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美術館で… [新隠居主義]

美術館で…

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 ここのところまたちょっと固めて美術館通いをしている。行きたい気分になるのにムラがあるという自分の性格にもよるのだけれど、美術展の方もどうやら展覧会向きの時期というのがあるらしくて見たいものの会期が重なるというのもあるみたいだ。

 それはもちろん企画展や特別展示のことを言っているのであって、収蔵品をもつ美術館の常設展なら基本的にはいつだって行けるのでその気軽さがいい。でも、大規模な特別展などは世界中から名画の方からやってきてくれる訳で、東京のような大都市に住んでいる役得みたいなものなのでそれも逃したくない下心もあって…。

 ぼくは本当はなじみの作品がゆったりとみられる常設展が好きだ。大好きな西洋美術館の常設展は大昔から毎月のように行っていたのだけれど、あの世界遺産登録の騒ぎでここのところちょっと足が遠のいていて、結構ストレスが溜まっている。

 西洋美術館はルーヴル美術館みたいに規模が大きすぎないので気が向いた時にフラッと行ってお気に入りの作品だけ観てくるなんてこともできる。絵は不思議なもので何度見てもその時の自分の状態で感じが変わってくる、どこか心の鏡みたいな面を持っていると思う。

 あ、そう言えばルーヴル美術館はずっと昔は「ルーヴル博物館」って言っていたような気がする。大英博物館がBritish MuseumでルーブルがMusée du Louvreだから、同じように訳すならルーヴル博物館だと思うのだけど…。概念としては博物館=Museumが一番大きな概念で、その中に美術館(美術博物館)=Art Museumや科学博物館=Science Museumなどのカテゴリーがあるのだと思う。

 それに収蔵品を持たない国立新美術館なんかも、固いことを言えば美術館(Art Museum)ではなくてアート・ギャラリー(Are Galarie)とかアート・センター(Art Centre)とかなんだけど、国立新美術館も英語名はちゃんとThe National Art Center, Tokyoとなっている。国立新美術館という日本名は最初はぼくなんかも違和感があったけれど、今では慣れてしまったなぁ。

 一方、東京都美術館(Tokyo Metropolitan Art Museum)はもともと収蔵品を持つ美術館と公募展や企画展なども行うアート・ギャラリーの両面の機能を持っていた美術館だ。しかし現代美術の収集収蔵機能は後から出来た東京都現代美術館に移行され、大規模なアート・ギャラリー機能は国立新美術館に持っていかれて微妙な立場になってしまっていたけれど、改修後にモネ展や若冲展などで盛り返そうと頑張っている。今後どうなるか楽しみ。

 まあ、細かいことは抜きにしても、常設展のような場所があるというのはとにかくありがたい。前にも書いたけれど、ぼくはサラリーマン時代に仕事で行き詰まって辛い時に何度か西洋美術館に来て救われたような気になったことがある。この静かで時間が止まったような空間に身をおいてゆったりと観てまわると次第に気持ちが落ち着いてくるのだ。

 そして馴染みになった絵の一枚一枚を観てゆくと、それらの絵のどれ一枚として忽然としてこの美術館に現れたわけではないことに気付く。その多くはまず作家自身の中での格闘の末に一つの形として一枚の絵が生まれ、そしてそれは生まれ落ちたと同時に今度はその作家の生きた時代や世間の非難や怨嗟の波にもまれ、その末に時を経てやっと此処にたどり着いたのだと。美術館はその魂の安住の地でもあってほしい。

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 *写真はベルリン旧国立美術館(Alte Nationalgalarie Berlin Germany)
   **写真の大きな絵はルノアールの「ヴァルジュモンの子どもたちの午後(1884)」という作品。


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大人買い [新隠居主義]

大人買い

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 ぼくらの世代には誰でも大人になったら誰気兼ねなく自分のお金で買ってやるぞなんて思った品があるんだと思う。ぼくは終戦後すぐの生まれだから、誰彼構わず日本中が貧しかった。ぼくのすぐ上の世代は、もっと切実で大人になったらアレを腹いっぱい食べてみたい、というような食べることの欲求が強かったかもしれない。

 もちろんぼくらの世代にだって食料が十分あったわけではないから、心の底には飢えた記憶や、空腹への恐れはあるのだろうけど、そこらへんは物心つく前だったから主に親が苦労してくれたんだろうと思う。そして遊び盛りから、小生意気になるあたりに世の中は上向き初めて、新しいオモチャやら遊び道具が出始めてきた。

 ぼくの場合、小学校の中ほどくらいからお小遣い制になったような気がする。だから買いたいものはそのお小遣いをためるか、お正月のお年玉を使うかだったけど、子供のことだからそう計画的にできるわけではない。お年玉は貯金させられたりしてたから、やっぱり欲しいものがあると親におねだりという事になるのだけど、それが中々一筋縄ではいかない。

 家は貧しいという訳ではなかったけれど、とにかくまず我慢しなさいと言われて、それでも粘ると例えば半分まで自分のお小遣いで貯めたらあと半分をだしてあげるとか、2つ欲しいものがあったら1つは我慢するか後回しにする、とか親の方にも子供の言いなりにはならないぞ、という感じがあった。

 それは今でもぼくの中で息づいていて、何か欲しいものが複数あったらまず、一つにして他のモノは後回しにするか我慢するという気持ちが湧いてくる。カミさんに言わせるとそれはただの貧乏性みたいなんだけども…。そんなこんなで親との駆け引きで子供時代を過ごしてきたのだけれど、それでもどうしても手に入らなかったものがあった。

 それは、HOゲージとかいう鉄道模型で、それは当時はなんたってお金持ちの道楽みたいなもので下町の洟垂れ小僧達には手の届くものではなかった。小学校時代は喧嘩仲間のY君が近所に住んでいて、彼の家には立派な鉄道模型があったから遊びに行くと八畳の部屋にレールをしいて遊んだのだけれど、列車には触らせてはくれないので、結局はいつも喧嘩になって帰ってくる。

 結局、そこらへんのフラストレーションはまだ買いやすいプラモデルかなんかに転嫁されていたんだろうと思うのだけれど…。で、大人になって大人買いするようになったかというと、どうも先ほどの貧乏性の方が勝ってしまって、威勢の好い大人買いができない。

 最近、ちょっとハマっているのが元来子供のオモチャのガチャで、見かけるとついやってしまう。もちろんガチャなら何でも良いという訳ではなくて、鳥獣戯画と海洋堂の仏像ガチャに限る。それでも多少大人買いの気分になるのはこれらは普通200~300円のところ100円高い400円なのだ。それを子供をわき目に時には2個連続で買ったりする。なんとも大人げない、大人買い。

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世界は… [Column Ansicht]

世界は…

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  なんか世界がちょっとザワザワしてきたような感じがする。ぼくは確たる政治的信念を持った人間ではないし、~イズムというものを余り信じない方なんだけれども、それでも日本や世界の政治がどんなベクトルをもって動こうとしているのかについては関心もあるし心配もしている。

 政治については全くの素人なので、もちろん何らかの専門的な分析ができるわけではない。しかし、自分の乏しい経験から、自分の身を守るために自分なりに一つの皮膚感覚のようなものを大事にしている。それは政治に関して、
  ①激しすぎる言葉
  ②シンプルすぎる論理
  ③勇ましい言動
この3つに対しては本能的に身構えるようになっている。心のどこかで「ちょっと待てよ」と囁く声が聞こえる。

 経験と言っても各々の項目に対応する明確な体験がある訳ではないけど、考えてみると大きくは大学時代の学生紛争の時の経験と、昔少しかじったヒトラー時代の勉強の影響が大きいと思う。確かに歴史を動かして行くためには大きなエネルギーが必要だし、そのためにはある意味で激情も必要かもしれない。しかしその激情がどこに向かうのか、そのために切り捨てるものは何なのか「ちょっと待てよと」振り返ってみる必要があると思う。

 激しい言葉、シンプルすぎる論理、そして勇ましい言動は時として人を惹きつけるかもしれないけど、その過程で普通なら見えるものが、もしくは見るべきものが見えなくなり、そして自らもそれに酔いしれてゆく危険を孕んでいる。人を否定し、他を排除し、ブルドーザーのように突き進んでやがて熱が冷めた時の惨劇は歴史が嫌という程目撃しているはずだ。いくら時間がかかっても、自分の目と耳と皮膚感覚を動員して自分の頭で考え行動することが大事だと自分に言い聞かせている。





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野心 [Column Ansicht]

野心

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 「野心」という言葉は決して嫌いじゃない。なんか脂ぎっていてギラギラするものを感じる。最近は草食系男子とか色々取りざたされているけれど、若い人の心根のどこかにはそんなものも持っていてほしいという勝手な願望を抱いている。じゃあ、自分が若い時にはそんな野心を持っていたのかというと、まるでそんなことはなかったから、やはりジイさんの戯言といわれそうだ。

 野心という言葉を辞書で引くと「ひそかに抱く、大きな望み。また、身分不相応のよくない望み。野望」この後半のところの[身分不相応のよくない望み]というのは微妙だなぁ。望み自体がよくない内容なのか、それとも身分不相応の大きな望みを持つことがよくないのか。尤も手がすぐ届くような身分相応のものであればギラギラ感などは出てこないし、野心とも呼べないと思うけど。

 ぼくが思うに、野心にも二つの種類があるのではないか。一つは「何者かになりたい」という野心。ビジネスマンなら会社の社長、政治家なら東京都知事、国務大臣そして内閣総理大臣などの地位に上り詰める。もう一つはそういうものよりは「何事かを成し遂げたい」という野心。この二つは互いに絡み合っていることもあるし、その片方だけがその人の野心を形作っているという、場合もあると思う。

 野心というと政治家がすぐ浮かんでくるけど、ぼくは若い頃ひょんなことから国会議員の秘書のようなものを一年間やったことがある。その時(その時代のという意味でもあるけど)でも政治家は金とか裏の顔とか色々なことが言われていたけれど、基本的には優秀な人たちであると言えると思った。

 マスコミなどは彼らが金銭欲や権力欲だけで政治家になったようにいう事もあるが、彼らはもし政治家になっていなくても世間ではそこそこの成功は手に出来たに違いないという感じはしたし、歳をとっても野心のようなギラギラしたものをなくしていないことも凡人から見れば稀有なことに思えた。

 でも、少しその世界の息を吸ってみるとその彼らの野心は政治家生活のどこかの時点で、何事かを成し遂げたいという野心から、何者かになりたいという野心へと変質していっているのではないかと思い始めた。それはぼくの若気の至りの見方で、何事かを成すためには、まずそれにふさわしい何者かにならなければならないのだ、という事があるのかもしれないが…、どこかの時点で後者のほうが自己目的化していったのではないかと。

 考えてみれば、明治維新を成し遂げた幕末の志士の野心の核は「何事かを成し遂げたい」という野心だったと思う。彼らは藩主にも殿様にも公家にでもなりたかったわけではない。それはもう一つの野心の対象である「何者かになる」、という「何者」自体が崩壊しかけていた時代だったからだろう。同様に戦国時代も野心の対象は天下統一を成すということが野心の対象だった。変革、混迷の時代にはそういう野心をもつ人物が出てくるのかもしれない。

 今世界は混とんとし始めているし、さらに混迷を極めるだろう。こういう時代には一方では現状に固執する草食系人間が増殖してくると同時に片方では野心を持った新たな人物なり勢力なりが次々と登場してくるに違いない。「何者かになろうとする者」「何事かを成し遂げようとする者」「何事かを成し遂げるために、何者かになろうとする者」もちろん、彼らが成し遂げようとする何事かが、万人にとって幸せなこととは限らない。ぼくらが自分の身を守るためにも今こそ目を凝らして彼らの野心の中身を見据える必要があると思うのだけれど。



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通夜の帰り道 [新隠居主義]

通夜の帰り道

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 通夜の帰り道。

 先月、大学院時代の恩師の教授を亡くしたばかり、今日はもっとも親しかった元上司の通夜。気持ちが萎える。こうして別れに慣れてゆくのだろうか。歳をとると、新たな出会いが減り、逆に別れが多くなる。勢い「サヨナラだけが人生さ」という気持ちになる。それとも歳をとってもいつも新たな出会いを持ち続けろということか。

 元上司のAさんとはぼくの会社勤めの一番苦しい数年間を経営管理部門で一緒に過ごした。ぼくは株や土地などには手を出していなかったので世の中が浮かれたバブルの最中でも個人的には何も良い目には合ってはいなかったけど、バブル崩壊後はそのツケはしっかりと会社に降りかかってきて命を削る思いをしなければならなかった。

 Aさんとは毎晩オフィスをあとにしても会社の近くの食堂や居酒屋で喧々諤々の論議をして道筋を探り続けた。そんな論議の中でアイデアが出ることも何度もあった。そんな時はぼくが最終電車で帰宅した後、明け方までかかってそのアイデアをまとめて書類にして翌朝さらにその案を二人で練り直した。

 彼はその書類を食い入るように見て、でも昨晩終電で別れてからぼくがその書類をいつ作ったかなどという些末な事には、当たり前だけど関心などない様子だった。生来、身体も心も強いほうでない自分は激務とストレスで身体はボロボロになっていた。蓄積疲労のためか胃潰瘍と頚椎症の悪化で毎年年末には短期間入院するようになった。医者には職業病だと言われた。でも、不思議なことに今でもその時代のことになんら悔いはない。

