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さざんか [gillman*s park 07]

 さざんか

    

 誰か慌たゞしく門前を馳けて行く足音がした時、代助の頭の中には、大きな俎下駄(まないたげた)が空から、ぶら下つてゐた。けれども、その俎下駄は、足音の遠退くに従つて、すうと頭から抜け出して消えて仕舞つた。さうして眼が覚めた。
 枕元を見ると、八重の椿が一輪畳の上に落ちてゐる。代助は昨夕床の中で慥かに此花の落ちる音を聞いた。彼の耳には、それが護謨毬(ごむまり)を天井裏から投げ付けた程に響いた。夜が更けて、四隣(あたり)が静かな所為かとも思つたが、念のため、右の手を心臓の上に載せて、肋のはづれに正しく中る血の音を確かめながら眠に就いた。
   
                                                           夏目漱石 「それから」


  椿の花は花びらがまとまってボトッと落ちる。漱石の『それから』の代助はその椿の花が落ちる音で目を醒ました。花のまま散ってゆく姿が首が落ちるようだといって、椿は武家では「落首花」といって忌み嫌われた。しかし茶花としては珍重されている。千利休は椿の花をこよなく愛した。だが、その利休が秀吉の怒りを買って切腹を命じられ、彼の首が曝しものにされたことを考えると、その「落首花」という名と不吉な符合に思い至る。

 家の玄関のわきにも「侘び介」らしい椿の木が一本植わっているが、花の盛りが過ぎると一輪の花が丸ごとそのまま木の根元に落ちていることがある。公園の敷地にも何本か椿の木があるが、薄暗い木陰に枯れ切れない赤い椿の花が落ちている様は、ちょっと妖しい雰囲気さえある。

 椿の花が、花の形のまま朽ちてゆくのに対して、椿の仲間である山茶花の花はハラハラと散ってゆく。山茶花の元の花は白い色らしいが、公園の池の畔にある山茶花の花は桃色である。クヌギの木々に挟まれた形で数本の山茶花が植わっている。近寄って木の根元を見ると、クヌギやラクウショウの落ち葉の上に桃色の山茶花の花びらが散りばめられていた。山茶花の花びらは、冬の白っぽい光のなかで、ちょっと青ざめた少女の頬のような色をしていた。

   山茶花の 花のこぼれに 掃きとどむ  (高浜 虚子)

                       


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落葉踏みしめて [gillman*s park 07]

 落葉踏みしめて
    
 晩秋の公園。色とりどりの落葉を踏みしめながら、ぼくの中ではやっと秋が来たなという感じがしていた。気がつけばもう師走の声を聞く時期になっていたが、夏の終わりに北京から帰ってきて以来、法事やらばあさんの病院通いやら、自分の日本語関連の作業やらでゆっくりと公園を散策する余裕もあまりなかった。

 街を歩いていても今年は紅葉が遅いなと思っていたが、ここに来て急に街中の木々が色づき始めた。公園でも落羽松の木がすっかり赤煉瓦色になり、黄金色のクヌギと赤いカエデそれにイチョウの鮮やかな黄色が加わって前回来たときとは打って変わって、一面秋たけなわの姿になっていた。

 公園の中を落葉を踏みしめながら歩いた。今年は落葉がことのほか美しく思える。落葉の美しさなんて、昔からそう変わるものではないはずなのに、そう見えてくるのは間違いなく自分のほうの変化のためだと思うが…。これが歳のせいなら、歳をとることもそう悪いことではないような気がする。美しく思えるものが今までよりも増えるということは、それだけでありがたいことだ。歳を重ねいろんな事を経験するに従って、世の中が色褪せてゆき、しまいには心の中には灰色の寂しい風景しか残らないとしたら、それはつまらない人生だ。

 きっと、ずっと昔から足元には美しい落ち葉があったに違いないのだ。でも、ぼくの視線はいつも前しか見ていなかった。空を見上げることもなかったし、ましてや足元に注意が向くはずもない。足もとを見ていなければ躓いたり、転んだりするはずだ。事実、何度も躓きもし転びもしたが、それでも前さえ見ていれば何度でも起き上がってまた前に進めると思っていた。ある意味では、それは今でも正しいと思っている。でも、時々は空を見上げたり足元を見つめたりすることも、本当はきっと必要なんだと思う。それも、できれば嘆息して天を仰ぎ見るのではなく、また落胆して地を見つめるのでもなく、ただ自分が生きているということを確かめるためだけにを見つめることができればいいのだが。

