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沈黙の秋 Ⅱ [gillman*s park 08]

沈黙の秋 Ⅱ

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 公園は夏の終わりになってもいつも見られるような昆虫にお目にかからなくなった。一昨年の秋、まるでレーチェル・カールソンの「沈黙の春」のようだと書いた。そして今年も秋になった。公園の落羽松も燃えるような褐色になって冬が近いことを告げている。今年の夏の終わりは何かが足りなかったな、と考えていたら、今年も赤とんぼをほとんど目にしなかったことに気がついた。

 夏の午後、光を受けながら水面をキラキラと飛翔するチョウトンボの群れを見なくなって久しいが、今度は赤とんぼの姿も消えてしまったのか。今年は池の中の蒲の穂を伐採するために長期間にわたって水位を極端に下げたのがヤゴの棲息に影響を与えたのだろうか。今年だけの現象であればいいのだが。

 例年ならばもう訪れていたように思う渡り鳥達の姿も今年はまだ見られない。カルガモだけが水位の低くなった池に浮かんでいる。静かすぎる秋の公園。

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何も考えない [gillman*s park 08]

何も考えない

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 公園の池に写り込んだ朝の空は息を呑むほどに美しい。ウォーキングが目的の散歩に来たのも忘れて、池の畔のベンチに腰掛ける。何も考えない。何も考えていないが、何かが心に浮かんでくる。昔、何度か岐阜県美濃加茂の禅寺に籠ったことがある。というより会社の命令で籠らされたといった方が正しいが。そこは昔、川上監督や王選手も籠ったことがある名刹だった。

 数日の間、食事などの時間を除いては坐禅堂で参禅する。その時は数息観といって、息の数を数えながらそこに精神を集中してゆくことを教わった。ゆっくりと呼吸をしながら十まで数えてゆく。ところが途中で何かしら要らぬことが頭に浮かび、そちらに気が取られて数が止まってしまう。そうするとまた一からやり直しである。ぼくの場合何度やってもせいぜい五つくらいまでしか行きつかない。浮かんでくるのは、人生如何に生きるべきか、などという大それたことではなく、仕事のあの件をどうしよう、とか、帰りの電車のこととか。いかに頭の中ががらくたで一杯になっていることか。頭を無にするということは言うほど簡単ではない。

 今頭に浮かんでくること、それは「考える」ということとはちょっと違うような気がした。それは「思う」という感覚に近い。イギリス人は「そう思う」と言う時にI think so.というように「think=考える」を使い、ドイツ人はIch glaube so.というように「glauben=信ずる」という表現をよく使う。ぼくらが「そう思う」と言うとき、それは「そう感じる」と「そう考える」の中間か、どちらかと言うと「感じる」に近いのかもしれない。

 恐らくぼくたち日本人はで「思い」、で「考え」ている。その意味でいえば、日常生活においてぼくはたいてい「考える」のではなく「思って」いる。 「思う」という概念は日本人にすぐれた感性と繊細な感覚を付与している。しかし同時にその「思う」ということは永続性や論理性を欠いていることがありがちだ。それだけでは積み上げ、発展させた思考とはなりにくい点がある。どこかでで思ったものをしっかりとに引き渡してゆかなければならない。ぼくは毎日いろいろと思っているが、結局何も考えていなかったのかもしれない。

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宴の後 [gillman*s park 08]

 宴の後

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  もうすぐ公園は秋の色で彩られることになる。すでにハゼの木は紅色に色づき始めているし、落羽松メタセコイヤもやがて赤褐色の衣をまとう。それからユリの木イチョウの鮮やかな黄色の時期がやって来る。

  あの夏はもうずっと昔のことだったように、公園は秋色になろうとしている。夏の日差しの中でここを先途と咲きほこっていた花たちは、今は花の跡形もない。ただ、木道の入口のアジサイだけが、朝の光の中であの夏の宴が忘れられないように一人佇んでいた。

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雲のある空 [gillman*s park 08]

雲のある空

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 公園の丘の中腹から、舎人ライナーの軌道の向こうに広がる空をじっと見つめていると心が吸い込まれそうになる。空から朝の茜色がすっかり消え去ると、濁りのない青色の空があらわれた。空色の空。ぼくはパステルの空色が好きだ。今日の空は、ルドンのパステル画の空色のような空。さらっとした朝の空気が少し動いて微かな秋風がぼくの傍を通り過ぎてゆく。

