が始まったばかりでそれが終わるまで少し待つ必要があったのだ。その間に下町の路地散歩を決め込んだ。

 ばあさんが入院している病院は北千住駅の裏手の立て込んだ一画にある。病院の前の通りを渡ると千草通りという路地がある。狭くて車はもちろん入れないし、人がすれ違うにもなんとなく挨拶をしてすれ違わないといけないような狭さだ。商店街と言うには店は少なすぎるが、民家の間あいだに惣菜屋、八百屋や瀬戸物屋、肉屋などがあってひととおりの買い物はできそうだ。ぼくはこの千草通りが好きで、一人でばあさんの所に見舞いに来たおりには時たま散歩して歩く。

 ぼくが育った千住のやっちゃ場の裏やお化け煙突の近くにもこんな狭い路地が続いていた。もちろん当時はこんなに舗装はしていなかったし、場所によっては通りの真ん中に所々飛び石のようなものがあって、雨が降ってぬかるんだ時にはその飛び石が頼りだった。子供のころはその飛び石を石蹴りの陣地のようにして石の上を跳ねてどこまで行けるかなんて遊びをやっていた。

 千草通りを歩いていると、両側にはさらに細い路地が伸びている。それらの細い路地は両側の民家の玄関先になっていて自転車やら植木鉢やらが雑然と置かれている。こういう路地にはたいてい野良猫がいたりするんだが、今日は猫の姿はない。下町の路地は車は入れないし、表の音も家の中に筒抜けだから今考えてみれば決して住みよい環境ではないはずだ。しかしそれだからこそ不審者が路地に入ってくればずぐわかるし、子どもだって安心して遊んでいられたように思う。ちょっと出かけるときだって鍵なぞはかける必要もなかった。

 ここの路地での生活が今でもそのようなものなのかどうかはわからない。ぼくは当時はそんな環境がさして好いとも思わなかったし、もっと小奇麗なそしてもっと便利な暮らしがしたいと思っていたに違いない。下町の路地はぼくにとって故郷の山河のようなもので、故郷に飽き足らず飛び出した人間が、時を経てまた故郷の山河に思いを馳せるように、また還ってきて大きな安らぎを感じているのかもしれない。当時は余りに身近過ぎてその価値が分からなかったのだろうか。しかし今、時を経て変わってしまったはずの自分の目は、この路地を棲む者ではなく、観る者の視線で見てしまっている。昔日の光は戻ってはこない。

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遠ざかるShowa [下町の時間]

遠ざかるShowa

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  明治時代大正時代という呼び方自体にはぼく自身はなんら違和感を持たない。しかし、昭和時代という呼び方にはまだいささかの抵抗感がある。活字やマスコミにもまだその表現がそんなに露出していないことも一因かもしれないが、自分の生きた時間が時代という大きな括りの中に埋没してゆくことへの恐れが多いのだと思う。しかし今、昭和は否応なくひとつの時代となりつつある。


 この間久しぶりにばあさんを連れて柴又の帝釈天にいってきた。今までは墓参りの帰りに帝釈様に寄ってゑびすやで鰻を食べてくるのが楽しみになっていたのだが、最近は墓参りをすると疲れてしまうのか、車いすで参道を歩くのが億劫なのか寄らずに帰ってきてしまうことが多かった。

 その日はばあさんの調子も良さそうだったので、長雨の合間をぬって柴又の帝釈様にいった。金町で水戸街道を外れて柴又街道に入るころには日が差してきた。久しぶりの帝釈様は人もまばらで静かだ。考えてみれば人でごったがえしているときにここに来たことはあまりない。墓参りに行くのは大抵平日だし、暮れに来るのは12月30日と決めているから、こっちが人ごみを避けて来ている形だ。