                        


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夕焼けの詩 [gillman*s park 07]

 夕焼けの詩

   

 大学からの帰り、車はずっと西陽に向かって走っていた。大学からの帰りは夕方になることが多いので、車で行ったときには帰りは太陽に向かって走ることになる。眩しいのでいつもはサンバイザーを下ろして走るのだが、その日はいつもより時間が遅かったせいもあるが、西陽にはもう眩しさはなく空は茜色に染まっていた。車の行く手には藍色から茜色に連続的に変化してゆく幻想的な空が広がっていた。あまりに美しいので、このまま家に帰るのはもったいない気がして、もう少しで家というところだったが、公園の駐車場に車を置いて公園を散策してゆくことにした。

 あたりはもう大分薄暗くなりはじめていた。深い茜色の空に墨色の雲が浮かんでいる。手前の木々が漆黒のシルエットになって浮かび上がる。公園の中は人通りもまばらだ。池のほとりのベンチに座って夕焼けに見入る。子供の頃にも夕焼けは何度も見たが、こんな光景ではなかった。下町だったから、工場の間の空き地、原っぱの向こうに沈んでゆく夕日だったり、隅田川の川面に映る赤黒い太陽だったり。川面にはお化け煙突の姿が映ってゆらゆらと揺れていた。西岸良平の漫画「夕焼けの詩」にはいつもそんな下町の光景が書かれていた。「夕焼けの詩」はそのうち「三丁目の夕日」というサブタイトルがついて、今は「Always 三丁目の夕日」という映画になっている。
  
 原作者の西岸良平は1947年(昭和22年)生まれでぼくと同い年だから、見てきた光景も似通っていたのかもしれない。映画Alwaysでは昭和三十三年に完成した東京タワーがもう一人の主人公になっている。東京タワーが組み上げられてゆくに従って、次第にその壮大な全体像が現れてゆく。同時に昭和三十年代というひとつの新しい時代も立ち上がっていった、その象徴であったのかも知れない。そしてお化け煙突も別の意味で昭和三十年代の象徴だった。東京タワーが芝の低い町並みの中からニョキニョキと立ち上がって、昭和三十年代という新しい時代の到来を告げていったのに対し、お化け煙突は下町の火力発電所というその役目を終え、昭和三十九年にひっそりと姿を消すことによってひつとの時代の終焉を告げるとともに、次の四十年代の到来を予告した。

 時代の中で言葉の意味は次第に変わってゆく。家族とか、人情とか、貧乏とか、幸せとか。それは無くなってゆくのではなくて、変わってゆくのだと思う。社会はひつとのシステムだから突然一部分だけを取り替えることは出来ない。どこかの国から都合の好いパーツだけを持ってきて、そこだけ入れ替えるという風にはいかない。しかし、間違いなく時とともに変わってゆく。難しいのはその変化の全てが進化とは限らないことだ。時々振り返って何か忘れ物をしていないか目を凝らすことだと思う。見極めてゆくことだと思う。思想がどうの、体制がどうの、というたいそうらしいことではなく、自分のごく身の回りで何が変わっていったかという皮膚感覚をもっていたいとおもう。一方、最近ちょと気になるのは、昔はすべて良かったというような単純な懐古趣味も台頭しつつあるような気がすることだ。時代はそんなに単純ではない。

   ■遠ざかるうしろ姿の夕焼けて
   ■夕焼雲のうつくしければ人の恋しき
   ■夕焼うつくしく今日一日つつましく 
(種田山頭火) 


 

                     


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探しものは何ですか [gillman*s park 07]

 探しものは何ですか

      
       
     探し物は何ですか。見つけにくいものですか。
     鞄の中も、机の中も探したけれど見つからないのに。
     まだまだ探す気ですか。それより僕と踊りませんか。
     夢の中へ、夢の中へ行ってみたいと思いませんか。
     
     休むことも許されず、笑うことは止められて、
     はいつくばって、はいつくばって、
     一体何を探しているのか。
     探すのをやめた時、見つかることもよくある話で、
     踊りましょう、夢の中へ行ってみたいと思いませんか。
                         (井上陽水 「夢の中へ」)

                
 
