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カンボジア 雑感 [gillman*s Lands]

カンボジア  雑感

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 アンコールワットの遺跡は前々から来たいと思っていたのだけれど、その割にはこの遺跡についての知識はからきしだった。大体アンコールワットとアンコールトムの遺跡の区別というか違いも判らず、それぞれ離れたところにあるのかと思っていたけど、アンコールトムがアンコールワットのすぐ背後にある寺院群だということも、ここに来て初めて知った次第。

 敷地の広さからいえば一辺が3キロメートルとアンコールトムの方が格段に広大なのだけれど、残された遺跡の状態からいえばアンコールワットの方が寺院などの建物が多く残されている。アンコールワットといえば必ずと言ってよいほど出てくるのが急な階段を持つ第三回廊と呼ばれる塔。

 ほとんど垂直に近いような階段を登るとアンコールワット全体を見晴らせるらしいのだけれど、以前は危険すぎて簡単には登れなかったのだが近年手すり付の木の階段が設けられた。と言っても建物の石の階段に沿って設けられたので上昇する角度は同じで、なんとも急な階段になっている。

 ぼくは極度の高所恐怖症なので最初から登る気はなかったのだけれど、その日は第三回廊に登る順番を待つ人の列が延々と続いていた。二時間待ちらしいので、ぼくにとっては登らない好い口実ができたようなものだ。ここを手すりなしで登った時の情景を思い浮かべただけでぞっとする。

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 東南アジアの旅は本当に久しぶりなので、このちょっとダラっとした気だるさみたいなものを忘れていた。それでもまだベトナムは急成長の最中(さなか)ということで街には気だるさの中にもむせ返るような活気はあったのだけれど、カンボジアの方はまだまだのんびりとしている。

 立ち寄ったシェムリアップ郊外のロータス・ファーム(ハス畑)には畑の中に小さなコテッジがあって、ここで休日には地元の人や観光客が昼寝をしたりランチをしたりして楽しむらしいのだ。周りにはアヒルがいたり、近所の子供が遊んでしたりのんびりとしている。管理人がいるらしい掘立小屋のわきには水たまりがあって、そこにはゴミやらペットボトルやらがたくさん浮かんでいる。その傍らではハンモックに載せられた赤ん坊がスヤスヤと寝ている。一瞬、昔の日本の姿を想い出した。


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 カンボジアでガイドをしてくれたのは、現地の日本語ガイドのポーピシットさん。日本語の発音も自然でよかったけれど、敬語もしっかりしているのには驚いた。どこで日本語を勉強したのか聞いたら、ここシェムリアップにある山本日本語学校で二年間勉強したという。その学校は1996年に日本語でカンボジア復興を目指すという趣旨で山本宗夫氏が創設した日本語学校でいままで多くの卒業生を送り出している。

 学校ばかりでなく、日本語を習得した学生の働く場としてガイドの派遣や観光バス等の手配、さらに土産物販売なども行っているらしい。ポービシットさんは実に気配りも細やかで、遺跡などの説明も丁寧でわかりやすい。ぼくが日本語の教師をしていたと話すと休憩の時など日本語文法の話で二人で盛り上がった。

 各地で日本語の現地ガイド三人に今回はお世話になった。ハノイのトーイさんはハノイの大学の日本語科で勉強をして今ではハノイにおいては日本人観光客のガイド、また一方ベトナム人観光客の日本旅行に添乗して日本各地を案内するなどインバウンドとアウトバウンドの両天秤で活躍している。

 フエ、ホイアンなどをガイドしてもらったジュンさんは、日本の商社マンからボランティアで日本語を教わったという。日本語はまだ片言に近いが持ち前の明るさで乗り切っている。もう少しちゃんと話せるようになりたいが、なかなか時間がとれないという。三人が異口同音に言っていたのは、最近は中国人の団体ばかりで、それに比して日本語のガイドの仕事があまり増えていないということだった。確かにどこへ行っても聞こえるのは中国語ばかりで…。これも、時代の流れか。


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 *旅行から戻って、疲れが溜まっていたのか風邪をこじらせたらしく結局一週間近く寝込んでしまいました。最近このパターンが多いので歳なのかなぁ。お蔭でなかなかダイエットでも減らなかった体重が一挙に4キロ近く減りました。まぁ、すぐ戻りそうですが。



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ヴェトナムとカンボジアのバイカーたち [gillman*s Lands]

ヴェトナムとカンボジアのバイカーたち

 ダナンからフエに向かって国道一号線を北上した。バスの窓からは漁船が数多く浮かぶダナン湾の朝が見える。ふと昔ニュースで知ったダナンビーチに押し寄せたアメリカ軍の上陸用舟艇のことが頭をよぎった。ぼくはその映像は見たかどうか記憶が定かではないのだけれど、きっとその光景はこの漁船の船影の数の比ではなかったのだろうと…。

 さっきから一台のバイクがぼくの乗ったバスと並走している。髪の長い女性が小さな女の子を後ろに載せて、バスに抜かれまいとして必死に飛ばしているようにも見えた。ダナンの海岸線を暫くの間並走して、やがてそのバイクは力尽きたようにぼくの視界から消えていった。その時ぼくはダナンという言葉のもつベトナム戦争の呪縛を解かれて、今の現実のヴェトナムに引き戻されたような気がした。


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  朝、宿泊地であった海沿いの街ダナンから古都フエに向かう。フエまでは約100キロ。バスはQL1A線、つまり国道一号線を北上する。あの沢木耕太郎の「一号線を北上せよ」に登場するホーチミンからハノイにまで至るいわゆるホーチミン・ロードの一部だ。

 沢木耕太郎の旅行記では、南部のニャチャンからバスで国道一号線をホイアン、フエに北上する様子が描かれているが、ぼくはカンボジアのシェムリアップから飛行機でダナンに入って、そこから小さなバスでホイアン、フエに向かった。ベトナムの道路はまだデコボコが多いのだけれど、さすがにこの国道一号線と高速はスムーズだ。

 この広い国道でもいたるところにバイクが走っている。ぼくの乗ったバスは路の行く手にバイクがいると「どけ、どけ!」というようにクラクションを鳴らし続ける。バスの窓から見ているとバイクは抜かれる時一瞬バスと並走して、そして恨めしそうにぼくの視界から消えてゆく。

 ヴェトナムの道路を見ていると、この国はバイクで成り立っているとさえ思えてくる。そのバイクの殆どは日本製だ。自家用車がまだ高根の花であるこの国では、バイクがファミリーの大事な脚なのだ。小さい子供を含めて一家全員が一台のバイクに乗ることは普通のことだとガイドが言っていた。

 運転手の後ろに乗るとしても、日本のように後ろから運転手の腰にしっかりと腕を回してしがみつくということは無いみたいだ。後ろの席に座った人が両手でスマホのゲームをしている光景を幾度か見かけた。国道を外れれば、かなりのガタガタ路なのに振り落とされないのかと見ているこちらが心配になってしまう。


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 バイクに乗っている人のファッションを見ていると飽きない。一番標準的な恰好は、実にカラフルなマスクとヘルメットという形だ。フード付のジャケットで頭からすっぽり覆いその上からヘルメットを被り、さらにマスクをするというスタイルも多かった。日本ではこのままの恰好ではコンビニには入れてもらえないだろうなぁ。

 南のホーチーミン市ではそうでもないけれど、中部のフエや北のハノイでは冬はバイクでは結構寒いからそういう恰好も必要なのかもしれない。生活に密着したたくましい姿のバイカーが多かったけれども、さすがに街なかに行くとバイクとバイクスーツをコーディネートした人や真っ赤なスクーターに身軽な恰好のスタイリッシュなバイカーも見られた。

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 ハノイを案内してくれた現地ガイドのトーイさんは、バイクで運べないものは無いと言って色々な写真を見せてくれたのだけど、その中にはバイクで大型冷蔵庫を運んでいる写真や、乗用車一台分のシャーシーを運んでいるものまであった。

 バイクで物を運んでいるシーンは特にカンボジアでも多く見られた。豚を二頭、それも生きている豚を運んでいた。豚はプロレスのバックブリーカーみたいに仰向けにさせられて、荷台に載せられている。よく見ると豚の背中の下に簀子(すのこ)のようなものが敷いてあって痛くないようになっている。