 参道の両側の店を車いすを押しながらゆっくりとみる。昼飯は今日はゑびすやではなく、参道の店先で天ぷらを揚げている大和屋にした。ここは店の中が雑然としているのがいい。壁には古びてセピア色になったフーテンの寅さんの写真が無造作に何枚も貼ってある。店の親父が天ぷらを揚げている後ろの客テーブルでは、小学生らしい男の子がノートを広げてなにやら勉強をしている。

 今日は都民の日だから東京都は学校が休みなのだ。勉強をしているのはこの店の子供だろうか、時々エプロンをしたお母さんらしい女性が宿題かなんかの世話をやいている。この間延びした時間の流れ方がいい。天丼をたのむ。この店の天丼のタレは真黒だ。その真黒なタレがしみ込んだ飯がとにかく旨い。

 昼食後また佃煮を買ったりして参道を歩くが、何しろ短い参道だらか五分も歩けば端に行ってしまう。日はまだ高い。そこで車いすでも行ける距離にある寅さん記念館に行ってみようということになった。以前一度行ってみたときにはあいにく閉館していたのでまだ入ったことはない。

 寅さんといっても、もちろん実在の人物ではないから伝記などがあるわけではない。そうではなくて記念館の中には映画「男はつらいよ」の舞台になった草団子屋「くるまや」のセットが作られている。28年間実際に使われていたセットらしい。その「くるまや」のセットの中に身を置くと言いようのない懐かしさに出くわす。ちゃぶ台が置かれた土間の奥の部屋。ぼくの家も菓子屋だったので、職人の匂いのするその空間がとてつもなく懐かしいのだ。

 館内はあざとい位に昭和の匂いがした。見ているうちに懐かしさよりも寂しさがこみ上げてくる。昭和はもう、こうやってショーウィンドウに飾られる時代になってしまったのだ。記念館を出て土手の上から江戸川の河川敷を眺める。そよ風が心地いい。ばあさんも久々にみる緑にあふれる光景にうれしそうだ。車いすにのったばあさんの前をジョギングの若者達が通り過ぎてゆく。

 帰り道、車が柴又街道を抜けて金町あたりで水戸街道に出たところでふと思い出した。あの日もちょうどこのあたりを運転していた。もっとも方向は今とは逆で千葉方面に向かうところだったが。1989年(昭和64年)1月7日の早朝。正月明けの土曜日、ぼくは前から予定されていた付き合いゴルフに向かうために車を運転中でここらへんにさしかかっていた。

 予想をしていたこととはいえラジオからそのニュースが流れてきたときには形容のしようのない気持ちに襲われた。「天皇陛下が崩御なされました」 それが昭和が終わった瞬間だった。あれからもう20年も経ってしまった。あのウェットな時代Showaは遠くにいってしまったのか。
 

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 *その朝の天皇崩御のニュースの具体的な表現は今は厳密には覚えていませんが、車の中でその知らせを聴いた時、一瞬周りの車の動きも止まったように感じました。もちろんそれは錯覚なのですが… ゴルフ場に着いたら、当然ゴルフ場のような遊興施設は自粛して閉鎖されていました。

 **その前の年の暮れに昭和天皇の重篤な状態が報道されて以来、忘年会を含めあらゆる遊びや祝宴・忘年会の局面で「自粛」という文字が飛び交い、日本中が沈潜した雰囲気に包まれていたのを覚えています。

 ***過ぎ去った時代を懐かしがるのはそれは人間の心情として当然のことだと思いますが、遠ざかったからこそ今、見えてくるものもあると思います。歴史を忘れっぽいぼくら日本人にとって冷静に振り返るということはとても大事なことだと感じています。

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やっちゃ場の朝飯 [下町の時間]

やっちゃ場の朝飯

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 先月、大阪から出てきた友達に誘われて家の近くにある舎人市場の場外食堂「千住 佐野新」に朝飯を食べに行った。ホコホコとした鰯のフライの美味しさに感激したが、そこのおかみさんがほくと幼稚園も小学校も同じだったことを知ってさらにうれしくなってしまった。