 ある時、ぼくの会社のブランド名が絡む商標権の紛争が他社と起きて、それがこじれて法務部では手が追えずぼくの所に回って来たことがある。下手をすれば自社ブランドが使えなくなる重大だが嫌な案件を押し付けられたような形である。ぼくは追い詰められたようで悩んでいたが、その時Aさんが「何かあれば俺が責任をとるから、お前のやりたいようにやってこい」と背中を押してくれた。その言葉に今までの経緯に相手の理不尽さを感じていたぼくも何としてもやらなければという気になって相手方にのりこみ、ギリギリで切り抜けたこともある。

 考えてみれば、上司はまさに昭和的で豪胆な人だった。彼の祖父はNHKテレビの朝の連続ドラマにも登場したような立志伝中の人物だったのだけれど、あの豪胆さは祖父譲りだったのだろうか。反面、ずっと独身だったAさんは半生を通じて周囲から結婚を反対され続けてきた女性と、70歳近くになって会社を退いてから結婚するなど、言葉は陳腐に響くかもしれないけれど「純愛」の人でもあった。

 通夜の後、昔の仲間数人と少し精進落しをしてからみんなと別れて一人で帰る道すがら、ガラにもなく涙がこぼれてきた。昔だったらそんな弱い自分が何とも情けなくて耐えきれないくらいに嫌になったのだろうが、その感性さえも鈍くなったのか、そういう自分がいてもいいのかなと…思えた。ライナーの駅のガラスに映った既に老人になった自分の姿もちゃんと覚えておこうとスマホのボタンを押した。

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猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その22~ [猫と暮らせば]

猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その22~

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 ■老いと猫

 …老いるってことは病(やまい)るってことと同じ。
 だけど、それは闘うんではなくて、猫とつきあうように、病とか老いに静かに寄り添ってやるもんだと思うんだよね。一緒に連れ添っていくというか。

 よく、頑張んなきゃとか、しっかり生きなきゃとかいうけど、頑張んなくてもいい、寄り添っていけば。力まずに、それも自分だという風に生きていくと、すっと楽になる。そんなこと思ったの、つい三、四日前なんだけどね。(笑)…

 
(緒形拳「私と猫」)


 結婚してから初めて飼った猫タマ。ぼくが四十の時、その時の上司に頼まれて白い子猫をひきとった。何も考えずにタマと名付けた。臆病だったけど病気一つせず18年の天寿を全うした。この18年間はぼくにとって最も忙しい時期でもあった。

 まだ暗いうちに家を出て、帰ってくるのは大抵深夜過ぎ。子供の頃からずっと猫がいて一緒に育ったようなものだけど、自分で「飼う」というのは初めてだった。でもタマが来て感じたのは子供の時とおんなじで飼うというより一緒に暮らすという感覚だった。

 タマのおかげで家に居る貴重な時間がどれほどくつろいだものになっていたか、それが寄り添うということだったのだと、最近になって実感するようになった。猫の持つ独特の距離感ときまぐれさが却ってさり気無い寄り添い感を作り出してくれる。

 2005年の5月3日、タマはカミさんの膝の上で突然逝ってしまった。タマの晩年は穏やかなものだった。ソファーの陽だまりの中で寝ることがなによりも好きだった。自分の老後もこうだといいなぁ、と思いつつその隣にそっと座ったことも何度かあった。

 今、ぼくも歳をとって目はかすむし、歯は抜ける、腰は痛いし息切れもひどい。でもそれは抗ってみても仕方のないことだと思うようになった。緒方拳の言うように猫と暮らすみたいに、老いに寄り添ってやるというのも大事かもしれない。まぁ、言う程簡単にはいかないと思うけど…。


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 *緒方拳のこの文章は2008年の雑誌「猫びより」7月号に乗ったものです。その後この緒方拳を含め何人もの著名人がこの雑誌で自分の猫を語った部分を集めて「私と猫」という一冊の単行本になりました。

 緒方拳が亡くなったのは2008年の10月、71歳でした。この記事が載ったのが2008年の7月号ですから、ということはこの雑誌が取材していくらも経たないうちに亡くなっているということになります。

 この頃にはご本人も自分の病状には覚悟をしていたようなので、彼の口から発せられたこの言葉には実感と凄味があるように思います。彼が愛ネコの「オーイ」達と写っている写真はまさに枯れた大木のようでした。

 **緒方拳の自宅は京浜東北線沿いにあって細長い彼の家の庭をそとネコがいつも通り抜けていました。彼は通り過ぎる何匹かのネコに、「品川、大井、蒲田、川崎」などと駅名をつけていたのだけれど、その中の茶トラの「オーイ」だけが居ついて家猫になったらしいです。


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猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その21~ [猫と暮らせば]

猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その21~

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 ■ 猫は、毛皮を被った道楽者である。(テオフィル・ゴーティエ)
  The cat is a dilettante in fur. (Theophile Gautier)
  

 確かに猫を見ていると「額に汗して」というタイプではないなぁと思う。冒頭のように19世紀のフランスの詩人テオフィル・ゴーティエ(名前は知っていても作品は読んだことはないけど…)はそれを道楽者と表現した。でも、道楽者というと落語に出てくる若旦那みたいに、吉原通いや芸者衆に入れあげて挙句の果てに親に勘当される(落語「船徳」「湯屋番」「唐茄子屋政談」のように)みたいなイメージがあるのだけれど、ちょっとなんか違うなぁ。

 そこで元の文章を見ると英語では「The cat is a dilettante in fur.」でもゴーティエはフランス人だから当然フランス語に違いないのでフランス語では「Le chat est un dilettante en fourrure.」となっている。いずれも「道楽者」というところには「dilettante(ディレッタント)」という言葉が使われているので、ここら辺が彼が言いたかったところなのだろうか。

 ディレッタントという言葉は調べてみると、「専門家や学者ではないが、文学や芸術を愛好し、趣味生活にあこがれる人。つまり好事(こうず)家」となっているけど、日本ではディレッタントと言うとアマチュアとか生半可に知識などをひけらかす人を小ばかにしていうことが多いらしいが…。

 でも、西欧ではこのディレッタントという言葉にはそういう嘲笑的な意味合いは無いようだ。むしろ尊敬の香りさえ漂っている。例えばウィーン楽友協会(Gesellschaft der Musikverein in Wien)の設立から長いことその演奏活動を支えていたのはディレッタントと呼ばれる演奏家たちで、彼らは音楽以外にほかに職業を持っていたというだけで演奏技術はプロの演奏家たちと何ら変わらなかった。敢えて今風に言うなら「玄人はだし」という事かもしれない。 

 では猫はいったい何のディレッタントなのかといえば、それは優雅に人生を楽しむディレッタントなのかもしれない。いつも居心地のいい場所に陣取って、自分の関心の向くままに生きようとしている。似たような表現になるけど、寺山修司はもっと過激な表現で「猫は財産のない快楽主義者」とも言っている。ぼくらが日常生活で目いっぱいになって心の余裕がなくなってしまっているような時、猫を見てフト肩の力が抜けるような気になるのは、そんなところから来ているのかもしれない。




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醜聞 [TV-Eye]

醜聞

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 ■ 醜 聞

 公衆は醜聞を愛するものである。白蓮事件びゃくれんじけん、有島事件、武者小路事件――公衆は如何にこれらの事件に無上の満足を見出したであろう。ではなぜ公衆は醜聞を――殊に世間に名を知られた他人の醜聞を愛するのであろう? グルモンはこれに答えている。――
「隠れたる自己の醜聞も当り前のように見せてくれるから。」

 グルモンの答は中あたっている。が、必ずしもそればかりではない。醜聞さえ起し得ない俗人たちはあらゆる名士の醜聞の中に彼等の怯懦きょうだを弁解する好個の武器を見出すのである。同時に又実際には存しない彼等の優越を樹立する、好個の台石を見出すのである。「わたしは白蓮女史ほど美人ではない。しかし白蓮女史よりも貞淑である。」「わたしは有島氏ほど才子ではない。しかし有島氏よりも世間を知っている。」「わたしは武者小路氏ほど……」――公衆は如何にこう云った後、豚のように幸福に熟睡したであろう。


 (芥川龍之介「侏儒の言葉」)



 今月の12日はぼくの好きなナンシー関の命日だったのだけど、彼女が生きていたら今の芸能界の諸々をどう見ていただろうかと想像したりする。最近は余りリアルタイムでテレビを見ることが少なくなったし、芸能界のニュースも「んなこと、どうでもいいじゃん!」と思うのだけれど、ナンシー関はそうではなかった。

 彼女は偉大なるミーハーというか、テレビに登場するスターや芸能人のあり様をテレビのこちら側で穴のあくほど見つめて、直感的に(とは言いつつある意味では極めて論理的に)本質的なものを喝破するという能力を持っていた。そこが偉大なるという所以だと思う。

 ナンシーは言う「わたしは"顔面至上主義"を謳う。見えるものしか見ない。しかし目を皿のようにして見る。そして見破る」ぼくらが半ば通り過ぎる背景のように無意識に観ているテレビの画面の向こうに映り込んでいる時代の匂いや、人間や大衆の根っこをナンシーは目を皿のようにして観ていたのだ。

 天野祐吉さんがまだ存命のころ、時々ぼくのブログにコメントを入れてくれることがあったのだけれど、以前ぼくがナンシー関のことについて少し書いた時もそこにコメントを入れてくれたことがあった。天野さんはナンシーと仕事をしたことがあったらしいのだが、彼はナンシーの眼力が怖かったと言っていたことを思い出した。


 ナンシー関が目を皿のようにしてみていた「芸能人」だけど、ぼくは若い頃から落語が好きなので「芸人」という言葉に畏敬の念を抱いていた。今は「お笑い芸人」などどちらかと言えば軽い感じで使われているような気がする。それに対してこのなんだか良くわからない「芸能人」という言葉の方が使われるようになった。芸[能]人という位だから芸人よりも「能」があるみたいなのだが、実際は歌や踊りや話芸などのいわゆる専門的芸を持っていない「芸no人」を指している場合が多い。別名「タレント」とも言う。

 それじゃあ、専門的芸のない彼らは何をもってメディアの海の中を泳ぎ回っているのかというと、これまたよくわからない「キャラ(キャラクター)」というものを武器にして渡り歩いている。曰く、良い人キャラ、おバカキャラ、外人キャラ、インテリキャラ、キモキャラ、いじられキャラ、カマキャラそしてヒールキャラつまり嫌われ者キャラ等々。

 これらを敢えて「芸風」と言えば言えないこともないけれど、そもそもその芸風の芯になる「芸」がない中での芸風なのでなかなか難しいことも確かだ。例えば、嫌われ者のヒールなぞは皆から100%嫌われてはメディアから駆逐されてしまうので、時々は無邪気さや、ひたむきさや、人情味や家族思いなどのプラス要素をタイミングをみて垣間見させなければならない。

 それによって、いつもはあんな事言っているけど、もしかしたらあの人も本当は良い人なのかも…と、でもこれも出しすぎて元のヒール感を消してしまう程になってはいけない。そのさじ加減が難しい。時折泥まみれになってゲームで頑張るデビ夫人も、さりげなく野村監督が漏らす野村沙知代のプラス情報だってヒールキャラのコントロール情報の一つには違いないのだ。

 一方、良い人キャラのトップを走っていたのがベッキーだった。ところがいくつかあるキャラタイプの中でこの「美人で良い人」というキャラは実はとてもリスキーで脆弱性を持ったキャラなのだと思う。先のヒールのキャラが実は良い人かもしれないというアンチ情報が過度に流れてもヒールキャラの力は弱まるかもしれないけれど、致命的ではない。もちろんifレベルだけど、例えば、おバカキャラのスザンヌが学生時代成績が良かったり、ボビー・オロゴンがホントは流ちょうな日本語が話せたり、ウエンツ 瑛士が実は英語がペラペラだったとしても、それは致命的ではない。

 ところが、良い人キャラにおいては、実はそれ程良い人ではないかもしれないという情報はそのキャラ芸能人に致命的になることがある。ましてそのキャラの主が美人とあればなおさらだ。冒頭の芥川龍之介の言葉にあるように、それは大衆の持つジェラシーに火をつけ手の付けられない事態を招くからだ。

 ちょっと意味はズレるかもしれないけど、それはニーチェの言う一種のルサンチマン(ressentiment)にも通ずる膨大なエネルギーを持っている。これが芸人であれば芸とキャラに一線を画することができるし、そもそも芸自体に善悪はなく巧拙があるのみだから上手くやれば逃げ道はあるのだ。ところがその芸がないキャラ芸能人にとってはキャラ=人格という図式があてはめられてしまい、風圧をまともに受けることになる。

 ベッキーの場合、報じられたSNSでの「サンキュー、センテンス・スプリング(文春)だね!」という一言が良い人キャラにとどめを刺すことになった。その後は龍之介の言うような大衆のジェラシーに火が付いた。彼女は先日復帰をしたらしいのだけれど余程戦略を練り直さないと難しい気がする。大転換してヒールキャラに転向することもあり得るが、それだってそう容易ではない。一つだけ考えられるのは芸no人から「芸」のある存在への転換だ。どこかで映画の脇役でも良いから演技を高く評価されて…。う〜ん、ナンシーならなんと言うだろうか?