 どうやら市場で子豚を買ってきて大きく育てて売るらしいのだが、カンボジアの人の大胆さと細やかさの両面が垣間見られて面白かった。

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 カンボジアのガタガタ路を走っている時、バスがゆっくりと一台のバイクを追い越した。実直そうな青年が彼女らしい女性を後ろに乗せて走っている。女の人は後ろの席にまたがって乗るのではなくて、スカートをはいているためか、横座りになって乗っている。彼の腰に腕を回してつかまるでもなく、こんなガタガタ路でよく怖くないなぁ、と。

 バスがゆっくりと彼らを追い抜いてゆくときバイクの女性と一瞬目があったような気がした。彼女はちょっとはにかむような表情だったけどバイクの後ろで揺られながら、なんか幸せそうにも見えた。それはぼくの勝手な思い込みかもしれないけど、ぼくなんかがとっくの昔に忘れてしまった青春の一コマみたいな瞬間を垣間見たような気がして、今でも強く印象に残っている。


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ハノイから [gillman*s Lands]

ハノイから


 ■…ハノイに旅立つまえ、私が想像世界のなかで勝手に関連づけていたヴェトナム像は、現地にのぞんだとき、なんら現実性をもっていないことが立証されたのである、過去数年間、ヴェトナムは私の意識の内側で、“弱者”の苦難と英雄行為を示す、ひとつの典型的な像として腰を据えていたのだ。しかし、私の心にとりついていたのは、じつは“強者”アメリカ像のほうであった―アメリカ的権力、アメリカ的残忍性、アメリカ的独善の形姿であった。

 ヴェトナムに存在するものと、究極的な出会いを行うためには、私はアメリカを忘れ去らなくてはならなかった。アメリカ的感性のうまれたもとになっている総体的な西欧的感性の限界を押しやぶるべく、もっと意欲的に努力しなくてはならなかった。だのに、私はヴェトナムの現実に対して、つかのまの、しろうとじみた首のつっこみ以上のことは、なにひとつ努めたことがことがないのを、つねに自分でも知っていた。…

  (スーザン・ソンタグ 著、邦高忠二訳 「ハノイで考えたこと」/晶文社1969年)



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  ハノイは夜がきれいだ。でも決して美しいというわけではない。夜になるとヤシの木の街路樹にらせん状に巻きつけられたLEDのライトや、広いアベニューにゲートのように設けられた色とりどりの何だかけばけばしいまでのイルミネーションなどが街の埃(ホコリ)で煤けた部分を隠してくれるからかもしれない。でも、そのちょっと虚勢を張ったようなこの街の夜の独特なきれいさは嫌いではない。東京に帰ったら真っ先に思い出すのは、この夜の光景だと思う。

 ヴェトナムはぼくにとってもう長いこと来たくもあり、同時に来たくもない国だった。ハノイという街の名前をきくとぼくが今思い起こすのはスーザン・ソンタグの「ハノイで考えたこと」(Trip to Hanoi)そして沢木耕太郎の「一号線を北上せよ」だ。ソンタグが北ベトナムの招待でハノイを訪れたのが1960年代末でそれが彼女のその後の思考にも大きな影響を与えているような気もする。


 ソンタグが1960、70年代のヴェトナムを手繰り寄せる記憶だとしたら、沢木耕太郎は1970、80年代のそれかもしれない。いずれにしてもぼくがそれらの本を目にしたのはもっと後のことで、それまでのぼくにとってのヴェトナムは当時毎日のように報道されるハノイ・ハイフォンの「北爆」やテト攻勢そしてフエ・ダナンの攻防戦などであった。平凡な学生であったぼくは従順な日本のマスコミと同様に多分にアメリカ的視点で、かの地を見ていたはずだった。

 ぼくの中でその井の中の蛙的な安寧が突き崩されたのは、隠れるようにして読んだヴェトナムにおけるアメリカの戦争犯罪的行為を糾弾した一冊のマイナーな本だったのだけれど、そこら辺は別の機会に述べるとして、それがぼくが日本を出る一つの大きなきっかけになったことだけは確かなことだった。ぼくが当時のソ連のナホトカからモロッコのカサブランカまで旅した少し後に沢木耕太郎がインドのデリーからロンドンまで旅行したのを知ったのはずっと後になってからのことだった。沢木耕太郎はぼくと同い年だから、当時彼がヴェトナムに対して描いていた姿と得ていた情報はぼくとそんなに変わらないものだったかもしれない。

  話はそれたけれど、それ以来ヴェトナムはぼくの胸に刺さった棘のような存在だった。しかし、時代は大きく変わって、今やぼくのいっている日本語学校でも大勢のヴェトナムからの留学生がいる。彼らからも話を聞く機会が多くなったし、逆に彼らの話を聞くたびに自分の中のヴェトナムとの乖離が大きくなってゆこくとに戸惑ってもいた。

 そんな時にカミさんがヴェトナムとカンボジアに行こうと言ってくれたので、その尻馬に乗ったようなものだ。ルートはハノイに入ってハイフォンを抜け、ハロンを回り、一旦カンボジアシェムリアップに入りそれからヴェトナム中部のダナンホイアンフエを回る。もちろん昔のようにベンチで一夜を明かすようなこともないお気楽な観光旅行だが、自分の歳と体力を考えればそれが順当でもあるし、限界でもあるのかもしれない。

 実際に旅してみるとソンタグのようにきっぱりと固定観念を捨て去るわけにはいかないけれど、ここを旅すると、もう久しく忘れかけている「生活」という言葉が身近に迫ってくる。それは稼ぐとか、働くとかいう意味だけではなく、生きることそのものに直結した言葉としての「生活」だ。それはある意味人間の強さの表現でもあるような気がした。今、いろいろな光景がぼくの脳裏に残っている。


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 ■…ヴェトナムには、ホーチミンからハノイまで、基幹道路というべき国道一号線が通っている。かって、ヴェトナム戦争の激しい時期には、新聞にこの道路のことが出ていない日はなかった。アメリカ軍の輸送用トラックが一号線でヴェトナム解放戦線に襲撃された。あるいは、アメリカは一号線を空爆することによって「北」からの補給路を断つ作戦にでた、などという具合に。
ホーチミンからハノイまでの距離は約千八百キロ。日本列島に置き換えると、本州の端から端、青森から門司くらいまでということになる。…


  (沢木耕太郎著「一号線を北上せよ」/講談社)

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[Photos]
・ホイアンのランタン売り屋
・結婚式を控えた?カップル(ホイアン)
・ハノイのタンロン城で記念撮影をするアオザイ姿の学生たち
・ホイアンの夜道
・街の床屋さん(ホイアン)
・フエの王宮の伝統舞踊ニューニャック




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突然の別れ [猫と暮らせば]

突然の別れ


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  昨年の暮れくらいから、嗅覚を失ったことや母の事で気落ちした状態が続いてそれが身体にも響いているのか今ひとつ体調がすぐれない。そんな時に以前から予定していた旅行に思い切って出かけたのは良かった。

 暖かい国で東京の長引く寒さを避けられたのもありがたかったけど、何より一時花粉から逃れられたのも良かった。今度の旅行では色々と考えることもあったし、久しぶりのアジアに触れてエネルギーをもらえた様な気にもなった。

 旅の日程もあっという間に終わって、東京に帰る飛行機をハノイの空港で待っている間に留守番の者からメールをもらった。普通は余程の事がない限り旅行先にはメールはよこさないのだけれど…。メールには羽田に着いたら直ぐ連絡を下さいとあった。そういうメールがなくても、羽田に着けばいつも直ぐに連絡を入れているんだけど…、と訝った。その時は乗り継ぎ便の接続が余り良くなく空港で数時間の待ち合わせをしなければならなかった。

 高齢の年寄りを抱えている事もあって、飛行機を待っている間にも何があったんだろうかとどんどん気になって来て、あと数時間で羽田に戻るのだけど結局メールで問い合わせてしまった。帰ってきたメールはクロが今朝死んだ、というものだった。詳細は帰ってから聞くと答えたけれど、家に着くまで気持ちは虚ろだった。

 その日の深夜になってやっと家に着くと居間のソファーの上にタオルにくるまれてクロが横たわっていた。まるで眠っているようだった。でも身体に触るとひんやりと冷たいので生命の火はもう灯ってはいないことがわかった。何度もクロの身体を撫ぜてあげながら「あと、一日だったのにねぇ」と呟いた。