 その日は本当は千住のやっちゃ場に朝飯を食べに行こうと誘われたのだが、朝早くから千住まで出てゆくのが億劫だったので歩いて行ける近場の舎人市場に行くことにしたのだが、市場で朝飯を食べるのも存外楽しいことを知って、今度はやっちゃ場で朝飯をしようという約束をしてその友達と別れた。

 数日前その友達から今度こそ千住のやっちゃ場に朝飯を食べに行こうというメールがきて、昨日の朝出かけて行った。朝八時に京成千住大橋の駅で待ち合わせた。約束の時間より少し早く着いたので駅の周りを少し歩く。駅のまん前に店があった薬局のやっちゃんと隣の煎餅屋のみっちゃんは小学校の同級生だったが、二軒とももうそのお店はなくなっていた。

 ぼくは幼稚園に入るころまでやっちゃ場のすぐ裏に住んでいて、そのあとそこから歩いていける距離だがもうすこしお化け煙突よりの町に引っ越したので、やっちゃ場周辺の記憶はあまりはっきりとはしていない。それでも今の雰囲気は当時とは随分と変わってしまったような気がする。

 駅に戻ると友達はもう来ていた。二人で連れ立って行ったのは、やっちゃ場の入口にある「武寿司」だった。友達は以前一度来たことがあって、その時朝飯に食べた魚が美味しかったので、またその店に行こうということになった。小さな店で四、五人が座れるカウンターとテーブル席が二つくらいなのですぐいっぱいになってしまいそうだ。

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 ぼくらが店に入った時にはカウンターの奥に夫婦らしい中年の男女が一組座っていた。ぼくらもカウンター席に座った。注文は友達に任せた。彼は酒と食べ物については玄人はだしの知識を持っているので彼と一緒のときはいつも彼に任せっぱなしにしている。鰹と鰈の刺身、とり貝をつまみにまた朝からビール。

 カウンターの向こうで刺身を盛っている店の主人に「この店はいつ頃からここでやってるの」と聞くと、ちょっとむっとした風で「戦後ずーっとここでやってますけど…」とにらみ返すように言われた。こりゃまずいなと思って「いえね、オレも子供の頃このやっちゃ場のすぐ裏で育ったもんで…」とあわててフォローを入れた。

 奥からおかみさんがでてきて「あら、どこら辺なの。うちの人もずっとここで育ったから、もしかしたら知ってるかもしれませんよ。おいくつかしら、うちのよりずっとお若いと思うけど…」 「オレ? 昭和二十二年生まれだけど」 「あら、そんじゃ、うちのと同い歳だわ」 店の大将の顔がいきなり弛んで「ダンナさん学校どこ?」 

 「オレは千二小だけど…」ぼくが言うと、「アタシもですよ。じゃ、おんなじだ
」と大将。千住第二小学校をぼくらはセンニと呼んでいた。「え、そうなんだ、何組? オレは5組だったけど」 「アタシは2組でした」 ぼくらの小学校では卒業までの6年間一度もクラス替えがなかったので、クラス名を聞けばそれだけで分かるのだった。

 「そうか2組か。家に帰ったら卒業アルバムを見てみるよ」 「6年2組の卒業写真を見ればすぐわかりますよ。なにしろ撮影の日に学校休んじゃって、アタシだけ丸の中に入ってますから…」 脇からおかみさんが「いまの面影があるからわかりますよ」と口をはさむと、大将は「へっ」と。

 それから寿司をつまみながら話が弾んだ。先だって行った舎人の佐野新の話や同級生の動向そしてこの千住のやっちゃ場のこと。このやっちゃ場は三百年以上の歴史があるのだが、魚や生鮮野菜の販売主流が大手のスーパーになることによって、卸売市場を通さない扱いが増えるなどで今のやっちゃ場にはぼくらが子供の頃のような賑わいはない。自分の脳裏にかすかに残されていた往時のやっちゃ場の喧騒を想ってちょっと感傷的になってしまった。朝のビールは心に浸みわたるのだ。