 雲はあまり動かない。雲ひとつない青空、というがぼくには雲のない空なんて面白味がないように感じられる。それは、まるで何も描かれていないキャンバスのようだ。今日の空のように雲があって、そして視界のなかに何か構造物が見えたりすると、その一部を頭の中で切り取って自分なりの一枚の絵が出来上がるような気がする。空の大きさもその方が感じとることができる。
こんな青空を見ると無性にどこか遠くへ行きたくなる。やっぱり、もう秋なのだ。

  ■秋風、行きたい方へ行けるところまで (昭和十二年十月十八日 山頭火)

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 *この日山頭火は「…好い季節ですね、ことに今日は一天雲ひとつない日本晴、ついに歩き出して当地へまゐりました、湯田で一浴、一杯、まことにもったいないことであります…」と書いていますが、ぼくはやはり雲ひとつない日本晴れの空よりも、雲がある空の方が好きですね。

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秋の入り口 [gillman*s park 08]

秋の入り口

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  今朝の公園の光は秋の光だった。蒲の穂を刈り取るために池の水位は下がったままだ。池の畔に立っているヌルデの木の所を左に折れると、そこが木道の入り口だ。木道に沿って植わっているアジサイの木は今は見る影もないけれど、向い側のハゼノキはすでに色づき始めている。

 池の上にはちょっと靄がかかっているが、秋の光はあくまでも透き通っている。それでいながらとても優しい光だ。カルガモを除いて鳥たちはまだ来ていない。公園は静かに秋の入り口にさしかかっている。

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 *ばあさんが戻ってきて、ぼくの朝の散歩が再開されて、大学の後期の授業も始まりました。少しづつ以前の生活が戻りつつありますが、もちろん時間がもとにもどることはありません。それは毎年秋がやってくるけれど、同じ秋ではないように繰り返しながら変ってゆく日常の風景かもしれません。

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明烏 [gillman*s park 08]

 明烏

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   ■三千世界の烏を殺し 主(ぬし)と朝寝がしてみたい

 これは都都逸(どどいつ)に登場する明烏。この句は一説によると、幕末の志士である高杉晋作が京で芸者と遊んでいる時に、即興で作ったものといわれているが、最近は都都逸などは一向に聞かれなくなってしまった。都々逸は川柳に似て七・七・七・五を基本とした定型詩でおもに三味線で弾き語りをしながら詠むことが多い。内容は主に男女の機微を詠ったもので、いわば大人の遊びのようなものだった。

 ぼくの子供のころはラジオ、テレビや寄席で都家かつ江柳家三亀松の都都逸をよく聴くことができた。その頃は何の事だかよくわからなかったけれど、今になってニャっとするものもあるし、思い出しても可笑しいものもある。昔の人は粋だったなぁとおもう。三亀松師匠の十八番の都都逸の一つにこんなものがあった。

   ■痣のつくほど抓っておくれ それを惚気(のろけ)のタネにする

三亀松師匠が三味線を弾きながら、あのねっとりとした声でこの都都逸をうたう。神楽坂かなんかのお座敷にあがった風情で、色っぽいなぁと思っていると。すかさず…

   ■痣のつくほど抓ってみたが 色が黒くて分からない

というオチがくる。今の喧しいだけの瞬間お笑い芸に辟易しているぼくとしては、あのゆったりと流れる粋な時間がなんとも恋しくなることがある。

 明烏と言えばもうひとつ思い出すのが落語の「明烏」だ。商家の色男だが堅物の若旦那が町内の札付きの遊び人二人に「お稲荷様にお籠り」に行く、と騙されて浅草の吉原に連れて行かれる。実はこの二人は堅すぎる倅の行く末を案じた若旦那の親父に頼まれたのだが、さすがの若旦那も吉原に上がって花魁を目にしたところで、そこがお稲荷様ではないことに気づく。帰りたいと散々ぐずったがとうとう花魁と一夜を過ごすことになった。結局、モテず終いで一夜を明かした遊び人二人が翌朝、若旦那と花魁が寝ている部屋にいくと若旦那が大モテで花魁が離さない。二人は大いに悔しがるという廓話だ。

 この噺は八代目桂文楽の十八番の噺だった。テンポの良さと文楽の色気が何とも言えない味を出していた。また遊び人の二人が若旦那のモテように、むしゃくしゃして甘納豆を頬張りながら愚痴る段などは実に粋だ。寄席で文楽がこの噺をすると、売店の甘納豆が売れ切れたという伝説も頷ける。ぼくも昔はカセットが擦り切れるくらいこの噺を聞いた覚えがある。

