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静謐な生活 [gillman*s park 16]

静謐な生活

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 近くの公園はすっかり秋のたたずまいに変わってしまっていた。そういえばここの所ゆったりとした気持で散歩していないことに気づいた。歩くだけの目的でそそくさと、カメラで写真を撮ることもなく。今日だってiPhoneで撮っている。知らぬ間に余裕が無くなってしまっていたのかもしれない。

 若いころ一時(いっとき)、役所の戸籍係のような生活に憧れたことがあった。こう言うと実際の戸籍係の人にふざけるな現実はそんな甘いもんじゃない、ときっと叱られると思うが、あくまでも腕にあの袖カバーをまいたような象徴的な意味での「戸籍係」であって…。何はともあれ、転勤もなく勤務先も近く定時に帰れルーチンワークをこなして帰宅すれば自分の自由な時間が待っている。若いのに怠け者とか無気力者と言われればそれまでだが、基本は静かな生活、そんな生活に憧れた時期があった。

 これはカフカの小説の影響もあったと思うけれど、多くはお袋の影響だと思う。親父は菓子の職人で小さな工場を経営していたから、両親は四六時中仕事のことや金の心配で気の休まることがなかったし、いわば二十四時間臨戦態勢の生活だった。夜なべで夜遅くまで工場で仕事をしている、そんな時のお袋の口癖が「お勤めさんはいいねぇ」だった。

 親父は職人気質だったから、どちらかと言えば仕事をやっていればそれで良かったみたいだが、お袋の方は浮き沈みの多い生活や将来のことを気に病んでいた。「お勤めさんは、月末になればきちっ、きちっと入るものが入ってくるし、家に帰ればそれはもう自分だけの時間だし、お前達も…」

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 結局、ぼくはお袋が羨んだ「お勤めさん」になったのだけれど、既に時代はお袋なんかが考えていたものとはガラッと変わってしまっていた。時代はモーレツ社員から、企業戦士へと。企業の中で生き残ろうと思ったら自分の時間などはどんどんと削られてゆく。もちろんそれなりの理想は持って働いていたつもりだけれども、それでも心に積もってゆく澱のようなものが残っていった。

 そういう時間に埋もれて「お勤めさん」の幻影はぼくの中でいつしか「静謐な生活」への憧れに変質していった。例えば、エマニュエル・カントのようなシンプルで静謐な生活。カントは毎日きっかり同じ時間に同じ道を散歩していた。彼の散歩の時間を知っていた街の人は、散歩中の彼を見かけると自分の家の時計を合わせたという逸話が残っているほどだ。

 ぼくも仕事を辞めたら形だけでもそんな規則的で静謐な生活ができたら、と密かに思っていた。ところがいざ実際に仕事を辞めてみると憧れていた静謐な生活とはまるでかけ離れた時間が待っていた。お袋の介護のこともあって第二の人生の夢は断念したことはもちろんあるのだけれども、同時に自分の中にある、もしくは長いビジネス生活の中で身に付いてしまったかもしれない「貧乏性」に気づいてしまったのだ。

 時間はあるのに中々じっとしていることができない。いつも年初には規則的で静謐な生活の時間割を作るのだけれども、一日としてその通りに行ったことはない。不測の事態がよく起こることもその一因かもしれないが、予定にはなかったやりたいことが次々と出てきて時間割がすぐ絵に描いた餅になってしまう。憧れていた晴耕雨読の静謐な生活は逃げ水のように遠ざかってゆくけれど、いつかは…という気持ちだけは今でも持っている。


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猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その24~ [猫と暮らせば]

猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その24~

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 ■

 私は自分の家に持っていたい

 わけの分かった一人の妻と

 書物の間を歩きまわる一匹の猫と

 それなしにはどの季節にも

 生きて行けぬほど大切な

 私の友人たちと

  (アポリネエル/堀口大學訳)


 上の言葉は大佛次郎の随筆「猫のいる日々」に出てくるアポリネエルの詩だ。なんとも静謐で良き時代の文化人の理想のような生活にも思える。これはアポリネエルでなくとも、こういう雰囲気の生活に憧れるのは西欧はもちろん昔の中国でも、日本の文人でもあるのではないか。

 もっとも僕なんかの今の生活はそんな静謐さにはほど遠いけれど、妻・書物・猫・友とその要素だけは一応整っている。そればかりか、猫は三匹もいる。まぁ、数の問題じゃないけれども…。感謝しなければならない。

 考えてみたら、その四つは自分が死に物狂いで働いていた時期にもちゃんと自分の身の回りにあったのだ。ただ、それに目を向けてつくづくとその有難味に感謝する気持ちの余裕も、その時間の余裕も無かったのだと思う。

 幸い今はそれに気付き感謝する時間も十分にあるけれど、今度は先に時間がそうは残されていないことに思い至る。時間はできたが、他方で今度は残された時間との戦いが…。と、以前は思っていたけど所詮時間と戦っても勝ち目はないので、今は一日一日を大事にすることに徹するようにしている。

 大佛次郎はこの随筆の中で、自分が臨終の時には猫がそばに居て欲しいと言っている。そればかりか、もしあの世というのがあってそこには猫が居ないのだったら自分の棺桶に入れて欲しいとも。もちろんこれは例えの話だけれど、それ程に猫を好いていたということだろう。

 大佛次郎はあの世に猫を連れて行きたいと言ったけれど、ぼくは自分が先に逝って万一猫だけが残ったらどうしようと心配している。ウチの猫は今、12歳、11歳、9歳だから猫にすれば決して若くはない。人間の平均寿命からすれば普通はこちらの方が長生きするのだろうけど、そこは何とも言えない。

 これからも、猫の居ない生活は想像し難くずっと飼い続けたいと思うのだけれど、万一猫が残った時のことを思うとカミさんともう新しい猫は飼えないかもねぇと話している。身内や周りに引き取って可愛がってくれそうな者がいるなら安心できるのだけれど、残念ながら猫嫌いと猫アレルギーなどで里親候補はみつからない。



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ビーダーマイアー現象 [新隠居主義]

ビーダーマイアー現象

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 ■「会議は踊る。されど進まず」。リーニュ侯爵の名言で知られる一八一五年のウィーン会議は、革命とナポレオンに搔き乱されたヨーロッパの再建策として催された。だが会議を牛耳ったメッテルニッヒは、革命はもちろん、民主的改革を憎み恐れることなはなだしく、王政復古を企み、旧体制、旧秩序の復活と延命にこれ務めて各国市民階級の期待を裏切った。…
   (「愉しいビーダーマイヤー」前川道介/クラテール書房)
 

 今から200年くらい前のオーストリア、ドイツにビーダーマイヤと呼ばれる文化的特徴をもったごく短い時代が存在した。具体的にはメッテルニヒが活躍したウィーン会議(1814年)から1848年革命までの期間となるのだけれど、その最盛期は1830年代までくらいかもしれない。

 ビーダーマイヤーと呼ばれる時期は短いけれど、それは家具や文学、服装や絵画の領域においてビーダーマイヤー様式というスタイルとして残っている。ビーダーマイヤー様式の絵画はベルリンの旧国立美術館やウイーンのオーストリア・ギャラリー(ヴェルヴェデーレ上宮)でも数多く見ることができる。

 実はビーダーマイヤー様式という立派な名前がついているけど、そこには「取るに足らない」とか「小市民的な」とかちょっと侮蔑的なニュアンスが含まれて居る。これはその文化を作り出した時代背景が大きく関わっていると思う。ビーダーマイヤー時代は別の言い方をすれば反動的時代と言ってよく、フランス革命で盛りあっがっていた市民社会の期待が王政復古によって打ち砕かれ人々の政治への希望、関心が薄れていた時代だ。

 人々の関心は日常の身の回りの事物に移っていった。日常的で簡素で小市民的なものに喜びを感じる感性が湧きあっがってきた。もちろんこれを逃避と見ることもできるし、本当の幸せは立身出世や大時代的な英雄譚にあるのではなく、ごくありふれた身の周りにあるのだという、新たな幸福感の成立と見ることもできるかもしれない。ぼく自身はビーダーマイヤーに関心があるし、そのスタイルも嫌いではない。

 あ、これって何か今の状況にすごく似てはなくないか。胸をふくらませて迎えた輝かしいはずの21世紀は、その期待とは裏腹にテロと民族戦争、そして宗教戦争の世紀の様相を呈している。加えてあのアメリカばかりか南の国でも北の国でも反動的で強権的政治指導者が台頭してきている。世界中で反動のマグマが蠢いているようだ。

 毎日そういう情報に触れていると段々と心が重くなって、それが積み重なってストレスを生み出していると自分でも認識できる程になっている。加えてここのところ母の身体の具合もあまりよくなく、かつ自分の体調も手術を前にしてすぐれないのでどうしても気持ち的に落ち込んでしまう。何とか上向かせようとしているのだけれど…。

 そんな時、この間お風呂場の洗面所のタオルを新しく変えて、これってなんか好いなぁ、と思ってどこか少し心が軽くなった。でも次の瞬間、あ、いかん、これは自分の心の中のビーダーマイヤー現象みたいなもんの始まりかもしれない。もちろん、身の周りの細かい事に目を向けてそこにささやかな美や喜びを見出すのは意味のあることだし、それがそもそもぼくがこのブログを始めた端緒でもあるのだけれど…、でもそれが逃げ道になってはいけないなぁ。逃げ道になってはいけない、でも今のほくは日常のいわゆる些細なことこそが人生の実相だと思っていたりもして。


 しかし時代というものは不思議なもので、その中にいるとわからないけれど何年か何十年か経って一定の距離を置いてみると、現像液の中から次第に姿を現す印画紙の映像のようにその姿が立ち上がってくる。何十年か経って振り返って今の時代を見た時、今が第二のビーダーマイヤー時代に見えてくる、ということもあるのかもしれない。

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*この時代の詩人シュティフターは短編集「石さまざま」の序文の中で
次のように延べ、いかに日常的な事象に目を向けることが大切か述べています。

「…雷雨、稲妻、爆発する火山といった壮絶あるいは壮麗な光景より、
風のそよぎ、小川のせせらぎ、緑の草木、空の輝き、
星の輝きのほうが偉大なのてある。
嵐のような現象は特別なもので、過ぎてしまえばどうということはない。
それよりささやかな現象に現れている普遍的な「柔和な法則」を追及してこそ、
初めて真の驚異に対して目が開かれる。…」

ここら辺にもビーダーマイアー時代の価値観が生きているような気がします。


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さよなら人情食堂 [Ansicht Tokio]

さよなら人情食堂

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 以前このブログでも千住のやっちゃばの時にもちょっと触れたこともあるけど、近所の青果市場である北足立市場の場外食堂「佐野新」が残念なことに今月一杯で店を閉めるらしいのだ。北足立市場というのは東京都中央卸売市場の1つで、以前は同じく中央卸売市場の一つである千住市場が手狭になったので昭和54年に青果部を今の場所に移転させたのが始まりだ。千住市場の方は今は水産物専門の市場になっている。

「佐野新」は元々千住市場で商いをしているお店だったが、それを機に北足立市場の方に移って場外食堂を始めたらしい。 その後昭和63年には花卉部門も設けられて北足立市場は本格的な中央卸売市場になった。そこはぼくがいつも散歩に行く舎人公園に隣接する所にあり、直ぐそばなのだけれど中に入ったことはなかった。ぼく自身は市場というか下町の言葉でいうと「やっちゃば」とは縁があって、幼稚園の頃は千住のやっちゃば(千住市場)の裏に住んでいたし、中学は今では江戸東京博物館になってしまっている両国のやっちゃばの隣の両国中学だった。

 ある時、食べ物屋や飲み屋に詳しい友人から北足立市場に場外食堂があるので行ってみないかと誘われた。自分の家のすぐそばなのに知らなかったのだけど…。行ってみると実に気の置けない、暖かい雰囲気のところで食べ物も美味しい。姉弟のごきょうだい(この場合は漢字ではかけないな)でやっていて、話をしているうちにご両人ともぼくの小学校の同窓生で、お姉さんとは幼稚園も同じことが分かった。その時は友人と不届きにも朝からビールを飲んで帰ってきた。野菜も新鮮、魚は千住の市場から仕入れているからこれまたうまい。