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 *ぼくはなぜか昔からやっちゃ場に縁があって中学時代通っていた両国中学のすぐ隣が両国のやっちゃ場でした。ぼくが入っていた剣道部の道場は塀を隔ててすぐ向こうがやっちゃ場の競りをする処だったので、夏の暑中稽古の後などは声をかけると、塀の向こうから冷たいスイカを放り込んでくれたりしました。その両国のやっちゃ場のあった処も今は江戸東京博物館になってしまいましたが…

**「やっちゃ場」というのは東京の言葉で野菜や果物などを扱う青物(あおもの)市場のことです。千住のやっちゃ場もぼくの子供の頃の元は青物市場だったのですが、今は青物は舎人に集約されて千住は魚などの海産物が主流のようです。両国のやっちゃ場も青物市場でした。
 やっちゃ場の名前の由来は、ぼくは「やちゃい(野菜)」が語源だと聞かされていましたが、明鏡国語辞典や日本語語源辞典で調べてみたら「やっちゃ、やっちゃ」という競りの掛け声が元だと出ていました。


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My Town2  ~どこまでも行こう~ [下町の時間]

My Town2  ~どこまでも行こう~

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  ♪ どこまでも行こう
      
  どこまでもゆこう
  道はきぴしくとも
  口笛を吹きながら
  走ってゆこう

  どこまでもゆこう
  道はけわしくとも
  幸せが待っている
  あの空の向こうに

  どこまでもゆこう
  道は苦しくとも
  君の面形胸に
  風をうけてゆこう

  どこまでもゆこう
  道がなくなっても
  新しい道がある
  この丘の向こうに

  どこまでもゆこう
  道は淋しくとも
  あの星をみつめながら
  迷わずにゆこう

  (小林亜星作詞・作曲 山崎唯唄) 

 日暮里・舎人ライナーの先頭車両の一番前の席に陣取る。ドアーが閉まるとウィーンという音とともに発車。自動運転で運転手はいないので自分のすぐ目の前に軌道が広がっている。ライナーがスピードをあげると震動が伝わってくる。しかしその振動は鉄道のそれではない。この車両はゴムのタイヤでコンクリートの軌道の上を走っているので、どちらかと言えばバスの振動に近いかも知れない。

 どんどんとスピードが上がる。気持ちいいくらい。視線を少し上にあげると真っ直ぐな軌道は遥かかなたのビルの谷間に続いている。その向こうに真っ白な雲、そのバックに青い空が広がっている。ライナーは雲の中に吸い込まれるように軌道の上をすべってゆく。思わず、♪どこま~でもゆこうと口ずさみそうになる。

 この「どこまでも行こう」の歌は昔テレビのCMで散々聞いたので今でも耳の中に残っている。たしか、タイヤのコマーシャルだったと思う。若い頃繰り返し聴かされたためか、延々と続く道を前にすると自動的に頭の中でこの歌がリフレインし始める。CMが流されたのは1966年昭和41年あたりのことだ。その頃ぼくはまだ19歳だった。

 そのころの時代が自分自身にとって楽しい時代だったかというと、その時は他の若者同様若さ故の悩みで一杯でそれどころではなかったと思う。しかし、振り返ってみるとその年にビートルズが来日、日産のサニーやトヨタのカローラが新発売になっていよいよ車の大衆化が始まるなど、日本の成長が本格化してきた時代だったのだ。

 そんな時代の風を受けてこの歌は「どこまでもゆこう/道はきぴしくとも/口笛を吹きながら/走ってゆこう…」と前向きで明るいトーンに満ちている。苦しいことがあっても、その道の先にはきっと明るい世界が待っている。そのことを誰もが信じて疑わなかった。そんな時代だったと最近よく言われるようになった。

 しかし、それは後から振り返っていわれることで、その時代の中に生きている人間にそんなことを思う余裕はなかったし、本当に未来が約束されていたわけでもなかった。道はきぴしくとも/口笛を吹きながら/走ってゆこう…、というのはその時代の精一杯の強がりだったのだと思う。