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秋葉原、アキハバラ、Akihabara [Ansicht Tokio]

秋葉原、アキハバラ、Akihabara

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 秋葉原をさまよいながら思った。この街はつくづくかわった街だ。考えてみたら、もう半世紀以上も見続けているけど、この街はアメーバのように刻々とかわり続けている。今は電子とサブカルが一体となったカオスのような街になっている。この数十年間、ぼくはおそらく二週間か三週間に一度はこの街に来ていると思う。と言っても、その目的はずっと同じだったというわけではない。この街が変化してきたように、この街を訪れるぼくの目的も時代によって変化してきた。

 ぼくが秋葉原を初めて訪れたのは中学生の頃、鉱石ラジオ(今では分からない人もいると思うけど)を作るとき部品を買いに来た時だと思う。今でも一部は残っているけど、その頃の人でごった返しているガード下の部品横丁の活況はまだ脳裏にはっきりと残っている。ぼくは兄のように工作少年ではなかったので、アンプなどを組み立てるために部品横丁に通うということはなかったのだけれど、その頃から出始めてきたテープレコーダーやトランジスタ・ラジオに興味があってそれらの新製品を見ているだけでも楽しかった。

 高校から大学に進んだころから音楽を聴き始めた。いわゆるオーディオ時代の幕開けなのだけれど、その頃は丁度今のパソコンやゲーム機等のデジタル商品が目まぐるしく入れ替わるようにアンプやスピーカーやテープレコーダーそしてLPプレーヤー等の分野で新しい商品が次々に登場してきた。オーディオの分野でもSONYやAKAI等の日本のメーカーもその存在感を増していたけど、やはり憧れの的はJBLやALTECそしてTANNOY、マッキントッシュやオルトフォン等の海外製品だった。秋葉原に通う一つの目的はオーディオ視聴室を回って高嶺の花のそれらを聴き比べることだった。

 会社に入って少しして何とか自分なりのオーディオ装置を持てた頃には、皮肉なことに音楽会に行く時間的余裕などは無くなってしまった。それまでは音楽会に行くとその響きを忘れないうちに家に帰ってオーディオ装置の調整などしていたのだけれど、それも出来なくなってしまった。それでも会社が秋葉原に近かったこともあって、昼休みなどにはレコードや新しいオーディオ製品に触れるために秋葉原に行った。そのうちに秋葉原で目にし始めたのがその頃登場し始めたマイコンと呼ばれたパーソナルコンピュータだった。

 いわゆるワンチップ・マイコンであるNECのTK-80は結局手に入らなかったけど、それ以降ぼくが秋葉原を訪れる目的はパソコンがメインになっていった。それは同時に秋葉原がオーディオからITの街へと変貌してゆく時期でもあったのだ。最盛期には秋葉原の街にはいたるところにPC関連の部品屋が並び、中東のテロリストも手作りのミサイルの電子部品を秋葉原で調達しているというまことしやかな噂が流れたのもこの頃だ。

 ぼくがやっと音楽の趣味に戻り始めた90年代にはメディアはもうLPからCDに変わっていた。LP時代にも通っていたイシマル電機もCD専門館が出来て、そこにはカリスマ店員か何人かいてクラシックでも指揮者とか年代を言えばたちどころに適切な推奨盤を見つけてくれたり、ジャズでも同じように半端なく詳しい店員がいたものだ。今ではネットのデータベースで調べればなんということはないのだけれど、彼らと話す中で得られた情報は温かみがあってなんとも有り難かった。

 しかし、その内大型店のCD等の音楽関係の売り場は次第に縮小されるようになり、ラジオ会館などにアニメやフィギュアが並ぶようになって、ついには中央通りのAKB48劇場に発したアイドル、サブカルの熱波が秋葉原を覆うようになる。実はこの背後にはそれまで秋葉原の街の外観を支えていた大型電気店の凋落がある。この時代になるといわゆる大型電機量販店が全国にできることによって白物家電などの電気店製品における秋葉原の優位性は消えかけていた。サブカルはその穴を埋める形で増殖していった。

 今の秋葉原は全くのカオスと言っていいかもしれない。電子もあるし、カメラもあるし、サブカルもある。ある意味ではそれは戦後のモノのない時代に闇市のようにジャンク品や電機部品の屋台が並んでいた秋葉原の再来のような感じもする。そこにはまだ独特の熱が残っている。ぼくが子供のころ秋葉原に感じたこの街独特の「うさん臭さ」や独特の「」が若者や外国人を引き付けているのかもしれない。

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→ 花と蝶 ~アキハバラの凋落と変貌~

上の記事「花と蝶」は9年前の2007年に書いたものですが、
その頃とも事情は変わってきているようです。
その頃にはまだいたCD売り場のカリスマ店員も
今では何処に行ったのでしょうか。
というか店員どころか今ではそのCD館もありません。
会社自体も今では中国系の家電量販店になっています。
時代は動いています。


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Nikko 至福の時 [新隠居主義]

Nikko 至福の時

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 日光の小田代が原の湿原を見渡すデッキに着いたのは朝の四時少し過ぎだった。運よく赤沼駐車場を出る始発の低公害バスに乗り込むことができた。昔は何度か奥日光から歩いてこの小田代が原に来たことはあるけど、こんな朝早く来たことはなかった。

 デッキでは同じ始発のバスで来た人たちが三脚を並べ始めていた。いつもの写真仲間と、ベトナムに赴任していた友人も日本に戻ってきたので久々に四人そろっての撮り旅。昨夜は(というか午前3時に出たので、先ほどといったほうが良いけど…)日光に住む友人のところにお世話になった。

 小田代が原に着いた時には湿原のあたり一面には霧が立ち込めていた。日はまだ男体山の向こうにある。一緒に行った友人は朝霧を狙うと言っていた。ほかの一人が皆は朝霧の向こうに「貴婦人」が現れるのを待っているのだという。ぼくは知らなかったのだけれど、湿原の向こう側に貴婦人と呼ばれる背の高い白樺が一本生えているらしい。その貴婦人が朝霧の中に姿を現すのを待っているらしい。

 朝霧も日の光も刻々と変化してゆく。貴婦人とやらは中々姿を現さないけれど、この待っている時間がぼくにとっては至福の時間でもある。空気に拡散してゆく光の変化に心を奪われ、つい撮るのを忘れてしまう。まだ、レンズの目よりも自分の目の方が可愛い証拠だ。というより、自分の稚拙な能力では心に焼き付くほどの映像は残せないので、勢い心のフィルムの方に残しておこうという意識が働いているのかもしれない。

 貴婦人はともかく、朝霧に映える日の光が美しい。ちょっと影に入ると墨絵のような…、そして霧の晴れ間から太陽がのぞくと空気は一変してオレンジ色に変わる。いつか見た平山郁夫のパルミラ遺跡や仏教伝来の絵に出てくる砂漠の太陽のようなあのオレンジ色。でも、それは一瞬の出来事だ。ふと、我にかえって、あ、撮らなくちゃ、と思いブラケットで十数枚撮る。今回も小さなミラーレス。やっぱり景色は一眼でなくちゃ、なんて言いながら軽さの誘惑にいつも負けてしまう。

 数年前同じコースを歩いた時のカメラと三脚のずっしりとした重さが…。今回は幸い往きも帰りもバスに乗ることができたので助かった。このあと千手が浜の湖畔まで行って、ちょうど盛りのクリン草を見ることができた。前日までの雨が嘘のような晴れで何とも気持の好い一日だった。仲間と歩ける幸せに浸った至福の日光だった。



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[Tour route]
・06/10…正午東京駅丸の内集合、高速道路で日光へ→日光友人宅→竜頭の滝茶屋(撮影)→三本松駐車場・戦場が原展望台(撮影)→友人宅泊
・06/11…友人宅am3:00出発→赤沼駐車場・am4:00低公害バスにて小田代ヶ原(撮影)→低公害バスにて千手が浜・九輪草(撮影)→低公害バスにて赤沼駐車場に戻る→高速道路で東京に


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[写真上から]
小田代が原の朝霧
龍頭の滝茶屋
千手が浜のクリン草
千手が浜
小田代が原に向けたカメラ

日光、春まだき

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PLUTOの先駆者たちよ [新隠居主義]

PLUTOの先駆者たちよ

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 ■ロボット三原則

 第一条:ロボットは人間に危害を加えてはならない。
 また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。

 第二条:ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。
 ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。

 第三条:ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、
 自己をまもらなければならない。


 (アイザック・アシモフ  2058年の「ロボット工学ハンドブック」第56版)



 この間、原宿の太田美術館に行った帰り駅に戻る途中、携帯電話会社のビルの中にロボットが3台(もしくは3基)置いてあるのがガラス越しに見えた。ここら辺はどこを見回しても外国人だらけなのだけれど、ビルの中でも外国人観光客らしき人が二台のロボットとパラパラみたいなのを踊っている。それを仲間が面白そうに写真を撮っている。左にある三台目のロボットはこれも外国人とみられる少年と手を取り合って踊っている。なんかとても未来的な光景だなぁ。

 ここ数年のロボットの進化は目まぐるしいものがある。目に見える点でいえば、二足歩行のできるいわゆるヒューマノイド型の進歩。そして頭脳である人工知能(AI)の方の進歩も目覚ましいものがある。こういう光景を目にすると、どうしてもぼくの大好きなあの漫画「PLUTOプルートゥ」の世界を思い起こしてしまう。PLUTOは浦沢直樹の傑作漫画だけど、その原作は手塚治虫の鉄腕アトム「地上最大のロボット」のリメイクだ。リメイクと言ってもそれは完全に浦沢直樹のアトムになっている。

 それは人間とロボットが共生するようになった時代の話。ロボットは「感情」を持ち始め憎しみや愛との相克に悩み始める。ロボット社会の枠組みとして1950年代にアシモフが提起した「ロボット三原則」や手塚治虫の「ロボット法」などにその時代のロボットも規制されているのだと思うが、感情を持ち始めたロボット達にとってそれはどのように映るのだろうか。

 理系の人はそんなことは技術知識にうとい文系の戯言だというかもしれない。確かにチェスや将棋で人工知能が人間を負かそうともそれを作っているのは人間だからだ。でも、すっかりそういうスパンの時間軸を見失ってしまったぼくらにとって、考えるすべもない百年単位の時間の向こうの未来では、既に等差から等比級数的な発展へと踏み込んでしまった科学技術がどんな姿になるのか誰にも想像はつかないはずだ。もっとも、その時に人類がまだ存続していればの話だけれど…。

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眼差しの意味 [新隠居主義]

眼差しの意味

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 ぼくがよく通るJRの新宿西口から都庁に行く地下道のところに最近ローラの大きな写真の載っている広告がでて、そこを通るたびになんか睨まれている感じがする。日本に暮らしているとこういう風にストレートに相手を見る眼差しというものに中々出会わないし、もしそういう眼差しで見られたらそれは何か特別な意味があるのだと…。

 睨まれたから言うのじゃないけど、視線、眼差しというものは、どうやらぼくら人間も含めて動物にとっては重要な意味を持っているらしい。よく言われるのは、山の中でクマに出会ったときは死んだふりしたり、背中を見せて逃げてはいけないらしい。そういう時はじっとクマの目を見て徐々に後ずさりするのが正しい対処らしいのだけれど、ぼくにはそんな自信はない。本能的に背中を見せて一目散に逃げ出してしまうと思う。

 逆に、例えば慣れていない犬や猿の目をじっと見てはいけない、つまり視線を合わせてはいけないといわれる。それは敵意があることを意味するらしい。猫は目が合うとプイと目をそらしてしまう。その意味は動物によっても違うのかもしれない。人間にとってもそんなことがありそうだ。ぼくが学生の頃には不良がよく「ガンをつけた」といって絡んできたことがあった。相手には自分と目が合ったことが敵意の存在に感じられたらしい。何だかサルみたいだ。

 驚いたのは先日ニュースを見ていたら、義理の父親だかの男が三歳くらいの自分の子に、その子が自分に「ガンをつけた」と言って蹴って殺してしまったという事件が報じられていた。こうなると、そいつはサル以下だけど…。考えてみると子供のころ人の目をじっと見るのは失礼だから気を付けるようにと言われた覚えがある。それに会社の新入社員の頃の教育でも話すときは相手の目を見ずにネクタイのあたりを見ると良いと教わったような気もする。

 ところが、そういう文化の環境で育って二十歳をちょっと過ぎた頃ドイツに行ったら、話すときは「ちゃんと」相手の目を見て話しなさいと度々注意された。え、相手の目を見て話すことが「ちゃんと」したことなんだ。それは失礼ではないんだ。ところが長いこと当時の日本的な習慣の中で育ったのでなかなかその「ちゃんと」ができない。そうすると、それは自分に自信がないのだと受け取られる。困った。今では日本でも相手の目を見て話すことが真剣さや誠実さの表現になると受け取られるようになったようだけれど…、中々慣れない。

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眼差しにはまだまだ不思議なことが沢山
ありそうで、興味は尽きないです。


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Dancing All Night [新隠居主義]

Dancing All Night

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 大桟橋をぶらついている間に日が暮れてあたりはすっかり暗くなった。一緒に行った中の一人が家が遠いので八時過ぎには横浜から電車に乗りたいという。関内当たりで軽く食事をして…とするともういくらも時間がない。急にあわただしくなって急ぎ足で管内の駅に向かった。

 途中高架の下を通る。そこは赤レンガ倉庫のあたりから大桟橋まで歩行者専用の道があって、山下臨港線プロムナードと言うらしいけど、見晴らしも良いしゆったりと歩けるところだ。ぼくはこの高架下が好きだ。というのも、ここはよくCMの撮影をしていたり、若者が遊んでいたりするのでちょっと立ち止まって見ているのも楽しいし、場合によっては写真を撮ってもみたくなる場所なのだ。

 ところが、ここら辺から皆俄然早足になってきた。こういう時に限って、撮りたいような光景が広がっているものだ。そこでは若者数人が広場の端にあるサーチライトを舞台のスポットライトに見立てて影遊びのようなものをやっている。音楽がなっているので、それに合わせて若者たちも影も踊る。