 それから何度か訪れて、一度はカミさんと行ったこともある。尤も近くの公園には朝いつも散歩に行くのだけれど、朝から一人で飲みにお店に寄る訳にも行かないのでそう度々行ったわけではないけど…。かといって場外食堂なので昼過ぎには閉めてしまうから、夜飲みに行くということもできない。でも、行くたびに妙に落ち着く。で、先日くだんの友人と久しぶりに訪れたら今月で閉店の話がでて…。

 前からおかみさんからも聞いていたのだけれど、段々とこの北足立市場で食堂を続けていくのが大変になっているらしい。というのも年々この北足立市場の取扱高が減って、活気がなくなっているらしいのだ。その原因は野菜・果物等の取引における大手のスーパーなどの比率が増えるにつれて、中央卸市場で仲卸を通す取引が減っているという現実があるのだ。

 大手のスーパーなどは産地での直取引や農家との契約栽培など仲卸を通さずに殆どの取引をしている。中には開発輸入と称して海外で商品開発をして直に輸入するケースも出ている。市場の活気がなくなれば、自然と食堂に来る人も減り経営的にも苦しくなる。場外売り場の建物の二階が食堂になっているのだけれど、ほとんどがシャッターが閉まっていて、やっているのはほんの数軒になってしまった。時代の流れかもしれないが、何とも寂しい。あのほっこりとしたイワシのフライがもう食べられないかと思うと、胃袋も寂しがっている。

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 *この北足立市場に入ってみると実に広いことがわかります。
敷地面積は61,076㎡で、実は今移転問題で話題になっている
豊洲市場の青果棟の敷地面積が58,000㎡なのと比べても
それより広いことがわかります。
物流上の立地は決して悪くはないので築地移転にからめての
再活用など何か活性化策はないのでしょうか。


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時の滴 [新隠居主義]

時の滴

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 ■ ブドー酒の日々

ブドー酒はねむる。
ねむりにねむる。

一千日がきて去って、
朱夏もまたきて去るけれども、

ブドー酒はねむる。
壜のなかに日のかたち、

年のなかに自分の時代、
もちこたえてねむる。

何のためでもなく、
ローソクとわずかな

われらの日々の食事のためだ。
ハイホー

ブドー酒はねむる。
われらはただ一本空壜をのこすだけ。

  (詩集『食卓一期一会』食卓の物語 / 長田弘)


 酒を「寝かせる」という言い方があるけど、もちろん何でも寝かせれば良いというわけではない。ウイスキーとかワインとか一部の果実酒みたいなのはそれに向いているけど、日本酒やビールは余り寝かせることはしないみたいだ。

 以前ポルトガルの港町ポルトでポルト酒の老舗醸造所Sandemanを訪れたことがある。暗いひんやりとした貯蔵蔵には大樽に詰まった膨大な量のポートワインが寝ていた。寝ていたといっても通常のポートワインはそれほど長く寝かせるものではないらしいのだが。

 その酒蔵の一角に金網で仕切られた区画がありその中にはこれまたおびただしい量のワインボトルが並んでいた。こちらの方はどうやら長い期間寝かせて熟成させるタイプの高級なポートワインが保管されているらしい。

 壜は年代順に並べられているらしく、その一角にぼくの生まれ年である1947年という表示を見つけてなんだか飲んでみたくなってしまった。その時酒蔵を案内してくれていたガイドに「高いんだろうねぇ」と聞くと「ええ、かなりお高いと思いますよ」と素っ気なく言われてしまった。やっぱり高いんだ。

 時は金なり、ということか。しかしまぁ、すべてがアジリティー、つまり俊敏性や即効性が重んじられる現代において、この「眠りは」貴重であり、贅沢でもあるのかもしれない。我が家でもその贅沢を最近発見した。それが写真の果実酒で一番古いものは1990年だからいまから26年前に仕込んだものだ。

 実は数年前に同じころのカリン酒を自分で飲んだり、知人に差し上げたりしたのだけれどそれはもう無いものと思っていた。ところが最近断捨離と称して身の回りのいろいろなところを整理していたら、床下収納と滅多に開けない天袋からまた古いガラス製の大きな壜がでてきた。

 もうすっかり忘れていたけれど、その頃は毎年のようにばあさんカミさんといろいろな果実酒を作っていたなぁ。一番古い1990年カリン酒は叔父の家でなったカリンの実を貰ったものを焼酎につけたものだ。1990年と言えば、ぼくは43歳、ぼあさんだって70歳で今のぼくとほぼ同じ歳だ。

 その年ぼくは会社で長いこと居た企画部門から経営管理部門に移って大きな転機を迎えていた。月並みな表現だけれど死ぬほど忙しくなって家にいることはほとんどなくなった。だからそのカリン酒もぼくは余り手を出していなかったのだと思う。多分カミさんとばあさんで作ったのだろう。

 もう一つの1999年杏子酒の方はほとんど記憶にない。その頃には日本のバブルもはげてぼくは夜も休みもなく走り回っていたころだ。朝は暗いうちに家を出て、帰ってくるのは大体夜中の12時を過ぎてから。心のどこにも果実酒を造る余裕などなかった。でもそんな中でも果実酒は造られて、そしてきっとひっそりと家のどこかにしまわれていたのだろう。

 壜の中にはまだ果実も入っていた。本来はタイミングを見て実を取り出すのだけれどもそれをしていないから、濾してみたけれども微細な澱が残っている。でも、数日壜を静かにしておくと澱が沈んで透明で実にいい色になる。口に含むと微かにえぐみはあるけれど、とても濃厚でまさに「時の滴」の趣がある、と感じた。

 考えてみればその26年間、もちろん時は止まってはいなかった。酒が暗闇の中で過ごした26年間を眠ったと表現してもよいかもしれないけれど、それは停止ではなかった。外界のぼくらの時間は眠ってはいなかった。それどころかそれは激変の時の流れだった。しかし経ってしまえばまるで眠りのようにあっという間だ。

 過ぎ去った時はきっと酒の味に浸み込んでいるはずだ。一方ぼくの過ぎ去った時もぼくの身体に浸み込んでいるのだろうか。尤もそれで好い具合の味になってるかは、傍から見れば酒もぼくも両方とも何とも怪しいものだけれど…。

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 *大きなガラス瓶から果実を取り出して、残った果実酒を濾してそれを何本かのウイスキーの空き瓶に入れました。(ウイスキーの空き瓶はとっておくもんですねぇ) それにパソコンに残っていた以前作ったラベルを貼る。ラベルのQuittenはドイツ語でマルメロのことでアバウトですがカリンに相当するかも。Aprikoseは杏子です。ぼくの飲み方は、果実酒に氷を入れてそこにドライな炭酸を注いで飲みます。

 **長田弘の詩集「食卓一期一会」は好きで最近よく手に取ります。全編食べ物の詩でタイトルを見ているだけでも楽しいです。中は…台所の人々、お茶の時間、食卓の物語、食事の場面の四つの章に分かれています。詩がそのままレシピになっているもの、中には「戦争がくれなかったもの」のような辛辣なものもあります。



..
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天空の美術館 [Ansicht Tokio]

天空の美術館


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 ■…親密で家庭的な主題は、カリエールの作品の中心を占めている。ゴーギャンやムンクの悲惨な自伝が精神分析を背景にした注釈者によって数多く分析されているのに対し、カリエールの伝記を構成している家庭生活のささやかな喜びや苦悩は、分析者達からほとんど重んじられいてない。カリエールの生涯に、目立つ出来事や人目を引く恋愛沙汰はほとんどない。… (「ウジェーヌ・カリエール、現実の幻視者」ロドルフ・ラペッティ)


 先日新宿に出た折、夜の約束の時間までまだ随分と間があるので久しぶりに損保ジャパン日本興亜美術館(長い名前だなぁ)に行ってみることにした。新宿の都庁付近には結構頻繁に来るのだけど、そのすぐ近くのこの美術館にはそう度々くることはなかった。それはひとえにぼくが極度の高所恐怖症ということがあるからなのだけど、なんと言ってもここはビルの42階にあるのだから。

 この時はたっぷりと時間があったことと、その時行われていた展覧会が日本ではあまり知られていないウジェーヌ・カリエールの回顧展だったからだ。展覧会のタイトルは「没後100年 カリエール展 ~セピア色の想い~」。カリエールはこの展覧会のサブタイトルにもなっている「セピア色の想い」ということでもわかるように、セピア色の濃淡で象徴主義的な表現をする絵画で知られている。

 会場には90点近くが展示されていたけれど、ほぼ全ての絵がセピア色のものだ。こういう展覧会も珍しいかもしれない。カリエールの展覧会はたしか2006年位に西洋美術館で友人だったロダンの作品との共同展示の展覧会があって以来だと思う。今回の展示は特にカリエール家の所有ものや個人蔵で彼の家族を描いた絵が中心になっている。人物画はセピア色の霧の中から浮かび上がってくるようだ。

 その日の展覧会はやはり画家が一般的でなかったのか、会場に人はまばらだった。場所的に苦手なだけでこの美術館のキュレーション自体は嫌いではない。今までにも「ユトリロとヴァラドン展」や「セガンティーニ展」など素晴らしい企画もあった。最近はゴッホやモネなどの有名作家の展覧会が目白押しだけれど、日本ではあまり知られていない作家の回顧展などにも取り組んでくれるこういう美術館の存在も忘れてはならないと思う。

 展覧会を見終わって42階のロビーに出ると眼下に夕暮れの新宿の街が広がっていた。高層階の美術展といえば六本木のアークヒルズにある森アーツセンターがここより高い52階にあるけど、向こうは景色を見ようと思ったら美術館とは別に展望台の料金を払わなければならないし、何よりも僕の苦手な足元までの窓ガラスというのが気に食わない。

 そこへゆくと、この美術館の42階のロビーはほとんど人もいないし窓には腰高までの台があるからぼくでも窓に近寄ることができる。何よりも素晴らしいのは、遠くのスカイツリーからすぐそばの新宿御苑の森まで雄大なパノラマが見渡せることだ。刻々と光の色が変わってゆく暮れなずむ新宿の街は実に美しい。いつものカメラを持ってこなかったので恐る恐る窓に近づいて持っていたスマホで撮った。今度はちゃんとカメラを持ってきてみようと思いつつ…。


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晴海客船ターミナル [Ansicht Tokio]

晴海客船ターミナル

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 晴海客船ターミナルは今何かと話題になっている豊洲の新市場の海を挟んで丁度真向かいにある。真ん前にはレインボーブリッジを望む絶好の場所にあるのだけれど、その割にはあまり知られていないのか特別なイベントでも開かれていない限りいつ行ってもすいている。元々の目的である船の発着がどのくらいの頻度であるのか分からないけど、横浜の大桟橋みたいには頻繁にないのかもしれない。

 とはいえ、眺めがいいのでカメラマニアやモデル撮影にはよく利用されているようだ。日曜日に久しぶりにいつもの写真仲間とターミナルで待ち合わせて各々気ままに写真を撮ってから反省会と称して築地の場外で飲み会。で、反省だれれども、いつも横着して三脚はパスするのだが今回はさすがに薄暮から夜景とあって三脚は持参した(しかもミラーレス2台)。でも、また手抜きして軽いヤツを持ってきたのでやっぱりボロが出た。三脚の脚がやわなので微妙にぶれている。その上老眼のせいで焦点が合わせにくい。というわけで「老眼+やわな三脚+不慣れな夜景=ピンボケ写真」という見事な図式が成り立って、一番下の最後の二枚はよくある失敗作例となった(小さなサムネイルの写真)。

 失敗したので悔し紛れに言うのではないのだけれど、本当に撮りたかったのは外のデッキからの夜景ではなくて、大きなガラス空間を持つ待合室からの外の眺めだった。此処に前回来たのは六年位前の初冬だと思うのだが、その時はレインボーブリッジの上に月が出ていてなんとも美しい光景だった。さらにその光景を大きなガラスに囲まれた空間から見るとまるで一幅の絵のようだったのを覚えている。その時は時間切れで撮れなかったので、今回はそこから海を見渡した薄暮と夜景を撮りたかったのだ。薄暮はなんとか撮れたけれど、レインボーブリッジに灯がともるころの光景は残念ながら今度は室内のライトが点いてそれがガラスに映り込んで撮ることができなかった。え~と、今回は取り敢えずロケハンという事にしよう。