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My Town [下町の時間]

My Town

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 気がついたらこの町に越してきてもう25年以上にもなる。ぼくが生まれたのは、今住んでいるここからすぐ近くの西新井大師の裏だが、まだ赤ん坊のころに千住のやっちゃ場のすぐ裏に越してしまった。幼稚園に行く頃になって、今度は親父がお化け煙突の方に工場を立てたのでそちらに移った。

 そして結婚して数年たって今のところに来たのだが、何のことはない振り返ってみれば千住西新井の周りをうろうろしていたにすぎないのだ。ここに越してきた当時は周りには田んぼや畑があって駅からは遠いし、下町の路地で育ったぼくはえらい寂しい処に来てしまったものだと嘆息した。

 住んでみると雨が降った日は長靴がないと歩けない。今、舎人公園があるあたりには産廃が山積みになっていて夏はハエがでてきたりと、住む町としてはとても好きにはなれなかった。買い物に行くにもバスが一時間に二、三本では動きが取れないので仕方なくボロの中古車を買って足代わりに乗りまわした。

 結局ここでサラリーマン人生の大半を過ごすことになったのだが、勤めを終えて落ち着いて住んでみるとこんないい街はないと思えるようになった。せせこましくなくて、どことなくのんびりしている。もちろんその二十有余年の間に街並みも整備され大きな公園やライナーの新線ができたことも幸いした。最近は日暮里・舎人ライナーに乗って車窓から自分の街を眺めるのが気に入っている。

 ライナーはユリカモメと同じく無人運転なので一両目の最前列の席の眺めは格別だ。すいている時は、ぼくは大抵小学生みたいに一番前の席に陣取って街並みを見ている。やっと、この街もぼくにとってのMy Townと言えるようになったようだ。

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「千住 佐野新」

 *先日、大阪から出てきた友人から千住のやっちゃ場に朝飯を食べに行こうと誘われました。久しぶりだったので行ってみたい気持ちはあったのですが、あまりにも朝が早いので遠慮しました。すると今度は「それじゃ明日は君の家の近くの舎人のやっちゃ場で朝飯を食おう」と言われました。

 舎人に青物市場があることは知っていましたが、それがやっちゃ場のようになっているとは正直知りませんでした。翌朝、八時に待ち合わせて市場に行ってみると、まるで築地市場のように広大な敷地に野菜や果物の市がたっていました。聞けば、水産物は千住のやっちゃ場に、そして野菜と青果はこの舎人の市場に集約されたらしいのです。

 場外の食堂に入ると仕入を終えた青果業の人らしい男の人が数人朝定食を食べていました。ぼくと友人は不埒にも朝から刺身肉豆腐、それにいわしのフライビールを頼んでしまいました。その食堂は店の名前が「千住 佐野新」というのでも分かるように、先代から千住のやっちゃ場で食堂をやっていたのが、市場の再編に伴いこの舎人に移ってきたようでした。

 ぼくも千住のやっちゃ場の裏で育った話をして食堂のおかみさんとだべっているうちに、実はそのおかみさんとぼくは幼稚園小学校も一緒だったことがわかって、大盛り上がり。今度また朝の散歩の帰りに来てみようと思いつつ、ホッコリとした熱々の鰯フライをほおばったのでした。

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あの年の夏 [下町の時間]

 あの年の夏

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 親父の墓参りの日は朝から雨だった。9月26日が親父の祥月命日なので、例年はその前後にばあさんを連れて墓参りに行くのだが、今年はばあさんが入院中ということもあってカミさんと二人きりで行くことになった。親父の命日がたまたま秋の彼岸の最後の日にぶつかるので墓地は結構混んでいることが多い。いつもはたいていこの時期でもまだ暑さが残っていることが多いのだが、今年は雨が降ったせいか空気がひんやりとしている。