 今はどうかと言えば、ぼくは古今亭志ん朝の「明烏」の方が好きだ。噺の艶の点では既に文楽を凌駕していると思う。最後のくだりのところで遊び人が花魁と寝ていてなかなか蒲団から出ようとしない若旦那をなじって「…若旦那、花魁が起きろって言ってんだから起きたらいいじゃないですか、あんたもずうずうしいねぇ」というのに応えて、「花魁は口じゃ起きろ、起きろって言ってるんですけど、足であたしのことをギュッと押さえてるんですもの、… 苦しくって」と言う。この「…苦しくって」の間合いと口調がぞくっとするほど仇っぽいのだ。文楽の色気に、さらに磨きをかけた艶っぽさが志ん朝の廓話には備わっている。

 今朝も公園のカラスは騒いでいたが、それは昨日の休みにバーベキューの客達が散らかしていったゴミを漁っての騒ぎだった。どこにも艶っぽさなどない明烏である。

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*ちなみに十月一日は古今亭志ん朝の命日でした。CDやDVDで今でもよく志ん朝の落語を聞きますが、聞くたびに志ん朝が親父さんの志ん生くらいの歳になっていたらどんな噺家になっていただろうと想像してしまいます。高座で一瞬つまってしまったことを苦に、ぴたっと噺を辞めてしまった桂文楽。完璧でなければ満足がいかない。それに対し晩年は高座で居眠りをしていたとも言われる古今亭志ん生。客が「おい、起きろ」と声をかけたら、他の客席から「寝かせといてやれっ!」の声。そこにいるだけで芸になっていた志ん生。両極端の二名人。さて、志ん朝はどんな名人になっていたのでしょうか。

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     古今亭志ん朝新選独演会1 「明烏/船徳」


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やはり野におけ [gillman*s park 08]

 やはり野におけ

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 私は木花よりも草花を愛する。春の花より秋の花が好きだ。西洋種はあまり好かない。野草を愛する。

家のまわりや山野渓谷を歩き廻って、見つかりしだい手あたり放題に雑草を摘んで来て、机上の壺に投げ入れて、それをしみじみ観賞するのである。

 このごろの季節では、蓼(たで)、りんどう、コスモス、芒(すすき)、石蕗(つわぶき)、等々何でもよい、何でもよさを持っている。草は壺に投げ入れたままで、そのままで何ともいえないポーズを表現する。なまじ手を入れると、入れれば入れるほど悪くなる。

 抛入花はほんとうの抛げ入れでなければならない。そこに流派の見方や個人の一手が加えられると、それは抛入でなくて抛挿だ。摘んで帰ってその草を壺に抛げ入れる。それだけでも草のいのちは歪められる。私はしばしばやはり「野におけ」の嘆息を洩らすのである。… …

  ■萩ちればコスモス咲いてそして茶の花も (種田山頭火 「愚を守る」白い花より)


 山頭火は行乞の間に野をさまよったり、また野中の庵に住まったりしていたので野の草には親しみがあったのだろう。野草を愛する、西洋種はあまり好まないと言っているが、コスモスは本来は野草ではないし西洋種のようにも思う。コスモスは秋桜とも書くが、日本には明治の中ごろはいってきたらしい。しかし昭和の始めの山頭火の時代にはもう既にどこでも見られる日本の花になっていたのかもしれない。

 コスモス畑や河川敷に延々と咲くコスモスの姿も美しいが、ぼくは山頭火のように野草と見まごうような風情で咲いているコスモスの花が好きだ。花壇の中よりも、民家の裏手にちょっと咲いているコスモスの花がいい。ぼくの散歩道の途中にもそんなところがある。公園の未整備地区はそのすぐ縁まで民家の裏手が迫っている。そこを通るたびにそこに住んでいる人は公園の敷地の景観が借景になっていいなぁ、と思うのだが…

 その民家の裏手に野草に交じって何本かのコスモスが咲いている。民家の人が種をまいたのか、それともどこからか自然に種が飛んできて根付いたのか。咲いているのはごくありふれたピンクの一重の花だ。昨日の朝もその脇を通った。コスモスの花はかすかな風にも揺れて、ちょっと頼りなげな風情がいい。しばらくの間見入ってしまった。このコスモスの花を摘んで家に持って帰ることはできる、しかし、この風と光は家に持って帰ることはできない。やはり「野におけ」なのかもしれない。