 窓越しの夜景を撮るならやはり冬の平日が良いかもしれない。今回は日曜日だったので八時過ぎまで開いているが、平日は五時までなので冬の五時なら橋に灯もともり部屋の明かりが落ちた一瞬を狙えるかもしれない。それに確かクリスマスのイルミネーションが始まると室内のメイン・ライトを落とすからその時もねらい目かも。それまで老眼対策と夜景撮影スキルを磨いておくべきなんだろうが、ぼくのことだから怪しいものだ。撮るたびに嫌になってくるという悪循環からなんとか抜け出さないと…。いずれにしても反省会と称する飲み会の方は何とも楽しい。今回の築地のまぐろもまた格別だった。

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 *晴海客船ターミナルの待合室はガランとしていて、ベンチで寝ている人、ずっと膝の上のパソコンで何かの作業に没頭する人、じっと海を見つめている人、など外とはちょっと違う時間が流れているようでした。
 


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晩酌猫 kuro [猫と暮らせば]

晩酌猫 kuro

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 食事の時には基本的には猫たちを食卓には載せないのだけれど、クロだけは例外でぼくが食事をしながら晩酌をしている脇に控えている。クロは身体が小さいことと、ばあさんの躾でそうなってしまった感がある。食卓の上に居てもさして悪戯はしないのだが、かと言って油断しているとお魚ののったお皿にソーッと手が伸びてきたりする。

 クロは2004年の10月にまだ生まれてひと月も経たないような子猫の時に家の前で倒れていたのをばあさんが保護したのが縁で飼い始めたからもう12歳になる。この間テレビで日本の飼い猫の平均寿命が11歳に伸びたというニュースをやっていたので、クロももう飼い猫の平均寿命を超えたわけだ。

 以前飼っていた白猫のタマは18歳まで生きたからクロもまだまだ頑張ってもらいたいのだけれど、ばあさん猫になったからか、最近とみに人使いがあらく、やきもちやきになってきた。とにかくぼくが家に居る時は一日中後をついて回る。普通猫は余りそういうことはないのだけれど、それにクロだって以前はそうでもなかったのだけれど…。

 一匹だけで飼っている場合はそうでもないのかもしれないけど、三匹もいると独占欲が出てくるのかも。朝も朝食が終わるとなんとかぼくを寝室の方に連れてゆこうとする。とにかく自分の気が済むまで話さない。後ろを振り向き振り向き人を寝室へと誘導する。寝室に入ると自分はさっさとベッドに上がって横になる。これが朝の儀式で、これをしないと一日がはじまらない。

 一事が万事で何かやって欲しいことがあると、ぼくの所に来て鳴く。しらんぷりをしていると、段々大声になる。ぼくが椅子に座っている時は立ち上がってぼくの袖を引っ張る、結局根負けして言う事を聞いてしまうのだ。モモはそういうところが見たくないのか、プイとどこかへ行ってしまう。ここら辺が今の悩みと言えば悩みではあるけど、晩酌猫のクロをはべらせての夕餉のひと時は何ものにも代えがたい時間だ。いつまでも続いてほしいと願っている。


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銀座で偲ぶ… [Ansicht Tokio]

銀座で偲ぶ…

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 土曜日は銀座で大学のゼミの恩師を偲ぶ会を兼ねた同窓会があった。大学を出て今年で40年、その間何年かに一度、教授を招いて同窓会をやっていた。次回の同窓会は教授の米寿のお祝いを兼ねて、と思っていたが昨年米寿を前にして亡くなられた。今回は先生を偲んで…、という趣旨で集まろうと。ずっと幹事をやらせてもらっているけど、40年も経つとやっぱり時の流れを感じる。

 ゼミの卒業生は教授がゼミをやめるまでかなりの数の卒業生がいるのだけれど、どこの同窓会でもそうだと思うが、段々と出席者が減ってくる。今年は80名位いに案内を出して出席が13名。それも多くはゼミ初期のメンバー、ということは皆そこそこいい年齢なのだ。

 会場は銀座の老舗ビアホールのビルのパーティールームにしたので歩行者天国の目抜き通りをぶらつきながら向かった。土曜日という事もあって銀座四丁目付近の通りはなんか祭りのようだった。銀座は昔から一番よく来る繁華街だけれど、最近の変化はめまぐるしい。高級ブランドショップの林立などの変化はぼくなんかは必ずしも好きではないけれど…。

 歩行者天国ではグループでダンスをする若者達がいる。それにこれはいつも見かける光景だけど、あちこちでテレビのインタビューも行われている。Appleストアーの前は新機種iPhone7の発売でごった返している。さすがにもう徹夜組の列はないと思うけど、店内は混雑状態で外国人観光客らしい人たちも興味津々だ。

 四丁目の交差点の角の旧日産ショールームは建て替えられて、今度はNissan Crossingとして生まれ変わった。準備万端整って来週の24日のオープンを前に円筒形のショーケースの中にはおそらく最新の日産の車であろう、車体にカバーをかけられた車がもうスタンバイしている。

 何となく人ごみに酔うような感じで会場に着いた。幹事としては先生を偲ぶ会だし、皆そこそこの歳なので盛り上がるかちょっと心配していたけれど、そんな心配は要らなかった。というよりは元気な人が此処に来ているのだと思った。それは幸いなことだ。



 人生の中では時々似たようなことが続くことがある。次の日の日曜日にも「偲ぶ会」が続いた。大学院時代の恩師の教授が急逝し母校で偲ぶ会が行われた。恩師と言っても10年前にぼくが59歳の年に大学院に入った時の教授だから年齢はぼくより二つか、三つ上くらいなのだ。

 ぼくのことを今までで一番年長の教え子と言っていた。日本語教育の女性教授で商社にお勤めのご主人の関係で、アメリカとスペインの生活が長かったらしい。とにかくパワフルで思い立ったらすぐ行動というタイプ。学生は煽られっぱなしだった。よく授業の始まる前に教室で待っていると廊下からカッカッというヒールの音が響いてくるので先生が来ることが分かった。

 偲ぶ会ではご主人がご挨拶をされて…。先生は二年前に定年で退職されその後あのパワフルさで色々な趣味に励まれたという事だけど、今年の春にスキルス性の癌がみつかり、わずか二か月足らずで逝ってしまった。享年72歳。死期はご自分でも分かっていらしたらしく、最後の言葉は「一切やり残した事は無い、良い人生だった」という事だったと言う。中々出来ない生き方だなぁ。合掌。

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(photos by iPhone6/写真の上でクリックすると写真が大きくなります)


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縁側の時間 [下町の時間]

縁側の時間

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  ■ 宗助は先刻から縁側へ坐蒲団を持ち出して、日当りの好さそうな所へ気楽に胡坐をかいて見たが、やがて手に持っている雑誌を放り出すと共に、ごろりと横になった。秋日和と名のつくほどの上天気なので、往来を行く人の下駄の響が、静かな町だけに、朗らかに聞えて来る。肱枕をして軒から上を見上げると、奇麗な空が一面に蒼く澄んでいる。その空が自分の寝ている縁側の、窮屈な寸法に較べて見ると、非常に広大である。たまの日曜にこうして緩くり空を見るだけでもだいぶ違うなと思いながら、眉を寄せて、ぎらぎらする日をしばらく見つめていたが、眩しくなったので、今度はぐるりと寝返りをして障子の方を向いた。障子の中では細君が裁縫をしている。
「おい、好い天気だな」と話しかけた。…   (夏目漱石「門」)


  夏目漱石の小説「門」はこんな縁側の情景から始まる。小説「門」はこれから複雑な人間関係のドラマが始まるのだけれども、まるでその前の一時の静寂を楽しむように縁側の時間が展開してゆく。

 今の都会では一軒家といえども縁側とその先に広がる自宅の庭などは望むべくもないが、ぼくの子供の頃は下町の家でも縁側と庭付きの家も珍しくはなかった。ぼくが育った千住の平屋の一軒家にも縁側と庭があって、庭には親父がこしらえた小さな池もあった。

 今思ったらそれほど広くはないスペースだったのだろうけれど、子供の時は縁側の一直線がとても長いものに感じられてよく端から端までダッシュして親に叱られたものだ。子供部屋はあったけれど、特に夏などは家に居る時は大半は縁側で過ごしていたように思う。

 そこは勉強部屋にも(めったに勉強などしなかったけれど…)、プラモデルを組み立てる部屋にも、夏は子供の寝室にも自在に変わることができた。家族のイベントも考えてみればほとんどがそこで行われていたな。夏の花火や冷えたスイカの種の飛ばしっこ。夏の終わりになるとどこからともなくスイカの芽がでくる。

 ぼくのウチは当時は親戚に同じくらいの歳の子供が大勢いたので、親戚の子供達が集まって遊ぶのもやはり縁側だ。縁側でちらし寿司やお菓子を皆で食べる。パーティーなんぞというハイカラな言葉は使いこそしなかったけれど、今考えてみればそれは紛れもなくパーティーだったのかもしれない。

 そして縁側の縁の下は子供たちにとって格好の探検の場所でもあった。ちょっとヒンヤリした空気と微かな埃とカビの匂い。その先に広がる闇は行ってみたいような、行くのが恐ろしいような。ぼくは一度その縁の下で戦時中の防毒マスクを見つけたことがある。最初はなんだかわからなかったけど、その不気味な仮面のようなマスクの先に突き出していた象の鼻のようなパイプが尋常ならぬものだということは子供心にも感じとれた。

 縁の下からは子猫の声が聞こえたり、家で飼っていた鶏の卵が出てきたり異空間につながるドラえもんのどこでもドアみたいな感じだ。今でも地方の農家や古民家に行くと縁側のある家が残っている。それらの家の縁側に座ると、何とも言えない安心感に包まれるのはぼくだけだろうか。もし、時間にも世界文化遺産のように世界時間遺産というものがあるとすれば、貧しくとも幸せだった「縁側の時間」は間違いなく世界時間遺産になると思うのだけれど…。



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猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その23~ [猫と暮らせば]

猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その23~

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  ■猫のたたずまいには、孤高を堪能しているような何かがある。
    
(ルイス・J・カミュティ/米国の猫獣医、1893~1981)
  There is something about the presence of a cat...that seems to take the bite out of being alone.


 ウチには白、黒そして灰色の三匹の猫がいる。日中に三匹で一緒にいることはまずない。尤もぼくとカミさんも日中は別の部屋にいることがおおいけど…、猫も含めて1日に二度はみんなが一緒の部屋に集まる。

 それは朝食と夕食の時なのだけれど、その時間の催促をする担当が猫たちの間では決まっているようなのだ。朝食の時はクロが呼び出し担当で朝一番でベッドの上にぼくをおこしにくる。

 クロのタイムリミットは7時半でそれ以上になると、「ニャゴー(おきろ〜)」と大声を出してぼくの顔の上に乗ってきたりする。その間他の二匹は「早くおこしてこいよ〜」といった感じでぼくとクロのやり取りを見つめている。猫たちは家中みんなが揃わないと自分たちの食事も始まらないのを知っているようだ。

 夕食の催促担当は白猫のレオで、彼のタイムリミットはちょっと細かくて5時20分。ぼくが二階の部屋でパソコンを打っていたりすると、カミさんの食事の支度が始まる5時頃には一階の階段の下でぼくが降りてくるのを待っている。

 暫く待っても降りてこないと、そこで二、三回鳴いて今度は二階の階段を上がった辺りで待機。それでもダメだとダルマさんが転んだ、みたいにジリジリとぼくの机に近づいて来る。

 そして5時20分になると、ついに待ちきれなくなってぼくの机の上に乗ってきてぼくの顔の真ん前にきて睨みつけてンニャ〜。こうなるともう、もう一緒に階下に降りるまでかんべんしてもらえない。灰色猫のモモは催促担当はやらないけど、猫用のランチョンマットを床に敷いてぼくが猫茶碗を三つ用意しているうちに真っ先に定位置について待っている。

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 食事が終わっても飼い主としては暫し猫を交えてまったりとした家族団らんのひと時を…、と思うのだけれど、猫たちは自分たちの食事が終わると「は~い、解散!」みたいに各々のお気に入りの場所に散ってしまう。

 レオは大抵は一階の居間の出窓に陣取る。一階の寝室のベッドの上はクロもモモもお気に入りの場所なのだけれど、これは早い者勝ちなので二匹一緒に居ることはない。

 モモがベッドの争奪戦に負けた時は大抵二階のぼくの机の上で午前中を過ごす。クロのお気に入りの場所は二階の出窓の所で、寝そべって外を見たいのでブラインドが邪魔だと器用に手で広げて外を見ている。