 クロは突然死だった。その朝も元気に窓辺で日向ぼっこしていたのに、暫くして階下の居間に下りて行ってそこで倒れたらしい。以前飼っていたタマの場合と同じだった。18歳のタマはカミさんの膝の上で寝ている時いきなり全身を硬直させてクーッと呻いたきり逝ってしまった。ほんの数十秒のことだった。

 苦しんだ様子もなく、あっという間の出来事だった。眠るようなクロの表情を見ると、きっとクロもそんな風だったのかもしれないと思った。傍に居て看取ることはできなかったけれど、苦しまなかったようだったのがせめてもの救いだった。

 飛行機が羽田に着くまで、ずっと色々なことを考えていた。もしかしたら夜が寒かったのかとか、モモとケンカしたのかとか、苦しんだのか、とか…。でもクロの最期の様子を聞いて少し心の重荷がおりた。これからはクロと過ごした時間をゆっくりと噛みしめたいと思っている。

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 *クロは12歳でした。捨てられた子猫で雨のなか家の前で倒れていたのを母が見つけて飼いだしました。その時の模様を書きだしたのがこのブログを始める一つの契機ともなりました。そういう意味ではこのブログもクロの贈り物です。

**昨日、ペットの葬儀社さんにクロの火葬と埋葬をお願いしました。またこちらも歳をとってきているので、これを機会に我が家に安置してあったタマチャー先代レオのお骨をクロと一緒に埋葬のお願いをしました。


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無香生活宣言 [新隠居主義]

無香生活宣言

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 結局、嗅覚は戻ってこなかった。今もゼロである。昨日は手術後三か月で術後の最終診察日だったのだが、三か月たっても嗅覚が戻っていないということで、医者にこれ以上の改善は期待薄だと言われた。どうやら嗅覚の神経自体がダメになっているらしい。

 嗅覚は大事な五感の一つなのだけれど、嗅覚が全くのゼロになっても障害とは見なされないということだった。それは一つには嗅覚能力の厳密な測定法が無いのも一つかもしれないが、ソムリエや調理師や調香師でもない限り社会生活にさして支障はないだろうという位の世間の認識もあるのかも知れない。

 だが、ちょっと考えれば、以前ぼくも部屋の壁のペンキを塗っていて危なく倒れそうになったけど、シンナーや強い揮発性の匂いも分からないので昏倒リスクが高まることくらいは想像できるし、火事の初期段階のきな臭い匂いや、ガス漏れだって感知できない。もちろんこれらの生活上のリスク対応能力が低下することは由々しきことなんだけれども、実は匂いが無くなることによる本当のダメージは長い時間の中でボディブローのように効いてくるのだ。

 前にも書いたことがあるけど、匂いが全く無い世界というのは一言でいえばモノクロ映画を観ているようで現実感に乏しい。変な例えだけれど、テレビでやっているサスペンス・ドラマか何かで殺人事件のシーンがあって死後何日もたった被害者が見つかる。本当ならばその付近は腐乱死体の腐敗臭が立ち込めていて、現実には居たたまれない状況のはずだが、テレビを見ているぼくらは他人事のようにストーリーの展開の方に関心を向けることができる。それは匂いを抜くことによって現実感が薄まってゆく一つの例だ。匂いのない日常というのは要はそういうことなのだ。

 匂いが無いと毎日がどことなくうわついた、現実感を欠く浮遊感の中で過ぎてゆく。そのうち本当に奪われたのは匂いではなく、人生を噛みしめる貴重な瞬間、時間であったことに気が付く。全ての時間の質が変わってしまったことに気が付く。無くしたのは、ゆっくりとコーヒーやお茶を飲みながら本を読む時間であり、妻とバカを言いながらテレビを見つつワインを飲む時間であり、干した布団の陽の香りを胸いっぱい吸いこみそれに包まれて眠るという…。失ったのは上質な時間。

 昨日、もしかして、と言うはかない望みも絶たれて、言わば医者に「無香生活宣言」をされたようなものだ。でも、それで少しは踏ん切りがついたような気がする。まぁ泣き言は今日のこれ位にして、無くしたものを嘆き続けるより、残ったものに感謝してそれを磨き上げて、香り無き日常の楽しみ方を自分なりに探究してゆこうと思っている。それに良いことだって一つはある。匂いが分からなくなって猫のトイレを掃除するのが苦にならなくなったことだ。

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*最近テレビのコマーシャルを観ていると、
実に香りに関する事項が多いことに気が付きます。
印象としてはざっくり言って3割くらいは
香りに関するメッセージが入っているような…。
食べ物や化粧品の宣伝はもちろん
洗剤、芳香剤などの良い香りを売りにしているもの
また逆に匂いを取り去る消臭剤など等。
匂いが分からなくなると、実は世の中は
様々な匂いに囲まれていることがかえってよくわかります。


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小さくなる背中 [新隠居主義]

小さくなる背中

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  …老いるってことは病(やまい)るってことと同じ。
 だけど、それは闘うんではなくて、猫とつきあうように、病とか老いに静かに寄り添ってやるもんだと思うんだよね。一緒に連れ添っていくというか。

 よく、頑張んなきゃとか、しっかり生きなきゃとかいうけど、頑張んなくてもいい、寄り添っていけば。力まずに、それも自分だという風に生きていくと、すっと楽になる。そんなこと思ったの、つい三、四日前なんだけどね。(笑)…

  (緒形拳「私と猫」)



 母はこの2月で97歳になった。それまでは比較的しっかりしていたんだけれども、昨年の夏の終わりころから急激に認知症の症状が顕著になり年末の介護認定の更新では要介護4ということになった。

 母が認知症と診断されたのはもう十年くらい前になるが、その時に当時通っていた大学院の精神医療の授業で教わっていた医師にそのことを相談したら、認知症を治す薬も予防する薬もまだないが、唯一症状の悪化を緩やかにする薬があるので服用した方が良いというアドバイスをもらった。

 かかりつけの精神科医に処方してもらって、幸いその薬が母にあったのか副作用はみられなかったので(叔母は一度その薬を試したがむくみの副作用がひどく止めたのだということを聞いていたので心配だったが…)以来ずっと続けていた。そのお蔭かその時々で状態に波はあるものの何とかやってこられた。もちろんその間にも、この前まではアレはできたのに最近は出来なくなったなどというものが徐々に増えていった。最初に俳句ができなくなって、それから新聞が読めなくなって、とうとう字を書いたりメモもとれなくなった。

 今は調子がいい時はぼくやカミさんのことは分かるけれど、そうでない時は話しかけても中々反応しなくなった。車椅子の生活なので足のむくみが気になってマッサージしてあげるのだけれどいつもの「ああ~、いい気持ち」という声も聞かれなくなったし、頸のマッサージをするために後ろに回るとほんとに背中が小さくなった。

 ここのところ二、三日日差しの暖かい日が続いたので近くのお寺に散歩につれて行ったのだけれど、周りに関心がなく早く帰りたがるようになった。以前は口癖のようだった、どこが痛いとかもう生きてるのが嫌になったとかは言わなくなったけれど、そうなると、そんな泣き言、繰り言でもいいから言ってもらいたいという気にもなってくる。車いすを押しながら、これから益々母の背中は小さくなっていくんだろうなぁと想った。気が付けば自分ももう身体の無理の利かない老いの中にいる。今は寄り添うことくらいしかやってやれない。

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猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その25~ [猫と暮らせば]

猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その25~

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 ■ 長いこと一緒に暮らしていると、犬は飼い主の言うことが分かるようになってくる。猫は長いこと一緒に暮らしていると猫の言うことを飼い主が分かるようになってくる。 (gillman)



  今回は古今の著名人が残したちゃんとしたアフォリズムじゃなくて恐縮なのだけれど、これは今まで犬や猫と暮らしてきたぼくの実感なのだ。犬と猫を比べるアフォリズムは多いけど、その大半はどちらかというと猫に分があるようだ。それは文学者などに猫好きが多いということもあるかもしれないけれど、猫の方が野生が残っているので人間にとっては、特に詮索好きの人間にとっては謎解きのような楽しみがあり魅力的に映るのかもしれない。

 いずれにしても、猫も犬も人類が同じ空間で同じ時間を過ごしてきた親しい存在であることに変わりはない。それだけに、その違いに目が行くのかもしれないけど…。その一番大きな違いはコミュニケーションのスタイルの違いがあるかもしれない。犬は常に飼い主とコミュニケーションを取りたいと思っているし、一方猫は自分の必要な時にのみ自分の欲求をわかってもらいたいという傾向がありそうだ。