 平日の公園には、近くの幼稚園や保育園の園児たちの元気な声が響き渡っています。天気の良い日には保母さんたちに連れられた園児たちが、ロープの電車に入って一列に連なってやってきたり、小さなトロッコのような乗り物に乗せられてやってきたりします。公園に着くと園児たちは、放たれた元気な子羊たちのように芝生の上に散ってゆきます。そして遊び疲れるとコロッと草の上に。遊びに夢中になり誰かが帽子を忘れて行ったのでしょう、ユリノキの枝に園児の帽子がひとつ吊下げられて、もう誰もいなくなった公園で風に揺れていました。
 次の日にはもうなかったので、すぐ保母さんがとりに来たのでしょうか。探しものはなんですか。この公園には失くした帽子だけでなく、いろいろな人がいろいろな失くしものを探しにくるようです。見つかるといいのですが。
  
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Hello Dog [gillman*s park 07]

 Hello Dog
  

 公園を一人で散歩していたら、やはりむこうも一人で散歩していた犬とすれ違った。
       Hello Dog!と声をかけたら道を譲ってくれた。
       Thank you!
  楽しそうな犬の散歩、でした。

                      
 
 はじめて動画を入れてみましたが、あまりうまく動きませんね。画面下の「>」印をポチッとしてみてください。再生後写真が消えますが、ぼくのPCだけでしょうか? でも、PCに悪さはしないようですから、ご安心ください。
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Autumn ベンチ ありふれた光景 [gillman*s park 07]

Autumn ベンチ ありふれた光景

HbstDsc04717.jpg

「ご主人はいるのかな?」と、私はローズに尋ねた。
「ええもちろん。ロンドンの都心部で何かやっているらしいわ。たぶん株式仲買人じゃないかしら。まったくつまんない男よ」
「夫婦仲はいいんですかね」
「お互い首ったけね。晩餐に呼ばれれば会えるわよ。でも、彼女、晩餐会をあまりやらないの。旦那は無口ね。文学や芸術になんて、まるで興味なしってタイプだわ」
「どうして立派な女が退屈な男と結婚しているのかな?」
「利口な男は立派な女なんかと結婚しないからにきまってるじゃない」
ローズの言いぐさにうまく言い返せなかったので、私は夫人に子供がいるかどうか訊いた。
「男の子に女の子がひとりづつ。ふたりとも学校に通っているわ」
ストリックランド婦人についての話題は、これで終わりだった。
私たちは、別のことを話しだした。
                サマーセット・モーム『月と六ペンス』(大岡 玲訳)

秋の光を浴びて公園のベンチで二人のんびりするまでには、長い時間と多くの誤解と少しの諦めとそれよりちょっと多目の愛と、そして幸運が必要だったのかも知れない。ありふれてはいるけれども、同じ光景は二つとない。

                      


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おちばねこ [gillman*s park 07]

 おちばねこ

 久々に青空が出た。今年の秋はこれが秋空だ、というような抜けるような青空にはなかなかお目にかかれない。公園に行くと、近くの中学校がマラソン大会をやっていた。クスノキのある広場に運動会で使うようなテントを張って、その脇には赤い横断幕でゴールが作られていた。どうやらレースはもう終ったらしく、教師らしい人が生徒たちに解散を指示していた。大勢の生徒たちが三々五々公園の正面出口の方へ歩き出した。

 ぼくは人混みを避け、彼らとは逆のバーベキュー広場の方へ向った。ここは木もあまりなく殺風景なので普段はあまり来ないところだ。以前、大雪の時この茂みの下に白黒のブチ猫が小さくなって降りしきる雪を避けていたのを思い出した。ここと駐車場の間のあたりには野良猫がよくいる。最近はその姿をあまり見かけなくなったのでどうしたのだろうかと思っていたら、木漏れ日のあたる落ち葉の上に一匹の猫がいた。

 茶トラの親子は時折見かけたが、その猫を見るのは今日が初めてだ。秋の日を浴びて気持よさそうに寛いでいる。季節のいい時の野良猫を見ると野良猫稼業も気ままで悪くはないか、と思えるが、厳寒の時期や猛暑の時期のことを考えると家の中で飼い主と遊んでいる方が楽かもしれない。自由とは厳しいものだ。以前猫達がよくたむろしていた駐車場の近くに来ると、茂みの傍に小さな段ボールが置いてある。よく見ると何やら文章の書かれた紙がガムテープで張り付けてある。

 