 モモもクロも甘えるのが好きでぼくの膝の争奪戦もあるのだけれど、それだってひとしきり甘えて満足すると、自分のお気に入りの場所に行って寛いでいる。基本的には一人が好きなのかもしれない。

 猫は一人でいてもちっとも寂しそうに見えない。それどころかその佇まいには侵しがたいような、他人が邪魔するのがはばかられるような雰囲気さえ漂ってさえいる。一人で居ることのあの心地よさ、そしてそれで好いのだというあの確信はどこからくるのだろうか。

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美術館で… [新隠居主義]

美術館で…

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 ここのところまたちょっと固めて美術館通いをしている。行きたい気分になるのにムラがあるという自分の性格にもよるのだけれど、美術展の方もどうやら展覧会向きの時期というのがあるらしくて見たいものの会期が重なるというのもあるみたいだ。

 それはもちろん企画展や特別展示のことを言っているのであって、収蔵品をもつ美術館の常設展なら基本的にはいつだって行けるのでその気軽さがいい。でも、大規模な特別展などは世界中から名画の方からやってきてくれる訳で、東京のような大都市に住んでいる役得みたいなものなのでそれも逃したくない下心もあって…。

 ぼくは本当はなじみの作品がゆったりとみられる常設展が好きだ。大好きな西洋美術館の常設展は大昔から毎月のように行っていたのだけれど、あの世界遺産登録の騒ぎでここのところちょっと足が遠のいていて、結構ストレスが溜まっている。

 西洋美術館はルーヴル美術館みたいに規模が大きすぎないので気が向いた時にフラッと行ってお気に入りの作品だけ観てくるなんてこともできる。絵は不思議なもので何度見てもその時の自分の状態で感じが変わってくる、どこか心の鏡みたいな面を持っていると思う。

 あ、そう言えばルーヴル美術館はずっと昔は「ルーヴル博物館」って言っていたような気がする。大英博物館がBritish MuseumでルーブルがMusée du Louvreだから、同じように訳すならルーヴル博物館だと思うのだけど…。概念としては博物館=Museumが一番大きな概念で、その中に美術館(美術博物館)=Art Museumや科学博物館=Science Museumなどのカテゴリーがあるのだと思う。

 それに収蔵品を持たない国立新美術館なんかも、固いことを言えば美術館(Art Museum)ではなくてアート・ギャラリー(Are Galarie)とかアート・センター(Art Centre)とかなんだけど、国立新美術館も英語名はちゃんとThe National Art Center, Tokyoとなっている。国立新美術館という日本名は最初はぼくなんかも違和感があったけれど、今では慣れてしまったなぁ。

 一方、東京都美術館(Tokyo Metropolitan Art Museum)はもともと収蔵品を持つ美術館と公募展や企画展なども行うアート・ギャラリーの両面の機能を持っていた美術館だ。しかし現代美術の収集収蔵機能は後から出来た東京都現代美術館に移行され、大規模なアート・ギャラリー機能は国立新美術館に持っていかれて微妙な立場になってしまっていたけれど、改修後にモネ展や若冲展などで盛り返そうと頑張っている。今後どうなるか楽しみ。

 まあ、細かいことは抜きにしても、常設展のような場所があるというのはとにかくありがたい。前にも書いたけれど、ぼくはサラリーマン時代に仕事で行き詰まって辛い時に何度か西洋美術館に来て救われたような気になったことがある。この静かで時間が止まったような空間に身をおいてゆったりと観てまわると次第に気持ちが落ち着いてくるのだ。

 そして馴染みになった絵の一枚一枚を観てゆくと、それらの絵のどれ一枚として忽然としてこの美術館に現れたわけではないことに気付く。その多くはまず作家自身の中での格闘の末に一つの形として一枚の絵が生まれ、そしてそれは生まれ落ちたと同時に今度はその作家の生きた時代や世間の非難や怨嗟の波にもまれ、その末に時を経てやっと此処にたどり着いたのだと。美術館はその魂の安住の地でもあってほしい。

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 *写真はベルリン旧国立美術館(Alte Nationalgalarie Berlin Germany)
   **写真の大きな絵はルノアールの「ヴァルジュモンの子どもたちの午後(1884)」という作品。


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大人買い [新隠居主義]

大人買い

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 ぼくらの世代には誰でも大人になったら誰気兼ねなく自分のお金で買ってやるぞなんて思った品があるんだと思う。ぼくは終戦後すぐの生まれだから、誰彼構わず日本中が貧しかった。ぼくのすぐ上の世代は、もっと切実で大人になったらアレを腹いっぱい食べてみたい、というような食べることの欲求が強かったかもしれない。

 もちろんぼくらの世代にだって食料が十分あったわけではないから、心の底には飢えた記憶や、空腹への恐れはあるのだろうけど、そこらへんは物心つく前だったから主に親が苦労してくれたんだろうと思う。そして遊び盛りから、小生意気になるあたりに世の中は上向き初めて、新しいオモチャやら遊び道具が出始めてきた。

 ぼくの場合、小学校の中ほどくらいからお小遣い制になったような気がする。だから買いたいものはそのお小遣いをためるか、お正月のお年玉を使うかだったけど、子供のことだからそう計画的にできるわけではない。お年玉は貯金させられたりしてたから、やっぱり欲しいものがあると親におねだりという事になるのだけど、それが中々一筋縄ではいかない。

 家は貧しいという訳ではなかったけれど、とにかくまず我慢しなさいと言われて、それでも粘ると例えば半分まで自分のお小遣いで貯めたらあと半分をだしてあげるとか、2つ欲しいものがあったら1つは我慢するか後回しにする、とか親の方にも子供の言いなりにはならないぞ、という感じがあった。

 それは今でもぼくの中で息づいていて、何か欲しいものが複数あったらまず、一つにして他のモノは後回しにするか我慢するという気持ちが湧いてくる。カミさんに言わせるとそれはただの貧乏性みたいなんだけども…。そんなこんなで親との駆け引きで子供時代を過ごしてきたのだけれど、それでもどうしても手に入らなかったものがあった。

 それは、HOゲージとかいう鉄道模型で、それは当時はなんたってお金持ちの道楽みたいなもので下町の洟垂れ小僧達には手の届くものではなかった。小学校時代は喧嘩仲間のY君が近所に住んでいて、彼の家には立派な鉄道模型があったから遊びに行くと八畳の部屋にレールをしいて遊んだのだけれど、列車には触らせてはくれないので、結局はいつも喧嘩になって帰ってくる。

 結局、そこらへんのフラストレーションはまだ買いやすいプラモデルかなんかに転嫁されていたんだろうと思うのだけれど…。で、大人になって大人買いするようになったかというと、どうも先ほどの貧乏性の方が勝ってしまって、威勢の好い大人買いができない。

 最近、ちょっとハマっているのが元来子供のオモチャのガチャで、見かけるとついやってしまう。もちろんガチャなら何でも良いという訳ではなくて、鳥獣戯画と海洋堂の仏像ガチャに限る。それでも多少大人買いの気分になるのはこれらは普通200~300円のところ100円高い400円なのだ。それを子供をわき目に時には2個連続で買ったりする。なんとも大人げない、大人買い。

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世界は… [Column Ansicht]

世界は…

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  なんか世界がちょっとザワザワしてきたような感じがする。ぼくは確たる政治的信念を持った人間ではないし、~イズムというものを余り信じない方なんだけれども、それでも日本や世界の政治がどんなベクトルをもって動こうとしているのかについては関心もあるし心配もしている。

 政治については全くの素人なので、もちろん何らかの専門的な分析ができるわけではない。しかし、自分の乏しい経験から、自分の身を守るために自分なりに一つの皮膚感覚のようなものを大事にしている。それは政治に関して、
  ①激しすぎる言葉
  ②シンプルすぎる論理
  ③勇ましい言動
この3つに対しては本能的に身構えるようになっている。心のどこかで「ちょっと待てよ」と囁く声が聞こえる。

 経験と言っても各々の項目に対応する明確な体験がある訳ではないけど、考えてみると大きくは大学時代の学生紛争の時の経験と、昔少しかじったヒトラー時代の勉強の影響が大きいと思う。確かに歴史を動かして行くためには大きなエネルギーが必要だし、そのためにはある意味で激情も必要かもしれない。しかしその激情がどこに向かうのか、そのために切り捨てるものは何なのか「ちょっと待てよと」振り返ってみる必要があると思う。

 激しい言葉、シンプルすぎる論理、そして勇ましい言動は時として人を惹きつけるかもしれないけど、その過程で普通なら見えるものが、もしくは見るべきものが見えなくなり、そして自らもそれに酔いしれてゆく危険を孕んでいる。人を否定し、他を排除し、ブルドーザーのように突き進んでやがて熱が冷めた時の惨劇は歴史が嫌という程目撃しているはずだ。いくら時間がかかっても、自分の目と耳と皮膚感覚を動員して自分の頭で考え行動することが大事だと自分に言い聞かせている。





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野心 [Column Ansicht]

野心

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 「野心」という言葉は決して嫌いじゃない。なんか脂ぎっていてギラギラするものを感じる。最近は草食系男子とか色々取りざたされているけれど、若い人の心根のどこかにはそんなものも持っていてほしいという勝手な願望を抱いている。じゃあ、自分が若い時にはそんな野心を持っていたのかというと、まるでそんなことはなかったから、やはりジイさんの戯言といわれそうだ。

 野心という言葉を辞書で引くと「ひそかに抱く、大きな望み。また、身分不相応のよくない望み。野望」この後半のところの[身分不相応のよくない望み]というのは微妙だなぁ。望み自体がよくない内容なのか、それとも身分不相応の大きな望みを持つことがよくないのか。尤も手がすぐ届くような身分相応のものであればギラギラ感などは出てこないし、野心とも呼べないと思うけど。

 ぼくが思うに、野心にも二つの種類があるのではないか。一つは「何者かになりたい」という野心。ビジネスマンなら会社の社長、政治家なら東京都知事、国務大臣そして内閣総理大臣などの地位に上り詰める。もう一つはそういうものよりは「何事かを成し遂げたい」という野心。この二つは互いに絡み合っていることもあるし、その片方だけがその人の野心を形作っているという、場合もあると思う。

 野心というと政治家がすぐ浮かんでくるけど、ぼくは若い頃ひょんなことから国会議員の秘書のようなものを一年間やったことがある。その時(その時代のという意味でもあるけど)でも政治家は金とか裏の顔とか色々なことが言われていたけれど、基本的には優秀な人たちであると言えると思った。

 マスコミなどは彼らが金銭欲や権力欲だけで政治家になったようにいう事もあるが、彼らはもし政治家になっていなくても世間ではそこそこの成功は手に出来たに違いないという感じはしたし、歳をとっても野心のようなギラギラしたものをなくしていないことも凡人から見れば稀有なことに思えた。

 でも、少しその世界の息を吸ってみるとその彼らの野心は政治家生活のどこかの時点で、何事かを成し遂げたいという野心から、何者かになりたいという野心へと変質していっているのではないかと思い始めた。それはぼくの若気の至りの見方で、何事かを成すためには、まずそれにふさわしい何者かにならなければならないのだ、という事があるのかもしれないが…、どこかの時点で後者のほうが自己目的化していったのではないかと。

 考えてみれば、明治維新を成し遂げた幕末の志士の野心の核は「何事かを成し遂げたい」という野心だったと思う。彼らは藩主にも殿様にも公家にでもなりたかったわけではない。それはもう一つの野心の対象である「何者かになる」、という「何者」自体が崩壊しかけていた時代だったからだろう。同様に戦国時代も野心の対象は天下統一を成すということが野心の対象だった。変革、混迷の時代にはそういう野心をもつ人物が出てくるのかもしれない。

 今世界は混とんとし始めているし、さらに混迷を極めるだろう。こういう時代には一方では現状に固執する草食系人間が増殖してくると同時に片方では野心を持った新たな人物なり勢力なりが次々と登場してくるに違いない。「何者かになろうとする者」「何事かを成し遂げようとする者」「何事かを成し遂げるために、何者かになろうとする者」もちろん、彼らが成し遂げようとする何事かが、万人にとって幸せなこととは限らない。ぼくらが自分の身を守るためにも今こそ目を凝らして彼らの野心の中身を見据える必要があると思うのだけれど。