 どうも、その傾向が飼い主の性向にも表れる、というよりそういう性向が犬か猫を選ばせるのかもしれないが…。いずれにしてもテイストが微妙に異なる。誤解を恐れずに端的にいうなら「犬は教える喜び、猫は学ぶ喜び」みたいな感じがありはしないか。最近は猫を飼っているから、どうも猫の言うことをきいてその通りにしていることに喜びを感じている自分がいたりして何とも不可解千万である。

 最近はモモがマッサージを覚えて、寝る前にベッドの上でぼくのお腹をひとしきりマッサージしないと気が済まない。マッサージといったって、もちろんあの猫特有のモミモミ運動なのだけれど、体重をかけて揉まれるとそれはそれでマッサージっぽくなるのだ。で、暫くたって気が済むと解放してくれるのだけれど、途中で起き上がったりするととにかく怒る。その様子を傍らでレオは冷ややかな目で見ている。両方猫なのに。わからんっ。あ、そういえば、こういうアフォリズムもあったなぁ。


 ■猫とは、解答のないパズルである。(ハーゼル・ニコルソン)
 A cat is a puzzle for which there is no solution. (Hazel Nicholson)



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ヒッチコック再会 [Retro-Kino]

ヒッチコック再会

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 ■ サスペンスとはなにか

 …わたしにとっては、ミステリーがサスペンスであることはめったにない。例えば、謎解きにはサスペンスなどまったくない。一種の知的なパズル・ゲームに過ぎない。謎解きはある種の好奇心を強く誘発するが、そこにはエモーションが欠けている。しかるに、エモーションこそサスペンスの基本的な要素だ。…
 (「映画術 ヒッチコック/トリュフォー」より)



 この間新百合ヶ丘の劇場で映画「ヒッチコック/トリュフォー」を観たら、またヒッチコックの映画を観なおしたくなった。川崎市アートセンター内にあるアルテリオ映像館は家からは遠いのだけれど、そこは有楽町のヒューマントラストシネマと並んで大手シネコンでは扱わないような映画が上映されることが多いので、新宿や銀座にでた時は時間が合えば行くようにしている。

 アルテリオ映像館は座席数も100席ちょっとと小規模でスクリーンもそれなりに小さいのだけれど、それはあまり気にはならない。映画「ヒッチコック/トリュフォー」は1962年にトリュフォーが敬愛するヒッチコックに一週間にわたってインタビューしたものを1966年にHitchcock/Truffaut (アメリカ)、Le Cinéma selon Alfred Hitchcock(フランス)というタイトルでフランス、アメリカで同時出版されたのだが、その時の音源をもとに最近ドキュメンタリー映画として制作されたものだ。

 本の方は1981年には日本でも「映画術 ヒッチコック/トリュフォー」というタイトルで出版されたのだが、ぼくは'90年頃に改訂版が出たのを機に買って、もう25年以上経っているが今でも折に触れ読んでいる。(最近また復刻版で出版されたらしい) それはぼくの映画の教科書のようなもので、映画におけるいわば文法とも言える要素がヒッチコックの作品の豊富なカット割写真で実例をあげて示されている。

 ヒッチコックは生涯に57本の映画を制作した。そのうち1本は現存していないので観られないけど、他は一応すべて観たし今も手元にもある。昔苦労して彼の作品のビデオテープを集めたのだけれど、DVDの時代になって画質も向上したのでVTRの方は処分してDVDで再度集めなおしたが、彼のロンドン時代の古い作品などはネットでも観られるようになった。

 ヒッチコックのドイツ表現主義からスタートしたドイツ時代(助監督作品がある)、ロンドン時代そしてアメリカ時代と順を追って作品を観てゆくと、正に映画の歴史を垣間見ることができる。もちろん彼の映画はサスペンスという言わば限られた範囲での映画の分野であることは間違いないのだけれど、楽しさやハラハラ、ドキドキを創り出しているその根底をなしている映画文法のようなものは映画界全般への遺産となっていると思う。

 そこら辺をこのドキュメンタリー映画の中ではマーチン・スコセッシピーター・ボグダノヴィッチを始め多くの監督が証言している。これを機会にやはり二十年以上前に買った植草甚一の「ヒッチコック万歳」や、つい最近刊行された「映画術…」の翻訳も手がけた山田宏一の「ヒッチコック映画読本」も読んでみよう。CGを駆使した最近のSFスペクタクルやアクション映画にちょっと食傷気味の感がある向きは、そんなヒッチの作品を観なおしてみると意外と新鮮に感じるかもしれない。



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 *植草甚一の「ヒッチコック万歳」の初版が出たのは1976年9月だから、その時点ではまだ日本語版の「映画術…」は出版されていなかったと思うのだけれど、彼の本にはヒッチコックとトリュフォーなどのヌーベルバーグの監督たちとの関係がちゃんと書かれている。

 植草のことだから当然その時点で英語版の「映画術…」は読んでいたのだと思うけれど、すごいなぁと…。彼の書くヒッチコック映画の内容だって、今のようにDVDやPCの動画でシーンを確認することなんて簡単にはできないのに、重要なシーンはちゃんと脳裏に焼き付いている。う~ん…。これも今でもヒッチコック映画の素晴らしいもう一つの教科書だと思います。

 **あ、それからヒッチコックの評価の位置を今のようなものにしたのは、やはりトリュフォーの功績だということを忘れてはいけないなぁ。それにしても彼の死が早すぎたのが何とも残念です。


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伊豆下田へ [新隠居主義]

伊豆下田へ

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 去年の年末からぼくが嗅覚の手術をしたり、その後も嗅覚が戻らなかったり、母の状態がよくなかったりでストレスと疲れがたまっていたのだけれど、そんな状態をみてか有難いことに友人が伊豆下田への一泊旅行に誘ってくれた。

 ゆったりと行こうということで車ではなくて東京駅から踊り子号に乗ってゆくことにした。そういえば最近国内で列車で旅したことは余りないなぁ。会社にいる時は毎月のように各地への出張があったけれど、辞めてからは旅行と言えば飛行機か車が多かった。東京駅から伊豆急下田駅まで旅というには短く、乗ってしまえばほんの数時間だけれども、それはそれでとても楽しかった。

 伊豆半島に来るのは本当に久しぶりだった。高校や大学の頃は一人でテントを担いで西伊豆の松崎あたりをうろうろしていたこともあるけど、大人になってからはこっちの方面にはとんとご無沙汰になってしまった。伊豆急下田の駅前は昔と殆ど変らない感じだったけど、町並みはだいぶ変わっていた。

 駅から海の方へ少し行くと、平滑川沿いになまこ壁の古民家や古い街並みが続いていてペリーロードという名前までついていた。それらの家はカフェやレストランになっていてシーズンには観光客でにぎわうようだ。漁港の前には道の駅もできている。昔は干物屋と唐人お吉くらいのイメージしかなかったのだけれど…。


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 ホテルは海に面した素晴らしい立地に建っていた。部屋は東側にあり、明け方には海の日の出が眺められる。生憎寝坊して日の出の瞬間は見逃してしまったけれど、それでも充分神々しい海の曙を拝むことができた。金色の雲から光芒が差し込み、その光は海の上に浮かぶ利島(としま)の上に降り注いでいた。黄金の希望の朝。少し気持ちが軽くなったような気がした…。
 

 ■ 明るさは 海よりのもの 野水仙 (稲畑汀子)


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  *翌日は「水仙まつり」の行われている爪木崎に行きました。海岸には一面の水仙の花が咲いており、そこには同時に真っ赤なアロエの花も咲いていました。白い水仙の花との対比が美しかったです。日差しは春の温かさを予感させるものでしたが、河津の桜はまだのようでした。


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もうすぐ… [gillman*s park 17]

もうすぐ…

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 昔は冬も嫌いじゃなかった。お気に入りのコートのポケットに両手を突っ込んで寒風吹きすさぶ街を歩くのはそれなりに楽しかったし、小休止に入った喫茶店のコーヒーのほっとする温かさとの落差も生きている実感に繋がっていた。

 ところが歳をとるにつれて、もちろんその間に頸の手術をしたことが一因なのだけれど、情けないことに冬はただただ寒いことによる頸周りの筋肉の硬化と痛みが気になって冬を楽しむ余裕がなくなってきた。北国の人から見れば東京の冬など何ということはないのだろうが…。