 少し離れたことろには、立札のようなものがあって、そこには以前捨てられて保護された仔猫の写真と、野良猫を捕獲して去勢し里親を見つける活動をしている旨のメッセージが貼られてあった。この公園はカラスが多いので生後間もない子猫などはカラスの格好の餌食になってしまう。もちろん、それでカラスを責めるわけにはいかない。生ゴミでカラスを増やしたのも、子猫を無残に遺棄したのも、やったのは人間だから。おちばねこが冷めた目でぼくらを見ている。

                  

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鴉啼いて [gillman*s park 07]

 鴉啼いて

      
 舎人公園にはカラスが多い。日と時間によって、居る場所や数は異なるが、それでも常時かなりの数がいる。カラスは数を頼んでギャーギャー言いながらゴミをあさる浅ましい姿と、枯枝に一人佇む孤高の姿と二つの面をもっており、何となくぼくら人間とも似ている。自分に似ているから人間はカラスを余り好きになれないのかもしれない。昔、一晩中呑み通した明け方、飲み屋横丁で残り物の餌をあさりに来たカラスたちと鉢合わせになったことがある。ぼくがふらついた足で壁をつたいながら裏露地を抜けようとしたら、これからは俺たちの時間だ、と言わんばかりにカラスたちに睨みつけられた。

 カラスにはそんなイメージしか持っていなかったから、この公園に来るようになって彼らのもう一つの面である孤高の姿を目にした時にはちょっとした驚きがあった。露地を這いつくばるような姿からは一変して、世の中を睥睨する隠者のような眼差しは、ときに神々しいことさえある。実際、知能は鳥類の中で一番高いといわれており、神の使いとする信仰もあるらしい。

 自由律俳句の俳人、種田山頭火もカラスの句をいくつか詠んでいる。彼が托鉢しながら全国を放浪している道すがらいろいろなところでカラスとの出会いがあったにちがいない。彼の俳句集「草木塔」の最後が「鴉(からす)」という章だったように思う。

  啼いてわたしも一人

 この句は、「草木塔」の冒頭に出てくる句だが、心の中にカァーという鴉の鳴き声が寂寥として響き渡るような孤独感が伝わってくる。山頭火はこの句をやはり自由律俳句の尾崎放哉の作に和して詠んでいる。放哉の句、

  ■烏がだまってとんで行った

 ぼくはこの句もまた好きだ。啼いても、黙っても一羽のカラスは寂しい。

    

                   
                                
gillman's park

 山頭火の句は、胸が苦しくなるような孤独感に満ちたものが多い。彼は出家して片田舎の観音堂の堂守をしたり、野宿をしながら全国を放浪したということもあって、句の中に野原や里山の自然が多く登場します。山頭火の句に惹かれるのは、彼の句からはなぜかそのシーンのイメージがくっきりと浮かび上がること、さらにそこには昔の日本の色が見えてくることです。もっとも、それはぼくの勝手な思い込みかも
しれませんが…


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色のない秋 [gillman*s park 07]

 色のない秋

   

 早朝のウォーキングに行く。朝はどんよりとした空。もう以前のようにティーシャツだけの姿では肌寒い。上に一枚薄手のパーカーのようなものを羽織らないとならない。早朝の公園をランニングしたりウォーキングする人の数も夏休み中に比べて大分少なくなったような気がする。体重が減らないのは以前のままだが、それでも生活サイクルとして早朝のウォーキングが定着しつつある。もう少し寒くなったら続ける自信はないが…。

 行き交う人の減った早朝の公園は少し寂しい。木々が本格的に色づくのはもう少し待たねばならない。今の季節は秋といっても、ここはまだ色のない秋だ。色のない、というのはあでやかな色がないという意味で、全くの墨絵の世界というわけではない。よく見れば、どんよりとした雲にまぎれていろいろな色が見え隠れしている。特に東の空に朝焼けの名残がある時には、えも言われぬ微妙な色彩が現れてはまた消える。また、そんなものを見つめて足を止めているからウォーキングにならないのだ、といわれるかもしれないが、それも朝の楽しみである。