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通夜の帰り道 [新隠居主義]

通夜の帰り道

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 通夜の帰り道。

 先月、大学院時代の恩師の教授を亡くしたばかり、今日はもっとも親しかった元上司の通夜。気持ちが萎える。こうして別れに慣れてゆくのだろうか。歳をとると、新たな出会いが減り、逆に別れが多くなる。勢い「サヨナラだけが人生さ」という気持ちになる。それとも歳をとってもいつも新たな出会いを持ち続けろということか。

 元上司のAさんとはぼくの会社勤めの一番苦しい数年間を経営管理部門で一緒に過ごした。ぼくは株や土地などには手を出していなかったので世の中が浮かれたバブルの最中でも個人的には何も良い目には合ってはいなかったけど、バブル崩壊後はそのツケはしっかりと会社に降りかかってきて命を削る思いをしなければならなかった。

 Aさんとは毎晩オフィスをあとにしても会社の近くの食堂や居酒屋で喧々諤々の論議をして道筋を探り続けた。そんな論議の中でアイデアが出ることも何度もあった。そんな時はぼくが最終電車で帰宅した後、明け方までかかってそのアイデアをまとめて書類にして翌朝さらにその案を二人で練り直した。

 彼はその書類を食い入るように見て、でも昨晩終電で別れてからぼくがその書類をいつ作ったかなどという些末な事には、当たり前だけど関心などない様子だった。生来、身体も心も強いほうでない自分は激務とストレスで身体はボロボロになっていた。蓄積疲労のためか胃潰瘍と頚椎症の悪化で毎年年末には短期間入院するようになった。医者には職業病だと言われた。でも、不思議なことに今でもその時代のことになんら悔いはない。

 ある時、ぼくの会社のブランド名が絡む商標権の紛争が他社と起きて、それがこじれて法務部では手が追えずぼくの所に回って来たことがある。下手をすれば自社ブランドが使えなくなる重大だが嫌な案件を押し付けられたような形である。ぼくは追い詰められたようで悩んでいたが、その時Aさんが「何かあれば俺が責任をとるから、お前のやりたいようにやってこい」と背中を押してくれた。その言葉に今までの経緯に相手の理不尽さを感じていたぼくも何としてもやらなければという気になって相手方にのりこみ、ギリギリで切り抜けたこともある。

 考えてみれば、上司はまさに昭和的で豪胆な人だった。彼の祖父はNHKテレビの朝の連続ドラマにも登場したような立志伝中の人物だったのだけれど、あの豪胆さは祖父譲りだったのだろうか。反面、ずっと独身だったAさんは半生を通じて周囲から結婚を反対され続けてきた女性と、70歳近くになって会社を退いてから結婚するなど、言葉は陳腐に響くかもしれないけれど「純愛」の人でもあった。

 通夜の後、昔の仲間数人と少し精進落しをしてからみんなと別れて一人で帰る道すがら、ガラにもなく涙がこぼれてきた。昔だったらそんな弱い自分が何とも情けなくて耐えきれないくらいに嫌になったのだろうが、その感性さえも鈍くなったのか、そういう自分がいてもいいのかなと…思えた。ライナーの駅のガラスに映った既に老人になった自分の姿もちゃんと覚えておこうとスマホのボタンを押した。

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猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その22~ [猫と暮らせば]

猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その22~

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 ■老いと猫

 …老いるってことは病(やまい)るってことと同じ。
 だけど、それは闘うんではなくて、猫とつきあうように、病とか老いに静かに寄り添ってやるもんだと思うんだよね。一緒に連れ添っていくというか。

 よく、頑張んなきゃとか、しっかり生きなきゃとかいうけど、頑張んなくてもいい、寄り添っていけば。力まずに、それも自分だという風に生きていくと、すっと楽になる。そんなこと思ったの、つい三、四日前なんだけどね。(笑)…

 
(緒形拳「私と猫」)


 結婚してから初めて飼った猫タマ。ぼくが四十の時、その時の上司に頼まれて白い子猫をひきとった。何も考えずにタマと名付けた。臆病だったけど病気一つせず18年の天寿を全うした。この18年間はぼくにとって最も忙しい時期でもあった。

 まだ暗いうちに家を出て、帰ってくるのは大抵深夜過ぎ。子供の頃からずっと猫がいて一緒に育ったようなものだけど、自分で「飼う」というのは初めてだった。でもタマが来て感じたのは子供の時とおんなじで飼うというより一緒に暮らすという感覚だった。

 タマのおかげで家に居る貴重な時間がどれほどくつろいだものになっていたか、それが寄り添うということだったのだと、最近になって実感するようになった。猫の持つ独特の距離感ときまぐれさが却ってさり気無い寄り添い感を作り出してくれる。

 2005年の5月3日、タマはカミさんの膝の上で突然逝ってしまった。タマの晩年は穏やかなものだった。ソファーの陽だまりの中で寝ることがなによりも好きだった。自分の老後もこうだといいなぁ、と思いつつその隣にそっと座ったことも何度かあった。

 今、ぼくも歳をとって目はかすむし、歯は抜ける、腰は痛いし息切れもひどい。でもそれは抗ってみても仕方のないことだと思うようになった。緒方拳の言うように猫と暮らすみたいに、老いに寄り添ってやるというのも大事かもしれない。まぁ、言う程簡単にはいかないと思うけど…。


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 *緒方拳のこの文章は2008年の雑誌「猫びより」7月号に乗ったものです。その後この緒方拳を含め何人もの著名人がこの雑誌で自分の猫を語った部分を集めて「私と猫」という一冊の単行本になりました。

 緒方拳が亡くなったのは2008年の10月、71歳でした。この記事が載ったのが2008年の7月号ですから、ということはこの雑誌が取材していくらも経たないうちに亡くなっているということになります。

 この頃にはご本人も自分の病状には覚悟をしていたようなので、彼の口から発せられたこの言葉には実感と凄味があるように思います。彼が愛ネコの「オーイ」達と写っている写真はまさに枯れた大木のようでした。

 **緒方拳の自宅は京浜東北線沿いにあって細長い彼の家の庭をそとネコがいつも通り抜けていました。彼は通り過ぎる何匹かのネコに、「品川、大井、蒲田、川崎」などと駅名をつけていたのだけれど、その中の茶トラの「オーイ」だけが居ついて家猫になったらしいです。


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猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その21~ [猫と暮らせば]

猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その21~

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 ■ 猫は、毛皮を被った道楽者である。(テオフィル・ゴーティエ)
  The cat is a dilettante in fur. (Theophile Gautier)
  

 確かに猫を見ていると「額に汗して」というタイプではないなぁと思う。冒頭のように19世紀のフランスの詩人テオフィル・ゴーティエ(名前は知っていても作品は読んだことはないけど…)はそれを道楽者と表現した。でも、道楽者というと落語に出てくる若旦那みたいに、吉原通いや芸者衆に入れあげて挙句の果てに親に勘当される(落語「船徳」「湯屋番」「唐茄子屋政談」のように)みたいなイメージがあるのだけれど、ちょっとなんか違うなぁ。

 そこで元の文章を見ると英語では「The cat is a dilettante in fur.」でもゴーティエはフランス人だから当然フランス語に違いないのでフランス語では「Le chat est un dilettante en fourrure.」となっている。いずれも「道楽者」というところには「dilettante(ディレッタント)」という言葉が使われているので、ここら辺が彼が言いたかったところなのだろうか。

 ディレッタントという言葉は調べてみると、「専門家や学者ではないが、文学や芸術を愛好し、趣味生活にあこがれる人。つまり好事(こうず)家」となっているけど、日本ではディレッタントと言うとアマチュアとか生半可に知識などをひけらかす人を小ばかにしていうことが多いらしいが…。

 でも、西欧ではこのディレッタントという言葉にはそういう嘲笑的な意味合いは無いようだ。むしろ尊敬の香りさえ漂っている。例えばウィーン楽友協会(Gesellschaft der Musikverein in Wien)の設立から長いことその演奏活動を支えていたのはディレッタントと呼ばれる演奏家たちで、彼らは音楽以外にほかに職業を持っていたというだけで演奏技術はプロの演奏家たちと何ら変わらなかった。敢えて今風に言うなら「玄人はだし」という事かもしれない。 

 では猫はいったい何のディレッタントなのかといえば、それは優雅に人生を楽しむディレッタントなのかもしれない。いつも居心地のいい場所に陣取って、自分の関心の向くままに生きようとしている。似たような表現になるけど、寺山修司はもっと過激な表現で「猫は財産のない快楽主義者」とも言っている。ぼくらが日常生活で目いっぱいになって心の余裕がなくなってしまっているような時、猫を見てフト肩の力が抜けるような気になるのは、そんなところから来ているのかもしれない。




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醜聞 [TV-Eye]

醜聞

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 ■ 醜 聞

 公衆は醜聞を愛するものである。白蓮事件びゃくれんじけん、有島事件、武者小路事件――公衆は如何にこれらの事件に無上の満足を見出したであろう。ではなぜ公衆は醜聞を――殊に世間に名を知られた他人の醜聞を愛するのであろう? グルモンはこれに答えている。――
「隠れたる自己の醜聞も当り前のように見せてくれるから。」

 グルモンの答は中あたっている。が、必ずしもそればかりではない。醜聞さえ起し得ない俗人たちはあらゆる名士の醜聞の中に彼等の怯懦きょうだを弁解する好個の武器を見出すのである。同時に又実際には存しない彼等の優越を樹立する、好個の台石を見出すのである。「わたしは白蓮女史ほど美人ではない。しかし白蓮女史よりも貞淑である。」「わたしは有島氏ほど才子ではない。しかし有島氏よりも世間を知っている。」「わたしは武者小路氏ほど……」――公衆は如何にこう云った後、豚のように幸福に熟睡したであろう。


 (芥川龍之介「侏儒の言葉」)



 今月の12日はぼくの好きなナンシー関の命日だったのだけど、彼女が生きていたら今の芸能界の諸々をどう見ていただろうかと想像したりする。最近は余りリアルタイムでテレビを見ることが少なくなったし、芸能界のニュースも「んなこと、どうでもいいじゃん!」と思うのだけれど、ナンシー関はそうではなかった。

 彼女は偉大なるミーハーというか、テレビに登場するスターや芸能人のあり様をテレビのこちら側で穴のあくほど見つめて、直感的に(とは言いつつある意味では極めて論理的に)本質的なものを喝破するという能力を持っていた。そこが偉大なるという所以だと思う。

 ナンシーは言う「わたしは"顔面至上主義"を謳う。見えるものしか見ない。しかし目を皿のようにして見る。そして見破る」ぼくらが半ば通り過ぎる背景のように無意識に観ているテレビの画面の向こうに映り込んでいる時代の匂いや、人間や大衆の根っこをナンシーは目を皿のようにして観ていたのだ。

 天野祐吉さんがまだ存命のころ、時々ぼくのブログにコメントを入れてくれることがあったのだけれど、以前ぼくがナンシー関のことについて少し書いた時もそこにコメントを入れてくれたことがあった。天野さんはナンシーと仕事をしたことがあったらしいのだが、彼はナンシーの眼力が怖かったと言っていたことを思い出した。


 ナンシー関が目を皿のようにしてみていた「芸能人」だけど、ぼくは若い頃から落語が好きなので「芸人」という言葉に畏敬の念を抱いていた。今は「お笑い芸人」などどちらかと言えば軽い感じで使われているような気がする。それに対してこのなんだか良くわからない「芸能人」という言葉の方が使われるようになった。芸[能]人という位だから芸人よりも「能」があるみたいなのだが、実際は歌や踊りや話芸などのいわゆる専門的芸を持っていない「芸no人」を指している場合が多い。別名「タレント」とも言う。

 それじゃあ、専門的芸のない彼らは何をもってメディアの海の中を泳ぎ回っているのかというと、これまたよくわからない「キャラ(キャラクター)」というものを武器にして渡り歩いている。曰く、良い人キャラ、おバカキャラ、外人キャラ、インテリキャラ、キモキャラ、いじられキャラ、カマキャラそしてヒールキャラつまり嫌われ者キャラ等々。