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森のレース [gillman*s park 08]

森のレース

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 朝、公園を散歩していて森のレースのカーテンといういささか乙女チックなフレーズが浮かんだ。自分で言っておいてあまりにも陳腐なので少し恥ずかしくなった。今朝の公園はうっすらとした霧に包まれていつもの感じとは異なる。見慣れた光景でもちょっと舞台装置を変えるとまるで違う場所のように装う。

 公園の茂みには、そこここに蜘蛛の巣が張られている。蜘蛛の巣は夜露と今朝の朝霧をたっぷりと吸ってビーズのような水滴を並べている。水滴の重みでたわんだ糸は、それでもしっかりと一つ一つの水玉を抱えている。この蜘蛛の巣のレースはよく見るとなんとも不思議だ。

 こんな細い糸に水滴をたらしたら、普通はそれが糸に沿ってツ、ツーと滑り落ちて行って糸の上には留まらないと思う。それが蜘蛛の糸では垂直の糸も一つ一つの水滴の粒を捉えている。なぜ水滴は落ちてしまわないのだろうか。

  ■蜘蛛の囲いに露しとゞ月草一つ咲いて (山頭火)
  ■露の世は 露の世ながら さりながら (一茶)

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 来週にはばあさんがやっと退院してきます。これからは車いすの生活になるので不安がありますが、急がずに少しづつ慣れてくれればと思っています。


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静謐な時間 [gillman*s park 08]

 静謐な時間

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 ずっと昔、スケジュールに追われて走り回っていた頃、何もないことが逆にとても恐ろしかった。常に猛スピードで泳ぎ続けていないと酸欠で死んでしまうマグロのように忙しなく動き回っていた。時折、エアポケットのように突然訪れる空白の時間や静寂の時は、休息ではなく恐怖以外の何物でもなかったような気がする。何者かにいつもせっつかれるように前のめりに走り続けた。

 だが、時が来て走るのを止めたときから静謐は恐怖ではなくなった。朝の光を受けて野の原にひとり立つ時、その静謐な時間はぼくの至福の時間だ。その時の中で、あらためて何を考えるでもないが、感ずることは無限にある。

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置き忘れた夏 [gillman*s park 08]

 置き忘れた夏

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 なんとか早朝散歩は続けている。夏休みで、いろいろあって疲れきって、またそれを口実にしてダレ切ってしまった体と心を立て直そうとする努力だけはかろうじて続いている。大学の授業も始って、いつまでもダレているわけにはいかない。携帯の目覚ましを六時にセットして… それでも三回に一回は無意識に止めている。やっと起きてふらついた足で外に出ると、外には赤味がかった光が満ちている。

 目が覚めるたびに、寝てればいいのになんでこんな馬鹿なことを、と思うのだが歩くに従って頭が覚醒してくると、ああやっぱり来てよかったと思うようになる。そこらへんでなじみの猫に会うとやっと「やぁ」という軽口が出てくる。でも足はまだ重い。カメラは気が向いた時のためにできるだけ持ってくるようにしているが、大概は重いだけで家においてくればよかったという思いに駆られる。だからほとんどはベルトに下げられるコンパクト・カメラを持参しているのだが、ここのところは何故かちょっと大き目のカメラを持って出ることが多い。ごくたまにだが持ってきてよかったと思う時がないでもない。

 もちろん、本来の目的は歩行だ。それも医者には早足で歩けと言われている。本来ならば写真なんて撮っている暇はないはずだ。でも気がつくと道端や空を見ながらダラダラと歩いている。だから体重も一向に減らない。でも、まぁいいかと思う。お陰で今日みたいにひょんな発見をすることもある。散歩の帰り、公園を抜けて通りに出たところで置き忘れた夏に出会った。

 その時はもう、朝の光はオレンジ色のフィルターを脱いでいた。光は白い昼間の輝きをとり戻していた。通りに面した農家のフェンスの金網に幾輪かの遅咲きの朝顔がしがみついていた。花の根元が薄紫になっていてその先に清楚な白い傘がひろがっている。真っ白な花びらに昼の白い光があたって、その花ぴらはスクリーンのように影を映している。そのスクリーンが微風に揺れてキラキラと眩しいくらいだ。白い花びらを通してみた光はあの夏の日の力を持っていた。朝顔の向こうにはまだ置き忘れた夏があるようだった。


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