 今となってはつらい季節となってしまった冬にも、今でも変わらない好きなものがある。それはどの地域にも当てはまるものではないかもしれないけれど、ぼくにとっては冬におけるかけがえのない喜びなのだが。一つは晴れた冬の日の東京の青空。

 天気が良くちょっと風のある冬の日の東京の空は驚くほど青い。白い雲が少しあって、それがなおさら空の青さを強調しているようでまた好い。近くの公園の小高い丘の中腹から空を背景にした丘の上を見上げると、一枚の絵のようになる。それは毎日眺めても、いつまで眺めていても飽きることがない。

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 冬の日のもう一つの楽しみは、部屋の中に差し込む柔らかで暖かな日の光だ。ブラインドの間をすり抜けて二階の部屋に差し込む冬の日の光は、時間の経過とともに部屋の奥にまで差し込んでゆく。冬の日の光は、それ自体にほのかな温かさが感じられ光が当たっている所に触ってみると実際に温度を感じるし、その温かさは目でも感じられる。

 以前飼っていた白猫のタマもそうだったのだけれど、最初出窓で寝ていた猫たちは部屋に差し込む光が時間とともに部屋の奥に移動するにつれて、自分たちも移動してゆく。夕方になると部屋の一番奥のふすまのところに張り付くように座っている。なんとものんびりとした、冬のほほえましい光景だ。でも、本音を言えば早く温かくなってほしい。それも、もうすぐ…か。


 ■ 大寒の 馬鹿晴れにして 山へ鳥 (岸田稚魚)

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トーハク散歩 [新隠居主義]

トーハク散歩

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 去年の年末に入院して以来めっきり脚腰が弱くなった感じだ。十日位の入院だからどうってことは無いはずなのだが、そのくらいの期間でもやっぱりベッドに寝ているというのは全体的に体力が落ちるものなんだろう。というわけで最近はできるだけ意識して歩くようにしている。

 と言ってもただ歩くだけでは面白くないからできるだけ美術館など趣味を兼ねた処をふらつきたいのだけれど、そうそう美術展ばかり行っていても金もかかるし…と思っていたところ昔の学生時代のことを思い出した。大学の頃ちょうど学生運動真っ最中の時で休講や授業があってもセクトが乱入してきて急きょ追求集会に変えられたり、ついにはロックアウトになるなど、ノンポリ(学生運動に参加していない学生は当時そう呼ばれていた)のぼくにはポッカリと時間が空くことが多かった。

 そんな時は大抵上野の国立西洋美術館(セイビ)か東京国立博物館(トーハク)で時間をつぶしていた。当時は西洋美術館の二階のテラスと国立博物館の正面のユリノキの大木の下がぼくの恰好の読書&昼寝場所だったと記憶している。当時としては常設展の入場料位の金額で一日ゆったりと過ごせる場所はなかった。今ならマンガ喫茶とかネットカフェとかゲームセンターとか色々とあるのだろうけれど、生憎というか幸いと言おうかそんなものはまだ無かった。まぁ少しお金がある時にはジャズ喫茶位だったかもしれない。ぼくの大学時代には周りには当時盛んだった麻雀をやる友人も居なかったから、それに時間を食われることもなかった。

 話を今に戻すと、そんな昔のことを想い出して上野の美術館界隈を散歩コースにしようと思い立ったのだけれど、それを後押ししてくれるようなことがあった。今は特別展も入れる年間パスを持っているのだけれど、昨日行ってみたら常設展ならば70歳以上はいつでもフリーで入れることが分かった。西洋美術館は65歳以上が無料なのでこの二館だけでも十分すぎる散歩コースが組めるわけだ。

 ぼくの場合、たいてい日暮里駅から谷中を抜けて藝大の横を通って上野公園に入るので距離的にもちょうどいい感じがする。さらにはこの二館とも基本的には常設展示物の写真撮影はオーケーなのでその意味でもこれから楽しみが増えたような気がする。昨日は早速正月特別公開の長谷川等伯松林図屏風にお目にかかった。これから散歩がてら自分なりに美術の勉強もさせてもらおうと思っている。


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美:事始め「快楽の館」 [新隠居主義]

美:事始め「快楽の館」

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  篠山紀信「快楽の館」
  原美術館

 年末に行けなかった原美術館へ。あと三日で終わりの篠山紀信快楽の館」展にゆく。去年は日本美術を見ようと年初に決めていたけれど、今年は出来るだけ写真を観ようと決めたので新年最初の美術館展も写真展にした。

  原美術館の室内のフルヌードの作品の他にも、外にも何枚かの写真が貼られている。室内に展示されているのは全てヌード写真だけれど(室内は撮影禁止)、戸外の写真はさすがに敷地内とは言え下着姿のモデルになっている。「快楽の館」展のモデルは壇蜜やAVでお馴染みの紗倉まなや三上悠亜など大量のモデル陣(30名程)で中にはポールダンサーの人も居るらしい。

  写真は額に入っている形ではなく、殆どは等身大の大きな写真が壁面に直接貼られていた。写真の撮影場所は全てこの美術館の中。展覧会ではぼくも好きな原美術館の建物の趣とあいまって楽しめたし、それなりの雰囲気は醸し出しているけど、ぼくの印象では2009年に原紗央莉をモデルに起用した「20XX TOKYO」のあの鮮烈さには及ばないと思った。

  しかしそれは戸外のヌード写真撮影ということで篠山紀信と原紗央莉は警視庁に書類送検され写真集は闇に葬られた。そこに収められていた真夜中の大都会の暗闇に放出された女レプリカントのようなあの写真は、篠山紀信を次のステップへと導くはずのものだったとぼくは思っている。「20XX TOKYO」の写真集自体は持っていないけれど、摘発される前に某有名カメラ雑誌が巻頭特集を組んだ時のモノを持っている。その写真集自体が見られないのが、なんとも残念だなぁ。

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謹賀新年 [新隠居主義]

謹賀新年

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 新年明けまして、おめでとうございます。

 禽息

 
禽息(きんそくちょうし)とは大志を持たずに徒に齢を重ねることですが、まさにその通りにぼくもとうとう今年は古稀を迎えることになってしまいました。昨年は体調も万全ではなく年末に入院・手術ということに…。母も今年で97歳になり、老老介護の身では先々が心配ではあります。

 一方では折しも世界はまさに大きな変動期に入った感があり、老骨に鞭打っても家族のために何とか生き残っていかねばならないとも思っていますが…。賀状でのこの「感字誤変換」も始めてから20年余になりました。正しい字を予想してみてください。初笑いになれば幸甚です。                   
                                              平成二十九年元旦

 今年の誤変換はじめ…

 ヒラリーの「隊長不良」とか「鳥獣用メール」が暴露されて「カナリヤ売店会」になったと思ったら「ナイス害」とはとても言えないトランプが…。これから世界の変化は「禿思想」だ。昨日の「商社」は今日の「廃車」。「歯医者」は「猿のみ」か、もう「ハム買う気にも」ならないのか。これからは「鯖威張る」時代だ。

 「施錠」不安な「盗難アジア」も心配だし。「アメリカ国暴走ショウ」も「来た挑戦」で頭も痛い。テロの横行で「貝が胃に棲む」日本人も気が気でない。何か「シチューカツを求める」方法は無いものか。「損な子といわれても」今更「マニア湾」。一人一人が「胃まで切ることをする」ことしかないのか。「アーメン独裁」世の中になったなぁ。でも、「妄想言う時代でしょ


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 *パソコンの漢字変換でおかしな間違いが出てきたのがきっかけで、この「感字誤変換」の年賀状を20数年続けてきました。しかし最近では賀状以外にもメールやSNS、ブログなどコミュニケーションの手段も選択肢が増え、古希を節目にそろそろ賀状も見直そうかと思っている今日この頃です。新年早々このような駄文で、孟子は毛ありません。

 本年も拙ブログをよろしくお願い申し上げます。



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すみだ北斎美術館 [下町の時間]

すみだ北斎美術館

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 両国の「すみだ北斎美術館」がオープンした。いろいろ紆余曲折があってやっと今年の11月の下旬にオープンしたので早く行きたかったのだけれど、入院などで中々行けなかったが何とか年内に行くことができた。