 これらを敢えて「芸風」と言えば言えないこともないけれど、そもそもその芸風の芯になる「芸」がない中での芸風なのでなかなか難しいことも確かだ。例えば、嫌われ者のヒールなぞは皆から100%嫌われてはメディアから駆逐されてしまうので、時々は無邪気さや、ひたむきさや、人情味や家族思いなどのプラス要素をタイミングをみて垣間見させなければならない。

 それによって、いつもはあんな事言っているけど、もしかしたらあの人も本当は良い人なのかも…と、でもこれも出しすぎて元のヒール感を消してしまう程になってはいけない。そのさじ加減が難しい。時折泥まみれになってゲームで頑張るデビ夫人も、さりげなく野村監督が漏らす野村沙知代のプラス情報だってヒールキャラのコントロール情報の一つには違いないのだ。

 一方、良い人キャラのトップを走っていたのがベッキーだった。ところがいくつかあるキャラタイプの中でこの「美人で良い人」というキャラは実はとてもリスキーで脆弱性を持ったキャラなのだと思う。先のヒールのキャラが実は良い人かもしれないというアンチ情報が過度に流れてもヒールキャラの力は弱まるかもしれないけれど、致命的ではない。もちろんifレベルだけど、例えば、おバカキャラのスザンヌが学生時代成績が良かったり、ボビー・オロゴンがホントは流ちょうな日本語が話せたり、ウエンツ 瑛士が実は英語がペラペラだったとしても、それは致命的ではない。

 ところが、良い人キャラにおいては、実はそれ程良い人ではないかもしれないという情報はそのキャラ芸能人に致命的になることがある。ましてそのキャラの主が美人とあればなおさらだ。冒頭の芥川龍之介の言葉にあるように、それは大衆の持つジェラシーに火をつけ手の付けられない事態を招くからだ。

 ちょっと意味はズレるかもしれないけど、それはニーチェの言う一種のルサンチマン(ressentiment)にも通ずる膨大なエネルギーを持っている。これが芸人であれば芸とキャラに一線を画することができるし、そもそも芸自体に善悪はなく巧拙があるのみだから上手くやれば逃げ道はあるのだ。ところがその芸がないキャラ芸能人にとってはキャラ=人格という図式があてはめられてしまい、風圧をまともに受けることになる。

 ベッキーの場合、報じられたSNSでの「サンキュー、センテンス・スプリング(文春)だね!」という一言が良い人キャラにとどめを刺すことになった。その後は龍之介の言うような大衆のジェラシーに火が付いた。彼女は先日復帰をしたらしいのだけれど余程戦略を練り直さないと難しい気がする。大転換してヒールキャラに転向することもあり得るが、それだってそう容易ではない。一つだけ考えられるのは芸no人から「芸」のある存在への転換だ。どこかで映画の脇役でも良いから演技を高く評価されて…。う〜ん、ナンシーならなんと言うだろうか?


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秋葉原、アキハバラ、Akihabara [Ansicht Tokio]

秋葉原、アキハバラ、Akihabara

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 秋葉原をさまよいながら思った。この街はつくづくかわった街だ。考えてみたら、もう半世紀以上も見続けているけど、この街はアメーバのように刻々とかわり続けている。今は電子とサブカルが一体となったカオスのような街になっている。この数十年間、ぼくはおそらく二週間か三週間に一度はこの街に来ていると思う。と言っても、その目的はずっと同じだったというわけではない。この街が変化してきたように、この街を訪れるぼくの目的も時代によって変化してきた。

 ぼくが秋葉原を初めて訪れたのは中学生の頃、鉱石ラジオ(今では分からない人もいると思うけど)を作るとき部品を買いに来た時だと思う。今でも一部は残っているけど、その頃の人でごった返しているガード下の部品横丁の活況はまだ脳裏にはっきりと残っている。ぼくは兄のように工作少年ではなかったので、アンプなどを組み立てるために部品横丁に通うということはなかったのだけれど、その頃から出始めてきたテープレコーダーやトランジスタ・ラジオに興味があってそれらの新製品を見ているだけでも楽しかった。

 高校から大学に進んだころから音楽を聴き始めた。いわゆるオーディオ時代の幕開けなのだけれど、その頃は丁度今のパソコンやゲーム機等のデジタル商品が目まぐるしく入れ替わるようにアンプやスピーカーやテープレコーダーそしてLPプレーヤー等の分野で新しい商品が次々に登場してきた。オーディオの分野でもSONYやAKAI等の日本のメーカーもその存在感を増していたけど、やはり憧れの的はJBLやALTECそしてTANNOY、マッキントッシュやオルトフォン等の海外製品だった。秋葉原に通う一つの目的はオーディオ視聴室を回って高嶺の花のそれらを聴き比べることだった。

 会社に入って少しして何とか自分なりのオーディオ装置を持てた頃には、皮肉なことに音楽会に行く時間的余裕などは無くなってしまった。それまでは音楽会に行くとその響きを忘れないうちに家に帰ってオーディオ装置の調整などしていたのだけれど、それも出来なくなってしまった。それでも会社が秋葉原に近かったこともあって、昼休みなどにはレコードや新しいオーディオ製品に触れるために秋葉原に行った。そのうちに秋葉原で目にし始めたのがその頃登場し始めたマイコンと呼ばれたパーソナルコンピュータだった。

 いわゆるワンチップ・マイコンであるNECのTK-80は結局手に入らなかったけど、それ以降ぼくが秋葉原を訪れる目的はパソコンがメインになっていった。それは同時に秋葉原がオーディオからITの街へと変貌してゆく時期でもあったのだ。最盛期には秋葉原の街にはいたるところにPC関連の部品屋が並び、中東のテロリストも手作りのミサイルの電子部品を秋葉原で調達しているというまことしやかな噂が流れたのもこの頃だ。

 ぼくがやっと音楽の趣味に戻り始めた90年代にはメディアはもうLPからCDに変わっていた。LP時代にも通っていたイシマル電機もCD専門館が出来て、そこにはカリスマ店員か何人かいてクラシックでも指揮者とか年代を言えばたちどころに適切な推奨盤を見つけてくれたり、ジャズでも同じように半端なく詳しい店員がいたものだ。今ではネットのデータベースで調べればなんということはないのだけれど、彼らと話す中で得られた情報は温かみがあってなんとも有り難かった。

 しかし、その内大型店のCD等の音楽関係の売り場は次第に縮小されるようになり、ラジオ会館などにアニメやフィギュアが並ぶようになって、ついには中央通りのAKB48劇場に発したアイドル、サブカルの熱波が秋葉原を覆うようになる。実はこの背後にはそれまで秋葉原の街の外観を支えていた大型電気店の凋落がある。この時代になるといわゆる大型電機量販店が全国にできることによって白物家電などの電気店製品における秋葉原の優位性は消えかけていた。サブカルはその穴を埋める形で増殖していった。

 今の秋葉原は全くのカオスと言っていいかもしれない。電子もあるし、カメラもあるし、サブカルもある。ある意味ではそれは戦後のモノのない時代に闇市のようにジャンク品や電機部品の屋台が並んでいた秋葉原の再来のような感じもする。そこにはまだ独特の熱が残っている。ぼくが子供のころ秋葉原に感じたこの街独特の「うさん臭さ」や独特の「」が若者や外国人を引き付けているのかもしれない。

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→ 花と蝶 ~アキハバラの凋落と変貌~

上の記事「花と蝶」は9年前の2007年に書いたものですが、
その頃とも事情は変わってきているようです。
その頃にはまだいたCD売り場のカリスマ店員も
今では何処に行ったのでしょうか。
というか店員どころか今ではそのCD館もありません。
会社自体も今では中国系の家電量販店になっています。
時代は動いています。


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Nikko 至福の時 [新隠居主義]

Nikko 至福の時

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 日光の小田代が原の湿原を見渡すデッキに着いたのは朝の四時少し過ぎだった。運よく赤沼駐車場を出る始発の低公害バスに乗り込むことができた。昔は何度か奥日光から歩いてこの小田代が原に来たことはあるけど、こんな朝早く来たことはなかった。

 デッキでは同じ始発のバスで来た人たちが三脚を並べ始めていた。いつもの写真仲間と、ベトナムに赴任していた友人も日本に戻ってきたので久々に四人そろっての撮り旅。昨夜は(というか午前3時に出たので、先ほどといったほうが良いけど…)日光に住む友人のところにお世話になった。

 小田代が原に着いた時には湿原のあたり一面には霧が立ち込めていた。日はまだ男体山の向こうにある。一緒に行った友人は朝霧を狙うと言っていた。ほかの一人が皆は朝霧の向こうに「貴婦人」が現れるのを待っているのだという。ぼくは知らなかったのだけれど、湿原の向こう側に貴婦人と呼ばれる背の高い白樺が一本生えているらしい。その貴婦人が朝霧の中に姿を現すのを待っているらしい。

 朝霧も日の光も刻々と変化してゆく。貴婦人とやらは中々姿を現さないけれど、この待っている時間がぼくにとっては至福の時間でもある。空気に拡散してゆく光の変化に心を奪われ、つい撮るのを忘れてしまう。まだ、レンズの目よりも自分の目の方が可愛い証拠だ。というより、自分の稚拙な能力では心に焼き付くほどの映像は残せないので、勢い心のフィルムの方に残しておこうという意識が働いているのかもしれない。

 貴婦人はともかく、朝霧に映える日の光が美しい。ちょっと影に入ると墨絵のような…、そして霧の晴れ間から太陽がのぞくと空気は一変してオレンジ色に変わる。いつか見た平山郁夫のパルミラ遺跡や仏教伝来の絵に出てくる砂漠の太陽のようなあのオレンジ色。でも、それは一瞬の出来事だ。ふと、我にかえって、あ、撮らなくちゃ、と思いブラケットで十数枚撮る。今回も小さなミラーレス。やっぱり景色は一眼でなくちゃ、なんて言いながら軽さの誘惑にいつも負けてしまう。

 数年前同じコースを歩いた時のカメラと三脚のずっしりとした重さが…。今回は幸い往きも帰りもバスに乗ることができたので助かった。このあと千手が浜の湖畔まで行って、ちょうど盛りのクリン草を見ることができた。前日までの雨が嘘のような晴れで何とも気持の好い一日だった。仲間と歩ける幸せに浸った至福の日光だった。



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[Tour route]
・06/10…正午東京駅丸の内集合、高速道路で日光へ→日光友人宅→竜頭の滝茶屋(撮影)→三本松駐車場・戦場が原展望台(撮影)→友人宅泊
・06/11…友人宅am3:00出発→赤沼駐車場・am4:00低公害バスにて小田代ヶ原(撮影)→低公害バスにて千手が浜・九輪草(撮影)→低公害バスにて赤沼駐車場に戻る→高速道路で東京に


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[写真上から]
小田代が原の朝霧
龍頭の滝茶屋
千手が浜のクリン草
千手が浜
小田代が原に向けたカメラ

日光、春まだき

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PLUTOの先駆者たちよ [新隠居主義]

PLUTOの先駆者たちよ

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 ■ロボット三原則

 第一条:ロボットは人間に危害を加えてはならない。
 また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。

 第二条:ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。
 ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。

 第三条:ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、
 自己をまもらなければならない。


 (アイザック・アシモフ  2058年の「ロボット工学ハンドブック」第56版)



 この間、原宿の太田美術館に行った帰り駅に戻る途中、携帯電話会社のビルの中にロボットが3台(もしくは3基)置いてあるのがガラス越しに見えた。ここら辺はどこを見回しても外国人だらけなのだけれど、ビルの中でも外国人観光客らしき人が二台のロボットとパラパラみたいなのを踊っている。それを仲間が面白そうに写真を撮っている。左にある三台目のロボットはこれも外国人とみられる少年と手を取り合って踊っている。なんかとても未来的な光景だなぁ。

 ここ数年のロボットの進化は目まぐるしいものがある。目に見える点でいえば、二足歩行のできるいわゆるヒューマノイド型の進歩。そして頭脳である人工知能(AI)の方の進歩も目覚ましいものがある。こういう光景を目にすると、どうしてもぼくの大好きなあの漫画「PLUTOプルートゥ」の世界を思い起こしてしまう。PLUTOは浦沢直樹の傑作漫画だけど、その原作は手塚治虫の鉄腕アトム「地上最大のロボット」のリメイクだ。リメイクと言ってもそれは完全に浦沢直樹のアトムになっている。