 首から下げているぼくのミラーレスは望遠のズームになっているのでレンズを変えている暇などない。皆はズンズン先に行っている。結局、ポケットに入れていた小さいデジカメで二枚だけ撮ることができた。もうちょっと、ゆっくり撮りたかったなぁ。というより、若者たちの姿を見ていたかった。

 また早足で歩きだしながら、もうずっと長いことダンスなんてしてないなぁ、昔のことが頭をよぎった。ダンスといったって大昔に数回ディスコ(「クラブ」ではない)に行ったのと、ドイツのワイン祭りで酔っ払って一晩中ワルツを踊りまくったことくらいしか記憶にないけど…。ああダメだ、ちょっと、早足で歩いただけで息切れがしてくる。今はダンスどころではない。

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Blue Light YOKOHAMA [新隠居主義]

Blue Light YOKOHAMA

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 ここのところ二週続けて横浜に来ている。連休の始めには韓国の留学生達と連れ立って横浜散策に、そして昨日は久しぶりに写真仲間と。最近あまり体調がすぐれないので放っておくとどうしても家に居たい気持ちに負けてしまう。意識して動くようにしないと…。ということで連休中は横浜と近場の美術館に。

 連休中だから、もちろんどこへ行っても人・ヒト・ひと。桜木町で待ち合わせて野毛の飲み屋横丁から日ノ出町、黄金町へ。途中で一休みし、さらに赤煉瓦倉庫そして最終的に大桟橋にたどり着いた。なんだか人ごみにあてられたようで、段々シャッターを押す回数が減ってゆく。ダメだなぁ。

 カメラは軽いミラーレスとポケット・デジカメなのにとても重く感じる。夕方やっとのことで大桟橋にたどり着くと、街なかほどは人が居ない。ウロウロしている内にあたりは薄暮(はくぼ)になってきた。ちょっと強めだけれど頬にあたる風が気持ちいい。対岸の街並みと大観覧車に灯がともり始めて夜景ショウが始まる頃になると、これからはカップルの時間だ。徘徊中のオジサンたちには関係ないけど、それでもなんとなく心の中で軽くリフレインしている。

 ♫ 街の灯りが とてもきれいね ヨコハマ ブルーライト・ヨコハマ~ 

 振り向いて、街と反対側の方をみれば、そこは確かにブルーライト・ヨコハマ。いいなぁ。でも、写真については今回もいろいろ反省点が。自分ではわざわざ撮りに行くほどの写真根性がないもんで、撮影に誘ってもらえるのがなんともありがたい。横浜に撮りに来るたびにちゃんと撮れなくてがっかりするけど、まぁのんびりとこれからも撮り続けようと思ったりして…。

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街と言う舞台 [Ansicht Tokio]

街と言う舞台

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 ■灰色の舞台

 
早朝の街は雲量約九
 都市を悪夢の中に忘れてきた

 ネオンは夜の雨で漂白され

 この街の歴史
 この街の地理は
 全く百科事典の三四行で
 乾いた足音ひとつ聞こえない

 確率零なる挨拶の機会

 地図をもたぬ不安に
 ふと素直になりながら
 ボール紙で街路樹をつくる

 灰色の舞台 青い童話

 早朝の街は湿度約九十
 そしてやはり無機質のような…
 僕は足を速める

  (「二十億年の孤独」 谷川俊太郎)




 ぼくはちょっと離れた処から街の様子を観察するのが好きだ。視界の中の街の一画を頭の中で切り取ってそれを舞台に見立てる。舞台の上を通行人A、通行人Bが横切って行く。中にはちょっと位セリフのありそうな脇役級の若い女性が意味ありげに通り過ぎて行く。そうこうしているうちに舞台中央の書き割りが開いて舞台裏からヘルメットのおじさん達が立ち現れる。

 工事の警備のおじさん達らしく、朝礼が終わって各自の持ち場に行くのか。そのうち一人のおじさんがラジオ体操みたいな格好で身体をほぐし始めた。「昨日はチョット飲みすぎちゃったなぁ~」なんて思ってるのかもしれない。さて、これからこの舞台上でどんな情景が展開されるのか。

 ここでは視界の中の切り取った街の一画を舞台に見立てて鑑賞する訳だけど、この「見立て」というのは日本の美意識もしくは鑑賞法の一つの特徴でもある。見立てとは何かをちがった別のものになぞらえて鑑賞することだが、日本庭園なんかはそれこそ見立ての塊みたいなものだ。

 俳句や和歌なんかにも見立てがよく登場する。落語だって噺の中で手拭いや扇子を色んなものに見立てている。見立てとは、元々は貧しくてモノが十分にないとか、その場では現物が手に入らないような状況で苦肉の策で発生したのかもしれないけれど、それは長い時間の中でぼくたち日本人の精神の遊びのようなものにまで昇華されてきた。

 見立ては、やがて茶の湯のように高い抽象性や簡潔性を伴った美意識へと繋がっていったような気がする。それはやっと現代になってポップだモダンだと称するような美の存在に世界が気づく遥か昔のことだ。ぼくは昔を過大に評価したり、美化したりするのは余り好きじゃないけど、これはちょっと凄いと思う。で今、溢れるようなモノに囲まれて、ないモノが無い。見立てる必要もない。もしかしたらぼくらの精神の中までモノでいっぱいなのかもしれない。ぼくらは今見立てのような精神の遊びを少し忘れていないか。


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 *「見立て」というのはと面白い言葉で、「あの医者は見立てが巧い」というと病気の診断が上手と言う意味だし、「このネクタイはカミさんの見立てなんだ」というと奥さんが選んだということですね。

 また「このまま円高が進めば100円割れもあるというのが専門家の見立てだ」と言えば予測だし、もちろん「この庭園ではあの築山を富士山に見立てている」というのは、富士山になぞらえているということです。

 知らなかったのですが、「見立て殺人」という言葉があるらしく、これは最近はやりのミステリー等で伝説や童謡などに見立てた連続殺人事件や、それを匂わすような操作のされた現場のある殺人事件などを言うらしいです。


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東京の空の下 [Ansicht Tokio]

東京の空の下

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 ■花が葉になる東京よさようなら (「草木塔」種田山頭火)

 桜の花が散って、青々とした葉ばかりの木になると山頭火のこの句を想い出す。山頭火は明治37年、22歳の時に早稲田大学を中途退学して故郷に戻った。神経衰弱がひどくなっての事だったと思う。そして30年後の昭和11年東京で開かれた自由律俳句誌「層雲」の大会に出るため東京を訪れた。山頭火はそのときもう52歳になっていた。この句はその大会が終わり東京を去る時に読んだ句と思われるのだけれど、彼の東京との決別の気持ちが現れているような気がする。この6年後に山頭火は58歳で亡くなっている。

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 昨日カミさんと日本橋にでかけた。三井記念美術館で「北大路魯山人の美」と銘打った展覧会が開かれているので、それを見てから銀座に行って熊本県物産館で買い物と寄付をして来ようという算段だった。土曜日でも午前中とあって美術館は左程混んではいなかった。

 魯山人と言うと美食家でも有名だが、その幼年期は悲惨とも言えるものだったらしい。その魯山人の悲惨な幼少期を想うとき、ぼくの頭にはいつも種田山頭火のそれがダブって去来する。その悲惨さは今のぼくらにはちょっと想像しがたいようなものだったかもしれない。山頭火はその幻影から逃れるために行乞の旅に出て傍目には破滅的な人生を歩んだ。一方、魯山人はそこから這い上がるようにして美の世界へと耽溺していったように思う。冒頭の山頭火の句を想い出したのはそんなこともあってだった。

 展覧会を観終わってミュージアム・カフェで軽く食事をして銀座に向かった。銀座へ向かう途中日本橋の上から川面を見たら一隻の観光用ボートが見えた。先だって日本橋の川岸にクルーズ用の船着場が出来たというのは聞いていたけど、どうやらそれらしい。好奇心で船着場の方へ降りてみると間もなく日本橋・隅田川巡りの船が出るらしい。聞いてみると60分のコースでまだ席に余裕があるということだったので急きょ乗ってみることにした。

 コースは日本橋船着場~日本橋川~豊海橋~隅田川永代橋~隅田川支流~相生橋~佃水門~朝潮運河~東京港~レインボーブリッジ遠望~竹芝ふ頭~勝どき橋~佃大橋~豊海橋~日本橋川~日本橋船着場ということで、考えてみたらぼくも子供の頃よくハゼ釣りに来た界隈だし、カミさんの育った門前仲町の永代橋の下も通るらしい。

 天気はちょっと曇っているけれど時々日がさして暑すぎず好い具合ではあった。鬱陶しい高速道路の下の細い運河日本橋川を抜けて隅田川に出ると途端に視界が開ける。それがさらに東京湾に出ると広々とした東京の空の下に未来都市のように東京の街並みが広がっている。その街並みは、もちろん山頭火が決別した東京のそれでも、ぼくがハゼ釣りをした東京のそれでもなく、カミさんが育った門前仲町の永代橋に繋がる街並みでもなかった。それは壮大で、そしてちょっと危うそうな今の東京の姿そのものだった。


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 *予定外のクルーズの後銀座に出てまずビルの8階にある大分県のアンテナショップに行きました。こちらは初めて行くので分かりにくく探しながら行きましたが、その日は土曜日とあってレストランの方は開いていましたが観光センターの方は土曜なので閉まっていました。募金箱も無くちょっと肩透かしを食ったような…。

 一方、ソニービルのちょっと先にある熊本県のアンテナショップは何度も行ったことがあるのですが、店の少し手前まで来たところでもう人の列が見えます。長蛇の列で店に入るだけで大分待たなければならない様子。買い物は諦めて募金は振込でやることにして帰ってきました。

今回の地震は本震と思われたものの後にさらに揺れの大きな地震が来るなど、住民の人が味わった恐怖感もいかほどかと…。東京の街並みを同じような地震が襲ったらとおもうと他人ごとではないです。東京は以前もこのブログにも書きましたが今は大地震を「猶予」されているモラトリアム都市であるわけですから…。





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感性の断層 [新隠居主義]

感性の断層

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 最近、遅ればせながら歳をとるとはこう言うことかと実感することがある。ぼくの青春時代に活躍していた人がテレビに出てきたりすると、時の流れを感じないわけにはいかない。逆に、例えば子供の頃は相撲の横綱や花形の野球選手はもちろんずっと年上だったから、そういう人は当然自分よりも目上なのだとずっと思っていた。それが大学を出る頃にはその時代のそういう人たちはぼくと同い年位になっていたはずなのだけれど、頭の中では子供の頃と同じ位置づけのままで彼らの方が年上と思い込んでいた。

 さすがに60歳過ぎてからは横綱も野球選手も年下に見えてきたけど、元横綱の北の湖(元相撲協会理事長)などはてっきりぼくより年上かと思っていたら、実はぼくと同じ両国中学の6年後輩と知って驚いたことがある。周りは変わってゆくのに自分の頭の中の年齢だけは中々変わって行かないのだ。

 それも歳をとったことの一つなのだけれど、最近感じているのは感性と言う点でも年齢を感じるようになった。現在の音楽や映画などへの違和感みたいなのがあって、どこかで感性の断層みたいなものがあったのだろうと思う。例えばヒットソングみたいなものでいうと、もちろん今どういう曲がヒットしているかなんて皆目分からないのだけれど、じゃあ、いつ頃からそれが分からなくなって来たのか。

 つらつら考えて見るとぼくがヒット曲として最後の方で認識しているのは宇多田ヒカルの「Automatic」あたりじゃないかなと思う。彼女のAutomaticが大ヒットしたのが1998年だから、その頃ぼくはもう51歳でおっさんでサラリーマンだった。でも、満員の通勤電車の中で聴いていたラジオから彼女の歌が流れてきたときの驚きは今でもはっきりと覚えている。日本人にこんな歌が作れて歌えるのだということがオジサンの耳にも鮮烈でショックだった。それ以来彼女の歌はずっと聴いているけど…。

 ぼくがどうもヒット曲なるモノに興味を失うというか分からなくなったのは宇多田ヒカルと相前後して登場してきた小室哲也の系統の曲が広がり始めたことと関係がありそうなのだ。歌謡曲からフォークそしてビートルズなどメロディーラインを追える音楽にならされた耳には小室サウンドはなんとも居心地の悪いものだったのだと思う。ぼくにとってはどうもそこら辺が断層だったみたいだ。

 ジャズは今でも好きで聴いているけれど、ジャズに対しての感性の断層が来たのは比較的早くてバップを中心に気楽に聴いていたので、ジャズ喫茶でコルトレーンなんかをしかつめらしい顔で聴いている雰囲気はとても嫌だった。そこら辺からあまり先には出ていない。やがてフリージャズやヒュージョンやロックのテイストが入るなどジャズは多様で広範な音楽へと拡散していったような気がするが、そっちの方はあまり関心が無い。幸いジャズは音源の遺産が豊富なので今でも不自由はない。

 そういった感性の断層みたいなものはどうもクラシック音楽にも絵画などにもあるみたいなのだ。それは年齢によっておこることもあるけど、時代というもっと大きなもので断層が形作られることもあると思う。ヒトは望むと望まないに関わらず時代の空気を吸って時代の中で生きている。だから自分の感性の中にも少なからずその時代と言う要素が忍び込んでいるはずなのだ。

 もちろんそれが全てではないけれど、その時代の感性を超えて共感したり、断層を乗り越えて異なる時代の感性に共感するには、たまには自分の居心地の好い世界から断層を超えて覗いてみる気持ちも大事かもしれない。でも、それ自分でも最近ないなぁ。何も無理することは無いけど、それで断層の向こう側に新たに自分の感性の居心地の好いモノが見つかったら、それこそメッケモンということになるかもしれない。