 美術館は葛飾北斎が住んでいた界隈である両国亀沢に作られたのだけれど、実はぼくも50年以上前に中学生の頃この美術館と通りを隔てた向かい側に住んでいたことがある。祖母と叔父夫婦が暮らす家が当時そこにあって、ぼくはそこにいっ時居候して両国中学に通っていた。

 久しぶりに訪れてその界隈を歩いてみると当たり前だがすっかり変わってしまった。50年も経てばそりゃ変わるわなぁ。子供の頃はやたらと広く感じられた通りも、今ではどこにでもある普通の広さの通りに感じられる。今は江戸東京博物館になっているが昔は青物市場のやっちゃ場だった場所から真っ直ぐ東に延びるその通りも今は「北斎通り」という名前になっているらしい。

 その頃は美術館の場所は公園だったと思う。学校の帰りによく遊びに行った所だ。今でも敷地の手前は公園になっているらしくいくつかの遊具もあった。その向こうに銀色に輝く独特のフォルムをした建物が建っているが、それが「すみだ北斎美術館」だった。

 建物の設計は妹島和世(せじま かずよ)氏である。妹島和世氏は西沢立衛氏と「SANAA」というユニットを組んで国内外の革新的な建築物を手がけており、「金沢21世紀美術館」やニューヨークの「新現代美術館」などに続く美術館建築としてルーブル美術館の別館である「ルーブル・ランス」の設計も手掛けている。

 美術館は建物の威容の割には建物自体は決して大きくは無い。というよりは美術館としての展示スペースは至極狭い部類に入ると思うが、区立という運営母体を考慮すれば北斎という単一のアーチスト専門の美術館としては十分かもしれないが…。

 展示スペースは3階と4階で、その日は常設展とオープン記念の「北斎の帰還展」が開催されていた。オープン後まだ日も浅いこともあってか、かなり混んでいた。1階と3.4階の展示階までは小さなエレベーター2基のみで階段では往き来出来ないので観客が多いと移動が大変という印象を持った。

 展示スペースの規模からいうと山種美術館や大田美術館クラスだと思うけど、そうなると美術館として生き残ってゆくためには今後のキュレーションが大事になると思う。常設展部分を見た限りではリピートさせるだけのインパクトのある展示にはまだなりきっていない感じがするのだけど、これからまだまだ改善されてゆくと思う。

 所蔵作品の内容はまだ詳しく分からないがモース・コレクションが中心だということなので、是非興味ある展示を今後も展開していって欲しいと思う。初代館長は、なんとぼくの母校の両国中学の前校長だった菊田寛氏だ。菊田氏はもとは美術教師だったということで美術には造詣は深いと思うので是非頑張ってもらいたい。

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 *色々とご心配をおかけしましたが、なんとか退院いたしました。手術からまもなく半月程経とうとしていますが、今のところまだ嗅覚が戻る気配はありません。医者の話では場合によってはひと月くらいかかることもあるそうですが、段々医者が手術前に言っていた「匂いについてはダメもとで…」という言葉が頭の中を駆け巡っています。

 **母校の中学校は江戸東京博物館の隣にあるんですが、昔はそこがやっちゃ場で塀一つを隔てた隣が母校の体育館でした。ぼくは剣道部だったので夏の暑中稽古の時など、稽古が終わるとやっちゃ場の人が塀越しにスイカを差し入れてくれたことなど、懐かしく思い出してしまいました。



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病棟の夜 [新隠居主義]

病棟の夜

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 病棟の夜は長い。
 病棟の夜はほんとうに長い…。

 痛みで眠れない夜など、病棟の夜はとてつもなく長く感じる。何度もトイレに起きてシンとした廊下をつたってベッドに戻るのだけれど、朝はいつまで経ってもやってこない。

  眠れない夜、脳裏に浮かんでくるのは、なぜか楽しい事ではなく悔しいこと、辛いこと、不安なことなど等。まるで自分の人生に楽しいことなど無かったみたいに…。

 2009年にやはり手術でこの病院に入院した時もそうだったことを思い出した。その晩眠れないベッドの中で思い起こしていたのは一人の友の事だった。その一番の親友のTを最後に見送ったのもこの病棟のエレベーターだった。もうあれから16年も経ったんだ。

  その晩、ぼくは眠れないままにフラフラとエレベーターホールまで歩いて行った。あの日、このエレベーターの扉の向こうに消えて行った友の表情を未だに思い出すことができない。今生の別れだったのにその表情を思い出せないことがずっとぼくの胸に引っかかっている。

  痛みで眠れない夜の鎮静剤は劇的だ。ようやく薬が効き始めた真夜中の静謐な病棟の廊下。暗闇の中に生命(いのち)を示す光がもれて、どこかエドワード・ホッパーの絵のようで美しいなと思った。悲しみとか、苦しみとかの中にも美しさのようなものが見えるのだ…鎮静剤があれば。


 
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香り無き世界 [新隠居主義]

香り無き世界
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 ■ …味覚と嗅覚には無数の段階があります。記憶、経験、主観、偏見、演出、無数の要素によって好悪が一瞬に決定されます。 (開高健 「白いページⅡ」)



 手術から数日経って、今度は手術後のもう一つの山場である。手術の際に止血のために鼻の奥に詰められていた大量のガーゼを取り出すのだけれど、前回の手術の時はこの作業がとても辛かったのを覚えている。ピンセットでガーゼの端を挟んでもちろん少しづつ取り出すのだけれど、癒着している部分もあって何度も痛い思いをした。

 しかし、今回は休憩をはさみながら三回に分けて慎重に作業をしてくれたので恐れていたほどのことは無く一安心。ガーゼを全部取り除いた時点で医師が何やら蓋のあいたビンをぼくの鼻先に近づけて「これ匂いますか?」と聞いた。まったく何の匂いも感じられないので「いいえ、全然」というと分かりましたと言ってビンを戻して、ぼくの両方の鼻の穴に綿球を詰めた。

 「この時点で匂いが感じられることもあるので…、まぁ、一か月くらいかかることもありますから」 あれ、前は一か月から長くて三か月と言っていたような気がするんだけど。縮まったかな。医者にしてみれば、手術前に匂いはダメ元と思ってください、と保険を掛けてあるから…そう、悲壮なニュアンスは無かったけれど…。

 というわけで、手術後に高熱が続いたことはあったが何とか退院して、それでもまだ鼻の孔は綿球でふさがれている。来週外来で診てもらった時に調子が良ければ、この綿球は取れるはずだ。なにしろ鼻で呼吸できないので苦しいうえに両方の鼻の穴に白い綿球が詰まっているのが傍から見てもよくわかるので、なんか鼻血を出した小学生みたいで、みっともなくてマスクをしないと外出もできない。



 以前、匂いが全く分からない状態を「モノクロの世界のようで現実感が無い」と表現したけれど、開高健のエッセイを読んでいて嗅覚は実は好悪などの直観的できわめてパーソナルな感性を担っていることに気が付いた。視覚や聴覚は感覚器の中でも言わば、あくまでも相対的だがどちらかといえば客観的にものを捉える特質を持っている。

  それに対して味覚や嗅覚は客観的な感覚というよりどちらかといえば人間の「生理」に近いような気がする。記憶や経験や嗜好、それこそ偏見まで含めて自分の生きてきた時間枠の中で蓄積された極めてパーソナルな部分が露出してくる。視覚や聴覚には「傍観」とか「傍聴」などいわば客観的スタンスで受容することを表す言葉があるのに対し、「傍嗅」などという言葉は無い。

 それじゃあ、主に視覚と聴覚に頼っている今のような状態は、主観的でパーソナルな嗅覚や味覚に邪魔されないのでものを以前よりも客観的に捉えられているかというと、ぼくの場合客観性の方に傾くのではなくて、非現実感の方に大きく振れてしまっているようなのだ。考えてみれば通常、現実というのは誰にとっても一律に同じなわけではなくて、それは常に自己というフィルターを通しての認識なので、一種の自己フィルター装置である嗅覚がなくなれば、それにつれて現実感も無くなるのは当たり前といえば当たり前であるかもしれない。