 それは人間とロボットが共生するようになった時代の話。ロボットは「感情」を持ち始め憎しみや愛との相克に悩み始める。ロボット社会の枠組みとして1950年代にアシモフが提起した「ロボット三原則」や手塚治虫の「ロボット法」などにその時代のロボットも規制されているのだと思うが、感情を持ち始めたロボット達にとってそれはどのように映るのだろうか。

 理系の人はそんなことは技術知識にうとい文系の戯言だというかもしれない。確かにチェスや将棋で人工知能が人間を負かそうともそれを作っているのは人間だからだ。でも、すっかりそういうスパンの時間軸を見失ってしまったぼくらにとって、考えるすべもない百年単位の時間の向こうの未来では、既に等差から等比級数的な発展へと踏み込んでしまった科学技術がどんな姿になるのか誰にも想像はつかないはずだ。もっとも、その時に人類がまだ存続していればの話だけれど…。

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眼差しの意味 [新隠居主義]

眼差しの意味

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 ぼくがよく通るJRの新宿西口から都庁に行く地下道のところに最近ローラの大きな写真の載っている広告がでて、そこを通るたびになんか睨まれている感じがする。日本に暮らしているとこういう風にストレートに相手を見る眼差しというものに中々出会わないし、もしそういう眼差しで見られたらそれは何か特別な意味があるのだと…。

 睨まれたから言うのじゃないけど、視線、眼差しというものは、どうやらぼくら人間も含めて動物にとっては重要な意味を持っているらしい。よく言われるのは、山の中でクマに出会ったときは死んだふりしたり、背中を見せて逃げてはいけないらしい。そういう時はじっとクマの目を見て徐々に後ずさりするのが正しい対処らしいのだけれど、ぼくにはそんな自信はない。本能的に背中を見せて一目散に逃げ出してしまうと思う。

 逆に、例えば慣れていない犬や猿の目をじっと見てはいけない、つまり視線を合わせてはいけないといわれる。それは敵意があることを意味するらしい。猫は目が合うとプイと目をそらしてしまう。その意味は動物によっても違うのかもしれない。人間にとってもそんなことがありそうだ。ぼくが学生の頃には不良がよく「ガンをつけた」といって絡んできたことがあった。相手には自分と目が合ったことが敵意の存在に感じられたらしい。何だかサルみたいだ。

 驚いたのは先日ニュースを見ていたら、義理の父親だかの男が三歳くらいの自分の子に、その子が自分に「ガンをつけた」と言って蹴って殺してしまったという事件が報じられていた。こうなると、そいつはサル以下だけど…。考えてみると子供のころ人の目をじっと見るのは失礼だから気を付けるようにと言われた覚えがある。それに会社の新入社員の頃の教育でも話すときは相手の目を見ずにネクタイのあたりを見ると良いと教わったような気もする。

 ところが、そういう文化の環境で育って二十歳をちょっと過ぎた頃ドイツに行ったら、話すときは「ちゃんと」相手の目を見て話しなさいと度々注意された。え、相手の目を見て話すことが「ちゃんと」したことなんだ。それは失礼ではないんだ。ところが長いこと当時の日本的な習慣の中で育ったのでなかなかその「ちゃんと」ができない。そうすると、それは自分に自信がないのだと受け取られる。困った。今では日本でも相手の目を見て話すことが真剣さや誠実さの表現になると受け取られるようになったようだけれど…、中々慣れない。

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眼差しにはまだまだ不思議なことが沢山
ありそうで、興味は尽きないです。


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Dancing All Night [新隠居主義]

Dancing All Night

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 大桟橋をぶらついている間に日が暮れてあたりはすっかり暗くなった。一緒に行った中の一人が家が遠いので八時過ぎには横浜から電車に乗りたいという。関内当たりで軽く食事をして…とするともういくらも時間がない。急にあわただしくなって急ぎ足で管内の駅に向かった。

 途中高架の下を通る。そこは赤レンガ倉庫のあたりから大桟橋まで歩行者専用の道があって、山下臨港線プロムナードと言うらしいけど、見晴らしも良いしゆったりと歩けるところだ。ぼくはこの高架下が好きだ。というのも、ここはよくCMの撮影をしていたり、若者が遊んでいたりするのでちょっと立ち止まって見ているのも楽しいし、場合によっては写真を撮ってもみたくなる場所なのだ。

 ところが、ここら辺から皆俄然早足になってきた。こういう時に限って、撮りたいような光景が広がっているものだ。そこでは若者数人が広場の端にあるサーチライトを舞台のスポットライトに見立てて影遊びのようなものをやっている。音楽がなっているので、それに合わせて若者たちも影も踊る。

 首から下げているぼくのミラーレスは望遠のズームになっているのでレンズを変えている暇などない。皆はズンズン先に行っている。結局、ポケットに入れていた小さいデジカメで二枚だけ撮ることができた。もうちょっと、ゆっくり撮りたかったなぁ。というより、若者たちの姿を見ていたかった。

 また早足で歩きだしながら、もうずっと長いことダンスなんてしてないなぁ、昔のことが頭をよぎった。ダンスといったって大昔に数回ディスコ(「クラブ」ではない)に行ったのと、ドイツのワイン祭りで酔っ払って一晩中ワルツを踊りまくったことくらいしか記憶にないけど…。ああダメだ、ちょっと、早足で歩いただけで息切れがしてくる。今はダンスどころではない。

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Blue Light YOKOHAMA [新隠居主義]

Blue Light YOKOHAMA

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 ここのところ二週続けて横浜に来ている。連休の始めには韓国の留学生達と連れ立って横浜散策に、そして昨日は久しぶりに写真仲間と。最近あまり体調がすぐれないので放っておくとどうしても家に居たい気持ちに負けてしまう。意識して動くようにしないと…。ということで連休中は横浜と近場の美術館に。

 連休中だから、もちろんどこへ行っても人・ヒト・ひと。桜木町で待ち合わせて野毛の飲み屋横丁から日ノ出町、黄金町へ。途中で一休みし、さらに赤煉瓦倉庫そして最終的に大桟橋にたどり着いた。なんだか人ごみにあてられたようで、段々シャッターを押す回数が減ってゆく。ダメだなぁ。

 カメラは軽いミラーレスとポケット・デジカメなのにとても重く感じる。夕方やっとのことで大桟橋にたどり着くと、街なかほどは人が居ない。ウロウロしている内にあたりは薄暮(はくぼ)になってきた。ちょっと強めだけれど頬にあたる風が気持ちいい。対岸の街並みと大観覧車に灯がともり始めて夜景ショウが始まる頃になると、これからはカップルの時間だ。徘徊中のオジサンたちには関係ないけど、それでもなんとなく心の中で軽くリフレインしている。

 ♫ 街の灯りが とてもきれいね ヨコハマ ブルーライト・ヨコハマ~ 

 振り向いて、街と反対側の方をみれば、そこは確かにブルーライト・ヨコハマ。いいなぁ。でも、写真については今回もいろいろ反省点が。自分ではわざわざ撮りに行くほどの写真根性がないもんで、撮影に誘ってもらえるのがなんともありがたい。横浜に撮りに来るたびにちゃんと撮れなくてがっかりするけど、まぁのんびりとこれからも撮り続けようと思ったりして…。

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街と言う舞台 [Ansicht Tokio]

街と言う舞台

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 ■灰色の舞台

 
早朝の街は雲量約九
 都市を悪夢の中に忘れてきた

 ネオンは夜の雨で漂白され

 この街の歴史
 この街の地理は
 全く百科事典の三四行で
 乾いた足音ひとつ聞こえない

 確率零なる挨拶の機会

 地図をもたぬ不安に
 ふと素直になりながら
 ボール紙で街路樹をつくる

 灰色の舞台 青い童話

 早朝の街は湿度約九十
 そしてやはり無機質のような…
 僕は足を速める

  (「二十億年の孤独」 谷川俊太郎)




 ぼくはちょっと離れた処から街の様子を観察するのが好きだ。視界の中の街の一画を頭の中で切り取ってそれを舞台に見立てる。舞台の上を通行人A、通行人Bが横切って行く。中にはちょっと位セリフのありそうな脇役級の若い女性が意味ありげに通り過ぎて行く。そうこうしているうちに舞台中央の書き割りが開いて舞台裏からヘルメットのおじさん達が立ち現れる。

 工事の警備のおじさん達らしく、朝礼が終わって各自の持ち場に行くのか。そのうち一人のおじさんがラジオ体操みたいな格好で身体をほぐし始めた。「昨日はチョット飲みすぎちゃったなぁ~」なんて思ってるのかもしれない。さて、これからこの舞台上でどんな情景が展開されるのか。

 ここでは視界の中の切り取った街の一画を舞台に見立てて鑑賞する訳だけど、この「見立て」というのは日本の美意識もしくは鑑賞法の一つの特徴でもある。見立てとは何かをちがった別のものになぞらえて鑑賞することだが、日本庭園なんかはそれこそ見立ての塊みたいなものだ。

 俳句や和歌なんかにも見立てがよく登場する。落語だって噺の中で手拭いや扇子を色んなものに見立てている。見立てとは、元々は貧しくてモノが十分にないとか、その場では現物が手に入らないような状況で苦肉の策で発生したのかもしれないけれど、それは長い時間の中でぼくたち日本人の精神の遊びのようなものにまで昇華されてきた。

 見立ては、やがて茶の湯のように高い抽象性や簡潔性を伴った美意識へと繋がっていったような気がする。それはやっと現代になってポップだモダンだと称するような美の存在に世界が気づく遥か昔のことだ。ぼくは昔を過大に評価したり、美化したりするのは余り好きじゃないけど、これはちょっと凄いと思う。で今、溢れるようなモノに囲まれて、ないモノが無い。見立てる必要もない。もしかしたらぼくらの精神の中までモノでいっぱいなのかもしれない。ぼくらは今見立てのような精神の遊びを少し忘れていないか。


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 *「見立て」というのはと面白い言葉で、「あの医者は見立てが巧い」というと病気の診断が上手と言う意味だし、「このネクタイはカミさんの見立てなんだ」というと奥さんが選んだということですね。

 また「このまま円高が進めば100円割れもあるというのが専門家の見立てだ」と言えば予測だし、もちろん「この庭園ではあの築山を富士山に見立てている」というのは、富士山になぞらえているということです。

 知らなかったのですが、「見立て殺人」という言葉があるらしく、これは最近はやりのミステリー等で伝説や童謡などに見立てた連続殺人事件や、それを匂わすような操作のされた現場のある殺人事件などを言うらしいです。


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東京の空の下 [Ansicht Tokio]

東京の空の下

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 ■花が葉になる東京よさようなら (「草木塔」種田山頭火)

 桜の花が散って、青々とした葉ばかりの木になると山頭火のこの句を想い出す。山頭火は明治37年、22歳の時に早稲田大学を中途退学して故郷に戻った。神経衰弱がひどくなっての事だったと思う。そして30年後の昭和11年東京で開かれた自由律俳句誌「層雲」の大会に出るため東京を訪れた。山頭火はそのときもう52歳になっていた。この句はその大会が終わり東京を去る時に読んだ句と思われるのだけれど、彼の東京との決別の気持ちが現れているような気がする。この6年後に山頭火は58歳で亡くなっている。

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 昨日カミさんと日本橋にでかけた。三井記念美術館で「北大路魯山人の美」と銘打った展覧会が開かれているので、それを見てから銀座に行って熊本県物産館で買い物と寄付をして来ようという算段だった。土曜日でも午前中とあって美術館は左程混んではいなかった。

 魯山人と言うと美食家でも有名だが、その幼年期は悲惨とも言えるものだったらしい。その魯山人の悲惨な幼少期を想うとき、ぼくの頭にはいつも種田山頭火のそれがダブって去来する。その悲惨さは今のぼくらにはちょっと想像しがたいようなものだったかもしれない。山頭火はその幻影から逃れるために行乞の旅に出て傍目には破滅的な人生を歩んだ。一方、魯山人はそこから這い上がるようにして美の世界へと耽溺していったように思う。冒頭の山頭火の句を想い出したのはそんなこともあってだった。

 展覧会を観終わってミュージアム・カフェで軽く食事をして銀座に向かった。銀座へ向かう途中日本橋の上から川面を見たら一隻の観光用ボートが見えた。先だって日本橋の川岸にクルーズ用の船着場が出来たというのは聞いていたけど、どうやらそれらしい。好奇心で船着場の方へ降りてみると間もなく日本橋・隅田川巡りの船が出るらしい。聞いてみると60分のコースでまだ席に余裕があるということだったので急きょ乗ってみることにした。