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月に叢雲 花に風 [gillman*s park 16]

月に叢雲 花に風

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 数日前、カミさんと姪とその子供を連れて近くの公園に花見に行った。シートとテーブルクロスを持って途中のコンビニで弁当とビールを買って…。その前日は雨が降っていたがそれは止んでいた。とはいえ曇りで風も冷たくお花見の陽気には程遠かった。いつもは結婚30年を記念してこの公園に植えた桜の下でシートを広げてお弁当を食べるのだけれど、その日は近くのテーブルとベンチが空いていたのでそこにすることにした。

 桜は満開なのに人は少ない。天気のせいだろう。明後日位にはまた雨が降るというから桜も今年のそれで見納めかも知れない。月に叢雲 花に風と言うけれど、毎年桜が咲く頃には天気が安定していないためか風が吹いたり、雨が降ったり。この月に叢雲花に風というのは、好い月が出たと思ったら雲がかかるし、花が咲いたと思ったら風で散らされてしまう、何事もうまく行かないものだ。好事魔多しということだろう。

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 この言葉の由来はいろいろと調べてみたけどよく分からなかった。いかにも残念な感じはよく出ているけれど、日本人の美意識からすると必ずしもそれは残念とばかりは言えないような気もする。というのも学校でも習った吉田兼好の「徒然草」の百三十七段にはこんな風に書いてあるから…。

 花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。雨に対ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行衛知らぬも、なほ、あはれに情深し。咲きぬべきほどの梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ。歌の詞書にも、「花見にまかれりけるに、早く散り過ぎにければ」とも、「障る事ありてまからで」なども書けるは、「花を見て」と言へるに劣れる事かは。花の散り、月の傾くを慕ふ習ひはさる事なれど、殊にかたくななる人ぞ、「この枝、かの枝散りにけり。今は見所なし」などは言ふめる。…

 つまり、桜だって満開だけじゃないし、月だって一点の曇りもない月ばかりじゃない。部屋の中から春を想ったり、みえない月に想いを馳せてみるのも趣があるぞ。もう少しで咲く桜や桜が散った後の庭なんかも好いじゃないか。花が散って、月が沈んでゆくのを残念がって惜しむのは分かるけど、だからってそれでもう見る価値なんか無いというのは馬鹿げていないか。というようなことを言っているらしい。

 この兼好の、ものの盛りよりもその一歩手前や、盛りを過ぎた状態、つまり完全で完成されたものよりもそれを少し外れたものにも美を見出すというのはぼく達日本人の美意識の底流に流れているんじゃないかと思うことがある。それはある意味では諦念や無常観へと繋がってゆく発想ととらえることもできるけれど、ぼくはそれは過ぎてゆく時を嘆くのではなくて、愛おしんですべての時を味わい尽くそうという発想ととらえることも出来ると思う。

 もちろん、これはぼくの勝手な我田引水の解釈なのだけれど、この間埼玉県立近代美術館でジャック=アンリ・ラルティーグの写真展を観て何処かそういう考えに似ているなと思った。彼の写真に溢れているのは過ぎ去ってゆく時への愛おしみのようなものだった。それは植田正治の写真を観た時にも感じた思いだった。そしてそれはぼくの好きな画家のハンマースホイやワイエスそしてホッパーなどの絵画の一つの軸ともなっていると思うのだけど…。

  光陰の やがて淡墨 桜かな  (岸田稚魚)


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空の時代 [gillman*s park 16]

空の時代

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 ここ数年何故かオランダフランドルの16,7世紀ごろの絵を観る機会が多くて、自分の中では今密かなブームになっているのだけれども…。何でだろうと自分自身少し訝っていたのだが、考えられるその一つの理由はずっと観てきた宗教画への反発という程ではなくても、少なくともそれに対する倦怠のせいもあるのかもしれないと思うようになった。

 宗教画は決して嫌いではない、特にキリスト教の宗教画はエピソードと約束事が事細かに決まっていて、つまりフォーマットがしっかりとしていてその中での画家の表現力であり、力量なのだと思う。もちろんそれでは不自由ではないかという事も言えるかもしれないが、ある意味では画家にとってその制限的なフォーマットの中で力を発揮する事自体が一つのやり甲斐に繋がっていた面もあるのではないかとも思う。

 よく建築家が予算も規模も工期も用途も何の制約もつけないから建物を建ててみろと言われたら、それこそが一番の難題なのだ、というけれど職人的色彩が強かった昔の画家にしてみれば宗教画のフォーマットというのは現実的で有難い枠組みだったのかもしれない。勿論それは絵を見る信者にとっても共通の記号が埋め込まれた一つのメッセージとしては至極わかり易いという利点を持っているし、繰り返しそのフォーマットに触れることによってさらに信仰心が深まってゆくという効果も持っている。

 一方、ぼくのようにその宗教の信者でない者にとって宗教画は美術品という位置付けで頭なり心なりに飛び込んでくる。とすると当然絵の中に込められた記号は宗教的記号としての意味は希薄になって來る。ぼくの場合その結果としてちょっとフォーマット自体が段々鼻についてきたような感じなのだ。ただ、これは今だけの問題でその内自分の中で解決されてゆくのかもしれないけれど…。

 ちょっと宗教画の話が長くなり過ぎたけど、要するに16,7世紀のオランダやフランドルには今までの宗教画一辺倒でない絵の世界が広がり始めていた、というのがぼくの心を捉えた点なのだろう。その頃のオランダなどでは東方貿易で市民層が財力を付け絵画の発注者が教会からそのような裕福な市民層に移ってきたということが絵の題材の変化に現れてきたのだと思う。

 風景画もそのような新たな題材の一つで、特にヤーコプ・ファン・ロイスダール(最近はライスダールという表示もめだつが)は今までは肖像画や宗教画の単なる「背景」に過ぎなかった風景を絵画の主題として積極的に取り上げだした。今では当たり前に絵画の一つのジャンルになっている風景画の誕生だ。ロイスダールの風景画の特長は何といっても「空」の表情の豊かさだ。

 彼は絵画にいわば新たな「空の時代」を創り上げた。山の無いオランダの風景の醍醐味は刻々と変わる空の表情、それをロイスダールは地平線を低い位置に置くことによって描き出している。空は実に豊かな表情を持っている。近くの公園に散歩に行ってぼくの一番の楽しみは、そこに広がる大きな空だ。特に公園の丘を見上げながらその向こうに広がる空を見るのが最近の楽しみになっている。今はぼくも空の時代にいるのかもしれない。


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真昼の闇 [新隠居主義]

真昼の闇

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 ロシアの友人が出張で日本に来ており行ってみたいというので一緒に川崎の日本民家園に行った。彼女も写真が好きなのでぶらぶらと写真散歩に行ってみることにした。彼女は日本に留学後帰国して就職した会社の関係で最近は東京にも出張で来るようになった。

 ぼくもここ日本民家園は初めてなので新鮮な感じがした。園内には20棟以上の日本全国の古民家が移築されていて、散歩している感覚で順次観て歩けるようになっている。連休ということもあってか色々なところでイベントも行われていたし、多くの古民家に上がることができ、何軒かの民家の囲炉裏には火が活けられていた。

 どの民家の梁も太く黒々として三百年近くもその家をしっかりと支えてきた自信に満ちている。家々を観てまわっている内に、木造の家に比べて鉄やコンクリートの家の方がずっと盤石だということは単なるぼくらの迷信であると感じられた。それはぼくらが当然と思っている直線的な進化や進歩というイメージを無言のうちに拒否している。

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 古民家の中に一歩足を踏み入れると一瞬目くらましにあったように視界が真っ暗になる。暫くして暗闇に目が慣れてくると三和土(たたき)の床の上に広大な空間が広がっているのがわかる。そこにはかまどであったり、農具であったり昔の生活のよすががうかがえる品々が…。

 暮らしの場でもあり作業の場でもある三和土から一段高いところに座敷がある。その中心になるのが囲炉裏で、それは暖房であり夜の灯りであり、家族のだんらんの場であり、そして夕餉の調理の場でもある。その日は特別に囲炉裏に火が活けられていて、火種を絶やさないように薪をくべる度に煙が立ち込める。

 その煙は魚などをスモークして保存食にするばかりでなく、家の隅々までゆきわたり家屋の建材を保護したり木に付く虫を駆除したりする役目も持っていたらしい。靴を脱いで座敷の方に上がりさらに奥の部屋にゆくとそこはひっそりとして再び昼の闇が支配している。わずかに開けられた格子の向こうから幾筋かの光が差し込んでいる。

 囲炉裏の方からやってきた微かな煙のせいで真昼の闇の中に天空の光芒のように鮮やかな光の筋が現れていた。ぼくらはもう日常生活の中では「真昼の闇」というものをすっかり忘れてしまっているのかもしれない。ぼくらにとって昼間は当然明るいもので、例え陽が差し込まない場所でもそこには人工的照明があるので昼間においては闇の世界はない。

 昔の人は今のぼくらよりずっと光の微妙なコントラストに敏感だったのではないかと思い始めた。そこにはぼくらがもう忘れてしまった真昼の闇というものが存在している。今日の古民家はそのことも思い起こさせてくれた。

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 *「真昼の闇」ということをぼくらは忘れていますが、これは案外昔の絵画などを見る時にも実は大事なポイントなのだと思います。昼間には明るい居住空間に住めるようになったのは、ガラスや広い窓の建築様式の出現など時代的にはつい最近の事なのですね。

 時代や歴史などを机の上だけでなく、光や匂いや音、手触りなど五感でも感じてゆくということは正しい時代認識をする上でも大事なことだと思いました。


...
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五年が… [新隠居主義]

五年が…

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 あの忌まわしい東北大震災から丸五年が経つ。復興は着実に進んでいるという人もいるし、五年経っても遅々として進まないという話も聴く。ここにきて言わば復興格差ともいえるものが顕著になっている感じもする。五年の歳月は人々の上に同じように降りかかってはいなかったということか。

 五年という節目でテレビをはじめとしたマスコミはこぞって震災のことを取り上げてる。「我々は忘れていない」というアピールだろうか。だが、ぼくにすればテレビはそれ以前にしなければならないことを忘れている。それはあの時の自分たちの振る舞いについてだ。その総括もしないで口を拭っていることを皆が忘れていると思ったらとんだ考え違いだ。

 震災直後、人々は避難所に避難したが、地域の避難所は複数個所にまたがるため身内や知人が無事なのか知る術もない。遠隔地に住んでいる親戚縁者にしても携帯なぞは当然つながらない。時間の経過とともに避難所には避難者の名前が壁に貼られ、それに見入る住民や他の避難所から身内・知人の生存の確認にくる人々の姿がテレビに映されていた。

 当時テレビにはできることが沢山あったはずだった。みんなが情報を欲しがっていた。例えば安否情報。避難所の壁にかかった避難者のリストを映し出すだけでも貴重な情報にはなるのだ。しかし、そのときテレビのやっていたことは実に頻繁にACジャパン(公共広告機構)の公共広告を垂れ流すことだった。

 テレビの前でやきもきする視聴者の前に際限なく「交通ルールを守ろう」だの「〇〇がん予防ワクチンを打とう」だのその時点ではどうでも良いCMが頻繁に延々と流された。どこの民放でも状況は同じだったからその手のCMが流された述べ時間は大変なものだろうと思う。もしもその時間が例えば安否情報などもっと緊急で有用な情報の提供にあてられたらと思うと残念でならない。

 もちろん民放だからコマーシャル枠があって、しかしどの提供先もそんな悲惨な時に自分の企業のCMなぞ流したくないのでそのためのACなのだ、という言い訳はつくのだけれど…、それは余りにも自分たちの本来的責任を放棄した物言いなのだと思う。その後ACに抗議が殺到したらしいけれど、それはお門違いというものだ。要は放送局側の方に普段からそういう思考回路が無かったということだと思う。

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 それだけではない。原発事故についてもテレビは政府や東電の出す情報を丸呑みしそれを補強するような情報ばかりを送り出していた。そのためには御用学者とまでは言わないが、その方向に合う学者たちを起用して解説をさせていた。あの時点ではそれしかなかったというかもしれないけれど、ネットを見れば海外を含めて全く異なる情報も出ている。ネットには早い段階から原子炉建屋の悲惨な画像も出ていたし、SPEEDIの件についてもネットでは既に問題になっていたのにテレビは無視し続けたように思えた。

 あの時点からぼくはテレビの報道については殆どあてにしないようになった。じゃあ、それ以前にはあてにしていたのかと云われると不明を恥じるばかりだが…。もちろんネットには山のように悪意に満ちた情報や不確実な情報もあふれているけれど、他方不都合な事実を隠したり、取り繕うことを困難にするという面も持っている。大震災はそういうメディアの実態も明らかにしてくれた。五年目を語るのなら、今テレビはその時のことをちゃんと自分の中で反芻してもらいたいのだけれど…。


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写真は2012年1月、南三陸町で撮影。

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[南三陸町の過去記事]

嬉しさとやり切れなさと
南三陸町 あれから一年
食べるとは想うこと
南三陸町の冬
はじめの一歩
リアスの恋人たち


*電波を止めるなどとの総務大臣の恫喝ともとられる発言を始め、
放送への有形・無形の圧力が取りざたされる現在、
テレビは自らの社会的責務について
もう一度真摯に向き合うべきだと思うのですが…。
初代のテレビ世代として育った人間から見ると、
現場の人は頑張っているのだと思うけれど、
今のテレビ界を動かしている上の人間に対して
歯がゆい思いをしています。


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駅で… [gillman*s Lands]

駅で…

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  日日

  ある日僕は思った
  僕に持ち上げられないものなんてあるだろうか

  次の日僕は思った
  僕に持ち上げられるものなんてあるだろうか

  暮れやすい日日を僕は
  傾斜して歩んでいる

  これらの親しい日日が
  つぎつぎ後ろへ駆け去るのを
  いぶかしいようなおそれの気持ちでみつめながら


  Days

  One day I wondered if there was something
  I would be unable to lift.