 学問的には良くよからないけれど、ぼくらが日々体験している「現実感」というヤツは実は嗅覚や味覚というエゴがフル回転している生理的な感覚があって、その上に視覚や聴覚のより客観的な感覚が乗っかって初めてちゃんと成立するのではないかと感じている。これは旅をしてみると実によくわかる。新しい土地に着くとまず鋭敏に働き出すのは嗅覚であり、味覚である。逆に言えばこれが働かないと旅をしている実感も薄れてくるのだ。なんとか…ならないかなぁ。
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 *入院中暇なのでネットで調べていたら、嗅覚はゼロになっても障害には認定されないようです。客観的な測定方法の問題もあるのかもしれないけれど、調香師やソムリエならずとも料理人や食品関係やある種の工事関係など職業自体が困難になることもあると思うんですが…。それでなくてもぼくもペンキ塗やボンベのガス漏れでも怖い思いをしたこともあります。嗅覚がゼロになるということは、単に生活が味気なくなるとか、リスクを察知しにくくなるということだけではなくて、日常生活の中で現実感をも喪失したストレスに晒されているのだということは、中々理解してもらえないようです。

  **嗅覚がゼロになると、実は味覚の方も感覚的には半分位になってしまう感じです。モノを食べ、咀嚼している時に口腔の中から鼻腔に上がって来る香りを潤沢に含んだ空気は言わば味覚の一部のようなもので、それが一切感じられないというのが味覚を鈍くする一因でもあります。



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眠り Der Schlaf [新隠居主義]

眠り Der Schlaf

 
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おお 、人間よ! しかと聞け !
深い真夜中は何を語るか?
「わたしは眠りに眠り- 、
深い夢から 、いま目がさめた 、-
この世は深い 、
 『昼 』が考えたよりもさらに深い 。
この世の嘆きは深い-
しかしよろこびは - 断腸の悲しみよりも深い 。
嘆きの声は言う 、 『終わってくれ ! 』と 。
しかし 、すべてのよろこびは永遠を欲してやまぬ - 、
深い 、深い永遠を欲してやまぬ!」

O Mensch! Gib acht!
Was spricht die tiefe Mitternacht?
≫Ich schlief, ich schlief -,
Aus tiefem Traum bin ich erwacht:-
Die Welt ist tief,
Und tiefer als der Tag gedacht.
Tief ist ihr Weh-,
Lust-tiefer noch als Herzeleid:
Weh spricht: Vergeh!
Doch alle Lust will Ewigkeit-,
-will tiefe, tiefe Ewigkeit!≪

(ニーチェ『ツァラトゥストラはこう語った』第四部「酔歌」より/氷上英廣訳)


 
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  このフリードリヒ・ニーチェの詩はツァラトゥストラの最終部分に出て来るのだけれど、マーラーの第三交響曲第4楽章のところでも歌曲としてアルトで歌われておりぼくの好きな曲でもある。

  実は一週間ほど前から入院して嗅覚の手術を受けている。この病院で手術を受けるのは頸の手術以来今回で4度目になるのだけれど、手術の際に全身麻酔を体験するたびに奇妙な感覚に襲われる。

  手術で顔がパンパンに腫れたお見苦しい写真は手術直後、病室に戻って来た時のスマホでの自撮り写真なのだが、この時はまだ少し意識が朦朧としている。頭の中には手術台に乗った時までのことしか残っていないのだ。

  全身麻酔は当たり前のことだけれど決して睡眠ではない。その間のことは恐らく記憶のどこにも残っておらず、それは敢えて言えば一時的な死という感じだ。麻酔から醒めた時、頭脳は一生懸命その空白を埋めようとあがくのだけれど、それは無駄な努力に終わる。

  ぼくは風邪をひいた時や、疲れ過ぎた時には食事も取らずに18時間くらい爆睡することがあるのだけれど、少なくともその時には睡眠の自覚もあるし、ぼくの場合その間に見た夢も大方覚えていることが多い。

  全身麻酔が痛みも感じず天国での死のようだとすれば、その覚醒後にやって来る間断無い痛みと、それを抑制するために投与される鎮静剤によってもたらされる眠りは、今度は現世の悪夢のような眠りかも知れない。

  ぼくの場合今回それは睡眠というより、うなされるという時間の連続でその間ぼくは何故か大学院の日本語教育の修論の資料が見つからずにずっと探し続けるという無限循環と、高速道路を逆走するというこれまた無限に続くループにはまっていた。

  ニーチェはツァラトゥストラの中で他所でも眠りについて書いている。云く…

  …睡眠をうやまい 、畏れるがいい !これが第一のことである 。そして 、よく眠れない 、夜なかに目をさましている者とつきあうな !

  盗人でさえも人の眠りをさまたげることを恥じている 。夜中に 、盗人は足を忍ばせて歩く 。
  しかし夜番は恥知らずだ 。恥知らずにも 、その角笛をふきまわる 。

  眠ることは 、決して容易なわざではない 。そのためには 、なにしろ一日じゅう起きていなければならない。…
  (ニーチェ同著、徳の講壇より/氷上英廣訳)

  まあここら辺は、ニーチェが「眠り」の名を借りて、先人の大哲学者ヘーゲルを揶揄してるようにも取れるのだけれど…。そんな哲学的な意味でなくとも、入院するような状況に置かれると如何に健全な眠りが大事で貴重なものか実感させられるのだ。


 
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  *再手術なのでちょっと手間どったようですが、匂いが戻るかは微妙です。医者からは匂いはダメもとと思ってくれと言われてますから。
  ぼくとしては、手術前に麻酔医が最後にさらっと言った言葉の方がショックでした。「あ、それから手術中に付ける人工呼吸器のテープが外れると命に関わりますからお髭は全部剃っておいてくださいね」え? 考えていなかった。前回は言われなかったのに…。
  術後、ちょっと高熱が続いてるので感染症の心配もあり、退院はもう少し後になりそうです。

  **この病院での手術はこれで4度目ですが、いつも入院するたびに感謝です。もちろん看護師さんや医師への感謝もあるけど、それ以上に食べられたり、歩けたり、笑えたり、匂いがかげる等、あたり前の日常がいかに得難く、そしてありがたいかに感謝です。
  今回の手術は再手術なので、骨が(頭蓋骨の一部)前回の手術で弱っており今回の手術中に折れる恐れがある、その時は血液成分でできた糊(生物学的組織接着剤というらしいです)を使いながら成形するといわれています。すごいなぁ。もうすぐ97歳になる母より先に逝くわけにはいかないので頑張ります。


 

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静謐な生活 [gillman*s park 16]

静謐な生活

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 近くの公園はすっかり秋のたたずまいに変わってしまっていた。そういえばここの所ゆったりとした気持で散歩していないことに気づいた。歩くだけの目的でそそくさと、カメラで写真を撮ることもなく。今日だってiPhoneで撮っている。知らぬ間に余裕が無くなってしまっていたのかもしれない。

 若いころ一時(いっとき)、役所の戸籍係のような生活に憧れたことがあった。こう言うと実際の戸籍係の人にふざけるな現実はそんな甘いもんじゃない、ときっと叱られると思うが、あくまでも腕にあの袖カバーをまいたような象徴的な意味での「戸籍係」であって…。何はともあれ、転勤もなく勤務先も近く定時に帰れルーチンワークをこなして帰宅すれば自分の自由な時間が待っている。若いのに怠け者とか無気力者と言われればそれまでだが、基本は静かな生活、そんな生活に憧れた時期があった。

 これはカフカの小説の影響もあったと思うけれど、多くはお袋の影響だと思う。親父は菓子の職人で小さな工場を経営していたから、両親は四六時中仕事のことや金の心配で気の休まることがなかったし、いわば二十四時間臨戦態勢の生活だった。夜なべで夜遅くまで工場で仕事をしている、そんな時のお袋の口癖が「お勤めさんはいいねぇ」だった。

 親父は職人気質だったから、どちらかと言えば仕事をやっていればそれで良かったみたいだが、お袋の方は浮き沈みの多い生活や将来のことを気に病んでいた。「お勤めさんは、月末になればきちっ、きちっと入るものが入ってくるし、家に帰ればそれはもう自分だけの時間だし、お前達も…」

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 結局、ぼくはお袋が羨んだ「お勤めさん」になったのだけれど、既に時代はお袋なんかが考えていたものとはガラッと変わってしまっていた。時代はモーレツ社員から、企業戦士へと。企業の中で生き残ろうと思ったら自分の時間などはどんどんと削られてゆく。もちろんそれなりの理想は持って働いていたつもりだけれども、それでも心に積もってゆく澱のようなものが残っていった。