 親父が死んだ1995年の9月26日は暑い日だった。覚悟はできていたが病院に詰めていたカミさんから会社に電話が入ると涙が止まらなかった。この年は幕開けから大変な年だった。年初の正月気分がやっと抜けた17日、阪神淡路大震災が起こった。朝出勤前に家でテレビを見ている限りでは、神戸で今本当に何が起きているか定かには分らなかった。当時、ぼくはいつも六時前には自宅を出て七時過ぎには会社のデスクに座っていたが、そこに神戸支店長が悲痛な声で電話をかけてきた。

 神戸支店のあるビルに入ろうとしたが、オフィスのある階全体がすっぽりと潰れて無くなってしまっている。ビルも傾いている。そのビルの姿はその後のニュースの画面に何度も登場したが、その報告に全身から血の気が引いていった。電話の向こうでは支店長の嗚咽の声が響いていた。だがそれは、ぼくにとっても日本にとっても、その忌まわしい年のまだほんの始まりでしかなかった。春先になって親父が風邪かと思って近くの医者行ったところ、念のためといって大学病院に行くように勧められた。大学病院での診断は末期の肺がんだった。ぼくはギリギリまで母には伏せておこうと決めた。

 三月、親父が大学病院に入院している間にオウムによる地下鉄サリン事件が起こった。3月20日のことだ。それはぼくが毎日通勤で使っている地下鉄日比谷線でおこった。月曜日でその日ぼくはいつになく遅く家をでた。西新井駅に着くと改札が止まっている。最初は車両事故らしい、ついで銀座駅で爆破事件が起こったらしいという声が改札を待つ乗客の群れの中で囁かれていた。後でその日の全容を知るに至って、乗った電車がもう数本早かったら、と思うとぞっとした。

 さらに数日たって今度は親父の入院していた大学病院が大騒ぎになった。警察庁国松長官南千住の自宅マンションで何者かに狙撃され、その病院に運び込まれたのだ。オウムの犯行の可能性も取りざたされ、病院のあらゆる所に警官が立っていた。週末にいつものように車で親父の見舞に行ったが病院の地下駐車場は閉鎖されていて使えない有様だった。

 親父は夏に一時、退院して家に帰れることになった。医者からは今度入院した時は恐らくもう家には帰れないだろうと言われていた。家に帰った親父は居間に座って毎日オウムのニュースに見入っていた。親父の傍らにはいつもおとなしく猫のレオが座っていた。親父はそのレオの頭を撫ぜながら日長一日テレビを見ていた。それ以外のことをする体力はもう残っていなかったから。最後には朝起きると、這って居間に入っていった。それでもウチがいいと言った。家族は見ているのが辛かった。

 束の間の
夏休みが終わると親父はまた病院に戻って行った。毎年、夏の終わりが寂しいのは、あの時の親父のことを思い出すからかも知れない。くらくらするような目まぐるしさでその年の夏は過ぎていった。

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Die Kamera Canon DIAL35 [下町の時間]

 Die Kamera  Canon DIAL35

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 以前、部屋の天袋を整理していたら古いダンボール箱の中から新聞紙にくるまれた包みが三つ出てきた。中から出てきたのは三つともカメラだった。ひとつは1950年代の日本製のカメラAires 35。もうひとつはやはり日本製の二眼レフYashica 4x4だった。そして三台目のカメラがこのCanon DIAL35だ。今となってはダイアルといっても電話機自体にダイアルがないからピンとこないかも知れないが、当時は電話のダイアルがついているみたいでユニークなデザインだった。

 このダイアル部分は受光部の下に大きさの違う穴があいていてシャッタースピードに合わせて適正露出が得られるようになっている。ぼくが気に入っていたのはグリップの部分に仕込まれたゼンマイ式のフィルム巻き上げ機構だ。グリップの部分をギリッギリッと回して巻き上げておくと、20枚くらいはシャッターを押すたびにウィーンという音とともに自動的に巻き上げてくれる。このカメラを使っていたのは1960年代の後半位だったので、ぼくは高校生から大学生になるあたりだった。その頃は特にメカニカルなものが好きだったのでその意味でもこのカメラはお気に入りだった。