  The next day I wondered if there was anything
  I would be able to lift.

  As days lead toward darkness
  I walk on slumped over.

  watching, with doubt and fear,
  those familiar days gallop away backward,
  passing me by, one after another.

   (「二十億光年の孤独」谷川俊太郎/W.I.エリオット訳、集英社)


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 ヨーロッパの駅がぼくは好きだ。大きなガラスドームの下にプラットフォームが何本も並んでいて、独特の雰囲気の空間を作り出している。ヨーロッパの古い街の中央駅は引き込み線になっている場合が多い。線路が旧市街を貫通して横切るのが難しいためだという。従って列車が中央駅に停まると、発車する時には列車の進行方向が以前とは逆になることがよくある。

 ドームの下に広がる何本ものプラットホームに終着駅のようにずらっと何台も列車が並ぶ光景は鉄道マニアでなくてもちょっと嬉しくなるような瞬間だ。大抵の中央駅には改札口が無いのも駅の雰囲気を開放的にしている一因かもしれない。基本的には列車の中、もしくは乗車時にドアのところでの改札が基本なのでぼくらが当然あると思い込んでいる駅の改札口は何処にも無い。

 ドレスデン中央駅のちょっとガランとしたホームで列車を待っていると、若いころ散々列車で旅行した時のことを想い出した。一番長く列車に乗り続けたのは、…確か南スペインのグラナダからデンマークのコペンハーゲンまで列車を乗り継いでいったことがある。その間ぼくが居た6人部屋のコンパートメントには色々な国の人が乗り込んではやがて彼らの下車駅に着くと降りてゆく。ぼくだけはずっと乗りつづけている。

 スペインで乗り合わせたおばあさんには昼飯をごちそうになった。フランスで乗り込んできた女の子たちとは夜中にどんちゃん騒ぎになった。夜が明けて潮が引くように皆が降りて行ってひとりコンパートメントに取り残された時の寂しさと、これからの自分の将来への不安などが襲ってきて一挙に落ち込んだことを覚えている。若いころは自分には何でもできそうだという昂揚した気持ちと、結局何をやっても駄目だという絶望した気持ちがまるでジェットコースターのように交互に襲ってきた。

 ホームでしばらくボーっとしているうちに、乗る列車の発車時刻が過ぎていた。しかし待っていたホームに列車が入ってきた気配はない。どうも直前に発車する番線が変わったらしいのだけれど、何のアナウンスも無かった。多分掲示板の表示には出ていたのかも知れない。急ぐ旅ではないので次の列車に乗ることにしたのだけれど…。なんとも間の抜けたのんびりとした話だ。しかし、ここから東にいったブダペストの中央駅にはつい最近まで難民が溢れていたと思うと急に厳しい現実が脳裏に浮かび、とても複雑な気持ちになった。

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 *最近は列車で旅することが減っていたのでうっかりしていたのですが、ヨーロッパではふつう発車のベルも鳴らないし、発車のプラットホームが変更になることも珍しくはないのです。ホームで待っていると向かい側のホームの列車がなんとも面白いデザインで、駆動車の側面に「ドイツ鉄道はドイツ連邦警察60周年をお祝いします。あなたの安全を守る二つの強力なパートナー」

 なぜドイツ鉄道が連邦警察を?、わからん。などと考えていたんですが、実はその列車こそぼくが乗るべき列車だったようです。発車が隣のプラットフォームに変更になっていたのですね。




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猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その20~ [猫と暮らせば]

猫を巡るアフォリズム Aphorisms on Cats ~その20~

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 じゃまする楽しみ(第17章)
 
  
暖炉の前での読書、
  手紙を書くこと、そして
  ゲームなどのたぐい

 上にあげたことは猫はしません。人間がすることです。でも人間がこういうことをしていいのは、猫が許可したときに限ります。家族がこの手の気晴らしをしたいときは、まず猫の許しを求めること。猫がいっしょに遊びたいときには、人間は自分だけの気晴らしにふけってはいけない、という規則を早目に徹底させましょうね。…


 ■ じょうずな話し方(第12章)

 欲しい物があるとき、この「声を出さないニャーオ」はすごいききめを発揮します。ほんとよ。でも使いすぎてはだめ、ここぞという時のためにとっておかなくては。
 これのやりかたは実に簡単です。ふつうのニャーオ、たとえば「外に出たいからドアを開けて」とか「おなかがすいた」とか「これは気に入らない」とかの意味を伝えるニャーオをいうときと同じに、相手を見つめて口を開けます。ただし、声は出しません。
  たったこれだけのことなのに、その効果たるや劇的です。男も女も心を揺さぶられて、まずどんなことでもしてくれます。…

  (「猫語の教科書」(The Silent Miaw)/灰島かり訳」ポール・ギャリコ/筑摩書房)




 猫を巡るアフォリズム(Aphorisms on Cats)が20回を迎えたということで、今回はアフォリズムではなくて、ぼくの好きなポール・ギャリコの本「猫語の教科書」の一節から。これは猫のための猫による人間のしつけ方の教科書なのだ。原題はThe Silent Miaw、つまり声を出さないニャーオ。これが人間を躾ける時のキモで、これにかかったらどんな飼い主もイチコロというわけだ。

 でもこれは乱用したらダメだよとも、この教科書は教えている。ウチでこれを一番心得ているのはレオだろう。チンチラのレオは普段はあまり鳴かない。水飲みの水を替えて欲しい時でもその前にジッと座り込んでいる。こちらが何かをしていてあまりにも気づかないと、ぼくの所にやって来て一言軽く「ニャー」と。

 ぼくに何かをして欲しい時は近寄って来てこの短い「ニャー」を言う。ぼくの方はもう猫達に充分躾けられているので、そのニャーがご飯なのか、ご飯のお替りなのか、水の交換なのか、それともちょっと汚れたトイレの掃除なのかは分かるのだ。レオの場合、他のクロモモのように机の上に広げた書類に寝転ぶなどの「じゃまする楽しみ」の趣味は余りないので、ほんとにたまにおこる遊んで欲しい衝動の時にこの「声をださないニャーオ」を使うようだ。

 レオが尻尾を真っ直ぐ上にあげて、立っているぼくの足元に来てぼくの目を見上げている…、あ、鳴くなと思ったら鳴かない。口を開けてまさに鳴く仕草をしながら声は出さない。「どしたの?」といって今度はぼくがしゃがみこんで顔を覗き込むと、またこの「声をださないニャーオ」。 そうすると、こっちはちょっと不安になってぼくの頭はフル回転して、あれはもうしてあるから、あれでもない、これもさっきやったから、これでもない、ようやく、ああ、きっとアレなんだなと遊び用のおもちゃにたどり着く。

 考えて見れば、レオはご飯だって、水だって、トイレの掃除だって最初は皆この「声をださないニャーオ」だったのだ。それがぼくが躾けられてレオの要求が分かるようになった時点から短いただの「ニャー」になったのだ。それはぼくが学習したから、普段は何もいちいちとっておきの「声をださないニャーオ」を使う必要が無くなったのだろうと思う。してみるとレオは今こう思っているのかもしれない「こいつは、いつまでたってもオレが遊びたいって言ってるのを覚えないんだにゃー」と。それにしてもレオはいつあの教科書を読んだのだろうか?




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冬こそ音楽 Dresden~Berlin [gillman*s Lands]

冬こそ音楽 Dresden~Berlin

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 今回の旅行の目的は音楽会と美術館だったのだけれど、寒さ嫌いのぼくとしてはこの時期のドイツはいかにも寒くて苦手なのだ。それをおして、敢えて今と言うのは一つにはこの時期が音楽の言わばハイシーズンということで年末年始恒例のオペレッタ「こうもり」からシーズンならではの素敵なコンサートが目白押しだということ。

 さらにもう一つは、観光シーズンには列に並んだり背伸びして観なければならないような名画や美術館の作品がゆったりと観られるということ。今回は特に今まで中々まとめて観ることが出来なかったフリードリヒなどのドイツロマン主義の絵画をじっくりと観てみたいという魂胆なのだった。

 ぼくはクラシック音楽は余りよく分からないので今回一緒に行く友人にチョイスを頼んだのだけれど、ぼくの唯一のしかし外せない要望がゼンパー(ドレスデンのザクセン州立歌劇場)でのヴェーバーのオペラ「魔弾の射手」の観劇だった。他のオペラについてはからきしなのだけれど、この「魔弾の射手」と「こうもり」それに「魔笛」だけはなぜかテキストも頭に入っている。彼のおかげで結局下の様なバラエティーに富むチケットが手に入った。

□Semper/Der Freischutz
 ドレスデン・ザクセン州立歌劇場 オペラ「魔弾の射手
□Semper/Sonderkonzert Rudolf Buchbinder
 ドレスデン・ザクセン州立歌劇場 「ブッフビンダー・誕生日ピアノコンサート」
□Semper/Die Fledermaus
 ドレスデン・ザクセン州立歌劇場 オペレッタ「こうもり
□Staatskapelle Berlin/Geburtstagskonzert Zubin Mehta/Daniel Barenboim
 シュターツカペレ・ベルリン 「ズービンメータ・バースデーコンサートwithバレンボイム
□Berliner Phil./Thieleman/Berliner Phil./Pollini Chopin Piano Conc.#1
 ベルリンフィル 「ティーレマン+ポリーニ・コンサート


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 ゼンパーでの「魔弾の射手」はそれなりに素晴らしかった。それなりにというのは、大昔にマンハイムの歌劇場で何度か観て以来夢にまで見たこのオペラの揺りかごであるゼンパーの舞台なのだが、演出も良かったし、合唱はそれ以上に本当に素晴らしかったのだけれど、一部主役級の歌手の力不足が(良く分かりもしないのにナマイキかもしれないけど…)感じられてそこがなんとも残念だった。

 いくつかあるこのオペラの盛り上がる処で、何かもう一つ盛り上がらない。なんとも納得がいかず後でもう一度プログラムを見てみたら、主役級の三人(アガーテ、エンヒェン、マックス役)が三人とも代役になっている。(しかも代役の理由が三人とも病気のためとなっている。こんなことって…) ぼくはオペラ全般のことはよく分からないけど、こんなことはよくあることなんだろうか。前の音楽監督ティーレマンがドレスデンを辞める時、いろいろとすったもんだがあったみたいなのだけれど、そこら辺が影響しているのか、いずれにしてもなんとも不可解である。

 逆にもしそんなことがあっての事なら、それでもまがりなりにもここまで纏め上げたのは当日の指揮者、エストニア出身の若手の指揮者Mihkel Kütson(キュットソン?)の力があったからなのかもしれない。ちょっと肩透かしは食ったけれど、でもモノは考えようで、もしぼくが今回ドレスデンの舞台で完璧な「魔弾の射手」を観たとしたら、ぼくの中の魔弾の射手の夢はそれで終わった訳で、そういう意味では今後に期待が繋がったと思うようにしよう。


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 逆に望外の楽しい経験になったのが翌日のJ.シュトラウス二世のオペレッタこうもり」の公演だった。それは歌舞伎や洒脱な大衆演劇を観ているような理屈抜きの愉しさ。「こうもり」は大昔に一度観ただけなのだけれど、ビデオなどでは何度となく観てはいた。オペレッタ独特の語りと笑いのツボをくすぐる演出。とにかく観ていて楽しくて面白くて、後で芸達者な役者達にただただ感心させられた。ある意味ではオペラよりも幅広い芸の力が要求されると感じた。

 今回の舞台は演出も斬新だし、特に牢番役を演じたヴォルフガング・シュトゥンプ(Wolfgang Stumph)の演技は抱腹絶倒の連続だった。彼は歌手ではなくベテランの役者で10年以上もこのドレスデンやブレーメン等の舞台で牢番役をやっているらしい。また、他のドイツの小劇場(キャバレット)でも活躍しているベテランの役者だ。彼が単独で演技する歌の無いシーンがたぶん三十分位いは続いたと思うけれど、アドリブもまじえて全く飽きさせない、それどころかぼくみたいにドイツ語のあやしい人間でも涙が出るほど腹を抱えて笑わせる力量は凄いの一言に尽きる。

 また他のシーンでは、女中役のアデーレが舞台から客席に降りてきて客と絡み合うのだけれど、ぼくは前から二列目の席に居たのだが、彼女が演技でぼくの前の席の老紳士の膝に乗って彼をからかいながらもぼくの方に向かって手を差し出した。とっさのことで、ぼくは思わずその手をとって軽い握手をしたのだけれど、後から考えるとあれは差し出された彼女の手と握手するのでなく、差し出された彼女の手の甲にキスをするべきだったのだと気が付いたけど後の祭り。なんとも無粋なリアクションをしてしまった、反省しきり。でも、最高の夜だった。

 
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 ドレスデンからライプチッヒに移って、最後にベルリンに入った。ここは美術館が楽しみだったのだけれど、コンサートも二つ楽しみなのがあった。その一つがズービンメータの八十歳のバースデー・コンサートでバレンボイムもでる。これを皮切りに今年中に何度か開かれるバースデー・コンサートのシリーズの皮切りだったのだけれど…。