 これからの朝のウォーキングについてぼくが密かに楽しみにしていたことがひとつあった。C地区といわれる公園の未整備地区に大きな空き地がある。金網のフェンスに囲まれており、その前には小さな池があってそこは釣り人たちの恰好の釣り場になっているところだ。釣り人もその空き地の傍の通りを通る人も誰もそんな空き地に目もくれることはない。ところがその空地が晩秋の霜の降るころ一変する。二年前のある日、いつものように散歩に出た僕はその光景を目にして一瞬立ち止まった。その時、ぼくの目の前には一面の草紅葉(くさもみぢ)の草原が広がっていた。殆ど山歩きをしたことがないぼくは、高原などの草紅葉というものを実際には見たことがなかったのでその美しさに驚かされた。

 昨年の秋は、論文書きで時間がなかったのでいいタイミングでその空地に行くことができなかった。今年こそはその草紅葉が見られると楽しみにしていた。今度は朝日を受ける草紅葉の野原を撮ってみたいなどと勝手な想像をしていた。ところが、一昨日の朝、いつものように早朝ウォーキングの時その空地のところに来たら、草紅葉になるはずだった草がきれいさっぱり刈り取られて、ツルツルの原っぱになっていた。残念。当分はまだ色のない秋が続きそうだ。

                      
  
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秋桜忌 [gillman*s park 07]

 秋桜忌
       
 確かに空気はひんやりとしてきた。公園のピラカンサの実も日に日にその赤さを増している。だが、何だか秋がやってきたという実感がない。連日の曇り空が去って一瞬青空が顔を覗かせたかと思ったら、空はすぐに雲で覆われてしまった。公園の中を秋を探して歩き回った。花水木の葉は赤くなっているが、ユリノキの葉も落羽松メタセコイアもまだ秋の姿にはなっていない。

 いつもよりゆっくりと歩きながら、普段はあまり来ない公園の管理事務所の方まで来ると、コスモスの花が今を盛りに咲いていた。そこにはボランティアが管理している花壇があっていつも何かしらの花が咲いている。ぼく自身は華やかな園芸種が咲いている人工的な花壇よりも、野辺のありふれた草木や野草の方が好きだ。この公園のいいところは他の公園のようにいろいろな施設や花壇などを作ることをせず、手を入れすぎていないことだ。定期的に下草は刈っているが、どこにも草むらがあるのがいい。とはいえこの花壇の一画はいつも手入れが行き届いていて気持ちがいい。特に今日のコスモスはよかった。ここに来て初めて秋を感じることが出来た。

 風に揺られているコスモスの花びらは、紗のように薄く陽の光を通していかにも儚い風情である。コスモスの花を見ると、昔、学生の頃親友鎌倉を散策した時のことを思い出す。当時、彼は由比ガ浜に住んでいたのでぼくは殆ど毎週のように週末は鎌倉で過ごしていた。海の見える彼の部屋でぼくらはいつも朝まで語りとおした。今考えれば学生の青臭い論議だったが。その日もぼくらはとうとう一睡もしないまま、朝早く北鎌倉から裏道を抜けて浄智寺に向かった。民家と畑に挟まれた細い道を上ってゆくと、その道は小さな山を越えてやがて寺の脇の切通しにでる。

 もう少しで浄智寺が見えるという下り坂に差し掛かったとき、ぼくらは息を呑んだ。突然ぼくらの目の前に黄金色に光る落ち葉の敷き詰められた小道が現れ、その両側には色とりどりのコスモスの花が風に揺られて踊っていた。陽の光を受けたコスモスの花びらが、ひらひらと舞って一瞬蝶の翅のように見えた。すぐ近くにあるだろう鎌倉街道からの車の音も聞こえてこない。落ち葉が風でうごめく、サササッという音だけがひんやりした切通しに響いていた。

 まるで時が止まったように、ぼくらは暫く何もいえずにそこに佇んでいた。ぼくの脳裏にはそれが今でもはっきりと焼きついている。見上げると真っ青な空に、レースのように朝露をちりばめた蜘蛛の巣が浮かんでいる。黒と黄色の鮮やかな縞模様の蜘蛛が一匹、巣の中央にいて、蜘蛛が身動きするたびに水滴が揺れてキラキラと光っていた。
もう四十年も前の話である。その親友はもう逝ってしまったが、彼と共にその光景を見た記憶は思い出すたびに胸が痛むと同時に、あの美しい光景を見て彼が逝ったということが、ぼくにとって今でもひとつの慰めになっている。初秋はぼくの秋桜忌だ。


   ■透きとほる 日ざしの中の 秋ざくら
  木村享史
   
     
                     

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