 その頃は自分で現像や焼き回しもしていたので、このカメラで下町の日常のシーンをずいぶん撮ったはずだが、それが今は見当たらない。トイレと洗面所を改装した暗室にこもって何時間も作業をしていた覚えがある。その頃はエアコンなんかはなかったので、夏の時期は焼き付けようとする印画紙の上に屈みこむと汗がたれてしまう。汗除けにタオルで鉢巻をして引き伸ばし機の電燈が発するものすごい熱に閉口しながら格闘した。今でもオレンジ色の薄暗い明かりの中で、鼻につんとくる酸の匂いを嗅ぎながら目を凝らしてバットの中に浮かび上がる映像を見つめた瞬間が脳裏に浮かぶことがある。

 DIAL35は35ミリサイズのフィルムを半分にして使うハーフサイズだったので金のない学生にはありがたかった。色味もちょっと独特なものがあってオリンパスも持っていたけれど主にこっちを使っていた。しかしある時、例のゼンマイをいい気になってギリギリと巻き上げていたら、ブチッという音がした。あっ、と思って恐る恐るグリップを回すと抵抗感がない。ゼンマイが切れたのだ。その後なんで修理しなかったのかは今は覚えていないが、それきりDIAL35との付き合いは終わってしまった。おそらくはそれ以降は一眼レフの世界に夢中になってしまったのだとは思う。その写真の世界も大学を出て就職をした時から三十年以上も遠ざかってしまった。

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*今、また実際にこのDIAL35を手にしてみると、しっかりとしているしマット加工のアルミ肌もきれいで洗練されたカメラだなぁと思います。デザインだってあくが強い点はあるけど古さを感じさせないですね。完成度の高さを物語っていると思います。DIAL35はその後アメリカのBell&Howell社からもOEMで発売されて、ヘルムート・ニュートンも愛用していたらしいです。カメラの世界がメカニカルからエレクトロニクスの世界に移行したのは時代の趨勢なのでしょうが、時々メカニカルなものにすごい郷愁を感じることがあります。

*家にはもう一つ古いカメラがあります。叔父が使っていたGaica Cameraです。1940年代の蛇腹式のカメラです。いかにも歴史を感じさせるような佇まいで、ぼくは特別の思い入れを持っています。


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路地猫 [下町の時間]

 路地猫

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 ぼくが生まれたのは今住んでいる近くにある西新井大師の裏手のところだ。生まれて直ぐ北千住に引っ越してしまったので、育ったのは北千住だ。北千住は下町というよりは場末といった方が正しいかもしれない。江戸の昔から日光街道への入口として、また江戸から見れば江戸という町場の末にあったから場末としての歴史を歩んできたといっていい。ぼくのカミさん深川で生まれて育ったから北千住を下町というと、どうも抵抗があるらしい。ぼくはどっちでもいいんだけれど。

 北千住は一歩裏に廻ると今でも狭い路地が続いてる。家々の前に植木鉢が並んでいたり、無造作に自転車がおいてあったりする。中には車も通れないような細い道もあって、道の真中には飛び石のようなものが敷かれていたりする。子どもの頃、ずっと日本舞踊を習っていたので毎週二度くらい大踏み切りの近くにあったお師匠さん(「オッショさん」と呼んでいた)のところに通っていた。時間は決まっていなかったけれど稽古をつけるお弟子さんが何人か来ているときには、順番を待って夕方になることも少なくなかった。稽古が終わってお師匠さんの家を出ると、もう薄暗くなった狭い路地に眩しいようにアジサイの花が咲いていたのを今でも覚えている。ぼくやカミさんのように故郷の山や湖を持たない人間にとっては、路地の思い出がいわばぼくたちの故郷の山河だ。