 結論から言うと、会場を間違えて聴けなかったのだ。なんともトホホな話。その日のオーケストラはベルリンフィルではなくてSKB(Staatskapelle Berlin)と言われるベルリン国立歌劇場のオーケストラでベルリン国立歌劇場(Staatsoper Unter den Linden)の建物は現在リニューアル工事のため、ここ数年は会場としてシラー劇場を使っている。手にしていたチケットにも大きくStaatsoper im Schiller Theaterと書いてある。生半可にそのことを知っていたためにあらぬ思い込みをしてしまった。

 で、何の疑問も持たずその日開場時間に合わせてシラー劇場に行った。ところが開場時間が近づいてもホールが開かないし、客も数人しか来ない。来た人は皆怪訝そうにしている。シラー劇場の壁に貼ってある公演案内には今日の演目もちゃんと出ているのに。その場にいたやはり不思議がっているドイツ人の夫婦と話してみると、自分たちもチケットを持っているのだけれど訳が分からないという。その内奥さんがスマホでネットを見て公演が中止になったらしいと言う。それにしては案内の張り紙も無いのが不可解だ。

 とにかく明日またチケットオフィスに来てみましょうよ、ということで別れたけれど、何とも解せない。モヤモヤしながらこのままホテルに帰るのも癪に障るので劇場の裏手に回ったら、レストランというか飲み屋があったので入った。これは幸いした。とにかく雰囲気の好い所で、それに女将さんも好い感じ。客は地元の人ばかりらしいけど、今までベルリンで入った飲み屋では一番居心地の好い所だった。Schiller-Klauseという店の名前の通りシラー劇場に関わる色々なアーチストが来たらしく壁には多くの写真が飾られていた。いいなぁ此処。うん、これはこれで悪くはない想い出になりそうだ。

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 *結局、会場を間違えたのでした。その原因は現在はSKB公演=シラー劇場でという思い込みでした。チケットの券面はいかにもシラー劇場ですが、よく見るとチケットの左下に小さく会場はベルリンフィルと書いてありました。その日の公演はちゃんとベルリンフィルで行われていたのです。そうだとすると、あの時ドイツ人夫婦の奥さんの方が何やらネットで見て急きょ公演中止になったと言った情報は何だったのでしょうか。最終的には他にもドイツ人や外国人など何人かの人がシラー劇場の前に集まったのですが、結局その情報でみな会場を後にしたのですが…。ああ…。

[ベルリンのオーケストラとメイン会場]
言い訳になりますが、ベルリンにおけるオーケストラの名前やメイン会場はなんとも紛らわしいのです。
・ベルリン・フイルハーモニー管弦楽団/Berliner Philharmoniker(オーケストラ名)
・ベルリン・フィル/Philhamonie Berlin(メイン会場名)

・ベルリン国立歌劇場管弦楽団(シュターツカペレ・ベルリン)/Staatskapelle Berlin(オーケストラ名)
・ベルリン国立歌劇場/Staatsoper Unter den Linden(メイン会場名) 但し、現在同劇場がリニューアル中のためシラー劇場/Schiller TheaterがStaatsoper im Schiller Theaterとしてメイン会場になっている

・ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団/Deutsche Oper Berlin(オーケストラ名)
・ベルリン・ドイツ・オペラ/Deutsche Oper Berlin(メイン会場名)

 また先日来日した
ベルリン・ドイツ交響楽団/Deutsches Symphonie-Orchester Berlinはまた別の楽団です。他にもベルリン・フィルを本拠地とするベルリン放送交響楽団/Rundfunk-Sinfonieorchester Berlinなどもありますね。複雑な一因は旧東ドイツ時代の楽団との統廃合などの影響もあるようです。


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<Photo>上から…
・ドレスデンのザクセン州立歌劇場
・ザクセン州立歌劇場内
・オペラ「魔弾の射手」のカーテンコール、中央は指揮者のキュットソン
・開場時間間際になっても誰もいないシラー劇場前
・シラー劇場裏の飲み屋Schiller-Krause内、3枚
・ロゴ上、ドレスデン歌劇場前のCafe Schinkelwache店内から
・ズービンメータの"幻の"チケット


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ヴェンダースみたいに [gillman*s Lands]

ヴェンダースみたいに

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 (「ベルリン天使の詩」に関してのインタビューで)…私にとって、旅をしている状態がいちばん居心地がいいのだ。1か所にとどまっていると、すぐ退屈するし、観察力も鈍っててしまう。未だに知らぬ場所に出かけて、そこをあてどなくさすらう。その高ぶり、感覚の増幅が、私にはたまらない魅力だ。ちょうど熱に浮かされている感じだろうか。わたしが"旅"を、もっと厳密に言えば"動いている状態"をテーマにするのは、そうした私の想いの所産と表現できるだろう。…
   (「Wim Wenders Faraway,so close!」 Interwiewより)


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 ライプチッヒからベルリンまでICEの特急で1時間とちょっと。隣の席にはドイツ人の老夫婦が座った。時々だんなと二言、三言言葉を交わす程度で奥さんの方はじっと窓を見つめている。目をつむっている時もあるけれど、眠っているわけではない。ぼくはこの二人がどんな旅をしているのか気になった。とは言え、今は自分も旅人であることに違いはない。

 その作品にはロード・ムーヴィーが多い映画監督ヴィム・ヴェンダースは彼にとっては旅をしている状態がいちばん居心地が好いという。ぼくは旅が好きだけれども必ずしもそれが一番居心地が好いとは思っていない。事実旅に出するとすぐ家に帰りたくなってしまうのだ。数日すると諦めがついて旅を続けようと言う気になるけど…。

 今の日常にだって別に退屈したことはない。それじゃあ何で旅に出るのかというと、どこか他所に新しい日常を探しに行っているような気がする。それは、今の日常に退屈していることなんじゃないかと言うかもしれないけれど、そうではなくて単純にどこかに別の日常があって、そこにも身を置いてみたいし、そこにはそれを構成している人たちがいるのだということを知りたいだけなのだ。

 だから、何処かへ行っても熱心に観光地を観て周ると言うのはあまり好きじゃない。その街にお気に入りの美術館と飲み屋があればそれで十分で、というよりそれを探して歩いていると言った方が好いかもしれない。ということはそういう所が見つかればその街ではそれで十分であとはホテルの部屋の所定の所に所定のモノを置いて身の周りの日常の環境を整えればそれで好いのだ。

 ただ、ヴェンダースの言うように旅に出ると、日常で鈍ってしまった観察力が蘇ってくるというのは確かにあるかもしれない。旅先で見聞きしたものを自分の日常と比べたり、もっと言えば旅先で自分の身を守るためにも目を凝らすということが必要になって來る。観察という点でいえば、ぼくの場合写真を撮るために旅に出ることはないけれど、旅でカメラを持っていると自分の裸眼では気が付かないところにも目が行くような気がして、カメラはぼくのもう一つの目であるように感じている(もちろん写真の巧い下手は別として…)。

 ヴェンダースのロード・ムーヴィーの場合、旅は目的地に着くことよりもその旅自体が目的であるような場合が多い。旅の中で感じたこと思ったことは、もしかしたらその旅でないと生まれなかったことなのかもしれない。隣の席の老夫婦のご婦人のようにボーっと窓の外を見ていることもその旅の重要な産物なのだ。そういう意味では列車の旅は豊かな時間を与えてくれる。12時間の飛行機の旅よりも1時間ちょっとの列車の旅の方が物思いにふける時間がずっと多いような気がするのだ。

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Dresden~Leipzig [gillman*s Lands]

Dresden~Leipzig ドレスデンからライプチッヒへ

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 ドイツの状況は随分と変わってしまっていた。年明け早々ドレスデン等に冬の音楽シーズンに音楽を聴きに行くのと、逆にシーズンオフのすいた美術館を回ることにしていたのだけれど、出発前の年明けにネットで在独日本大使館のサイトをチェックしていたら「12月31日深夜(現地時間)、ミュンヘン市警察は、深刻かつ差し迫ったテロの脅威があるとの理由からミュンヘン中央駅とパージング駅に近づかず、群衆が集まる場所は避けるよう警戒を呼びかけました。 一時、両駅は警察により封鎖されました」という注意喚起を見つけた。

 ドレスデン空港へはミュンヘン空港で乗り換えてゆく予定だったのでその後の経過に注意をしていた。幸い危惧したような事件は無かったけれど、念のため外務省の「旅レジ」にドイツ渡航の登録をして緊急事態に注意喚起メールを受け取れるようにしておいた。そうして7日には羽田を飛び立ったのだけれど、その頃には年末にドイツのケルンで起きた難民によるドイツ人女性への暴行事件の騒ぎが拡大しつつある様子が耳に入り始めていた。

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 ドレスデンは今までにも何度か訪れているけれど、最近ではドレスデンはPEGIDA(西欧のイスラム化に反対する欧州愛国主義者)の本拠地として彼らのデモが頻繁に繰り返され、またそれに反対する親移民派のデモも行われていた。そうした動きを危惧してかドレスデンの旧市街のアカデミーの壁にはDas Land, das die Fremden nicht beschützt,geht bald unter.(異国人を保護しない国はやがて没落する)というゲーテ作品の中の言葉が掲げられていたし、ゼンパー(ドレスデン州立歌劇場)の電光掲示板には「素晴らしい音楽は多彩な色彩を持っている」などの異文化との共存をたたえるスローガンが流されていた。

 ドレスデンに着いて二日目の夜、デュッセルドルフの総領事館から明日ケルンで大規模な反難民デモが予想されるのでその一帯には近づかないようにとの注意喚起のメールが来た。そのメールを見るまでも無く、ドイツのテレビでは連日ケルン事件の報道が頻繁に流されていた。幸いドレスデンでは不穏な動きは無かったが…。

 ドレスデンには四日ほど居たので買い物の必要もありいつもは行ったことのないエルベ川の向こうの新市街に行った。橋を越えてアルベルトプラッツからローテンベルガー通りをあがって横道に入ると、通りの様子が一変する。商店の様子もタトゥー屋や外国食品の店など怪しい雰囲気の店が多いし、何よりもほとんどすべての家の壁にペイントがしてある。なんか一昔前のブロンクスのようだ。道行く人の会話からも独逸語らしきものが聞こえてこない。

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 一昨日ドレスデンから列車でライプチッヒに移動した。ドレスデンでは目立ったPEGIDAの動きは無かったけれど、ここライプチッヒはある意味でもっと過激なLEGIDA(Leipzig gegen die Islamisierung des Abendlandes/西洋社会のイスラム化に反対するライプツィヒ)の本拠地でもある。

 旧市街を歩いている時、街なかや聖トマス教会で一枚のポスターを見かけた。Leipzig Beilbt Helle.(ライプチッヒは明るいままだ)つまりライプチッヒは明るい、明晰で、差別のない街であり続けると言う意味だと思う。その意思表示として今日ロウソクの灯りを持ち寄って光の鎖を作ろうと言う呼びかけだった。

 これはつまりLEGIDAの動きをけん制するものだと思うけれど、LEGIDA側も黙ってはいないだろう。街へ出た時異様なほどパトカーが多かったのはそのせいだったのだ。旅の疲れもあったので昨日の晩は駅前のホテルで早目にシャワーを浴びて部屋でワインを飲んでいた。外は小雨が降りだしている。底冷えのする晩。

 部屋で寛いでいると窓の外がさわがしい。ホテルの部屋の窓の下を大音響をあげてデモが通って行く。教会の先の広場に向かってるようだ。人々は手に手にロウソクを持って広場に向かってる。どうやらあのポスターの「Leipzig bleibt helleライプツィッヒは明晰であり続ける」という共生賛成派の意思表示のデモのようだ。反対派の殴り込みが無ければいいのだけれど…。

 人々は雨の中ここの近くの聖ニコライ教会の方に向かったようだ。ここは東ドイツ時代1989年10月9日、7万人に膨れ上がった参加者が「我々が人民だ(Wir sind das Volk!)」(=我々こそが主権者たる国民だ)と叫び大規模なデモが起こった場所。それが東ドイツ平和革命の発端だった。その1ヶ月後にベルリンの壁は崩壊した。

 夜更けまでテレビのニュースを見ているとデモの様子が簡単に報じられた程度だったが、一夜明けて詳細なニュースが入ってきた。昨日のデモ後、共生派との衝突こそなかったがやはりLEGIDAが暴れ出し、街なかで破壊行為を行い騒乱状態になって250人が逮捕された。やはり心配していた事が起こった。 今…ドイツは揺れている。

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 *ドイツは現在でも他の地域に比べて安全な国であることは間違いが無いのですが、現在のように膨大な数の難民の流入やEUの不安定化が続くようだと、治安上の不安も増大してくるのではないでしょうか。また、ドレスデンにしろ、ライプチッヒにしろ旧東ドイツの地域であるということが関係あるのかもしれません。言われていることですか未だに東西ドイツの地域的経済格差があるようです。

 **ドレスデンの新市街の一部の様子を見ると、毎週日本でいう大掃除くらいのレベルの掃除をする整理整頓好きのドイツ人気質からすれば、とれもストレスのかかる光景かも知れません。価値観の闘争の面もあるような気もします。

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ライプチッヒ。不穏な夜。


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明けましておめでとうございます [新隠居主義]

明けましておめでとうございます

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(葉山の秋谷海岸にて)


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Saudade 郷愁 [gillman*s Lands]