 そういう時間に埋もれて「お勤めさん」の幻影はぼくの中でいつしか「静謐な生活」への憧れに変質していった。例えば、エマニュエル・カントのようなシンプルで静謐な生活。カントは毎日きっかり同じ時間に同じ道を散歩していた。彼の散歩の時間を知っていた街の人は、散歩中の彼を見かけると自分の家の時計を合わせたという逸話が残っているほどだ。

 ぼくも仕事を辞めたら形だけでもそんな規則的で静謐な生活ができたら、と密かに思っていた。ところがいざ実際に仕事を辞めてみると憧れていた静謐な生活とはまるでかけ離れた時間が待っていた。お袋の介護のこともあって第二の人生の夢は断念したことはもちろんあるのだけれども、同時に自分の中にある、もしくは長いビジネス生活の中で身に付いてしまったかもしれない「貧乏性」に気づいてしまったのだ。

 時間はあるのに中々じっとしていることができない。いつも年初には規則的で静謐な生活の時間割を作るのだけれども、一日としてその通りに行ったことはない。不測の事態がよく起こることもその一因かもしれないが、予定にはなかったやりたいことが次々と出てきて時間割がすぐ絵に描いた餅になってしまう。憧れていた晴耕雨読の静謐な生活は逃げ水のように遠ざかってゆくけれど、いつかは…という気持ちだけは今でも持っている。


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猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その24~ [猫と暮らせば]

猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その24~

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 ■

 私は自分の家に持っていたい

 わけの分かった一人の妻と

 書物の間を歩きまわる一匹の猫と

 それなしにはどの季節にも

 生きて行けぬほど大切な

 私の友人たちと

  (アポリネエル/堀口大學訳)


 上の言葉は大佛次郎の随筆「猫のいる日々」に出てくるアポリネエルの詩だ。なんとも静謐で良き時代の文化人の理想のような生活にも思える。これはアポリネエルでなくとも、こういう雰囲気の生活に憧れるのは西欧はもちろん昔の中国でも、日本の文人でもあるのではないか。

 もっとも僕なんかの今の生活はそんな静謐さにはほど遠いけれど、妻・書物・猫・友とその要素だけは一応整っている。そればかりか、猫は三匹もいる。まぁ、数の問題じゃないけれども…。感謝しなければならない。

 考えてみたら、その四つは自分が死に物狂いで働いていた時期にもちゃんと自分の身の回りにあったのだ。ただ、それに目を向けてつくづくとその有難味に感謝する気持ちの余裕も、その時間の余裕も無かったのだと思う。

 幸い今はそれに気付き感謝する時間も十分にあるけれど、今度は先に時間がそうは残されていないことに思い至る。時間はできたが、他方で今度は残された時間との戦いが…。と、以前は思っていたけど所詮時間と戦っても勝ち目はないので、今は一日一日を大事にすることに徹するようにしている。

 大佛次郎はこの随筆の中で、自分が臨終の時には猫がそばに居て欲しいと言っている。そればかりか、もしあの世というのがあってそこには猫が居ないのだったら自分の棺桶に入れて欲しいとも。もちろんこれは例えの話だけれど、それ程に猫を好いていたということだろう。

 大佛次郎はあの世に猫を連れて行きたいと言ったけれど、ぼくは自分が先に逝って万一猫だけが残ったらどうしようと心配している。ウチの猫は今、12歳、11歳、9歳だから猫にすれば決して若くはない。人間の平均寿命からすれば普通はこちらの方が長生きするのだろうけど、そこは何とも言えない。

 これからも、猫の居ない生活は想像し難くずっと飼い続けたいと思うのだけれど、万一猫が残った時のことを思うとカミさんともう新しい猫は飼えないかもねぇと話している。身内や周りに引き取って可愛がってくれそうな者がいるなら安心できるのだけれど、残念ながら猫嫌いと猫アレルギーなどで里親候補はみつからない。



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ビーダーマイアー現象 [新隠居主義]

ビーダーマイアー現象

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 ■「会議は踊る。されど進まず」。リーニュ侯爵の名言で知られる一八一五年のウィーン会議は、革命とナポレオンに搔き乱されたヨーロッパの再建策として催された。だが会議を牛耳ったメッテルニッヒは、革命はもちろん、民主的改革を憎み恐れることなはなだしく、王政復古を企み、旧体制、旧秩序の復活と延命にこれ務めて各国市民階級の期待を裏切った。…
   (「愉しいビーダーマイヤー」前川道介/クラテール書房)
 

 今から200年くらい前のオーストリア、ドイツにビーダーマイヤと呼ばれる文化的特徴をもったごく短い時代が存在した。具体的にはメッテルニヒが活躍したウィーン会議(1814年)から1848年革命までの期間となるのだけれど、その最盛期は1830年代までくらいかもしれない。

 ビーダーマイヤーと呼ばれる時期は短いけれど、それは家具や文学、服装や絵画の領域においてビーダーマイヤー様式というスタイルとして残っている。ビーダーマイヤー様式の絵画はベルリンの旧国立美術館やウイーンのオーストリア・ギャラリー(ヴェルヴェデーレ上宮)でも数多く見ることができる。

 実はビーダーマイヤー様式という立派な名前がついているけど、そこには「取るに足らない」とか「小市民的な」とかちょっと侮蔑的なニュアンスが含まれて居る。これはその文化を作り出した時代背景が大きく関わっていると思う。ビーダーマイヤー時代は別の言い方をすれば反動的時代と言ってよく、フランス革命で盛りあっがっていた市民社会の期待が王政復古によって打ち砕かれ人々の政治への希望、関心が薄れていた時代だ。

 人々の関心は日常の身の回りの事物に移っていった。日常的で簡素で小市民的なものに喜びを感じる感性が湧きあっがってきた。もちろんこれを逃避と見ることもできるし、本当の幸せは立身出世や大時代的な英雄譚にあるのではなく、ごくありふれた身の周りにあるのだという、新たな幸福感の成立と見ることもできるかもしれない。ぼく自身はビーダーマイヤーに関心があるし、そのスタイルも嫌いではない。

 あ、これって何か今の状況にすごく似てはなくないか。胸をふくらませて迎えた輝かしいはずの21世紀は、その期待とは裏腹にテロと民族戦争、そして宗教戦争の世紀の様相を呈している。加えてあのアメリカばかりか南の国でも北の国でも反動的で強権的政治指導者が台頭してきている。世界中で反動のマグマが蠢いているようだ。

 毎日そういう情報に触れていると段々と心が重くなって、それが積み重なってストレスを生み出していると自分でも認識できる程になっている。加えてここのところ母の身体の具合もあまりよくなく、かつ自分の体調も手術を前にしてすぐれないのでどうしても気持ち的に落ち込んでしまう。何とか上向かせようとしているのだけれど…。

 そんな時、この間お風呂場の洗面所のタオルを新しく変えて、これってなんか好いなぁ、と思ってどこか少し心が軽くなった。でも次の瞬間、あ、いかん、これは自分の心の中のビーダーマイヤー現象みたいなもんの始まりかもしれない。もちろん、身の周りの細かい事に目を向けてそこにささやかな美や喜びを見出すのは意味のあることだし、それがそもそもぼくがこのブログを始めた端緒でもあるのだけれど…、でもそれが逃げ道になってはいけないなぁ。逃げ道になってはいけない、でも今のほくは日常のいわゆる些細なことこそが人生の実相だと思っていたりもして。


 しかし時代というものは不思議なもので、その中にいるとわからないけれど何年か何十年か経って一定の距離を置いてみると、現像液の中から次第に姿を現す印画紙の映像のようにその姿が立ち上がってくる。何十年か経って振り返って今の時代を見た時、今が第二のビーダーマイヤー時代に見えてくる、ということもあるのかもしれない。

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*この時代の詩人シュティフターは短編集「石さまざま」の序文の中で
次のように延べ、いかに日常的な事象に目を向けることが大切か述べています。

「…雷雨、稲妻、爆発する火山といった壮絶あるいは壮麗な光景より、
風のそよぎ、小川のせせらぎ、緑の草木、空の輝き、
星の輝きのほうが偉大なのてある。
嵐のような現象は特別なもので、過ぎてしまえばどうということはない。
それよりささやかな現象に現れている普遍的な「柔和な法則」を追及してこそ、
初めて真の驚異に対して目が開かれる。…」

ここら辺にもビーダーマイアー時代の価値観が生きているような気がします。


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