 車の入ってこられないような狭い路地は何処かで行き止まりになっていたりする。そういう路地にはたいてい路地猫がいた。植木鉢の影や通りに出された縁台の下なんかに猫がいる。場合によっては通りの行き止まりのところで二三匹の猫がたむろしていたりする。この猫たちはいわゆる野良猫ではない。かといって、はっきりとどこかの家で飼われているというわけでもない。いわばこの路地で飼われている路地猫なのだ。名前だって、同じ猫がある家のおばさんにはミケと呼ばれて、他の家のおじさんにはタマなんて呼ばれていたりする。猫もそこらへんは心得ていてどう呼ばれようと当たり前のように近寄ってゆく。

 結婚して何年かしてから、今のところに引っ越してきた。今住んでいるところは通りが碁盤の目のように整然となっていて行き止まりの路地は見当たらない。この間散歩していて路地というには広すぎるが少し奥まったところにある行き止まりの道をみつけた。民家の路地というよりは工場の裏手といった感じだった。路地猫は、と探しているところにトコトコと猫が一匹やってきた。「なんだよ!」といような顔をしてぼくの方を振り返った。全身傷だらけで薄汚れていた。路地猫じゃなかった。

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柴又 年の瀬 [下町の時間]

 柴又 年の瀬

  
 ばあさんを連れて、今年最後の墓参りに行った。親父の墓は車で四十分ほど行った八柱にある。千葉県にあるが東京都の管理する霊園だ。広大な敷地の霊園で、子供のころは墓参りをしたあと、広々とした園内で弁当を食べるのが楽しみだった。墓参りには、春夏の彼岸、お盆、親父の命日そして暮れにはカミさんばあさんを連れて必ず来るので年五回は最低でも来ることになる。

 墓参りに来ると、うちの墓の他におばあちゃん、父方の伯父、母方の叔父、父方の叔母の墓に寄ってくるので、都合五軒分の花を車に積んで出かけることになる。以前はばあさんも車を降りてすべての墓にお参りしたが、いまではそれも辛いので、うちの墓とおばあちゃんの墓の時だけ車から降りてお参りをする。

 墓参りの帰りには、途中にある柴又の帝釈天に寄ってくるのがばあさんの楽しみだったが、ここのところは墓参りを済ませると疲れてしまうのでまっすぐ家に帰ることが多かった。今年の年末は天気も良くないし、歩くのも大変なのでまっすぐ帰ってこなければならないかと思っていたが、墓参りの前日にばあさんが帝釈天で佃煮を買いたいから帰りに寄りたいと言い出した。

 墓参りを済ませて、帝釈天に寄る。暮れの帝釈天は目前に迫った大晦日を控えて、嵐の前の静けさといった風情だ。押し迫った年の瀬に、この少し気だるい雰囲気が味わいたくって、毎年暮れには必ず帝釈天に来る。ばあさんはゆっくりと歩行機である手押し車を押しながら参道の店々をみて歩き、大徳では佃煮をしこたま買い込んだ。もちろん丸仁の佃煮もいいが、ばあさんは最近はこの大徳の佃煮が気に入っているようだ。ばあさんのペースに合わせて、帝釈天の短い参道をブラつく。参道の端までくると、いつものようにゑびす屋に行って鰻を食べる。ばあさんはいい顔をしていた。

 ■出歩きて 無用の用や 年の暮れ (山崎 房子)

 伯父の墓の入り口に真っ赤な南天の実がなっていた。この時期、墓地のあちこちでみられるが、そこの南天はひときわ赤が鮮やかだった。小雨が煙る中で真っ赤な南天の実は雨の滴を抱いていた。覗き込むと、その小さな滴の中にどこか別の世界が映し出されているような錯覚に陥った。

      
                    
 今年一年、このブログをおたずねいただいて本当にありがとうございました。来年もよろしくお願いいたします。来年も皆様にとって、よい年でありますように。
 


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