Saudade 郷愁

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  リスボンジェロニモス修道院の中に入ると、うす暗い空間の中に細長いステンドグラスをすり抜けてきた光に浮かび上がった二つの石棺が目に飛び込んでくる。一つはポルトガルの国民的詩人ルイス・ヴァス・デ・カモンイス(Luís Vaz de Camões)そしてもう一つはヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)の棺だ。

 この二人はポルトガルの栄光を作った。ガマはインドへの航路を発見しポルトガルの目線を世界に向け、カモインスはそのガマが築いた航路でアジアに向かい言葉の世界でポルトガルの栄光を築いた。諸説があるけどガマがこの世を去った1524年にカモンイスがこの世に産声を上げたというのも暗示的ではある。

 そして、さらに暗示的なことは、そのカモンイスが世を去る1580年、ポルトガルは事実上スペインに併合される。60年後にスペインから再び独立するけれど以降は植民地ブラジルの富をよりどころにしてきた。考えてみれば、イスラム教徒からレコンキスタ(国土回復)を行い、スペインから離れ、そして今度はナポレオンが…。

 イベリア半島の隅っこに、その先は海しかないという地勢的な運命が彼らにいち早く大洋に目を向けさせたのかもしれないけれど、片方では自分の国土自体も安泰ではなかった。上っ面を撫でただけの旅人の無責任さで言えば、そんな歴史がこの国の独特の雰囲気を作り出しているのかもしれないと思った。だからだろうか至る所にSaudade(サウダーデ/サウダージ)の空気が色濃く残っていた。

 サウダーデというのは郷愁と訳されることが多いけれど、よく言うノスタルジーとはまた少し違うらしい。うまく他の国の言葉には訳せないと言うけれど、ノスタルジーのように過ぎ去った過去に想いを馳せると同時に、ぼくらアジア人の基本的メンタリティーでもある「切なさ」みたいなものを色濃く含んでいるらしいのだ。

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 東京に戻る日が近づいた晩、地元の人が来るというバロカ通りにある小ぶりのファドハウスに行った。  さして広くない店内では店専属のギタリスト二人にファドの歌手が短い休憩を挟んで数曲づつ歌う。もちろんノーマイク。夜明けまで店はやっているらしいけど、そんなに遅くまでは居られないから、三人の歌い手の歌を聴いて後ろ髪をひかれる思いで店をでた。

 ぼくは、フラメンコ・ギターにのせて魂を振り絞るように歌うスペイン人エル・カマロンカンテ(歌)が大好きだったのだけれども、ファドはそれともまた異なる。それはもう少し押さえたいわば日本の演歌みたいな印象だ。もちろん歌にはアジアの印である「こぶし」がはいる。これはアラブの影響だろう。言葉は全く分からないけれど、ずっと聴いていても飽きることが無いし、ずっと聴いていたい。ほんとうに名残惜しい気持ちで店をあとにして夜中の路地に出た時、なんとなくこれがサウダーデの気持ちなのかな…と感じた。

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 *コインブラという村のCD店で今お薦めのファドのCDは何かと聞いたら、このMARIZAの最新のCD「Mundo(世界)」を薦めてくれました。帰って聞いたら実に好いアルバムでした。今風のサウダーデが感じられます。彼女の歌はYoutubeにもありましたので、是非一度聴いてみて下さい。もちろん往年の名手アマリア・ロドリゲスの歌も素晴らしいです。

 **本年も拙ブログをお訪ねいただきありがとうございました。みなさま良いお年をお迎えください



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Bon Dia! Lisbon [gillman*s Lands]

Bon Dia! Lisbon


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 リスボンの朝。古い街区であるアルファマ地区の路地は、石畳を洗う水で雨が降った後のように濡れていた。人々がポイ捨てした吸い殻や犬たちの落し物がそれできれいに流されるというわけだ。人々が動き出して、段々と活気が出てくる。路地裏の小さな店でリスボンの交通機関の一日券を買っていると、店の前の通りが交差する角におばさんが店を広げだした。

 店と言っても濡れた石畳の上に白い布をひきつめて、その上に次々と商品らしきものを並べてゆくだけ。商品はどうやら女性の下着がメインのようだ。そんなに人通りが多い訳ではないと思うけど…。しばらく見ていると、その内集金袋のようなものをブル下げたオジサンがその通りの角に立ってウロウロし始めた。

 オジサンは盛んに露店の方を気にしているんだけど、おばさんに話しかけるでもない。それともぼくが一日券を買った店に用があるのか。その店は駄菓子屋みたいにお菓子なんかも売っているけど、宝くじも売っている。店の中には近所のおばあさんやおじいさんらしい人が宝くじを買ったり、以前買ったのが当たっているかのんびりと見てもらったりして、狭い店の中はちょっと混んでいた。

 やがて通りかかったおばさんが店?の女性と何やら親しげに話して下着の品定めをしている。暫くしてその中から何点かを選んで買って行った。なんかリスボンの庶民の朝の雰囲気がマンマンでいいなあ。此処はもっと若い時に来たかったなと思った。靴の底が擦り切れるほどにこの坂の街を歩いて…。


 考えてみたら確かにポルトガルは今回が初めてだけれど、国境までは大昔に一度来たことがある。1971年の2月19日、友人とドイツから車でスペインの南端のアルヘシーラスまで行って、そこに車をおいてその前年の夏に続いて二度目のモロッコカサブランカまで行った帰り、セビリアを出てアラセナで一泊してから北スペインに抜ける前にポルトガルの国境が近くそこを超えればリスボンまですぐなので寄ってゆこうという魂胆だった。

 今はポルトガルもEUの一員だから国境が無いようなものだけれど、当時は国境の検問所もあって、その時はスペイン側とポルトガル側の間に両側がフェンスに囲まれた細く長い一本道があって、そこは丁度国境の中間地帯の様なものだったのかもしれない。その一本道を抜けると少し開けたところに出て、そこに国境検問所と事務所があった。

 そのまま入国できるものと思ったら、ポルトガルに入るにはビザがいるという。即時発行ビザは国境の事務所で発行できるけどそれには100エスクードかかるということだった。今はEUになったのでどこでも€(ユーロ)だけども、当時はスペインはペセタでポルトガルはエスクード。100エスクードと言えばいくらくらいか、たぶん1000円くらいのものだったと思うのだけど…。

 貧乏学生にはそれでも高く感じられて、それに幾分かをエスクードに替えなければならないし、そうすればロスもでる。ぼくの財布には小銭レベルだけどモロッコのデルハムとスペインのペセタ、その前に通ってきたフランスのフラン、それに虎の子の幾ばくかのドイツマルクがごっちゃに入っていた。結局、それならいいや、と断ってスペイン側に戻った。

 もちろん今だったら入国を迷うことはないけど、その時はポルトガルだってスペインとそんなに変わらないだろう、位いの気持ちでいた。あの頃にもしリスボンに入っていたら、この街の虜になっていたかもしれない。今でもポルトガルの国境についたときの国境警備員のBon Dia!(こんにちは)という陽気な声が耳に残っている。



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海岸線の向こう 〜ポルトガル・ギンショ海岸から〜 [gillman*s Lands]

海岸線の向こう 〜ポルトガル・ギンショ海岸から〜

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 ■ …それについては、檀一雄がサンタクルスから十六歳の娘のふみに宛てた手紙の中に記されている。
  
 ふみ様

 そらがカラッポになってしまって、空気さえ無いみたいな太陽ばかりが光り輝いています。砂浜が十キロばかり続いているから、そこを走り、泳ぐだけです。素敵な奥座敷が見つかり、その奥座敷で、(ドイツで買った三百円の)魔法瓶のお茶を飲むのが、うれしく、そこから三方に広がる大西洋を見下ろすのは、愉快を通り越しています。そこで、奥座敷の近所に海小屋を作れば、ペニシの風車小屋と、合わせて二軒。亡命するのに充分だろう、と、一人で悦に入っています。今はメロンと洋梨と葡萄と無花果の出盛りで、大メロン一個六十円(日本円換算)大瓜一個八十円の見当です。肉がバカみたいに安く、ふみも、父の小間使いになって、ここへ亡命してみたらどうですか。毎日西瓜(またはメロン)一個、大ビフテキ一枚支給します。  父

 そして、その手紙には、最後に「牛の津奥座敷景観」と記されたスケッチが描かれている。崖の上には「奥座敷二十畳岩」という岩が描かれ、その端の小高い部分が「父玉座」と記されている。…

  (「一号線を北上せよ」鬼火より/ 沢木耕太郎  講談社)


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 リスボンから車で西に40分くらい行った所にカスカイス(Cascais)という町がある。そこから少し山の中に入った王室の離宮のあるシントラ(Sintra)あたりまではシントラ・カスカイス自然公園と言って自然豊かな地域になっている。その地区の海っぷちにポツンと一軒のホテルが建っている。

 そこは17世紀にポルトガルがスペインのハプスブルク家によって支配された時代(60年間)に海の要塞として造られた建物で、今はラグジュアリーホテルとミシュランの星付きレストラン「フォルタレーザ・ド・ギンショ(Fortaleza Do Guincho)」になっている。ギンショというのはそこの海岸の名前で、サーフィンもできる海岸線がずっと続いている。建物はその海岸の崖の上に建っておりレストランの窓からは北大西洋の海を見渡すことができる。


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 窓越しに視界いっぱいに広がる海の水平線を目で追ってゆくと遥か右の方に岬が見えるのだけれど、そこがユーラシア大陸最西端と言われるロカ岬だ。そのロカ岬の向こうに日本の小説家、檀一雄が一年余り滞在して「火宅の人」を書き上げた小さな村サンタクルス村がある。

 サンタクルス村で彼は一軒の家を借り家政婦を雇って、彼の言葉を借りれば「天と地と私が鼎談(ていだん)できる所」で暮らしながら作品を書いた。時には村人を家に呼んで土地の材料を使って彼得意の料理を振る舞ったらしい。もちろん逆に彼が土地の料理を教わったということもあるだろう。

 のちに新聞の連載をまとめて出した彼の単行本「檀流クッキング」という本の中に、干ダラのコロッケ(バステーシュ・ド・バッカロウ)が出ているが、これは彼がこの時サンタクルス村で憶えたものらしい。

 ■ ポルトガルにやって来て、あちこちおよばれに出かけてゆく。例えば誕生祝だとか、何だとか…。するとまったく例外なしに「コジドー」と「バステーシュ・ド・バッカロウ」というご馳走が出される。「コジドー」というのは「煮る」ということで、煮物は何でも「コジドー」のはずだが、しかし客を呼んで「コジドー」といったら、大体様式がきまっている。…

…「バステーシュ・ド・バッカロウ」は、干ダラとジャガイモとタマネギを卵でつなぎ、パセリを散らしながら揚げ物にした至極簡単な料理であって、これなら、はなはだ日本人向きだ。殊更「馬鹿野郎のバステーシュ」と聞こえるから、みなさんも、せいぜい馬鹿野郎(干ダラ)を活用して、愉快なポルトガル料理を作ってみるがよい。子供のオヤッによろしく、また酒のサカナに面白い。…

   (「檀流クッキング」冬から春へより/ 檀一雄 中公文庫)

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  沢木耕太郎は檀一雄について「檀」と言う小説を書いているけど、その沢木がサンタクルス村を訪れた際の紀行文が「一号線を北上せよ」の中の「鬼火」と言う章に載っている。彼がそこを訪れた時には沢木は既に「檀」を書き上げて出版もされていた。檀一雄はサンタクルス村から日本に戻って四年ほどで肺がんでこの世を去っていた。沢木にとってこのサンタクルス村の訪問は言わば彼と檀一雄との関係の総仕上げのようなものだったようだ。

  レストランの外の崖に張り出したテラスに立ってゆっくりと水平線の端から端まで眺めた。この海岸線を右へ何処までも辿ればサンタクルス村に行き着く。左に目を移してその海岸線を、何処までも何処までも辿って行けばジブラルタル島の見えるスペインの想い出深い、懐かしい街アルヘシーラスにたどり着く。恐らくはもう二度と訪ねることの無いあの土地の匂いとあの時の陽の光を思い浮かべたら少し胸が苦しくなった。


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 *干ダラのコロッケはポルトのフレイショ通りの店で食べました。その時は写真(下の写真左)の様な小ぶりなものでしたが、スーパーあたりで売っているのをみると、ひと口では食べきれないような大きなものもありました。檀一雄はその本の中で、

 …さて、スプーン二本を左右の手に持ち、こね合わせたすり身をすくって、約五、六センチ長さの、三面の、稜を持った紡錘状の団子を作る。これが、娘達の自慢であって、日本の自称大家もシャペウ(シャッポ)を脱いだ。植物油でむらなく揚げれば、終わりである。 (「檀流クッキング」冬から春へ/ 檀一雄 中公文庫)


 と、こちらの方が素朴で美味そうですねぇ。

 **その時一緒に食べたのが、檀もきっと食べただろう「タコ飯」と「タコの天ぷら」(下の写真中)でした。タコ飯は一見赤飯のようですが、この色はタコから出た色のようです。どちらもタコが本当に柔らかくて、今まで食べたタコ料理の中でもピカイチでした。ちょっと日本人の口には塩分が濃すぎるかもしれませんが、こちらではそうなのかもしれません。

 ***ギンショのレストランで、檀一雄が同じ名前だと言ってそればかりを飲んでいたらしいのですが、ダン・ワイン(下の写真右)という赤ワインを飲みましたが、どっしりとした味の美味しいワインでした。ダンワインというのは銘柄の名前ではなくてポルトガルの中央部のダン川流域のダン地区でできたワインで、ポルトガルを通じて日本人が初めて口にしたワインはもしかしたらこのダンワインだったのかもしれません。


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                                          …つづく
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