 コースは日本橋船着場~日本橋川~豊海橋~隅田川永代橋~隅田川支流~相生橋~佃水門~朝潮運河~東京港~レインボーブリッジ遠望~竹芝ふ頭~勝どき橋~佃大橋~豊海橋~日本橋川~日本橋船着場ということで、考えてみたらぼくも子供の頃よくハゼ釣りに来た界隈だし、カミさんの育った門前仲町の永代橋の下も通るらしい。

 天気はちょっと曇っているけれど時々日がさして暑すぎず好い具合ではあった。鬱陶しい高速道路の下の細い運河日本橋川を抜けて隅田川に出ると途端に視界が開ける。それがさらに東京湾に出ると広々とした東京の空の下に未来都市のように東京の街並みが広がっている。その街並みは、もちろん山頭火が決別した東京のそれでも、ぼくがハゼ釣りをした東京のそれでもなく、カミさんが育った門前仲町の永代橋に繋がる街並みでもなかった。それは壮大で、そしてちょっと危うそうな今の東京の姿そのものだった。


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 *予定外のクルーズの後銀座に出てまずビルの8階にある大分県のアンテナショップに行きました。こちらは初めて行くので分かりにくく探しながら行きましたが、その日は土曜日とあってレストランの方は開いていましたが観光センターの方は土曜なので閉まっていました。募金箱も無くちょっと肩透かしを食ったような…。

 一方、ソニービルのちょっと先にある熊本県のアンテナショップは何度も行ったことがあるのですが、店の少し手前まで来たところでもう人の列が見えます。長蛇の列で店に入るだけで大分待たなければならない様子。買い物は諦めて募金は振込でやることにして帰ってきました。

今回の地震は本震と思われたものの後にさらに揺れの大きな地震が来るなど、住民の人が味わった恐怖感もいかほどかと…。東京の街並みを同じような地震が襲ったらとおもうと他人ごとではないです。東京は以前もこのブログにも書きましたが今は大地震を「猶予」されているモラトリアム都市であるわけですから…。





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感性の断層 [新隠居主義]

感性の断層

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 最近、遅ればせながら歳をとるとはこう言うことかと実感することがある。ぼくの青春時代に活躍していた人がテレビに出てきたりすると、時の流れを感じないわけにはいかない。逆に、例えば子供の頃は相撲の横綱や花形の野球選手はもちろんずっと年上だったから、そういう人は当然自分よりも目上なのだとずっと思っていた。それが大学を出る頃にはその時代のそういう人たちはぼくと同い年位になっていたはずなのだけれど、頭の中では子供の頃と同じ位置づけのままで彼らの方が年上と思い込んでいた。

 さすがに60歳過ぎてからは横綱も野球選手も年下に見えてきたけど、元横綱の北の湖(元相撲協会理事長)などはてっきりぼくより年上かと思っていたら、実はぼくと同じ両国中学の6年後輩と知って驚いたことがある。周りは変わってゆくのに自分の頭の中の年齢だけは中々変わって行かないのだ。

 それも歳をとったことの一つなのだけれど、最近感じているのは感性と言う点でも年齢を感じるようになった。現在の音楽や映画などへの違和感みたいなのがあって、どこかで感性の断層みたいなものがあったのだろうと思う。例えばヒットソングみたいなものでいうと、もちろん今どういう曲がヒットしているかなんて皆目分からないのだけれど、じゃあ、いつ頃からそれが分からなくなって来たのか。

 つらつら考えて見るとぼくがヒット曲として最後の方で認識しているのは宇多田ヒカルの「Automatic」あたりじゃないかなと思う。彼女のAutomaticが大ヒットしたのが1998年だから、その頃ぼくはもう51歳でおっさんでサラリーマンだった。でも、満員の通勤電車の中で聴いていたラジオから彼女の歌が流れてきたときの驚きは今でもはっきりと覚えている。日本人にこんな歌が作れて歌えるのだということがオジサンの耳にも鮮烈でショックだった。それ以来彼女の歌はずっと聴いているけど…。

 ぼくがどうもヒット曲なるモノに興味を失うというか分からなくなったのは宇多田ヒカルと相前後して登場してきた小室哲也の系統の曲が広がり始めたことと関係がありそうなのだ。歌謡曲からフォークそしてビートルズなどメロディーラインを追える音楽にならされた耳には小室サウンドはなんとも居心地の悪いものだったのだと思う。ぼくにとってはどうもそこら辺が断層だったみたいだ。

 ジャズは今でも好きで聴いているけれど、ジャズに対しての感性の断層が来たのは比較的早くてバップを中心に気楽に聴いていたので、ジャズ喫茶でコルトレーンなんかをしかつめらしい顔で聴いている雰囲気はとても嫌だった。そこら辺からあまり先には出ていない。やがてフリージャズやヒュージョンやロックのテイストが入るなどジャズは多様で広範な音楽へと拡散していったような気がするが、そっちの方はあまり関心が無い。幸いジャズは音源の遺産が豊富なので今でも不自由はない。

 そういった感性の断層みたいなものはどうもクラシック音楽にも絵画などにもあるみたいなのだ。それは年齢によっておこることもあるけど、時代というもっと大きなもので断層が形作られることもあると思う。ヒトは望むと望まないに関わらず時代の空気を吸って時代の中で生きている。だから自分の感性の中にも少なからずその時代と言う要素が忍び込んでいるはずなのだ。

 もちろんそれが全てではないけれど、その時代の感性を超えて共感したり、断層を乗り越えて異なる時代の感性に共感するには、たまには自分の居心地の好い世界から断層を超えて覗いてみる気持ちも大事かもしれない。でも、それ自分でも最近ないなぁ。何も無理することは無いけど、それで断層の向こう側に新たに自分の感性の居心地の好いモノが見つかったら、それこそメッケモンということになるかもしれない。



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月に叢雲 花に風 [gillman*s park 16]

月に叢雲 花に風

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 数日前、カミさんと姪とその子供を連れて近くの公園に花見に行った。シートとテーブルクロスを持って途中のコンビニで弁当とビールを買って…。その前日は雨が降っていたがそれは止んでいた。とはいえ曇りで風も冷たくお花見の陽気には程遠かった。いつもは結婚30年を記念してこの公園に植えた桜の下でシートを広げてお弁当を食べるのだけれど、その日は近くのテーブルとベンチが空いていたのでそこにすることにした。

 桜は満開なのに人は少ない。天気のせいだろう。明後日位にはまた雨が降るというから桜も今年のそれで見納めかも知れない。月に叢雲 花に風と言うけれど、毎年桜が咲く頃には天気が安定していないためか風が吹いたり、雨が降ったり。この月に叢雲花に風というのは、好い月が出たと思ったら雲がかかるし、花が咲いたと思ったら風で散らされてしまう、何事もうまく行かないものだ。好事魔多しということだろう。

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 この言葉の由来はいろいろと調べてみたけどよく分からなかった。いかにも残念な感じはよく出ているけれど、日本人の美意識からすると必ずしもそれは残念とばかりは言えないような気もする。というのも学校でも習った吉田兼好の「徒然草」の百三十七段にはこんな風に書いてあるから…。

 花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。雨に対ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行衛知らぬも、なほ、あはれに情深し。咲きぬべきほどの梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ。歌の詞書にも、「花見にまかれりけるに、早く散り過ぎにければ」とも、「障る事ありてまからで」なども書けるは、「花を見て」と言へるに劣れる事かは。花の散り、月の傾くを慕ふ習ひはさる事なれど、殊にかたくななる人ぞ、「この枝、かの枝散りにけり。今は見所なし」などは言ふめる。…

 つまり、桜だって満開だけじゃないし、月だって一点の曇りもない月ばかりじゃない。部屋の中から春を想ったり、みえない月に想いを馳せてみるのも趣があるぞ。もう少しで咲く桜や桜が散った後の庭なんかも好いじゃないか。花が散って、月が沈んでゆくのを残念がって惜しむのは分かるけど、だからってそれでもう見る価値なんか無いというのは馬鹿げていないか。というようなことを言っているらしい。

 この兼好の、ものの盛りよりもその一歩手前や、盛りを過ぎた状態、つまり完全で完成されたものよりもそれを少し外れたものにも美を見出すというのはぼく達日本人の美意識の底流に流れているんじゃないかと思うことがある。それはある意味では諦念や無常観へと繋がってゆく発想ととらえることもできるけれど、ぼくはそれは過ぎてゆく時を嘆くのではなくて、愛おしんですべての時を味わい尽くそうという発想ととらえることも出来ると思う。

 もちろん、これはぼくの勝手な我田引水の解釈なのだけれど、この間埼玉県立近代美術館でジャック=アンリ・ラルティーグの写真展を観て何処かそういう考えに似ているなと思った。彼の写真に溢れているのは過ぎ去ってゆく時への愛おしみのようなものだった。それは植田正治の写真を観た時にも感じた思いだった。そしてそれはぼくの好きな画家のハンマースホイやワイエスそしてホッパーなどの絵画の一つの軸ともなっていると思うのだけど…。

  光陰の やがて淡墨 桜かな  (岸田稚魚)


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空の時代 [gillman*s park 16]

空の時代

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 ここ数年何故かオランダフランドルの16,7世紀ごろの絵を観る機会が多くて、自分の中では今密かなブームになっているのだけれども…。何でだろうと自分自身少し訝っていたのだが、考えられるその一つの理由はずっと観てきた宗教画への反発という程ではなくても、少なくともそれに対する倦怠のせいもあるのかもしれないと思うようになった。

 宗教画は決して嫌いではない、特にキリスト教の宗教画はエピソードと約束事が事細かに決まっていて、つまりフォーマットがしっかりとしていてその中での画家の表現力であり、力量なのだと思う。もちろんそれでは不自由ではないかという事も言えるかもしれないが、ある意味では画家にとってその制限的なフォーマットの中で力を発揮する事自体が一つのやり甲斐に繋がっていた面もあるのではないかとも思う。

 よく建築家が予算も規模も工期も用途も何の制約もつけないから建物を建ててみろと言われたら、それこそが一番の難題なのだ、というけれど職人的色彩が強かった昔の画家にしてみれば宗教画のフォーマットというのは現実的で有難い枠組みだったのかもしれない。勿論それは絵を見る信者にとっても共通の記号が埋め込まれた一つのメッセージとしては至極わかり易いという利点を持っているし、繰り返しそのフォーマットに触れることによってさらに信仰心が深まってゆくという効果も持っている。

 一方、ぼくのようにその宗教の信者でない者にとって宗教画は美術品という位置付けで頭なり心なりに飛び込んでくる。とすると当然絵の中に込められた記号は宗教的記号としての意味は希薄になって來る。ぼくの場合その結果としてちょっとフォーマット自体が段々鼻についてきたような感じなのだ。ただ、これは今だけの問題でその内自分の中で解決されてゆくのかもしれないけれど…。

 ちょっと宗教画の話が長くなり過ぎたけど、要するに16,7世紀のオランダやフランドルには今までの宗教画一辺倒でない絵の世界が広がり始めていた、というのがぼくの心を捉えた点なのだろう。その頃のオランダなどでは東方貿易で市民層が財力を付け絵画の発注者が教会からそのような裕福な市民層に移ってきたということが絵の題材の変化に現れてきたのだと思う。

 風景画もそのような新たな題材の一つで、特にヤーコプ・ファン・ロイスダール(最近はライスダールという表示もめだつが)は今までは肖像画や宗教画の単なる「背景」に過ぎなかった風景を絵画の主題として積極的に取り上げだした。今では当たり前に絵画の一つのジャンルになっている風景画の誕生だ。ロイスダールの風景画の特長は何といっても「空」の表情の豊かさだ。

 彼は絵画にいわば新たな「空の時代」を創り上げた。山の無いオランダの風景の醍醐味は刻々と変わる空の表情、それをロイスダールは地平線を低い位置に置くことによって描き出している。空は実に豊かな表情を持っている。近くの公園に散歩に行ってぼくの一番の楽しみは、そこに広がる大きな空だ。特に公園の丘を見上げながらその向こうに広がる空を見るのが最近の楽しみになっている。今はぼくも空の時代にいるのかもしれない。


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